2009-12-31

歳末

今年最後の更新なので、この言葉でしめたいと思う。

歳末と年末の区別はつくだろうか?
似たようなことで、年齢については
歳、才、どう使い分け、強いて言えば適切なのか?
を理解しているだろうか。

歳という言葉は、時間的な節目、次の流転への折り目と言う意味がある。
人間の大きな節目は
暦が発生して以来、太陽暦、太陰暦、に関わらず
1年というところが節目、歳になたるだろう。
だから、暦が刷新される年末は多くの人間の歳末である。

歳に深い意味があるのだが、
この漢字を書くにあたり、自覚が多い。
意味深いだけに多用するにも、、、
そこで、古人は同音の才をあてた。
それだけのことらしい。
才は誤用に近い、本来は歳である。

この深い意味で言えば、
学校ならば、3学期の終業式
起業ならば、決算月末が
本来の歳末にあたるといえる。
だから弊社は本来は年末であり歳末ではない。
しかし、あえて歳末と思っていくつもりだ。

今年と言う時間的連続から解放されて
新しい事業展開を2010年から開始するという
気持ちを込めて、折り目として、
明日からの新年を迎えていきたいと思う。

芽吹く新企画、
積み上げたものの開花
を2010年に起こす準備はできているからこそ
今日を歳末として次の展開に移ることとする。

我々の真価、明日より示したり。

この言葉でもって、2009年をここにしめる。

2009-12-30

復讐

復讐心は本当に悪いことだろうか?
かなり悪いものと認識されているが、
戦後の日本は、復讐心そのものではなかったが、
今の生活水準の高さは復讐心で成り立っているのではないか?

敗戦した日本はアメリカの占領をうけた。
その占領下で日本人の記した記録、文書の多くは
戦勝国を見返す、復讐心の塊だったと言い切れるくらい内容ばかりだ。
そして、それを戦争ではなく、経済活動で見事にやってのけたといえる。

僕は復讐心こそ、人間ではないかって確信している。
多くの動物は天敵が存在している場合、
その天敵に対して逃げるという行為しか芽生えない。
逃げられなければ、捕食という死しかないからだ。
仮に逃げ切れたとしても、襲った天敵の個体への復讐心は芽生えないだろう。

しかし、襲った者に対して個体識別を持ち、
その個体に対して仕返しをしようとする。
場合によっては、その仕返し行為を血族伝承させることも
容易に出来てしまうそんな動物だ。
そして、その復讐活動によって脳は活性化されて
進化していくものではないだろうか?
多くの技術革新は復讐への探求心が原動力になっているといえる。
日本人は調和を求めるが、西洋人は自然と言うものに対しても
挑みやぶれ、それを克服するという復讐行為が科学といえる。

復讐行為をつまり

敗れたからこそ、見返して相手に対峙してやる!

という気持ちは、悪ではない。
その気持ちがもっとあからさまにしてでも
生き残ろうとする熱意が今の社会に求められると僕は悟っている。

2009-12-29

正当

正当とは何だろうか?
道理になっている、正しいというが
正しいと言い切れること自体が悪意に満ちていると感じる。

例えば、正しいと思われることを厳格に行っている人は
周りから、「あの人は固い、融通が利かない」と正当という評価とは
かけ離れた評価をうける。

またかたくなに既存の価値観を守り続けている人に対して、
大衆の民意と言うことで、その既存の価値観を悪意とみなされることも
多々見受けられる。

すべての人間の心になる正しさが
正当の根拠というが、文化、思想、宗教、教育、言語、に少しでも相違があれば、
その正しさは十人十色となる。
命の大切さで捕鯨を反対している団体の常食が牛であることに
僕の中では全く正当性を感じないが、彼らは確固たる正当性を主張している。

正当であること、
それは悪意に満々と満ちた自信であるといえる。
逆にいえば、自信がないものには正当と言い切れる根拠はない。
それが、現代社会の正当と言えるだろう。

2009-12-28

電脳

久しく聞かなくなった言葉といえる。
ほんの数年前まではかなりメディア等に乱舞して言葉なのだが、

そもそもこの言葉は、日本語ではない
中国語のコンピュータという意味である。
日本人は面白いもので
コンピュータを表現する言葉はいくつもある。
・コンピュータ
・computer
・計算機
・電脳
・マイコン
・パソコン
と数多の表現をもっている。
一つの事象にいくつもの表現をあてることに寛容な人種である。

この事実はある意味、+と-をもっている。
コンピュータにたいして、多くの表現を許すから
機能が異なっていても
「あれもコンピュータ」
「それも電脳って言えなくもない」
ということで、多くの事象を同一基準で並べることがその特徴の組み合わせで
新しい価値観を生み出せる。いわゆる加工行為が得意である。
しかし、その反面物事を一義で捉えられないために
組織内で決まった認識共有や方向性を固定できないので
論理性、研究方向性は定まらない。
ゆえに、加工をする原材料的な発見は皆無に等しい。

電脳やコンピュータという言葉で解ると思うが
自国発祥の概念ではなく、他国からのもの受け入れて
それを自国で加工している。
でもそれにより、加工の結果、その分野でトップシェアを取れるのも
日本の強みである。

日本いや自分自身の強みの多くが
誰かが作ったものを加工することに優れている
という評価を受けて、誰かが存在しないと加工もできないと
揶揄されることもあるだろう。
しかし、その加工がコンピュータ、電脳と言われていた
庶民からちょっと離れていた発見、発明を
身近なものにする価値観の創設になっているだから、
ある意味、加工は第二の民意による発明といえると感じる。

