2012-12-28

師走

12月を師走というが、
本当の意味での師走は3月ではないだろうか?
進級、卒業、などの準備等で忙しくなるのは
12月より、学級年度絞めの3月のほうだと思う。

言葉として、成り立っているが
それが時代の流れで本質を見失う言葉について、
考えなおすことはしないのだろうか?

当たり前、今までどおりが許されない時代になっているだけに
日本語の有り様についても考えるべき、
そこにもしかしたら、新しい可能性やいろいろな糸口があるかもしれない。

このブログを書いていて、
いつも熟語というもの存在意義を感じながら書いている。
使っている言葉の意義どころか
真意を全く理解しないまま使われていることが多い。
正しく使おうという警鐘を鳴らす気は毛頭ない。
正しさより、なぜこう変わったのか、
日本人はどういう傾向があるのかを自分なりに考えることが
結構有意義と思ってならない。

もしかしたら、この熟語が僕の師であり、
僕の思考を走らせているのかと感じながら、
今年を終わろうと思う。

2012-12-27

調性

聞きなれない熟語かもしれないが、
長調、短調という言葉なら、、、音楽の授業で聞いたはず。
しかし、長調と短調の違いは明るい音、暗い音と
漠然として認識になっているだろう。

かくいう僕とて、絶対音感を持ち合わせているわけでも
きちっとした音楽教育を修めているわけではないから
正しくは定義できないのは事実。

そう思うと、
学校、、、義務教育における音楽の授業ってなんだろうね。
だっておかしいよ。
音楽の授業を真面目でない輩が
ロックバンドで大人気とかいうと、
教育をうける意義とその結果が伴っていない社会に感じる。

調性を理解することで食べていけるのは、万分の一の人である。
なら、そこは一般教養、義務教育にあるべきだろうか?
知りたいと思う人への選択肢を広げて
義務教育課程から外すべきではないかと思う。

調性について、ちゃんと’調整’すべきではとね。

2012-12-26

不断

不断は ’ふだん’ と読み
’不断の努力’ とかの使い方になるが、
この言葉、日常への音便がなされ、
’ふんだん’
という表現もあり、
’料理の具材は、ふんだんにあるから、、’なんて使われ方もする。

ふだん
ふんだん

使われ方が異なるが、
ずっと、絶え間なく 
という意味、意義は共通している。

ふだん、ふんだん がなぜ共存かつ使い分けがあるか、
それは説のレベルで分からないというのが、今の状況だ。
説の多くは
・社会変化
・地域性
などがあげられる。

つまり言葉はTPOでかわると力説するのが、、
それって、正しい日本語がないということなのだが、
平気で正しい日本語といわれる昨今。

不断の努力で意識して、正しい日本語を使う努力しても
ふんだんに生まれでてくる新しい表現で
正しい日本語の定義すら危うい。

言語、表現の変化は、その語族の進化でもある。
今、日本語が乱れているといわれるが、
乱れる体質になった日本人だからだと思うがね。

日本として不断として使ってきた日本語、
今後、どうなるのかな?
英語に変わって、途切れる?
いや曖昧に生き続けるでしょうね、
それが日本の不断のカタチだから。


2012-12-25

陰謀

文字にすると悪いことのようになる。
しかし、それは発言者の主観であり、
実際は、製作、ネゴシエーションの結果である。

はっきり言えば、
陰謀という発言を口にする輩は愚者である。
結果として、
現状を他人のせいとして、
その一言で自分の愚かさを正当化しようとしているだけである。

情報は秘匿してこそ価値がある。
人と人との親密度はイベントや積み重ねである。

それらの活動をして手に入れた結果を
敗者が、陰謀があったというのはどうだろうか?
自ら何も行動していないことへの反省どころか
それを清いという発想がおかしい。

陰謀という言葉を発する輩は
発想からして、自分に不利益についてはそういうレベルで言いたがり、
社会を前に進めない因子を内包している。

清く正しいという妄想で、負け続ける現状を自覚して
もっと、あるべき事実を受け入れること、
受け入れない愚者を罰することをしないと生き残れない。
潔いことで惨めになることもより、
どんな事をしても勝ち生き続けるほうが
市場能力主義のこの時代なのだから。

2012-12-21

拘泥

こだわりをもつこと、

市場、ビジネスの世界では両極端な評価を受ける。

「時代に左右されることなく、こだわりをもって挑んでいる」

「市場を意識しないで、ひとりよがりのものばかりを作っている」

僕からすれば、やっていることは変わらないのに
他人の評価だけで印象が変わる。
まして、この評価、常ではなく、日々変わる可能性がある。

市場が正解という意見がある。
だから、ある一つのことにこだわることは危険かもしれない。
されど、人間器用にいろいろと対応できるものだろうか?
拘泥というより、ひとつのことにかけるという考え方が
ある意味での選択と集中になるかもしれない。

だって、いつ、何がリバイバルするか全くわからない世の中だけに、、

2012-12-20

調律

楽器が発する音のピッチを演奏の目的に適うように調整すること

多くの一般人ではなかなか難しいというより、
どれが正しい音なのかわからないといえる。

人によっては、調律されていないときに
なんとなく違うと思うことがある。
それを調律されていないことに気づけるというが、
それってある意味、洗脳されているということではないかと思う。

いつもの聞き慣れたものが正しいという概念。
本当は何も根拠がないが、いつもであるということが正しい。

それってやばいことではないだろうか?
その結果がガリレオの宗教裁判のようなことを導く。
正しいという思い込み、、、、
ある意味一番調律しやすいのは、人の脳波なのでは?!

2012-12-19

湯治


温泉地に長期間(少なくとも一週間以上)滞留して
特定の疾病の温泉療養を行う行為をさす。

言葉としては残っているが
現代日本において、湯治を行うことは
不可能、無駄となったといえる。

医学の発達で
湯治の効果より、健康保険の適用できる治療を優先することになる。
湯治の効果は、医療科学において適切ではないとみなされていることは
自明の理とまでなっている。

また、湯治を行うことは
休職、湯治場での一方的な出費を意味して
その行動をとるだけで
経済負担、場合によっては近隣者にいやみを言われる対象になってしまう。

医療科学
効率
社会性
の観点で、湯治は認められない事になってしまっているが
湯治という日本らしさは日本には要らないのかねえって思うなあ。
医療効果は、、精神的なところも認めるべきなのにねえ。

2012-12-18

電飾

ある意味、景気のバロメータ。
電飾をかなり上位の嗜好品。
とりわけ、この節電風潮の中で、電飾を行なっても許される
・経済性
・周囲への理解
・必要、効果性
が無くてはならない。

好景気のときは
街はやたら明るかったが、
明かりがちらついて、ある意味下品だったのかもしれない。
今のような、最小限の電飾のほうがその電飾の本当の意味を
再認識できるようになったともいえるのかな?

2012-12-17

直線

フリーハンドで直線を引く。

綺麗に直線が引ける状態について、

心理学では
悩みがない、ある意味、何も考えていない

宗教観
ブレがない、悟りの境地

体育館点
緊張しているから、筋肉が固まっている

とか、言いたい放題な分析をされる。

僕自身、
直線をフリーハンドでまっすぐひっけたことがない。
それは、左利きようになっていない
ノートの見開きとか
筆記具の持ち方や書き癖にも影響があると思う。

直線を引けるからといって、、
それがいいこととは思わない。
引けないからこそ、定規や罫線という
技術革新があったのではないかと思う。

あるべきことができることが必ずしも
いい結果になるとは思わないほうがいいといえる。

2012-12-14

王手

将棋などで、勝負の決め手となるコマを指そうとする一手である。
転じて、目標達成を決める直前の状態を指すことが多い。

僕の中で、王手は一番危うい時期と思ってならない。
気の緩みによる大失敗を導くからという、、いわゆる低次元なものではない。

ビジネス、人生において、目標達成となることなってはならない。
それは、法人、個人の死を意味するからだ。

王手となった時点で
次の目標を提示できないとその先がないことになる。
一つ一つクリアして、次のことを探すというレベルはお粗末な考えかたで、
目標達成前に次の目標を準備できていないとならない。

それが、使うもの、使われるものとの大きな違いかもしれないが、
そう考えられないと人や仕組みを統べる価値はないと言い切れるだけに、、、、

2012-12-13

巡合

日本語に対して、批判的な姿勢をもっているが、
稀有ではあるが、好感を持っている言葉もある。

巡り合い

辞書的な意味では、偶然出会うという意味だが、
熟語が示しているように、巡り、、、人生輪廻は流転しているから
その偶然も巡っている輪の中で起きた必然てきなことという思いが込められている。

僕は偶然とか、なんとなくという感覚が嫌いだ。
それは、起きた事象について
責任を取らないという宣言であり、
なんともアタマを使わない愚者の宣言といえるので。

偶然ということも、
何かの行為が影響し、それが人生社会の活動が
その結果を導いていると僕は考える。

自己責任が巡り巡って、その出会いを導いたと考えて
日々の活動に思いを込める、またその行動の影響を考える
そんな生き方をし続けたい。

2012-12-12

樹脂

文字どおりであれば
樹木の油のことだが、実際にはプラスチック、石油化学工業製品のことになる。
これも日本語を学ぶ外国人にはある意味、丸暗記で覚えてもらうしかない言葉だといえる。
だって、この言葉、日本人の勘違いのゴリ押しという経緯で成り立っている。

石油は植物の化石であり、それを固めたものがプラスチック、
だから樹脂のことだって平気で言い張っているものだから。

一般用語と科学技術が必ずしも一致するとは限らないが
その改善がされないと、結構意味定義の乖離が進み、かけ離れてくる。
通じればいいじゃん、
言葉は変わる、
と開き直っているからこそ、日本語というものが使いづらくなって行くのである。

今は公用語を英語にとかいう議論をしているが、
20年くらい前は、日本語を国際標準言語にしよう!だったはず。
ある意味、日本語は諦め、捨てる方向なのかなってまで思ってしまう。

2012-12-11

神頼

日本人の多くの人は多神教、、無宗教に近いとされる。
これはいろいろな長短があるだろう。

信仰が強いと人間の善悪の判断基準に近づき
他の宗教を悪とみなして、嫌悪、抗争の火種になるが、
多神教、無宗教が大半を占めれば、
必然的に多くの神に寛容にならざる負えない風土、社会になる。

信仰は人の判断、節制の軸とされるだけに
信仰を持たない人の多くは軸がないに等しいので
結構、考え、判断がブレることも多いが、
それだけ、柔軟に意見を変えられる。

そんな日本だから生まれたのだろうな、この諺

「困ったときの神頼み」

他の国では、ちゃんと信仰心を持っていると
定刻、定期に規則正しく、神に感謝する行為を行うので
困ったときのみという概念がないといえる。

こんな諺が生まれる日本、
良くも悪くも、信仰の自由が本当に認められているというべきなんだろうな。

2012-12-10

彷徨

彷徨というより、さまよう ってと言う読みのほうがしっくりくるだろう。

現代では、森や荒野が皆無なので
彷徨うという本来の意味では難しいが、
逆に、多くの人が、いろいろな意味で彷徨っている時代と思う。

場所として、変わりゆく街を
立場として、変動の激しい社会情勢を
時間として、自分のあるべき姿を

彷徨っている状態といえる。
叙情的な表現に感じるかもしれないが
実際問題、なんだかんだ言って、
自分の軸を持って生きている人は少ないようだ。

人によっては
自分探しとかいうのも
そんな流れなのかもしれないが、、、

それにしても、、あまりに多くの人が彷徨いすぎているような感じがするなあ。

2012-12-07

餡子

日本で言えば、あんこ というと
小豆を甘く煮詰めたものに代表されるが
餡そのものは
小麦粉で練った生地に包まれる具材全般を指すものといえる。

だから、必ずしも甘いとは限らない。
アンコと聞いて甘いモノを連想してしまうのは、、
実は江戸時代直前という今から400年くらい前であり
それまでは甘いというより、食事そものであった。

と考えると、
アンコというものは
確かに中国から輸入された餡の技術の応用であり、
厳密には日本食文化ではないという切り口も言い出せるが
400年の歴史がそれを日本食文化に昇華させたものといえるだろう。

その論法で考えると、、、
拉麺も、、、あと数十、百年で
ラーメンという日本食文化になるんだろうなって思う。

2012-12-06

起動

最近のOSは起動時間が早い、、
というより、起動という概念すらなくしているようである。

要件から考えれば、
「欲しい時にすぐに手に入る」というのがITの大前提であれば
この傾向は実に正しいといえる。

情報を取るために、事前情報や検索準備に手間取っていたら
情報は生物という感から
なんのための情報取得かと言われかねない。

これだけ、機器のOSの起動が早まると
今後の問題は、それを起動させる人間のアクション、気づきの問題になる。
、、、人間の起動は、、、それこそ、個体差がありすぎて

これだけ、情報検索性、多様性が高まっているので
ここの能力比較は、そのステージではできづらい。
となると、その即時機動性こそ、ある意味、能力そのものの時代であると
感じてくる。

2012-12-05

老朽

朽ち果てても認められない、
何か事件が起きない、それは老朽と言われない、この日本社会。
今、事件で盛り上がっているが
この事件がなければ、
公共施設への老朽に対して改修どころか
それは税金の無駄遣いと言われ続けていたのである。

亡き父が道路改修に携わる生業をしていて、
道路の改修を税金の無駄遣いと揶揄され続けていたが、
今生きて仕事を続けていたら
何故していないんだ、民意から言われていただろう。

いくら仮想で知っていても
そして、いくら成熟された精神状態となっているいわれても
人間というものは目先で起きた事象に
平気で今のまでの発言責任をなかったコトにできる愚かな存在と思ってならない。
そう、人間の考え方そのものが地球規模で老朽化しているではないかと思う感もある。

2012-12-04

安息

何の煩いもなく、くつろいで休むことをさす。
基本、現代人が安息を持つということはありえない。
もし、安息しているとしたら、それは仕事をしていないということだろう。

安息を持つということは責任を持たない状態であり、
それは社会において、必要のない存在である。
社会を構成するということは、いつも責任をもって緊張し続けることである。
だから、現代社会において安息はあるべきではないと思うが、、
どうやら、僕の思っていることは、この現代社会では通じなくなってきているように感じる。
無責任に安息を社会に求めていることが実に多い。

少し社会の箍が外れているような状態ではないだろうか、、
このまま進むと、
安息を求めるなら、いっそ真の意味での安息、、
命の安息を対価で示すことが、本当に必要な方向に向かっているのではないか
と感じることが漠然的だが、背筋が凍るような感覚を覚える。

2012-12-03

狂気

狂っているということを当たり前と感じているかもしれないが
実は人間の一番幸せな状態を他人が見て表現すると
狂気そのものといえる。
自分が一番幸せな状態が他人も幸せという幻想から一歩下がって冷静になれば
「なんでこの人、、狂っているだろう!」
と思う状況である。

考えてみれば
狂うということは
ある意味、他人と意識を共有できない状況、、
それが人間の真の幸福という考え方が哲学的には正解といえるだろうな。

2012-11-30

保温

温度を保つこと、、
人類の生活、、生命維持の根本。
恒温動物は自らを保温することこそ、生きる証拠である。

その恒温動物に属する人間の保温は他の恒温動物のそれを超えている。
自らの保温に、衣服、健康法 だけでなく、
いる場所それ自身も保温するための住居、暖房器具
保温を維持する飲食するものでさえも、保温するために、加熱調理
ということを行っている。

そして、形而下から形而上の保温での
コミュニケーションを言葉で確立しているのだが、
その意味での、保温はどうやらほころびがでてきているようだけどね。

2012-11-29

面談

面談と面接は違うそうだ。

するされる側が対等なのが、面談です。
評価、審査することを、面接というそうだ。

でも、対等ってなんだろうね。
教師、生徒、親、の三者面談というが
それがどういう意味で対等なのか?

入社前は、入社面接なのに、
上司から査定を受けることは、面談といわれるが、
あれ?
入社前であれば、個人として対等ではないの?
上司、部下なら対等であるわけないのに、、、

なんか、使い方がおかしくなってきているような気がするね。

2012-11-28

一票

平等選挙においては、一人一票とされている。
平等という概念においてはそれは正しいが
適切であるかは別問題だと思う。

集合住宅の住民投票での一例を挙げよう。

多くの場合は一部屋一票で住民投票になるが、
ある住民が
「それは平等ではない、ひとり一票であるべきだ」
という。
対して、
「そうではない、支払った分の価値、部屋の価格に応じた票の重さであるべきだ」
という人がいる。

住民投票の一票を

・部屋
・住民
・価格

にどこを基軸で考えるか?

それぞれに言い分があると思うが、
僕はもう一人一票の時代は終わったと思っている。

この住民投票も一人一票になると
裕福層はこの集合住宅から消えていくだろう。
住み替えることができる資産があるからだ。
残った若年、貧民では維持、判断する力がないので
住宅全体価値や住む人のモラルが低下するだろう。
それが、、スラム化である。

時代は変わった。
平等選挙を勝ち取った結果が終わり
右肩上がりの成長が止まった今では
一人一票では
逆に衆愚、、結果的に貧民の増産を導いてきている。

一人一票ということより、
何を決めなくてはならない
決めなくてはならないことにどれだけ出資、投資したかで決まるほうが
未来のある判断と確信している。


2012-11-27

点数

人間の評価軸、、、今では貨幣よりこちらが価値基準になっている。
点数、、現代的に言えば、ポイント
近年の人間の行動において、ポイントが伴わないときはないだろう。

出産、臨終と人間の生き死に関わる医療機関の医療行為の算定も点数方式
教育の現場では、テスト、試験は100点満点の点数方式
買い物には、その店、市場にかかわるポイントカードの確認が求められ
仕事においても、点数のよる比較が基準、査定になる。

点数をつける、それ自体が今の市場経済といえる。
点数による数字化はその数字が説得力、影響力をもつといえるが、
僕が意識しているのは点数をつける基準を
つける側が勝手に決められることもまた市場経済といえる。

ポイントに支配された社会といわれるが、、、
ポイント基準を生み出した人に従順に従っている社会であり、
もらってうれしいポイントと思えている今は、
ある意味いい状態といえるだろう。

僕みたいに、そもそもポイントをもらうってどういう意味?
と考えだしてしまうと、、、、、おっといけないいけない!!




2012-11-26

劇的

劇を見ているような有様。
ドラマチックという表現でもある。

非日常的なことが起きているということになるが、
劇というもの概念からすれば、
日常、、誰かの人生を模倣したものである。

劇とは誰か経験したものでないとならない。
もしそうではないと、だれも理解できない、、
それは劇として認められない、、劇ではないということになる。

劇的というものは
誰かの経験したレベルのことでしかないというもので、
そうたしたことないと思ってしまう。
まー、所詮、人間できる限界ってそんなものでしょって
達観してしまうなあ。

2012-11-22

熱量

英語でいうとカロリー、
1gの水を1℃1度上げる単位なんだけど、
今のダイエットなどの食事のエネルギー量が一般になっている。

科学的に立証されているカロリーだけど
1gを1℃あげると、体重増加の関連性を
納得のいく説明をきいたことないんだけど
きちっと理解してダイエットになげている人はいるのかなあって思う。

というより、
流行になるダイエット方法って
翌年にはだいたい否定されることが多いが
カロリーに基づいて説明でもないので
なんかすべてが胡散臭いなあって思う。

2012-11-21

障壁

防壁である。

攻め手からすれば、それは立ちふさがる壁になるが
守り手からすれば、それは自分たちを守る頼もしき壁である。

参入障壁とか、規制による障壁という表現で
さぞ自分たちが正しいという表現をするが、
それは、自分たちの営利を狙うところであって、
既存ルールに則って行動している側からすれば、
それらがセーフティネットになっていることが多い。

僕からすれば
派遣法改正が現在の非正規社員による貧富の差を大きくしたといえるし
関税をなくせば、たぶん農家なんかより、日本古来種の食材はなくなるだろうともいえる。

社会情勢は勢いのあるほうが強い。
ゆえに、攻め手に傾く意見が多いが
それが結果的に今まで当たり前だったことがなくなることにつながることへの
理解が異様なまでに無頓着すぎることへの反省を
もっと日本人はすべきだと思う。

2012-11-20

僕等

僕等という表現を使うときって、
案外、自分だけであることが多い。
「僕らの意見としては」
「僕らのものでもある」
というときは大概、自分の見解であって、他人が同調しているとは言えない。