2009-12-25

許容

受け入れられる限界と捉えるべきだろう。
多くの人間は許容を考えるときに
受け入れる側の規模を中心に考える。
つまり、どこまで詰め込めるかを視点に置く。

しかし、その認識は間違っているというべきだろう。
受け入れる側の規模や送り側の規模よりも重要なのは
その2つの間にあるバス、送り手法の性能が一番重要である。

そのバスとなす手法の性能が高ければ高いほど、
許容はいくらでも修正、補完できるものである。

物理的に見れば、
プールの水をすべて近隣の池に移す際に
スポイトで行っていたら、永遠に終わらないだろう。
スポイトよりバケツリレー、そして、給水車のポンプのように
送り方法の性能を向上させられれば、仮に池が満水になっても
その水の活用方法は消火や噴水に転用できる。
スポイトではそこまでにいたらない。

これは、人間の理解にもいえるものだが、
理解の場合は、少なすぎても多すぎても理解にとっては弊害で
ちょうどいい適量を見出さなくてはならない。
少ないということは、簡単すぎて飽きてしまう。
多いということは、理解する行為の難しさから逃げてしまいかねない。
相手の許容に対する適切なバスを見出すことが求められ、
その汎用テンプレートが教育カリキュラムともいえる。
汎用テンプレートだからこそ、
その個々人の許容量、バスに合わせて加工していかなくてはならないといえるが、
ついつい、人間はその行為を怠り、
許容に対して、なぜできないのかって責め立ててしまう。
なかなか大きな課題といえる、人間間のバスの育成は。

2009-12-24

委任

人に任せること、、、
僕が思うに人間関係の良化、悪化はこの行為にかかっていると思う。
任せるということにはいろいろな意味がある。
自分がある事情で出来ないので、自分が期待するようにしてほしいという意味に対して
・相手の理想どおり
・自分に任されたということへの自分なりの付加価値
・相手の事情と自分の事情の抵触で結果出来ない要素
ということで、委任を出した側の歓び、そして裏切り感を煽ることになる。

委任をうけるということ、
現代社会ではまさに、仕事を請けるということに他ならない。
自分が委任先に選ばれた理由
委任側の意図
等を考えながら、行動することを常に意識したい。

なぜ、自分を?
もし自分が委任先の立場ならば?

こう思うだけでも、かなり自律したことを得られるはずだ。

2009-12-22

記述

書き記すこと。
多くの学生が嫌いな記述問題。
どうして嫌いなのだろうか?

・書くことが多い
・一文字でも間違えると減点されそう
・書いている時間がかかる

等あるけど、やはりメイン

・確信をもった正解がないに等しい

ということだろう。
記述とは、その語族における人間そのもの具象といえる。
自分という存在を他人からの問いかけに対して
文字を記して表現するものだから。

記述なくて個人の尊厳は保たれないが
それは現在では逆になっている。
表現を記せば、その履歴が残り
自分が特定されてしまう。

万人が自由であるがゆえ、個人として注目されることを
多くの人間は嫌がる。
自分は目立ちたくない、できれば周りと同化していたい。
だから、○×という二択のような決断でどちらかを選ぶというよりは
どちらかに帰属するということを願う。

それを記述と帰属できない個人の選択にゆだねることを嫌う。

確かに記述はリスクを伴うことは重々承知だ。
このブログ更新においてもそれなりの迫害を受けてきている。
でも、それでも記述はしていくことは重要だと思っている。
今の自分の思いを残せるのであれば、
それはそれで自己の存在を証明してきたと
自負できるといえるから。

2009-12-21

軍事

戦闘のために兵士、兵器を活用すること。
現代社会においては悪、少なくても必要悪とまでされる。
非戦闘が望ましいとされるからだ。

戦闘行為とは
言い換えれば、究極の競争行為だ。
動物の進化はその競争で成り立っている。
オス同士のメスの取り合い
捕食者からの逃げ会い
捕食のための行為の変化
これらは自然界の中ではごく当然
いやそれが自然そのものと言える。

人間のように捕食者からほぼ解放された存在の場合、
進化を行うためには、同士での争いが主になる。
身体能力競争
経済競争
そして、究極の軍事戦争となっている。

一概に軍事と否定はできない。
身の回りの科学技術の多くのものは
その軍事行為から進化しかしたものだ。
これを更新しているPCであるコンピュータや
現在の企業活動の大きな役割を占めている
プロジェクト志向の行動管理も
すべて軍事からの転用だ。

軍備を配備するおかげで
現在の豊かな生活が支えられている。
とても皮肉なことかもしれないが、
上記のようにとても自然なことではないだろうか?
地球上の生物である限りは。

2009-12-18

手際

処理の仕方だと言える。
今回、とりわけ焦点を当てたい言葉は、際、、いや音である’キワ’である。
キワとは、ぎりぎりという意味の音感をもつ。
瀬戸際
きわもの
そして、極める
すべて、ある領域のぎりぎりの位置を示している。
ぎりぎり、すれすれ、という表現こそ、
ものごとの限界域を示している。

手際もそれにあたり、
自らの手が他のモノにぶつかるぎりぎりのところで
作業をこなしているからこそ、処理の効率が高いとみなされる。

あとちょっとですべてが水泡になってしまう。
その限界での行為こそが、キワであり、
そこでの行動は他人からすれば危険であり、
それを見事こなぜば、称賛になるといえる。

2009-12-17

質疑

疑問に対して質問すること、、、
つまり、自分が知らないことを聞くことだろうか?
答えは否といえる。

質疑を行う前提として、
その質疑の背景に、
大きな達成目的、
今後行う活動の障害回避の必要性
等の自らのアクションを前提とした確認でなくてはならない。

それゆえ、質疑にはある程度の仮説前提で行う必要がある。
自分が行動した場合を想定すると気になるからこその
質疑でなくてはならない。

知的好奇心による
自己満足を得るために質疑をすることも多々見受けられるが
それに答える必要はないと思う。

天は自ら助くものを助く

自分で何かしようとするゆえに発生する疑念、不安からの
質疑こそ、本当に答える価値があるといえる。
その質疑への回答が助けになった場合、
質疑を行った者が今度は質疑を他人から受け
それに真摯に回答できるといえる。