日本人は個人であることを嫌う。
しかし、なぜか近年は個人主義が横行している。
個人の意思を集団の意思のように口にして自分を正当化しようとする傾向がある。

しかし、これはそう通じるものではない。
領土問題でこのやり方のような見解で
国際世論とか言っているが、
それは自己主張を訴えきれない逃げとしか受けとらえられないともいえる。

自己主張を集団ではなく、
自己の力で主張することを強く意識すべきだといえる。
みんながというきれいごとはもうやめるべきだ。

2012-11-19

氷柱

氷柱と書いて、つらら という読みは難しく、そしてなんか抒情的な感じを受ける。
この漢字の熟語をあてる前から、つららと呼んでいたものを
後からこの熟語に充てることになったといえる。

既存の風土文化を尊重する思想で、
これはこれでいいものとする日本の価値観もあるが
ビジネスライクでものを見るとこれが不正、非効率の温床となっている。
抒情的、心情的、そして古来伝統の尊重は
生産性、効率化、画一という条件からは外れている。

日本文化の維持と
経済、技術のためにグローバル化という発想は
虻蜂取らずに今の実情をもたらしているといえる。

氷柱はつららという言葉を
氷柱は
ひょうちゅうで○で
つららはもう×という画一的な基準を定めてしまう。
それが真の意味でのグローバル化である。

そんな!っていう人もいるが
江戸弁を標準語として
方言を教科書から廃絶したからこそ
全国的に画一的な義務教育の実現ができているという事実があり、
そのおかげで、近年まで教育水準の高い国と言われていたのだ。

あいまいなところにところに趣きを尊重できるほど
今の日本にはゆとりはないという思いで
これからは少し既存の価値を整理すべき時期といえよう。

2012-11-16

若手

いくつまでが若手なんだろうか?
僕の把握している仕事場では、30代になっても
一番年下という環境がざらにある。
平均年齢が高いのではないか?って思うかもしれないし、
そういう環境に若年層の雇用をって言うかもしれない。

しかし、
コスト削減
能力主義
においては、前提条件というか
ある程度の経験や実績がない人材は求められない。
それゆえ、30代になっても最年少、若手扱いされることになる。

これでは若年層が育たない??
いえいえ、若年層、、
そんな社会は甘くないぞ。
もっと愚直、もっときつい下積みや苦い経験をしないと
現代では若手扱いされないものということ。

若者に甘くなった社会
その分、若手として認められなくなった社会で
あるギャップは大きいものだなあ。

2012-11-15

違憲

法曹に触れていない人からすれば
違法と違憲の違いはなんだろうと思うかもしれない。
簡単にいえば、違憲は法律そのものは憲法の定めるものと反している。
法律そのものの違法性を違憲と司法、裁判所が出すものと考えればいいだろう。

法律が違憲?
頭の悪い政治家が定めるからだ!っと思ってしまうかもしれないが、
一応、法律はそれなりのスペシャリストたちが熟考して作成して
政治家が代表してそれを制定している。
だから、それなり考えているのだが、、

明文化されてしまうと、
社会変動や複雑な人間の行動を予期できない。
今までにない行いが生まれ、その行動に法律をあてはめてしまうと
これまで、これからの人の判断を悪い方向にしてしまう可能性がある事例に
当判決を示すとされる。

だから違憲は
・司法部から
・積極的ではなく、訴えのある裁判の結果として
・強制力はなく、その提言を立法府が気づくように
というものである。

一般庶民が声高に違憲を騒ぐ現代社会、
・庶民のテロ的台頭が悪いのか
・統治機構として権力分立が機能しなくなってきているのか
どっちにしても、
そろそろ、違憲という概念も変わっていかなくてはならないのかも?

2012-11-14

手帳

電子機器の小型化で、手帳のもつ記入、確認機能については
電子手帳、携帯電話、ノートPC、スマートフォンで事足りる。
むしろ、そのほうが記入、確認しやすいといえるようになってきている。

となれば、ビジネスにおいて手帳は存在しなくていいのか?
いや、逆に打ち合わせに参加していること、
言ったことをちょっと覚えようとしていること
への意思表示、、、言葉が変えれば、御守り的に機能になっているかもしれない。

人は過去の成功経験、習慣からなかなか抜け出せない。
だから、年寄りは
・朝の情報は朝刊から
・備忘は手帳から
という発想から抜け出せない。

スマートフォンで、上記機能は事足りるとしても
それを行っている若手の行為は年寄りの経験、習慣から認められない。
それをジェネレーションギャップとして対立するのもまた社会の一事象ではあるが
手帳を年寄りの目前にだして、それを使っているふりをして
実際には、電子機器で処理をすることで無駄な不信感を仰がないことも
ある意味、現代のビジネスマナーかもしれない。

手帳という概念、機能、目的性は時代とともに変わる。
自分も年寄りに近付いているので
手帳というものはもはやビジネスツールではないし、
紙媒体を使うこと自体、問題視される時代になってきているかもしれない。

その雰囲気がでてきたときは、、、、
僕が権力を持っている間は
今の年寄りのように、相手に気を使わすビジネスマナーを行使してみようかな?

2012-11-13

輝度

新人のとき
画面インターフェイスプログラム開発の際に

「エラー箇所を高輝度させる」

という仕様に、どういう意味か悩んだが、
エラーフィールドの文字の色を変えるものだった。

輝度という日本語は
輝くという意味で自分のなかではプラスイメージであったとしても
翻訳する人が
highlight
を、強調させるの意味を、高輝度させるとしている意味に使ったために
文脈的にマイナスイメージになってしまったといえる。

語彙の意味に主観はない、ただ意味を持っているだけだから。
しかし、その言語に成り立ちや背景で
人、、語族はそれに主観をいれて使用する。

上記のような僕の視点は、明るい=正しいという日本的な主観もあれば、
抽象名詞に性差を入れてしまうフランス語のようなものもある。

他の言語を理解、翻訳する際に
その背景もかいくぐって、訳さないと意味が伝わらないと思う。

最近、英語ができる人と会ったが
英語はできるが、人の心が全く読めないので
全然コミュニケーションが出来ないことにがっかりした。

ある意味
輝いていましたよ、その人は。イー意味で。

2012-11-12

本棚

人によっては、その人の本棚でその人の生い立ちや考え方がわかると言っていた。
僕からすれば、それはすでに迷信、偏見になり果てていると思う。
知識は本だけから得られるものではなくなったし、
書籍を本棚にとどめていく理由もリサイクル、物流の発達で
意味をなさなくなった。

逆に本棚に本が積まれているということは
ある意味、
その本を捨てる勇気や判断力のなさ
本を並べ持っているから偉いと虚勢を張る
という悪いイメージになりつつあるともいえる。

2012-11-09

石油

石油って何だろう?
僕が小さいときに、
化石燃料ということで、
古代生物が死亡した後、その屍骸から生まれると言われていた。
未だに、この話を信じている人がいるだろうが
真っ赤なウソである。

そんなにいっぱいの屍骸が中東に集まるものか?
そんなに大量の脂が集まって出るものだろうか?

石油について
人間は本当に理解していないといえる。

化石ではないということが明確でもではいったいなんなのか?
そして、石油が燃えて生まれた技術について、
安全性の心配をいつも口にする。

・石油の枯渇
・石油製品の健康被害
・石油燃焼による温暖化

でも、上記不安には実際何も根拠がないと言い切れる。

・後数年で石油は枯渇すると言われて、、未だいや、今では無尽蔵のような言われ方
・石油製品だけの問題ではない健康ブームの他社製品批判
・氷河期を繰り返す惑星、地球、その規模からしたら温暖化って些細な事象なのに

自己主張のワイルドカードになっている石油問題。
根本的に悪いのは
石油を無理解な人間そのものということを
主張する意見を聞くたびに強く感じてならない。



2012-11-08

灌漑

農地に外部から水を人工的に要求すること。
現代日本人にはなじみのなくなってしまった概念だが
灌漑の考え方は物事の進める集大成ではないかと思ってならない。

水は高いところから低いところに流れる。
この自然の法則の前提をもとに
地質調査
適する農作物選定
工事技術
治水工事の工程管理
水利権の分配法制
大学の学部すべてに横断するレベルのものが求められている。

好景気だったとき
発展途上国に灌漑の技術支援支援をしていた日本は
技術を誇っていたのではなく、
その技術を相手国が敬うものだった。

って考えると
灌漑の概念が失われた今の日本は
技術を発展させる土壌もないのでは、、、
そんな国が、未だに高い技術力というのは、、いい加減失笑レベルに感じてならない。

2012-11-07

都会

都会と都市の違いは?
都会と田舎の違いは?

都会という言葉自身、とても曖昧である。
一つ言えるのは、この言葉は、比較、蔑みを内包している。

都市の反対は、村落という地区、地域をさすが
都会の反対は、田舎をあてることが多い。
田舎という言葉に、田があるように農業、
都会という言葉に、会が会社と当てれば、商業を暗喩する。
農業よりも商業のほうが上のようなイメージをもたらす。
士農工商と逆の意味になっていることに、
歴史的な思いを感じてならない。

都会という言葉の示す定義がかなり曖昧なのは
その真意が地域差別に通じるし、
今までの身分制度への批判も内在していると考えると
結構、言葉の成り立ちは奥が深いと思うし、
都会と都市の使い分けへの真の理解ってほぼ無理だなって思ってしまう。

2012-11-06

想定


この社会での計画や実施は難しい。
自分がいくら想定して考えても、その想定通りにできることは難しいし、
想定通りにできないことについて、他人は
「そんなことも、想定していなかったのか?」
と平気で指摘してくる。

悲しいかな、
情報取得が多くなっている今だからこそ、
想定することが困難になっているともいえる。

自分のとりえる情報で行動を行っても、
それとは異なる情報収集で想定を覆すことが可能になっている。
また、平等、能力主義はその他人を否定すること、
それにより、相手を委縮されることへの配慮がないに
容赦ない概念だけに、、

最近、提案などが少ない理由の多くが
このように、いろいろな考慮への想定を否定することがあるからだと
僕は感じる。

他人の想定を否定することは
他人の視野や行動を抑止すること、それは自由の否定であり、
平等、能力を肯定している社会として相反する気がしてならない。

想定することに対して、少し寛容、少し支援的な姿勢に
社会全体として向かわないと成長できない状況と今の日本を俯瞰して思う。

2012-11-05

分掌

難しい言葉に感じるが
仕事を手分けして、役割を持つという意味である。
幼いころから、この手のことはずっとしてきた
集団生活を行う前提条件である。

集団生活の前提条件であるが、
この分掌が実は人間の争いの中心である。

自分のやりたいこと≒自分の分掌

と思うことが根本であり、
その思いが、他人の分掌と抵触する。

「自分のやるべきことではない」
「お前がなぜやらない」

ということから、いろいろともめごとが起こる。

実はこの分掌感は身分制度がある時代にはない概念だった。
支配層からの絶対命令に従うだけである。
だから個々での争いはなかった。
支配層と被支配層の争いが歴史に残っているが
それはレアだからこそ、教科書に残るので
起きていない数百年の間、問題なかったという考え方もできよう。

平等があるから分掌で争いが絶えないこの時代と
何もなく言われた通りの仕事を充実して行っていた身分制度の時代
比較できないと庶民は言うが
案外、身分制度があったからこそ、
自分の役割、分掌が明確で、
責任感満たされていたのではないだろうか?


2012-11-02

提供



「金品・技能などを相手に役立ててもらうために差し出すこと」
という意味と
「広告主がスポンサーとなって、テレビ番組を視聴者に公開すること」
という意味がある。

英語のproduceからの翻訳だと思われるが、
至って意味がかけ離れているような気がする。

確かに、当事者が資財を出して、相手に益を与えるという感じを受けるが
現代社会においては、単に提供という意味ではなく
出した資財費用以上の結果を得るための投資の意味合いが強い。

提供という滅私精神の意味が弱いからこそ
あえてカタカナ語であるプロデュースという表現を使っているのかな?


2012-11-01

割拠

それぞれが自分の領地を根拠地として勢力を張ること
戦国時代の大名などの群雄割拠といわれる。

歴史好きはそんな時代に思いをはせるが
その群雄に従っていた民衆はどうなんだろう。

その領地とされる土地を維持するために
年貢という強制労働、その搾取
他領地の者との抗争、
を強いられる。

場合によっては、
割拠に基づき、
今まで約束されていた生活が覆されたり、
昨日まで敵だった者をあがめたりしなくてならない。

嫌に時代だ、、
あれ、、今やたら政党とか出来ていない?
なんか自分の主張ばかりで
命もかけないオママゴトな群雄割拠なことで、、

2012-10-31

市場

いちば、、
今では、しじょう、と呼ばれるようになっている。

売買が集まるところの意味である。
言葉ができた時は
物々交換を特定の場所、時間で行うことを意味したが
時代が進むと
・通貨
・常設店舗
・統一価格
・形而上商品(サービス、権利)
が市場に登場されてきた。

今では、株、証券取引の場所を市場(しじょう)と呼び、
実際の商取引のローカルエリアは、市場(いちば)としていると言える。

人の商取引の進化に限りはない。
今は株、証券取引まで、
ある意味、店舗そのものの所有権そのものを取引している。
店舗=法人=疑似人格
であるから、将来は、、人格、、人そのものを取引、、、
あれ?
それって、奴隷取引?
進化ではなく、流転していくのかなあ?

2012-10-30

前例

日本においては、安全の根拠とされる過去の経験、前例。
対して、外国は前例があることは、すでに誰かに導かれたものであり
それに対して、安全と思うことは少ない。

この発想の違いには長短があると言える。

前例を踏まえての行動は
「同じ轍を踏まない」
という諺のように、失敗リスクを軽減できて、
効率的といえる。

前例を評価せず、自らという発想は
新たな技術、革新的な企画を導いて
社会変動の原動力となるだろう。

日本において、
新たな技術が発祥されないと嘆くが、
それは無理に近い。
諺が示すように国民性からして、前例重視主義である以上、
新たなものを考えること
それを評価して活用する姿勢
がないのだから。


2012-10-29

憧憬


現代人は憧れというモノから縁遠くなった。

憧れなくても満たされる人生観になったというプラス思考というか
肯定的な意見もささやかれるが、それは鈍感すぎる。
目的を見失っている、
自己実現という行為に努力しなくなったというほうが正しい。

無気力な状態は呆けていると同義という自覚がないと、
何もしていないままに時は過ぎてしまう。

憧れること、
それを目指して行動すること
昭和のときの<ど根性>を否定して平成の価値観があるようだが、
その姿勢も、もはやセンスのない発想と
言い切れるときになったっと言い切りたいね。

2012-10-26

明察


相手を敬って、その推察をいう語。
ご明察の通りとは
相手の推察が正しいという意味である。

何事も正解を導くにはその工程がある。
直感という人もいるが
直感とはその人の人生経験という工程が導いているとも言える。

考えるという行為、
導かれた結果というものは
他人から考えが正しい、、明察と認められたということになる。

だから、自然科学的に絶対的真理であっても
それを自分以外が理解できないもので
明察と評価されなければ、正解と言えないということでもある。

2012-10-25

未明


0時から6時のことといわれる。
この言葉自体、過去の遺物になりつつある。

みんなが寝静まっていて
正確に明らかな時間がわからない時間帯という意味であったが、
0時まで起きていることは現代社会では当たり前、
24時間営業の店舗も多く
概念として、26時という表現も普通に使える時代であり、
深夜遅くという概念ももはやということになるだろう。

表現として
深夜未明という言葉は
正確に把握していなくお茶を濁している
’逃げ口上’とみなされることになるだろうともまで思われる。

2012-10-24

平仄

ひょうそくと読む。


「平仄を整える」と言う使われ方をし、「てにをはを整える」の意味になる。
「平仄する」という使われ方もして、「矛盾点を訂正する」の意味になる。

読者のなかで、読めた人、そして、上記2つの意味を理解していた人は
とても少ないと思われる。

この状況で、僕がこの平仄という言葉を、文中、および会話のなかで使用したら
現代人は
「なにちんぷんかんぷん、言ってるの?」
「日本語になってねーー」
とクレームがくるだろう。

悲しいかな、
クレームされる発言、文章こそ
てにおはができていなかったり
日本語を知らないほうが、日本語を語っている内容だったり
している。

正しく難解な言葉を理解し会得することは
以前であれば、敬意にされるが
現代は、倦厭される対象になり、
割に合わないようである。

こうして、効率化のもと、
言葉や表現は衰退していくのだろうと思ってしまう。


2012-10-23

手前

かなり理解の難しい多義語。
辞書的には
・目の前
・自分自身
・力量
・所持物
・近親
・生計
そして、
・相手

と使い方が多いし、自分だったり、身の回りのことだったり、
そして相手のことだったりする。

なんだ、この表現熟語は?!
となるが、、手前とは、今風にいえば、ワールドといえる。
当人のワールド、つまりは当人の領域、、当人自身といえる。

自分が自分であるという立証は
・自分の持っているもの
・自分が他人の貢献できること
・自分を知っている人
・自分の購買履歴
ということでしか、立証できない。

自分のワールドが存在ししているから自分が立証できるわけで
まさしく、自分の手が前に出て行ったことが自分が存在している証拠なのである。

手前が多義語になっているというより、
自分が自分であることを立証する手段の多様化が
これらの意味を導いたのだろう。

2012-10-22

当前


「そんなこと当たり前だ!」
という発言にある。

当たり前というものは、、、実は一個人の思い込みからつくられるものであり、
当たり前という概念すら当たり前ではない。

ある強い発言力の個人が自分が正しいと言い出す。
その個人に逆らえない取り巻きがそれに共感するようなことを口にする。
の取り巻きを含めた人数から、多くの人に支持されていることと思ってしまう。
これが当たり前の成り立ち。

ファッションなど、一部の人間で構成された価値観の中で当たり前と言われていることは
そこに従事していない人間からすれば、
「そんなの当たり前、常識」
と言われれば、その価値観の中ではそれが正しいだろうなと思ってしまうが
必ずしも、そうではないと僕は言い切れる。

もっと言ってしまえば、
日本人の道徳感なんてものは、
全人口の5%でしかない概念、、20人中1人しか支持しないそんな
当たり前
である事実を考えると、
当たり前という言葉自体、当たり前なわけではないと思って
他人からの言葉も聞く必要ないとかんじてしまうものだ。

2012-10-19

焼物


役という行為は実に不思議だ。

食材を焼くと、やわらかく旨味をだすが
鉱物を焼くと、堅く口に触れても味がしなくなる。

焼くという行為はいろいろな意味で
関数ということになるだろう。

あるモノを一定の温度、状態に投入すると
別のモノに変えてしまうというポイントからそう言える。

それはその都度変わるというが
基本的に条件を補正すればも飛べるべき結果になるのは
自然科学の論理から導かれている。

火を制したから、人は進化したというが
火がまさに科学の元そのものと思ってならない。

2012-10-18

炭化

炭を作る、
この概念は現代人においては、全く理解できない行為になっているが、
省エネ、エネルギーの大切さを声高に言っている昨今、
炭作りについて、温故知新すべきと思う。

科学的に言えば
物質を加熱する際に、酸素の供給を遮断して
燃焼させずに行うことである。

出来上がった木炭、石炭は
燃焼しないから、長時間熱を帯びることが可能な存在になり
人の生活における、熱量供給物、燃料になる。
また、竹炭は材質上、燃料にはならないが
その材質ゆえ、浄化作用物として多岐に用いられている。

炭を作る行為は
ある意味単純だが根気のいるいる行為である。
長い間、熱いところで、ただ見ている。

現代人が無駄や効率化で、炭、そして炭作りをなくしていった。
その成長が今の発展を導いているが
炭を使っていた期間と使わなくなった今の期間では
1000年近いの差がある。
1000年もの間に何もしてこなかったという指摘と同時に
炭が最適だったのではないかという視点もある。

もしかしたら、炭には何かあるのではという思いで
少し調べたり、、火鉢に興味をしめてしまう気持ちになっている。

2012-10-17

冊子

糸で綴(と)じた本。また、書物一般のことをいう。
書に対して、実に多くの表現がある。
本、図書、書籍、文庫とあげればきりがない。

それぞれの用法を分けて理解している人、、というより
分ける必要性すら意味がわからない人のほうが多いだろう。

言語、イメージというものを可視化して、
それを他人に伝えるためその人の手を離れたものが
その類であるだろう。
では、手を離れないものは、、<記>という表現が用いられるのは別段としよう。