2009-12-16

武装

戦闘の準備をすること、
日本においては実際に武器を手に取るという行為はまずないが
理論武装という言葉はよくつかわれる。

理論武装とは日本独特の表現だと思う。
多くの武装は攻撃手段が主軸になるのだが、
理論武装の目的は、相手からの理攻めに耐えられるように
身構える事前分析の専守行為である。

どんな質問攻めにも耐えられるという姿勢を
武装という言葉で示すには、
何とも日本的な言葉だと思う。

では武装には解除があるべきだが、
理論武装解除って呆けることなのかなあ?
なんて思ってしまう。

2009-12-15

昇進

現代社会において、
新入社員で入社した企業にずっと在籍して、
その会社の社長に上り詰めることはまずあり得ないといえるだろう。

日本的に考えれば、
一つのところに腰を据えて、じっくり仕事をした結果
上り詰めるという発想になるが、
それはレアケース、国際的に非常識にあたる。

多くの国際企業のトップを見てほしい。
ほぼ100%の企業が
CEOクラスを他社から招致している。

これは所有と経営の分離が徹底されているからであり、
CEOは経営者であって、会社の所有者は株主だから
有能な人材を株主が選んでくるからだ。

会社にずっと在籍して
会社のありとあらゆることを知っている存在
だから、社長に昇進するという日本的な昇進基準は
非常識であり、

欧米人の諺にあるように

A rolling stone gathers no moss.

一つのことしかわからない存在は
固定概念しかないからいろいろな経験をもっているものが求められる。
だから、ずっと一つの企業に属している人間は尊重されないのである。

現に日本においても
影では貸付金融機関の管理職が社長になり
その企業を乗っ取ってきているが
その事実をあまり一般公開せずに進めてきている。
実際はそうなのに、それを声高に言うべきではないという
秘密主義なので日本であり、情報公開の国際基準とも外れているといえる。

すでに、日本においても
終身雇用から能力主義の到来は
昇進という行為をを
権限の拡大、社長へ一歩近づいたというものから
所得の増減、職務経歴に一行追加
という行為の目的も変えていると認識すべきである。

2009-12-14

帰属

ある集団、組織の傘下にいることであり、
社会に属しているということといえる。

現在社会はまさに帰属すべき組織の数が多すぎて
個々人が自由になりすぎているのではないだろうか。

例えば、
会社では
・所属部署
・案件ごとのプロジェクト
・委員会
・同友会
私生活では
・町内会
・サークル
とあるように
一人の人間が複数、いや10くらいの組織に属しているということになっている。

理論上は、
属する組織とすれば
数人で組織は構成されるので
人間 > 組織
となるが、たぶん現代社会は
人間 < 組織
となっていると騒動がつく。

理由をもって組織化しているはずだが、
その理由からくる個々人の役割が希薄、形骸化しているので
その帰属意識がとても弱い。
だから、個々人は自分中心に考えるようになる。
なぜなら、どの組織に対しても個人の存在を訴えることが可能でもあるからだ。

同じ目標、課題に対応するために組織を形成し、
進化発展してきた社会的動物、その長たる人間。

しかし、組織の多岐化、再分化の結果、
社会での行動より自分の行動という
一匹狼を作りだしているという皮肉なことになっているようだ。

2009-12-11

植樹

樹を植えることは、総ての達成と同じことといえる。
成長するまで、長い年月をかけて成長し、
枝葉を切り落とし、優良な幹だけに選定して、
花が咲き、実がなるまで手間がかかる。

何事も一朝一夕ではない。
木を植えたから必ずしも実を結ぶとは限らないが、
どの樹が実を結ぶかわからないが、
その実を結ぶ可能性にかけて今行動をしていく。

農耕民族のよくも悪くもあるのは
この植樹の気概だと思う。
狩猟民族が0か1かの結果しかないが、
植樹の結果は長い時間、互い1年かけて結果をだすことになる。
短期的取引よりも長期投資に耐えられる。
日本の貯蓄率の高さの現れは
この植樹行為、結果が出るまで時間がかかるから
今のものを貯めておこうという民族文化の名残を感じてならない。

2009-12-10

識別

物事の相違を元に見分けることである。
日本人は差別という言葉を忌み嫌い、
区別と差別は違うという言葉のあやレベルまでの争点になったりする。

区別、差別、という言葉を分けること自体に
全く意味を感じない。

元来、社会性の高い動物の本能は識別能力である。
個体を自分の思考と照らし合わせて
それが自分に対して、プラスマイナスかどうかを判定し、
行動に移すことが社会性の高い動物といえる。

多くの場合、
識別の次の行動は生死を分けることが多いのが
本来の自然界である。
天敵ならば、逃げる
捕食ならば、襲う
ボスならば、へつらう
同性ならば、縄張りから追い出す
異性ならば、求愛
と生死をかけた判断をするのが、自然そのものである。

識別の要素をより細かくして、
いろいろな選択と生死のリスクを極限まで下げた人間社会ゆえに
その識別の本来の有り様を忘れているにすぎない。

識別の上、選択的行動で生き方がかわる。
失敗は許されない。
その前提での緊張感は常に生物としてはもっていないとならない。
自我をもち、社会性を帯びた動物である以上は。

2009-12-09

添削

他人の文章に追記、削除をすること。
形而下の行為としてはその通りだが、
形而上では、相手の表現そのものを洗脳、使役すること。

人間は言葉を使い他人に意思の伝達をする。
その言葉を即時、刹那で伝えるときは
音声である口と聞き入れる耳にて交信をするが、
意思を長期に残し、多くの人々に伝えるために
文字を記述して、目で見て理解してもらうことが
人間という動物の大きな特徴である。

その自己表現である記述行為に対して
他人が添削をすることは、表現自体を他人に否定されていることになる。

それゆえ、添削において重視しなくてはならないことは
伝えるべき意思を表現者以上に理解して
多くの人に等しく理解してもらえるために行わなければならない。
添削という行為において、表現者の意図を曲げているかもしれないが
それ以上に、伝えるべき内容の重みが多いときとわかって添削をしなくてはならない。