冊子という表現を用いるときは
ちょっと微妙なときだろう。
多くの人に見てもらう読み物で
枚数がかさむものであるから、製本に近い綴じる工程をたどる。
しかし、読み手は不特定多数に向けてではなく、
あくまでも知り合いレベル。

うーーん、今様にすれば
同人誌=冊子ということになるのかなあ。


2012-10-16

対話


コミュニケーションを語る書籍に
メールより直接対話をという件(くだり)が多いこと、多いこと、、
それって矛盾ではないか、
不特定多数にメールする行為が出版であり、
筆者たちの説得力の無さを露呈させているように感じてならない。

僕は対話、対談は現代社会において、一番のリスクだと思っている。

思いが伝えられるというが、逆で
対話の即興性から、
思いとは異なる受け取り方、もしくはコミットを取られてしまう可能性もあるからだ。

対話は一人でするものではない、相手がいるものだ。
相手が自分と同じ思いとは限らない。
むしろ自分と違うという者であるという認識でいるべきだと思う。
だから、こちらの思い通りにならないという覚悟がいるべきである。

僕からすれば
「自分の思いは必ず通じる」という熱血な発言と
「今回の交渉でどうにかここだけを勝ち取る」という策謀めいた発言とでは
策謀めいた発言のほうが善で、熱血な発言はむしろ悪意の塊にしか感じない。
どれだけ、自己中心的な思いを相手にぶつけて迷惑を導くか全然理解していないことへの
強い悪意を感じるからである。

対話について、人はここだけ、だましてでもという思いを持たないと
相手への利害での交渉にならないという感覚を研ぎ澄ますべきだと強く思う。

2012-10-15

外出


現在の市場経済において、外出=出費と考えるべきだ。
確かに散歩というお金のかからない行動もあるが、
散歩を外出というカテゴリに入れるかどうかの問題が上がるくらい
対象としづらい行為と言えよう。

外出に目的が伴わないと浪費が続くともいえる。
ある女性がウィンドウショッピングを繰り返していて
ほしいものを眺めているけど、なかなかそれを買えない。
それは自分が不幸だからといいだした。

しかし、リサーチすると
ウィンドウショッピングをする際に、
・交通費
・飲食
・雑貨
で出費をしているために、細かくお金が流れ、ほしいものを購買する蓄えに繋がっていないことが分かる。

不幸というより、
行動そのものが無能ということであり、
外出を繰り返すことで、目的に近づいていないことが分かる。

外出、、
物理的に目的に近付いているかもしれないが
経済、精神的にその目的から遠ざかっているのではないかと思う行為に感じる。

2012-10-12

議事

会議の内容のことで、
この内容を文書に落とし込むのが、議事録となっている。
会社によっては、若手に議事録を書かせることで
会議をした実績の納品物と若手のOJTになると思っている。

これはもう過去の認識といえる。
議事録は成果物でもなければ、それでコミットにもならなくなってきた。
僕からすれば、議事録はすでにリマインダーメモになっているといえる。

会議の議事をコミットメントと思っている認識だと
ビジネスにおいて衰退している証拠といえる。
会議は決まったことをみんなに伝える場にしなくてはならない。
そのスピード感で仕事をしないとならない。

みんなが集まって考えようではなく、
みんなを集めて理解させるという思いで挑まなくてはならない。

この思いが高飛車、自分勝手と思いと感じる人ほど
会議中に居眠り、上の空で挑んでいることが多い。
居眠り、上の空って議事とは全く関係なく、
それこそ自分勝手な振る舞いではないかといえるのだが、、

2012-10-11

無垢

けがれのない清浄なこと
それが転じて
建築では
一本の木から取れるつなぎ目のない材木
服飾では
表裏同色の無地の共布で仕立てた長着
という意味になっている。

無垢、、漢字的にいえば、垢(アカ)がないという意味になり、
純度が極めて高いでの理解だろう。
だから、上記の派生転用になっているといえる。

純度が高いことが価値の証であり、
ただ純度が高いと言わず、その純度の高さは
反対の意味へ打ち消すことでその立証に充てている実に意味深い表現だ。

その意味深さも外国の言葉と同じ意味のようで解釈が違うことがある。

白無垢とは花嫁衣装であり、
ウェディングドレスと双璧であり、
花嫁=白 という意味を導いている。

しかし、その意味合いが両衣装異なるそうだ。

ウェディングドレスの意味は
何色にも染まっていない白であるから
これから、伴侶の色に染まる決意である。

対して、白無垢はそもそも
死に装束(切腹時は白いものを着る日本の習慣)
であり、この家に一生捧げるという決意の意味だそうだ。

純度の価値を
これからいくらでも加工できるという外国の発想と
純度が高いことを維持し続ける日本の無垢の発想。
結果的に、価値は認めていてもその意味合い、用途が異なることが読み取れている。

外国のre;発想     (リストラ、リサイクルで価値の創設)
日本の保全発想    (維持、保全で今のままを永続的)

の根源をここに見ることができるともいえるなあ。

2012-10-10

鮭児

鮭の子の意味のようで、ちょっと違う。
言葉を悪く言えば、
生殖機能が未発達の成魚ということになる。
本来、
筋子、白子をもつのだが、
その筋子、白子が体内にない状態である。
でも成魚である。

それゆえに、
成魚になったということは
その分の栄養を生殖機能に回さないで
自分の身のなかに残っているから
全身トロ状態ということになる。

なるほど、
生殖しない生体は脂がのっている、
エネルギーをもて余しているのか、、
戦前の価値観は
英雄色を好むとされていたが、
それは何の根拠もないし、
実証的には、、その手の英雄は短命だったことから、、
ある意味、鮭児の事象は
今の日本のような気がする、いろいろな意味でね。

2012-10-09

梃入


テコこれ、、、
一時隆盛を極めたものが落ちた、もしくは落ちる前に改良や改善をすることをさすが、
多くのテコ入れは失敗する。
はっきり言えば、成功したテコ入れというものが存在しないからである。

成功したテコ入れは、テコ入れとは言わずに
新しい価値に生まれ変わっているからで、
今までの価値を捨てることが自他ともにできている場合である。
その認識ではテコ入れという概念はなくなっているだろう。

失敗したから、テコ入れと後で言われるものと言える。

安易に
価値の延長、今風のトレンドを取り込んでいくテコ入れという概念で
昔取った杵柄 を求めると
改良、改善は
改悪、醜態につながると言える。

テコ入れを模索するのではなく、
引き際をどう定めるかがあるべき姿なのではと思ってならない。

2012-10-05

高配


他人を敬って、その心配りをいう語なんだが、
何人くらいこの言葉を知っているだろうか?

用例は
「御高配を賜りありがとう存じます」

という使い方しかないくらいしかない。

思うに、敬語の中にはこのように文語調の言葉が多く存在する。
これら言葉は時代とともに失われていくだろう。

個人主義
フランクな関係をよしとする社会
外来語の普及

これらの要因で、敬語の意義そのものが失われつつあり、
逆にこの手の古式な表現を使うと周りから疎まれるくらいになりつつある。

相手を敬う日本古式の表現を正しく用いて、疎まれるとは。

何かおかしいと感じてきている。
敬語を使う意義、、
組織運営において個より序列の大切さ、
を軽視してるから、無秩序で経済成長の鈍化を導いているのではと思う。

古典で会話するとまで言わないが
古来の表現を理解し、
その意義、用例を心得ておくべきだ。
考えてみれば、
中高で古典の授業をやっている意義も
これ以外の社会での使い道はないだろうに、、
今では入試のためのクイズになり果てている事実はどうなんだ?



2012-10-04

定常

一定していて変わらないこと。

これって現代市場社会では
理想であり、悪であるという相反する二面を持つ。

理想とされるのは
不安定ではなく、一定の見通しが立っているという認識から
主に収益においてはこれを求める。

悪であるのは
固定費、無駄かどうかのポイントとしてみなされる。

面白いもので、
ある特定の定常サービスは
売り手においては、理想であり
買い手においては、悪になる。
売り手としては、その定常サービスが理想かつ前提と思っているが、
買い手からすれば、見直し、削減対象になる。

買い手側企業が発する
「経営、業務効率の改善、無駄の排除を徹底する」
とは、
売り手企業としての
「既存サービスより一層の充実」
と反することになる。

そんな市場社会の矛盾を感じてはいるが
鴨長明の方丈記にある

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」

という言葉に、定常の本来のあるべき姿勢を
温故知新の思いで感じている。


2012-10-03

陳腐

古くさいこと。ありふれていて、つまらないこと、
現代社会の新製品と言われるものは
必ず陳腐を迎えるものともいえる。

新製品は出た時点で、
カウントダウンのように陳腐化に向かうというものだ。

斜に構えた人によっては、
「結局、どんなものでも陳腐化してしまうだから、、」
という否定的な口調で発言するが、
陳腐化というものは
英語でいうところの

commodity

が進んでいること、、
良い技術がすべてにおいて共通化、標準化されていくものである。

日本語では
陳腐というとマイナスイメージだが
commodityというと
最先端技術が身近な当たり前なものになるという前向きな表現に聞こえる。
同じような事象を捉えるとしても、言語的なところで
姿勢がちがうと改めて感じる。

2012-10-02

茗荷

茗荷を食べ過ぎると物忘れがひどくなる。
これはただの迷信にすぎない。
釈迦の弟子である周利槃特の逸話がその風説に繋がっている。

かなしいかな、
茗荷のように
イメージでつけられた迷信はなかなか払しょくされない。
いくら科学的に立証されたとしても
迷信のほうが優先されてしまうのが巷というものだ。

茗荷のように
害がなく、アクセントになる食材にこの迷信はあまりにもと思う反面、
人の食に対する危機意識の現れを本能的に感じ
リスク回避する力は科学を超えるんだなあって思うこともある。

茗荷という食材をみるとこんなことを考えてしまうが、
実際問題、茗荷に意思があれば

「なんで種子を子孫反映もできずに、食われてしまうだ!」

という人間への恨みしかないんだろうなって苦笑してしまう。

2012-10-01

護身


護身とは身を守ること、、
???
守る、、護る
どっちも同じまもるという読みで意味の違いは、、
辞書的には
守るが常用漢字で
護るは常用外だそうだ。

実につまらない理由だ、
なら護身術を守身術と言い換えることもすべきではないか?
護衛艦も同じように、、、

基本、これが日本語教育、統制の甘さといえる。
理解しやすいように
簡単なほうを選んだつもりだが、
既存の用法は捨てきれない
だから、ダブルスタンダードになり、
理解しづらくなっている。

護身という表現から、
日本人の日本語理解すら護れなくなっているように感じてならない。

強いては、同じ意味でのディフェンスというカタカナも出てきたり
同義語が多くなっているし、自分の使い方が正しいと言い張る人が多くなると
結果として意思疎通は困難になるだけだ。

2012-09-28

持分

共有や持分の認識が日本人は弱い。
というか、概念認識がちょっと異常。

共有するものに対して、
自分の持ち分の割合の権利というが
欧州的には、割合分の義務と負担が発生する。
多ければ多いほど、その責務があるという認識である。

割合分の権利という概念から少量でも
自分に発言、権利行使を認められていると言い出すが、
その割合分の責務を果たしているかというところには目を向けないのが
実情である。

この認識、日本古来からの認識ではなく
近代化するにあたり、長屋と集合住宅との認識を分けて
農地解放を進めた歪みであるだろう。
井戸には所有権はなかったし、
土地は世襲的に、お上から借りている認識だった。

個々の所有権ではなく、集団で維持するということを忘れている今の日本。

今の生活、社会概念が日本人古来の思いから
根本的に歪んでいるから、なんか住みづらいのでは
いっそ、温故知新の境地になるべきと思うことが多々ある。

2012-09-27

特典

特別な恩典が略された言葉、、恩典?
恩典とは、めぐみとなるようなとりはからいのことである。

今となっては、特典という言葉が普通であるが、
成り立ちは、
売り手から買い手への施し、、恩典があり、
その恩典活動が当たり前になったので
恩典よりも特別な待遇、、特典を行うとした。
そして、その特典ということが今では当たり前になっているというところだ。

この言葉には2つの特徴がある。

価値のインフレと売り手の本音だ。

価値のインフレは
今でも、”超”、”極””メガ”のように
ある基準越えをする行動するときの修飾表現を多用する。
そして、一定期間経つと修飾表現すら一般化されるということで、
”特”という文字が強調修飾であったということである。

売り手の本音は
日本古来の「お客様は神様です」というが、
恩典の”恩”の文字は
上から下に見下す施しであるという意味、
結局
「仕方ないから、施してやる」
という意味をもつ。

特典の真意は
「しょうがないから、とりわけ気を使って施してやる」
という意味が内在するのだが、、
現代人のほとんどはそんな意味を考えてはいないという事実のほうが
日本語理解の難しさと思ってならない。

2012-09-26

文楽

もともとは、人形浄瑠璃専門の劇場のことであったが、
今では、人形浄瑠璃の自体をさす意味になっている。

さて、皆さんは人形劇と人形浄瑠璃の区別ができるだろうか?
その前提に浄瑠璃という意義をしているだろうか?

詳細な説明はwiki にでも任せるが
人形浄瑠璃は
国内では、重要無形文化財
国外では、ユネスコからお墨付きの 世界無形遺産
となっている。

ある意味、日本人が外国に誇れる芸能なのだが、
いざ日本人の多くはその内容を理解していないどころか
観たこともない人が9割をしめるのではないだろうか?

この事実を踏まえて思うのは、
この庶民が理解していない芸能を、
重要無形文化財、世界無形遺産に推したのは誰か?
逆に、これを庶民に理解させていないのは誰なのか?
という、国民、民意と関係なく
特定の意向で、日本を代表する文化とされる国体に何か違和感を感じる。

2012-09-25

所見

ある事についての意見、考えを述べることである。
意見とどう違うのか?と疑問がわく。

所見というと、客観的、専門的、信憑性が伴うが、
意見というと、主観的、個人的、感情的とニュアンスが取られる。

所見のほうが、納得性が高いときに使われる。

しかし、この表現自体、他の言語では理解できないところがある。
なぜなら、所見か意見かどうかは、
使い手の主観に委ねられているからであり、
決まったルールがないと言える。

~医師の所見では
~医師の意見では

一般には上記だが、それは職業への信頼、医師=信憑性という先入観であり、
医師の名前が○○だったとすると

~○○の所見では
~○○の意見では

だと、同じ人格でも、後者を選ぶことになる。

日本語の難しさ、、、いや日本人の肩書主義の表れを垣間見れる。

2012-09-24

気軽

気軽とは現代社会において、どういうことだろう。
遠慮なく
コモディティ
とか、いろいろと言うが、
対人マナーを守っている側を平気で愚弄できてしまうこの社会に
気軽でないところってあるのか?とまで感じてしまう。

社会が気軽すぎて、ありがたみが感じられなくなっている。
これは便利、心理的に安定というのは錯覚で
物事を順序立てて、序列をつけらなくなっている退化と思うべきではないか?

これからの社会を考えると
気軽であることがかえって危ういという認識を強めないと
判断ができない社会になってしまう、、っていうかもうなっているのか、、
自社は少なくても気軽を悪しきものとして緊張感をもつようにしよう。

2012-09-21

精進

一心不乱に努力する事ことである。
ではなぜ、肉を使わない料理が、精進料理なのか?
答えは
仏門の修行の一環として、菜食主義を貫く努力をしている表れだからである。

となった場合、日本古来の仏教観は現代の欧米の思想とは相いれないことが多々ある。

仏門の努力の活動の多くは、非効率、無駄が多く、
その非効率、無駄から自分磨きをしているのだが、
欧米的にはその行動自体を否定することになる。

また、外国に行ってわかると思うが、
肉が主食であり、菜物、穀物系は副食扱いになるだから
菜食主義の考え方自体理解できないことになる。

だから、欧米人の観光において
精進料理は、大豆を肉に見立ているトリックアートの
奇異の視点で、見ていることになっている。

精進するという行為は
ある意味、自分を高める行為であるが、
必ずしも他人から賞賛されるものではないし、
無駄な行動、奇行であるみなされることでもある。

まーー、そういう風に見られることにも耐えることが
本当の意味での精進かもしれないが、

2012-09-20

尽力

力を尽くすこと、、尽くすとは、、尽きるまでの意味で
今持っている力を使い切るという意味をもつ。

尽力する基準は人それぞれと思う。

ある目標に向かい、
当日に無理なレベルで活動して、翌日以降休んだり、体調不良を起こすことも尽力した
と言えるし、
毎日毎日、同じペースで活動し続けることを維持するということも
尽力するということになる。

日本は玉砕精神の賜物か、前者である瞬間的な無理をすることに価値を感じているが
外国では同じペースを維持するということに勤めていることに価値をもつ。

外国、とりわけ狩猟民族において、
大きな獲物をあげることは英雄視されるが、
毎回獲物をあげていることへは指導者、管理者への道が開く。

人生の最後であれば
尽力するという表現において、力を出し切ればいいが
拡大再生産のような循環型経済社会においては
日々のペースを維持できる自己管理こそ尽力と僕は思う。

2012-09-19

舳先

船の最先端の部位のことを示す。
舳 という字は訓読みで おもて と読むが、、
多くの人はこの字を舳先以外で使用することはないだろうし、
そもそも舳先と言わず、船首と言ってしまえば、事足りる。

舳先という言葉はもともとは
造船、、といっても手作りの時からの
船をいかにスムーズに前に進めるように作るかというポイント論で
舳先の存在、その重要性を語る際に充てられた言葉である。

今では、時代の舳先というように
渦巻く時代の最先端を進む比喩に使うことことになったりする。

あまり使わない熟語、
でも熟語として存在している以上
ある特定条件においてその概念が必要だから
生まれたわけであり、その意義を知ることが
人の営みの歴史探訪ともいえるような気がする。

2012-09-18

空想

その時点では実現されていないことに対し、の中で実現している場面を想像すること
で、、現代社会では、それを、妄想と言ってバカにしたりする。

それだから、今の日本は発展しないと言い切れる。
高度成長期の日本は空想の塊だった。
子供は、空想科学
大人は、アメリカンな生活を空想していた
政治家は、空想じみた政策を熱心に弁じた。

それでよかったし、そのいくつかが、現実になっている。
それを妄想と否定しないからこそ、いくつか現実になったいえる。

空想という発想の過程は
頭を活性化させて、新しい技術ややり方を導く。
だから
空想することを妄想と揶揄する輩のチープな能力を罰するくらいして
もっと空想を熱心に弁じられる社会にしたいものだ。

2012-09-14

研究


物事を詳しく調べたり、深く考えたりして、事実や真理などを明らかにすることである。

研究も勉強も、それ自体では実は無駄なこと。
その研究や勉強でもって、生きているだけの価値を得られるかどうかだ、
別に実業の世界とまでは言わないが、
その活動、研究をすることで自分の生命活動を維持する対価を得ることができるか、
それが結構重要といえる。

その研究が他人が求めるものであれば、
他人は研究をある意味代行してくれているとみなして
自分の取り分を対価として研究している人に捧げることもいとまないだろうが
その研究が他人に役に立つかどうかわからないものであれば
それに報いることはしないだろう。

最近、独りよがりの研究が台頭しているし、
それを偉そうにする輩も多くみられる。
研究開発は、それをお行う活動を支援してくれている人への報いの気持で行うことをしないとならない。
その思いをある意味、今までの愛社精神や仕事における思いやりだったと思うのに
その気持ちは一体どこに行ったのか?