それゆえ、添削をするときに
表現者に嫌われるからというためらいがあってはならない。
目指すべきものは、表現者ではなく、それをみて理解する人に対しての意味での
添削なのだから。

2009-12-08

満足

満足というものは下記3つのうち2つは見せても、残る一つは失うのが常である。

品質
価格
維持

品質と価格を追求すれば、売り切りによる保証なし
品質と維持を追求すれば、製品ブランドの高価
価格と維持を追求すれば、劣悪品の横行

現在という断面でとらえれば、
価格と維持をしても、品質維持を目指そうと社会は動いているが、
その中では、希少性や製品ブランド力の向上にはなかなかつながらない。

でも老舗ブランドの多くは価格を下げないからこそ
存在価値があったりする。
仮に価格を下げれば、今まで維持を信頼してきた既存客の満足を失うからである。

満足というものは一瞬の代物である。
ずっと満足してもらえることはない。
だから、潮流、価値観において、
その一瞬での満足を勝ち得たもの、
そして、その満足に対して、次の満足の準備があるものが
当代の時の人になるのだろうと思う。

2009-12-07

座標

存在を点であるとした場合、その点が相対的にどこに位置するかを
数字の組み合わせ等で示すもの。

人間は自分の地理的位置は建造物等をもとに特定するのに対して、
社会的位置の位置づけは、社会だけに他人との関係で行う。
あたかも、それは自分の存在を座標とみなしての位置づけともいえる。

人間の多くはその座標=その人になることが多い。
・お父さん
・○○課長
・××に住んでいるだんなさん
と呼ばれることに多くの人間は納得しているが、
それは、そう呼んでいる人間からみた座標にすぎないとも言い切れる。
本来ならば、姓名をもつ存在がその人そのものなのだが、
その呼称をせず、あえて自分からみた存在定義で呼びかける。
これこそ、社会生活の表れと言える。

言葉を持たない動物の行動を人間が解釈するとき
その個体の集団における役割、座標を導ければ
その生物は社会性を持っていると認識している。
人間からみて、社会性なのか
人間がその自然の営みを社会性とみなしているのか
は哲学的になるので言及はしないが、
他の個体との関係、距離感で自分の座標を認識するしているかどうかを
人間は強く意識する。

座標という言葉で難しく感じさせてしまっているが
孤独や責任というものは、
他者との依存、距離によって心情が動く
それが自分の属する他人からの座標そのものといえる。

寂しさ、プレッシャーも他人がいればこその感情ってことだ。

2009-12-04

丁寧

熟語にした漢字の意味と
現実社会での運用がかけ離れた言葉だと思う。

少しこの言葉の説明からしていこう。

丁寧とは、もともと古代中国の楽器。
楽器というよりは、軍隊のラッパと同じ扱いの
警告や注意を促す軍事用具。
そこから派生して、丁寧は注意をするという意味に変わった。

注意をするという意味が
多種に活用されて、注意を払った尊いものという認識から
モノに対しては、細部にこだわった仕事
ヒトに対しては、敬意を払った慎ましい行い
で丁寧という現在の語彙に至る。

言葉は進化、変容するものである。
この丁寧は中国の楽器という固有名詞が
今では事象の形容表現になっているのである。
日本語自体でも、
ありがとうは感謝ではなく、
有難う=存在することが稀有であること。
から派生している。

言うなれば
「こんなサービス滅多にしないんだから、言うべき言葉は?」
という意味の内在を感じる。

身近に存在して
当たり前のように使用している多くの事象。
でもそれは、進化、変容の過程をえてたまたま今、
周りに現在の意味で存在しているにすぎない。

今一度、そのものが持つ本来の意味は?
そしてなぜ現在の用途になったなのかを考えることで
新しい価値観、視点を見いだせるかもしれない。

2009-12-03

断言

言い切ることであり、
現代社会において、とても勇気ある行動である。
正しい内容であっても
これだけ社会情勢、技術革新の早い世の中において
いつまで正しいと言い続けることができるか?
間違っていた場合
自分でどこまで責任をとればいいのか
どんな仕打ちをうけるのか?

というリスク要素が気になり
断言するということは多くの人間には難しいことになる。

だからこそ、
断言することを重視すべきだと思う。
責任を感じてそのうえで断言した人間の行動は
褒めてさせてあげるべきだと。
その覚悟を持っているのだから、
それがいろいろな要素で必ずとも断言したとおりの結果でなくなることは多い。
それを断言と違うと責めるより、
変わった状況を分析、対応することが全体最適だと思う。

断言して行動した人間と
何もせず批判している人間の価値が
批判してリスクをとらないほうが高いというのは
社会行動の原理からして後退の一途になる予兆とみるべきだ。

2009-12-02

研磨

物質を磨くこと
個人スキルの向上をはかること
の意味をもつ。

能力を磨くということはとても重要なことだと思う。
個々人というものは、何もしなければ他人の物理的精神的成長とを
相対比較すると能力的に劣化するものである。
自分自身はまだまだと思っても、人間社会である以上
相対的な価値観からすれば価値は落ちているのだからである。

だから、自己を意識して高めるという行為はとても重要である。
そして、研磨という言葉をあえて、人間のスキルにあてた古人の粋を称賛したい。
磨くということは、摩耗が発生する。
能力を磨くということは別の見方をすれば、
自分自身のないかを失っているといえる。
その何かを自他ともに意識しておかないと
磨いた能力もただの奇行になりかねない

例えるならば
鉄で斬れるものをつくるときに
出来上がるもの包丁かもしれないし、刀かもしれない。
その求めている環境、時代に合うかどうかを
見極めて、どこを摩耗させて磨きあげるかは
その匠の腕次第。
そう人間自身の判断である。

研磨は研磨する方向性ですでに決まっているのかもしれない。

2009-12-01

挑戦

英語ではchallengeの意味で、
必ずしも、戦闘行為に及ぶものではなく、
現時点では難しいとされる行為にあたる宣言と言う意味である。

東洋系では困難=戦争とみなすことは多い。
それは農耕民族ゆえに、危険を伴う行為は
他の動物、他の民族からの略奪からの自衛が旨であったからだともいえる。
それゆえ、現状ではない困難を’戦(いくさ)’とみなすことと言える。

対して、
challengeの意味には戦闘という限定はない。
自分自身を高みに動かすイメージをも醸し出している。

僕は戦闘と言う緊張状態を否定することはしない。
人間は平和主義と言っているが、
生物の成長には生存競争、生死をかけて行動が必要であり、
それにより生物は進化することは、地球上で生きるものの宿命ともいえる。

現代社会で命がけということは少ないといわれるが、
社会生活を困難にさせる可能性を伴うものであっても
挑むことが真の成長につながると切に感じる。

2009-11-30

電信

多くの場合は
電子機器を媒体にした意思や情報の伝達のことを言うと思う。
しかし、小さい時を思い出してほしい。
通知表のことを、通信簿 と言われていなかったか?
それに伴い、電子機器が出来る前からも通信という言葉は存在していたと
言えるのではないか?

通信という漢字2字から成り立つこの言葉で重きを置きたいのは
’信’である。

信じるでもあり、
人偏に言葉でもある。

語彙としては、互いに互いを認識しているという前提があることだ。
それを言葉ではないもので互いの認識を合わせるものが
交通、モールスの信号になったりしたり、
見えない存在を多くの人と共有して敬うのが、信仰だったりする。

通信というものが成り立つ条件は
互いが互いを認識できることにつきる。
信頼している先生と保護者の間だから通信簿が成り立っている。

現代社会においては、
電子機器の高性能化により、
端末それぞれが互いを認識して、
相互通信を複雑かつ高速に行うようになってきた。

しかし、それゆえ
その端末を介しての通信は希薄になったなあって感じることもある。
僕が思うのはたぶん一般人と逆に感じの希薄である。
電子機器上でのやり取りではなく、
直接あって話すということに意味を感じているのが現代の一般的な
通信の温故知新のように捉えているが、
わざわざ合うのに、電子機器と同等レベルの準備で会うべきだろうか?
古人たちが導いた現代の技術革新が現在の通信技術であり、
それを否定する価値くらいの価値がある会合でなくてはならないと
わざわざ会うときには感じる。

その意気込みをもって、会合をしていく気概は必要だと思う。

2009-11-27

包囲

対象に対して、点ではなく面で包み込む手法。
おもに、対象を人間とした場合は戦術的な要素で使われることが多い。

確かに、包囲網、囲い込みという手法は重要だ。
大きな理由の一つに、人間は相手がどう考えて動くかわからないから
不安、心配、疑心を生む。
だから、包囲することで出方を限定させて、そのマイナスの心理状態から
逃げることを欲する。
皮肉なもので、
相手を逃げられなくすることで、
自分たちは不安や悩みから逃げられるということである。

しかし、その包囲手法にも問題があるし、
その問題は古代中国でも指摘されたことだ。
完全に包囲してしまうと、相手は必死で打開させようと
攻勢にでることがある。
いわゆる反動行動になる。
だから、逃げ口を用意しておかなくてはならない。
その逃げ口を相手にあたかも選択させたという
心のゆとりを与えないとならないからである。

近年は経済活動は企業による囲い込みを意識したものが多かったが
その反動が消費者の行動に多くみられた。
今後の企業活動をする際には
囲い込みの重要性を理解しつつ、
消費者、顧客に自らを選んでいただいたという気持ちを意識させないと
ならないと感じている。

2009-11-26

苦労

たぶん、生存本能、社会的な能力が一番伸びる状態。

人間苦労をしたくないから
いろいろと頭を働かせることが多い。
それにより出てくる成果はある意味必死さゆえに有意義なものが多い。
それを導きだした人間はその苦労の怖さ、恐ろしさを体感し
それから逃げたいからである。

皮肉なもので
苦労の結果導いたものを
当たり前のように使う人間の能力は退化していくことが多い。
導かれた成果に対して、ありがたみを感じず
その恐怖の感情もないからである。

そして、人はまた同じような苦労を味わう。

確かに振り返れば、
苦労に対して、悩み行動していた時代はいろいろと成長したと思う。
・コーディングが全く分からずに毎日悩んでいた
・説明資料が相手に全く理解してもらえずに眠れなかった
・実現不可能と言われた案件の責任者をまかされて、悶絶した
それを掻い潜ったときに僕は成長したと思っている。

ただし、他人からすれば、それは成長かもしれないが
その分の対価は生じていると思ってやまない。
それが、僕の不遜や相手への侮蔑だと思う。

苦労した人間は有能な人間にはなるが、
決して、感じのいい人間にはならないと思う。
なぜなら、その苦労もしらない下賤のものと対等に扱われることほど
許せないと思うだろうから。
人間、聖人君子はいない。
それは後世に人間が美化脚色しているにすぎない。

苦労した人間はいろいろな意味で醜くかつ人に見せられないものを
肉体、精神に抱えていると思う。

2009-11-25

仕組

物事の組み立て、構造のこと。

つまりは構成であり、その根拠になるもの。
汎用的な英訳にはないのだが、
真の意味で捉えれば、system のことである。

system導入の仕事というが、
それは、まさしく仕組み作りのことである。
コンピュータを導入するのは、単に手段に他ならない。
組織の行動の効率化を高めるために
行動を構成する要素への変革をもたらす、、
仕組みを取り入れることである。

現時点において、その仕組み導入のもっとも最たる具象化が
コンピュータの導入であり、そのコンピュータがもたらす
高速処理
高速通信
高度表現
により、行動の仕組みが変わり、より効率的、より効果的になっている。