2012-09-13

波瀾

波のことというより、
激しい変化や曲折のあること。また、そうした事態。騒ぎ・もめごとなど
の意味で強いだろう。
波瀾に満ちた人生とかいうことになるように、

僕が感じていることで
誰でも人生は波瀾に満ちていると思う。
それは、月の満ち欠け、経済の周期などから、
取り巻く環境は常に一定ではないし、
身体的偏重から、精神的な感情昂りなどが起きるからである。

逆に僕視点でみて、平凡で波瀾のない人生を過ごしている人は
とてつもない先見性をもとに実現する戦略家か
類まれな天然ボケか
どちらかだと思う。

他人の人生を客観的に見て波瀾に満ちていると思うとき、
別の側面では、あなた自身の人生もまた波瀾に満ちていていると思われている
可能性が高い。
人間は自分視点でものを見るので
自分としては当たり前、そんなもんだということも相手にはなんて大きなウネリだろうと
映るものである。

2012-09-12

閉口

意味は
手に負えなくて困ること。また、そのさま。
言い負かされたり圧倒されたりして、言葉に詰まること
である。

閉口するとは現代人はあまり口にしなくなったし、
使ったとしても、黙っているという意味で使うことが多い。

手に負えなくて困ることは現代では閉口を使わず
トラブル中
火がふいた
超やばい
なんて、言葉で表現する多く、逆に
閉口だよ
って表現すると、相手に伝わらないことになるだろう。

実はこの言葉
閉口≒あいた口がふさがらない
となり、意味は類似しているのに、表現が逆となっている。
そのため、なかなか使いづらいという経緯をもつ。

現代人を含めて、日本人の一貫性の無さが導いた
廃れている熟語の一つと思ってならない。

2012-09-11

交雑


この字を英語にすると、、、
hybrid
となる。

悲しいもので、
日本人なのに日本語の漢字ではなく、
外国語のほうが理解がよくわかる国になっている。

異質のものを組み合わせ一つの目的を成すものなのだが、
今では、自動車の駆動技術が主の意味で
それにあやかった行為に、hybrid と使ったりする。

今では、hybrid という技術においては
日本が語源たる欧州に技術輸出しているようなものであり、

語源とそれを今の意義にする存在は
時代とともに変わるんだなあって感じる言葉といえる。

2012-09-10

手続

物事を行うに必要な手順
それがある意味昇華、異化されて、
あることをするのに必要な、一定の順序・形式に従った処置となる。

本来、手続きとは
物事を効率よく、もれなく行うものであり、
その行為は人の営みを助けるものであったが、
目的が異化されはじめ、
その行為そのものが制約条件になってきている。

つまり、
「この手続き通りに行えば、あなたの求める結果が導けますよ」
であったはずが
「この手続き通りに行ってください、そうじゃないと一切受け付けません」
が今の意味になっている。

人間、、とりわけ日本人の傾向として
効率化、有用化を実現させると
その実現方法が正になる。
そして、その実現方法以外のやり方を一切否定しはじめる。
別に、違うやり方があってもいいのだが、
効率、有用性を盲信してしまう結果がこれである。

確かに手続きから導き出せるものは効果がある。
しかし、その効果の意義を理解しないで盲信するからこそ、
新しい発想、異なる技術を導き出せずにいると思ってならない。

手続きで重要なのは、
その手続きの効果であり、手続き行為そのものには意味がない。
このことを強く自覚しないと、
その人の存在価値は手続きを行う
手段以外何者でもないといえよう。

2012-09-07

散文


定型的ではない文章
現代人の文章そのものといえる
東西関わらず
古来より文章表現に趣きがなくなってきている。
文章にせずとも、感情表現がいろいろな形でできる、
自分の意図することをうまく伝えられているから、
文章表現がなくても、、、
しかし、そうだろうか?
現代社会がいつも問題視しているコミュニケーションの問題。
それは文章表現力、、それに伴う感情表現力の問題ではないだろうか?
以前いた仕事場では
「あなたのお願いの仕方では伝わらないよ」
といわれたが、
言っている彼の表現は
「やらないなら、契約、法的手段にでますから、覚悟してください」
と笑って出していた、これいう文章での依頼ばかりで
相手の感情をりかいできるだろうか?
ギリシャ由来のポエム
中国の漢詩
日本の和歌、俳句
決められた定型のルールがあるからこそ、
相手に言葉以上のものを伝えられるという思いがあると同時に
この時代の言葉、文章は陳腐なものだなあって、書き手である自分自身悲しくなる。

2012-09-06

素体


数学的には、最も基本的な体
造形学的には、大元となる人型

そこから派生して、いろいろなところの基準となる概念に使われる。
しかし、本当にそれが素体なのだろうか?
ということが多い。

素体と思っているものも、ある切り口からでは成果物であり、
その素体を構成する原料がまた素体とみなされる。

素体、、=前提条件にあたり、
その素体の認識をどこに持つかで
自分がなし得たいものへのこだわりそして、責任感の深さがわかる。
こだわることはいいことと言いたいが、
その素体を信用できていないから
ビジネス的な利益を生みだせないという反面もあるので
ある程度、素体を信用できるうえでのビジネスを進めたいものと思う。

成果物が次のバリューチェーンの素体になる経済だけに、、、

2012-09-05

寓話

比喩によって人間の生活に馴染みの深いできごとを見せ、それによって諭す事を意図した物語のことで、
多くは、昔話、童話と同義に捉えられる。

子供への読み聞かせ、、とりわけこの手の寓話を親から子に伝えなくなっていることが
社会的犯罪の増加、DVの台頭が増えていると言われている。

学説や実証データもあるだろうが、
人間の営みを俯瞰的にみれば、
親が子供に教育することで躾、体罰の前に
この手の寓話を聴かせることで
子供の潜在意識にその手の認識ができるはずではないかって思ってしまう。

現存する、僕が知っている中でも結構な寓話がある。
その寓話ひとつひとつが
子供、、強いては人間にある規範を諭すために
創作された傑作といえる。

ある意味、寓話こそ人の道徳教育そのものと言えるので
もう一度、大人になってもう一度寓話を読みなおし、
子供にそれを伝えていくことができたら、日本人の道徳観は復活できるのでは?
と思う。

2012-09-04

山吹

山吹の意味は
・花の名前
・濃い黄色
・小判
という意味がある。

漢字だけでは想像がつかない意味になっている。

山が吹く、、、なのに、
全く関係がない黄色を思い出させる意味ばかりだ。
基本、
花の名前に当てた、山吹から始まり、
山吹の花の色から、山吹色、
その濃い黄色から、黄金、、小判への変わったといえる。

日本語の難しさをしますとともに、
英語と逐語訳できない悲しさもある。

上記はそれぞれ
Japanese kerria
・Sunlight yellow
・Gold coin(s)
と全く日本語とかけ離れた言葉になる。
語族的な違いは認識も大きく異なることがよくわかるものだ。



2012-09-03

正論

正論だけど、、
と言われた時点で、それは採用されない提案である。
正論は論、、つまり机上のものであり、現実に実行されるまで至っていない。

いろいろな切り口で
その論は正しいのだが、論である以上、過去の経験則を前提にしたものであり、
今の現状、これからの脅威に対しては未知である。

僕が思うに、正論だけど、と言われた以上、
それはすでに、正論ではなく、亜流になった。
ある意味、自然科学に裏付けされれば
正論から法則、原理に昇華するものであるから、

正しさは常に変わるし、人の価値観だって変わる。

正論はあくまで自己満足のレベルであり、
必ずしも正しくないという自戒を持たないと危ういことになる
自覚をもつべきと思う。

2012-08-31

体当


思ったのだが、
故意の体当たりは暴力どころか、正当とされる社会なんだなあ。
とくに、腕力の逆ピラミッド構成である現代社会は、
非力とされる女性、老人、子供による強引な体当たりが多いこと、多いこと。

「自分はこうしたい」
「なぜ自分の進路の邪魔をするのか」
「私のどこが間違っているの!?」

その体当たりに注意やクレームをつけることが
逆に責められるこの社会。

自動車などの交通安全が規制、技術進化で進んでいるが、
人間自身が暴走機関と化しているんだから、
ある意味、人間自身が一番の交通事故のもとだね。

2012-08-30

苦心


物事を成し遂げようといろいろ試みたり考えたりして苦労することをいうが、
苦心は実は他人と共感できない感覚だ。

得意、不得意、好き嫌いが人にあることは
苦労するという感覚も違う。

交渉が難航することを
面倒と感じる人もいれば
相手もなかなかいい意見を言ってきておもしろいと思う人もいる。

順調すぎることに
つまらないと思う人もいれば
何事もなくてよかったと思う人もいる。

上記において、何が苦労か特定することは無理といえる。

自分はこんなに苦労ししているから、、
という表現は他人からすれば、
何をいっているの!?ということになるということを
強く持ったほうがいい。
実はこれも他人との意思疎通の齟齬の大きな一つで
ストレスの根源の代表といえるのだから。

2012-08-29

透過


透き通り、見渡せる状態。
形而上、形而下において透過について重きを持つことが多い。
・公明正大
・オープン
であることが評価される。

しかし、僕は透過の時代はもう終わっていると終わったと認識している。
透過できないこと
これがこの先10年以上の価値だと思う。

透過であることは、見渡せる、公明であるということが
現代人に錯覚を起させた。
見渡せるから、清い
オープンだから、誰でも
という思いを持ってしまうが、実際は個人の能力ではそんな簡単ではない。
見渡せても、見えていないことのほうが多い
オープンとはいえ、その事実は簡単なものではない
それを錯覚したうえ、
しまいには、できない自分を正当化して
もっと、見やすく
もっと、わかりやすいオープン
を求め始めて、結果、その透過させているものの価値を無効化してしまう。
経済の源泉である付加価値否定をしてしまうことが多々起きてきた。

付加価値なくして、経済なし。
わからない、できないからこそ、
人は他人と対価を支払いその価値をえる。
相手にはわからないけど価値があるということが評価軸へと変わる。

透過する=クリーンでもいいことでもない
という事実に気づいたもの勝ちの時期と言える。

2012-08-28

防衛


防衛って聞くと守りと思っている人が多いが
基本的に攻撃活動そのものという認識はあるだろうか?

近代において、攻撃という概念は存在しない。
それを認めることができないからだ。
でも、実質攻撃という防衛活動がなる。

例えば、ある土地について、
それぞれが自分の土地といいだすと

「自国の領土を守るために防衛活動をする」
「自分の領土、人民を取り返すために、国土防衛活動をする」

となり、両国とも防衛の名のもとに侵略行為を行っている。

実は上記論理が人間の有史の戦争条件であり、
相手の国を攻め落とすというより、
自国防衛、領民解放の名のもとに侵略行為をしているだけである。

人間は何度、、
「戦争撲滅のための最後の防衛戦」
を繰り返すのだろうか?

2012-08-27

新田


農耕民族である日本人は田んぼを基準にしていることが多い。
地点を示す表現に田を入れることが多いことにその表れをを観ることができる。

新田、、今までの田んぼより新しく開墾された田んぼという意味で地点を指すことがある。
しかし新しいという表現は刹那的概念ゆえに、すぐに過去になるのだが、、
そして、、

新田町

をどう読みますか?