単にコンピュータを導入するのではなく、
仕組みに見合うコンピュータ導入を考えなくてはならない。
あくまでも、効率よくするための仕組みづくりであることを
忘れてはならない。

system導入である仕組みづくりは
何ができるか?
より
どんな効果が得られるか?
が求められているのだから。

2009-11-24

遊戯

遊びたわむれること
深い意味では
幼稚園や小学校などで、運動と娯楽を兼ね、
集団内での役割を自覚させることなどを目的として一定の方法に従って行う遊び
のことを指す。

遊ぶという行為は
非生産性の意味でつかわれることが多い。
学業、稼働の反意の意味で用いられるからである。
しかし、遊ぶということは非生産なのだろうか?
確かに非生産ではあるが、間接的は生産性の根源ではないかと感じる。
遊ぶことにより、
日頃の精神的負荷の発散を行い
次の生産の精神的な糧になるということ
遊ぶという行為の多くは浪費であり、
その浪費があるからこそ、生産しなくてはならないという発想に繋がるのではないか?

遊戯、娯楽は決してなくてはならない。
というより、人間が人間であるのはこの遊戯、娯楽に興じることができるからである。
衣食住を超えたところに、自分の存在を示す歓びに身を投じる
経済的、嗜好的、そして社会の寛容性が成り立っているからこそ、
人間らしい生活になると思う。

遊戯に、娯楽に、趣味に、もっと興じていい環境がなくては
次の生産性へのモチベーションやアイデアは生まれないと思う。
僕自身、そして僕ももつ組織自身に遊戯を認める許容を持つようにすることが
今後の抽象的だが大きな目的である。

2009-11-20

歳暮

日本の古きしきたりであり、
最近はこの行為自身が否定されている。
・義務にしか感じてならない
・社交辞令的
等の理由からだ。

そうだろうか?それが歳暮だろうか?
歳暮の意味はそういう意味ではないではないか?
本来の目的からそれを異化した人間関係での齟齬に他ならない。

本来、中元、歳暮の目的は
自分からお世話になった人間に対して
自分の生業の成果を出して、
自分の存在の具象を示す行為である。

それに付け加えて意味をもって
僕は社会人になってから、相手は変わるかもしれないが
中元、歳暮は忘れたことはない。

・その贈り物を受け取る家族に対して、その人が社会で価値ある存在であることの
 家族への証明
・言葉ではなく、具象により自分の気持ちの代弁
・定期的に僕の存在および今後の会話のネタとしての振り

そんないろいろな気持ちを贈り物にして
お世話になった、気にしてくれる人そしてそのご家族への’提起’でもある。

2009-11-19

機会

ある行動をするのに最もよいときの意味であり、
英語でいうchanceと等しいと言えるだろう。
でも、機会を見抜くととは出来ないと思う。
機会が本当に機会であったということは
後付け、成功した場合の表現になることが大方である。

当たり前に言われることとなったが
機会は巡ってくるものではなく、つかみ取るもの。
やはり、自らの行動そのものが機会につながるのではないか
と言い切れる気がしてならない。

機会の平等というが
平等に機会を渡されることは
能力主義、自由市場ではあってはならないことだと思う。
機会を得るための情報収集、
自分の実績によるコネクション、
どこにでも参画できる行動の自由、
があるのだから、機会は自分の行動そのもので得られると思う。

時勢のせいにして、自分の行動を反省しないことはしないように
日々、機会を作ることを意識していきたいと思い、
情報収集、いつでも行動に移せる下準備は欠かせない。

そういう意味では機会という意味を、僕は
「いざ鎌倉」
と同じ意味に感じとってはいる。

2009-11-18

在庫

物が会社に残っていること
といえるが、よりビジネス的な表現をするならば

付加価値をつけた会社の販売商品が
市場の需要に対して、供給過多になっている割合

とでも言おうか。

在庫は景気ともに認識と扱いが変わる。
好況のときは
すぐに引き合いに対応できるように
在庫を抱えていないとならない風潮がおきるが、
不況になると、
生産調整、倉庫管理費の問題で
必要な最低限の在庫しか欲しない。
企業論理でいわれる、適正在庫の話になる。

景気と並んで時代、技術の進化により
今の在庫の概念はまた変わりつつある。
商品サイクルの短期化により
短い期間でしか、その商品をさばくことができないものや
購買の多様化によるロングテールでの販売で
いつまでも古い商品が小規模で売れ続けるということが
出てきて、ビジネスモデルにより在庫の認識も多様化してきている。

在庫という認識もそうだが、
在庫=その会社のビジネスモデルでの付加価値の具象化
とみなして、在庫の有り様から
自らのビジネスを再認識する経営者も少なくないようだ。

僕の場合の在庫は
知財ゆえ、これをいかに加工、重要に結びつけるかが目下の課題だけど。

2009-11-17

立止

立ち止まる。
僕が法と現代社会の乖離を感じる行動の一つである。
立ち止まった前の存在にぶつかった側が前方不注意で罰せられる。
それは、交通およびビジネスの契約にも応用される概念だ。

しかし、立ち止まる方が悪いのではないか?
そもそも、歩道を歩いている以上、前方に進むことが前提あり、
その歩道の途中で立ち止まること自身が逸脱行動ではないかと感じる。
もし、止まる理由があるのなら、歩道から外れて歩く流れのないところに
移るべきだろう。
いきなり、立ち止まってしまったら、後続の存在に失礼だと思うのに
後続の存在が罰せられることになることに欺瞞を感じる。

それは交通だけでなく、ビジネスにおいてもだ。
ビジネスは時間が勝負であるのに、
決断や判断を曖昧にした側より
それを煽った側が煽り方という行為で罰せられる。
煽り方という点で責められて
判断の遅さにより機会損失は全く罰せられない。
価値の流動性や社会貢献ということへの背任だと思うことすらあるのにだ。

このような点について
深く考察すること自身、社会ルールから逸脱しているかもしれない。
一つ言えるとしたら、
権力をもつものが行うルール制定とは既存ルール違反そのものである。
つまり、ルール破りは権力の前では違反行為ではないということ。
たぶん、この手の発想した人間のアクションにより
ルールは変わっていくんだろうなっと思う次第。

2009-11-16

段階

能力などの差によって順々に設けた高低のくぎり。
等級やスキルアップにより、
個人や組織を高めていくために必要な差別。

あえて差別という表現を使うのは
役割の明確化
昇段した際の自覚、達成感
を促進させることがとても希薄な感じをうけるからである。

昇進、昇給には
それに見合う他人と差別されるくらいの実績
およびこれから自分が負う責任、責務を
自覚することが求められるのである。

能力主義という制度に則るのであれば
その段階に伴い、求められる実績、およびその責務に対して
応えることが求められる。
好きなことだけ、得意なことを
段階の基準なく行うことは能力主義とは違った概念である。
また、それに伴い、段階に見合わない成果ならば
降段も定義にしたがい、行うことを覚悟しなくてはならない。

それは僕とて同じ基準で考えないとならない。
率先垂範
自らの経営者としての段階に見合わないから
地位に見合う、レベルに生活、行動を落とさなくてはならない。
それは忠実に実行してこそ、
社員に示せると感じている。
それゆえ、自他共に厳しくなり、
その分、達成感を共有できるはずである。

2009-11-13

役割

集団内の地位に応じて期待され、
またその地位にあるものによって学習される行動様式。
社会的役割

と定義されているのだが、
役割というものは、別に人に帰属するだけではなく、
動物、建物、そして機能というものまでに使用できる。

僕の思う役割の定義は

前後関係をもち間柄において、
その存在の行為が前に行為およびそれに続く行為に
有意義かつ効率的につながること

だと思う。

役割と言うものは
個々では存在せず、
他の存在と対峙して、そのその役割が発生する。
役割とは別の存在を活かすために存在すると考えるべきだと思う。

その発想にたち、
いざ自分の役割について考えるならば、
視点は今自分のできることよりも
今自分と接しているそれぞれの存在との関係をもとにしなくてはならない。
それゆえ、役割とは自分以外の存在との接点分、無数にあると捉えるべきである。

2009-11-12

消費

現代社会において、消費ということは
「お金を使う」ということに他ならない。
高校時代から、経済を学んできた僕からすれば、
お金を使わないと、経済は活性されない
ということを知っているので、
使ってこそ、また入ってくると思っている。

金融政策的に考えれば
法定準備率に連動したりして、
マネーサプライにつながるので、
自分が使えば、使うほど経済が回ると思っている。

倹約、節約、省エネ、価格破壊という言葉が蔓延しているが、
それにより、消費によるマネーサプライの低下が
不況を呼んでいるのかな?って思うことはある。

自分の好きなものを買ったり、
多少無理しても、自分の欲しいものを買う
それは決して悪いどころか、
貨幣流動性を高める社会貢献だと思う
価値観、社会認識を広めることも
会社、経営者としての仕事だと思うし、
それに見合う、給料支給を心がけなくてはならないと思っている。

2009-11-11

雨天

雨の降る日というものは
古今とわず、イレギュラーとして日本では扱われる。
それはいい意味でも悪い意味でも、

昔であれば、
干ばつに対しての、恵みの雨として利点もあれば
大雨により、堤防撤回という治水による戦いという経緯もある。
今も同じで
晴れ続く夏は水不足を呼び、降水の必要性を願い、
大雨が降ると交通ダイヤの大幅乱れで、経済効果への悪影響が発生する。

雨による人間の心理状態については
あえて言及はしないが、
雨をレギュラーと捉えて行動したり、
雨のイレギュラーをあえてうまく転用できるように
模索することを一つ考えてみたくなる。

晴耕雨読
雨の時ほど、
何か新しいアイデアや見識を高めて
行動できる晴れの日に活かすアクセントに捉えたいものだ。

2009-11-10

消毒

アルコールには殺菌効果がある。
これはこれは一部常識的になっているが、
そのアルコールを精製している根本は、、菌である。

毒をもって毒を制す
ではないが、菌によって作られたアルコールで
別の菌を駆除していると表現できる。

生物は別の生き物における自然界の営みを
うまく利用して、生存してきていると感じざるおえない。

その発想をうまく自分の企画に展開できないものか
って考えているがなかなかうまくはいかないものだと感じている。

もっとも、毒をもって毒を
というように、前者の毒すなわち制されるものになる可能性は
リスクとしてはあるのだが、
自分がどんな毒かもわからないよりはましと思う気持ちを前向きに捉えていきたい。

2009-11-09

蓄積

目に見えない形而上の事象の蓄積はどうやって測れるものか?
目に見える存在は、測定単位基準である程度、客観的に測ることはできる。
そして、その蓄積量については、
どれだけ、市場、社会から自分の分と切り離して所有しているかを
推し量ることもできる。

しかし、形而上のもの、技術、知識、のようなものの蓄積表現は
目に見える形而下の存在と全く逆の論理になる。
測定基準がないから、蓄積量もわからない
蓄積量は社会から切り離しているというより、社会に貢献していることにつながる。

組織として
技術力、知識量、等を対外的に誇れるようになるためには
自薦ではなく、他薦という、自分らではない人たちからの評価が
ある意味、組織としての蓄積量の評価になるといえる。

そのためには、
自分たちの形而上への取り組みを
体系だてて、各位が理解して
そして、外部の人間に対して、
各位が組織として定まった手順、説明を展開できるようになっていることと思う。
その枠組みがあるからこそ、枠組みだけに
’こぼれない’のではないかって心身ともに感じる。

2009-11-06

強化

簡単かつ頻度よくつかわれやすい言葉である。
いろいろな場面で改善、改良を行われる総称として使われる。

強化するということは
多くの場合、何かが弱化することにもつながる。
例えば、
特定の筋肉を鍛えると
その周りの筋肉、骨に負担がかかり、怪我や炎症をもたらす。
事業分野の改善には
人事、投資への負担を他の事業分野が受け持つので
負担した事業分野の成長を阻害することでもある。

強化することは
ターゲットを絞って
その方向性に注力することであり、
その際に、それ以外の方向に向いている力の
どれを切り離して、ターゲットへの力に変えるか
を考えることも大きな要因ということを忘れてはいけない。

2009-11-05

詳細

細かくすることとされるが、実際のこの言葉の用例はずばり、
確認しないこと
といきれないか?