しんでんちょう
あらたまち
しんたまち

とその新田をいう地点を地域住民がどう読んで住んでいたかにより
同じ漢字でも読み方が違うことがおきる。

まっ
そもそもその地域の新田はその地域の新田であって、
他の地域からすれば、
そんな古い田んぼを新田と呼ぶの。
そこを新田というなら、自分たちの田んぼは
という思いも同時におきるだろう。

人間の思い込み、認識で思っている新田は
相手の思っている新田とはかなり異なる。

それだけ、人間は通じあえないと感じるべきかな?

2012-08-24

逆離


メディアで踊っている  ~~離れ という表現は実は逆ではないかと思う。

若者の車離れ
若者の新聞離れ
壮年の老化離れ

ではなく、

若者の所得と生活スタイルに合わない車しか販売されていないから
車の若者生活離れ

携帯端末と比べて知りたくない情報を一方的に押し付けている新聞というメディアの
新聞の若者感覚離れ

年齢=老化という概念を否定して、元気でいること=若さと勝手に言い切る
老化への壮年の別離意識

と理解できる。

つまり、意図的に自分の主張を反映した~~離れという言葉が見いだせる。

自動車業界の人の思い込みの
若者の車離れ

新聞を売る側書く側の一方的な
若者の新聞離れ

年よりに購買を勧めたい企業の
壮年の老化離れ

である。

言葉は何も正しく描写するものではなく、
自分の思いを都合よく相手に押し付ける手段であると
再認識できる。

言葉があるから、事実が相手の思考を乖離させることになるともいえる。

2012-08-23

家製


社会が進むにつれてなくなるだろう。
自家製というものは、、

変遷として

「人に任せるなんてありえない」
「安くなったんだから、物は試しで」
「結構味がいいんじゃない」
「わざわざ作るより買ったほうがいい」
「え、、まだ自家製にこだわっているの?」
「自分で作るなんてありえない!」

となるといえる。

お茶やおにぎりを例に挙げる輩が多いが、
これは今に始まったものではない。

外国で言うならば、小麦粉菓子
日本ならば、味噌がその典型例だ。

クッキーはママの味
手前味噌

という言葉があるように、
基本その家の味、、つまりは自家製だったが、
今では、趣味や嗜好でなかればほとんど買う前提になっている。
買ったほうが、時間や労力が安いからだ。
また、それでビジネスが成り立ち経済が回るのだから、、、といえる。

しかし、ものづくりの神髄って
その家々で幼き頃から磨き上げてきた技能の結果だといえる。
ものづくり国家とかいいながら、
すでに身も心も工場製品前提な社会なのに
ものづくりの感性が芽生えるかという思ってならない。

時代は変わってきていて、
ものづくり国家というのはいささか、
過去の栄光にすがっている負け惜しみに聞こえてならない。

2012-08-22

追加


僕は規定範囲から追加された分に手を出すのはやめるようにしている。

規定範囲はある前提で範囲をきめているのだから、
それを無理して、追加された分に何か弊害がおきると思うからだ。

実際問題、
昔、友人がコンサートに追加席をとってくれて
そのコンサートにいったら、その席に会場スタッフが荷物を広げてすわっていた。
チケット販売会社と会場設置会社の疎通ができていず、
空いているスペースを売りさばいて、後はしらねーのチケット会社
設置会社は作業できないと騒ぎ、
結局荷物の横から体をよじってみる羽目になった。

現代社会の追加は実に安易な発想であることが多い。
追加されたという言葉に言葉通り飛びつくには危険だ多いと言えるなあ。

2012-08-21

限定


外国の資格に肩書にちょっと文化の違いを感じた

外国では
gradeを

B class limited
B class unlimited
A class limited
A class unlimited

となっている。日本語で言えば

2種 限定
2種 非限定
1種 限定
1種 非限定

と言えようか。

日本だと非という字がつくと、
否定的になるが、限定という否定的な言葉に非をつけて
否定の否定で意味を強くする表現が見受けられる。

あたかも、限定limited は非限定 unlimited を際立てるための表現といえる。

その価値観ゆえ、
日本のスキルアップは裁量の拡充になるが
外国のスキルアップは制限、限定の解禁といえる。

だから思う。
日本で騒がれている規制緩和という表現は外国からの輸入概念だけど
規制、制限論理が外国と違うから、限定の解禁というより
違法性の奨励につながるのではないかっという考えに、、

2012-08-20

閾値


境目の値というべきだろう。

機械的な限界値という一般的な見解、
一定以上の負荷で想定通りの行動ができなくなるということもあるが、
人の思いの閾値、
閾値の価値観の違いが、
人間の個性、好き嫌いにつながると僕は思っている。

例えば、衣類について、
一度着てしまったものは洗濯する人もいれば
汚れが目立たなければ、わざわざ洗濯するまでもないと思う人がいる。

着るという閾値 vs 汚れているという閾値

すぐに洗濯する人からすれば
「一度着たんですよ!洗わないなんて信じられない」
わざわざ洗濯なんてと思う人は
「なんで洗うの?洗濯する行為、水がもったいないじゃないか」
という。
つまり、論点、論争、争いのタネになりうる。

みんな仲良くというけど、
こういう閾値の違いがあるのだから
なかなか難しいといえる。

だって、
あなたの思う、親しさの閾値は相手と共有、共感できるものかい?

2012-08-17

専行


独断専行といわれるように、
個人で決めることを、専行という。

悲しいもので
専行というものを批判することが僕は専行だと思っている。

「独断専行で行動するな!」

この発言こそ、自分の独断専行を相手に強要する証だと思う。

「お前が独断専行ってみんな言っているぞ、なーなー、、おい!」

自分の専行をみんなの意見にすり替えていることがよーーくわかる。

個人、能力主義であることは専行そのものの結果を評価するものだから、
専行を批判することは能力批判につながる。

専行が専行を抑止する、
なんか能力主義の崩壊かなって思うなあ。

2012-08-16

後出


権力を握ると人は後出ルールをし始める。
それが権力と誤認するからだ。

後出ルール
「今までがどうであれ、これがルールだ!」
というものを僕はさしているつもりで、
後出ルールに僕は効果はないといいたい。

後出ルールではなく、

既存ルールの撤回
並行運用期間
新規ルールの徹底

の3ステップでなくてはならない。

・既存ルールをなぜ撤回するのか
・仕掛、新ルールの伝播期間をどう留意するのか
・新規ルールを徹底させる規制は

というものがなくてはルールなんてありえない。

後出で上書きするような行為は愚者の統治に過ぎない。
破壊と創造という言葉があるように
一度破壊、無くして
新しいものを新設することでないと
自然的、秩序的に成り立たないと思うべきである。

多くの組織の規約改訂、、不満が多いのは
改訂内容ではなく、改訂する工程であると思うべきだ。

2012-08-15

固辞


かたくなに断ること、、
素直なことと反対と言わざる負えない。

現代社会において、
素直なことより、固辞するほうがいい結果に結びつくことが多い気がする。
素直なことを尊重する文化のくせにだ。

例えば、義務や法令でその行為を強制させるようにする。
素直な人材はそれに遵守するが、自己主張の強いものがそれを固辞しつづける。
本来であれば、強制執行になるはずと思うが、多くの場合は
固辞した側を特例、場合によっては今までの強制を撤回することが実に多い。
固辞した側は、自分が正しいと正当化させるが、
世間で評価される素直な人材たちはその強制、撤回に翻弄させられる。
素直が故であまりにもひどい。

固辞する輩に強制執行することを躊躇わない強さが公権力にあるべきだと思う。
公権力はその素直な人たちを守るためにという名目を忘れないようにしてほしいものだ。

2012-08-14

海峡


陸地によって狭められている水域のうち、
定期的な船舶の航行があるものこと。

って、言われても、
その地形を見た人が
「ここは海峡だね」
と言い出せることはないだろう。

瀬戸
大きな水道

というものとの違いは誰でもわからない。

そう、海峡かどうかは
そこの地名を考えた人にゆだねられているし、
その地名を翻訳する人にも委ねられている。

誰かが決めたものに追随することでしか識別できない。

みんなが目にして共通認識を持っていても
誰かが決めた名称が正になるということが
~~海峡とかいう言葉から汲み取れる。

決めたもの勝ち、、
言い張ったものの勝ち、、
なんか、定義とか論理的って意味ないような気がする事象だ。

2012-08-13

大蒜

大蒜と書いて、にんにく、、、
なぜこう呼ぶのんだろう、、
音だけ聞くと、人肉となっておぞましい食材に感じてしまうが、、

語源は
忍辱と、僧侶が強烈なにおいに耐えた、食べることを禁じられていた
と諸説あるが、それがなぜ、にんにく という音になったかは、
説が多すぎる。

まーー、者の名称の意味を考え始めると
きりがないどころが、一番意味不明な漢字熟語は
人の名前であり、その由来は聞けば聞くほど
他人であればある程、なーんだ、変なの?っていいかねないから
あまり、名称にこだわるとろくなことがないと読者に換言するにとどめたい。

2012-08-10

雑記


メモ帳、、
雑記帳をどう使うか?

文字だけ、論理的とかいうけど、なんかよくわからない
絵が多い、イメージは伝わるが、細かいところはおおざっぱ
記号で、自分の世界で他人の意見は論外

実は雑記の書き方が頭の中だったりすると僕は思う。
それゆえ、最近メモを取らない人が多いといわれことは、、
あまり考えていないのかなあって思ったりする。

紙と鉛筆、人間が人間たるゆえんだと思うけど、
それが薄い時代になっているなあ。

2012-08-09

秀麗

他のものより一段とりっぱで美しいこと、
秀麗
立派
美しさ
とは、時代とともに変わっている。

平安時代は
面長な顔が男前
髪の長さが女の美しさ
とあるように、美的感覚は時代を移している。

過去の秀麗が次の時代に当たり前に地位が下がるならまだましなほうで、
秀麗とされたものほど、次の時代では
時代遅れ
ダサい
と揶揄されることが多いのが、人の性。
ファッションに優れた秀麗な人ほど、
次の時代に醜態の代名詞になることは多くの人が見聞きしてきたことだろう。


花の色は うつりにけりな いたづらに
   わが身世にふる ながめせしまに


当代一の美貌といわれた小野小町にして
この歌だけに、、、