詳細なマニュアル
詳細な注意書き
詳細な約款
詳細な、、、、

とされるもののは、実際目に触れない、
あるだけで確認しないものと言える。

人間は根本的に横着かつ都合がいいことでしか生きられない動物であるから、
できるだけ、効率化を旨に、詳細な事象には目を向けないのが実情である。
とりわけ、詳細な文書の多くは
本来の目的である’呼んで理解してもらう’ということから
’何か問題があったときに言い訳できる’という
読み手より書き手のために詳細になっていることが現実である。

実際に詳細な記述を書く際に
できれば、本当に読み手に伝わりやすい
書き方を日々考えること、これが仕事における’思いやり’の入り口かもしれえない。

2009-11-04

目的

目的とは何か?
達成目標?
現代社会において、定義を改めるとしたなら、

次の行動を誘引させる今回の行動の意義

とすべきだろう。
自分の行っている活動は
いったいどんな行動を成立させるためのものなのか
その意識こそ目的意識だと定義できる。

成果物のレビュー、品質管理を行う際に
・誤字脱字
・内容印象
を論じる際に、その中心概念は
この成果物とされる物体を受取った人物が
この物体をどう利用して次の行動を行うか?
それを意識すれば、
おのずと、目的の重要性、その次の行動を意識した成果物の確認になると思う。

確かに、
この目的の意義に気付くまで、
僕はかなりの時間がかかって、
多くの関係者と意思の疎通が悪かったが、
この気付きによって、
自分なりのレビューの仕方、接し方に基準ができたと
今は思っている。

2009-11-02

疾病

インフルエンザが蔓延している。
インフルエンザは身体的苦痛だけでなく、
その人材の存在、パフォーマンス、影響度による
社会活動の停滞を導いてしまう。

現時点において、
不況ゆえに、得意先、自社社員、仕入先がシームレスに役割を実施して
経済を回すことが重要であり、それが少しでも遅れることで
多くの経済効果を失うことになる。
その役割担当者は不況ほど、属人的な仕事を求められるからこそ
病にかかることは大きな損失になる。

現代においては経済効果であらわされて
いかにも近代的な発想に聞こえるが、組織における疾病への管理は
古今東西、行われている。

徳川家康の兵は、食料配給と同時に、
しゃぼん、つまり石鹸を渡され、体を洗うことを強制された。

ナポレオンは軍の進行において
ペストを意識して、負傷兵に感染者も含めてカウントしたり、
感染地を焦土化させたりもしている。

日露戦争で兵士の整腸に貢献したのが正露丸である。

疾病も一つのイベントとして
リスクマネージメントを常日頃から考えていないと
組織は盤石にはならないと
身の回りで病が起こると切に感じる。

2009-10-30

支援

多くの人の営みにおいて、支援と代行が曖昧なまま行われている。
作業支援と言いながら、
実質は支援している人自身がその作業をしていることがある。
また管理支援といいながらも、実質何もしていないという
現場のクレームある。

では支援とはなんだろうと感じる。
辞書としては
「他人を支えて助けること」
となり、言葉すら曖昧な表現になっている。
漢字の成り立ち、語源からいえること
そして、現代における用例をみれば
支援とは

他人が行いたい活動に対して
行いたい活動とその次の活動が
連続してできるように
準備、強制させることであり、
他人が行いたい活動自身を行わないこと

と言える。
支援をする目的が、当人の自立であることは
言われずとも明らかなことであり、
その自立を促すためには、その活動を取ってしまっては悪行となる。

そう考えると
支援という行為は実に難しい。
実際、自分がやってしまえば早いのに
という思い、行動を抑えて、他人が出来るように
あたかも非効率に振舞うのだから、
支援活動を考えて実行するということは本当に頭の下がることだ。

2009-10-29

文章

うまい文章は、
どれだけ多くの文章を書いたかより
どれだけ多くの人に向けて書いたかだと確信している。

文章を書くということは
読まれることを前提にして書き始めなくてはならない。
つまり読み手にどう理解されるかを意識して
構成を考えなくてはならない。
記した文面の数倍、推敲文章は脳裏によぎっていることになるはずだ。

僕自身もこのブログで多くの文章を書いてきてはいるが、
表現的に気をつけようとするのは、
このブログというより、読み手となったときに
読解しづらい内容を受けたときだ。
書き手側は自分が知っていることが前提で書くが
読み手側はわからないし、検索では出てこないこと
・いきなり出てくる人物
・中間検討活動の省略
・自分の活動範囲内で使われる専門用語
は読み手を混乱させる。

この手の文章の読み手になって初めて
自分が書くときはその点を意識しなくてはっと思う。
うまい文章を書く前提は、
読みやすいこと、そしてその文章から動きがイメージできるもの
であり、気のきいた表現技法はその過程で出てくるにすぎないと思ってやまない。

2009-10-28

権利

権利、権力の<権>という文字の意味が解るだろうか?
知っているようで、知らない漢字の一つと言える。

現代人に<権>を解りやすく言うとしたら、
仮、ヴァーチャルといえば伝わるかもしれない。
昔の表現だと化身と訳される。

権力:力みたいなもの
権利:利益をえたみたいなもの
権現:人の世界の現れたときの神様

実際のものとはちがうが、
あたかもそれと同じ効力があるということである。

わざわざこんな遠回しな表現を用いずともと思うが、
この行為自身が人間たりゆえんと言える。

<権>という表現を用いて、
現時点に存在しなくても、その存在を肯定することで
話を進めたり、解決を定義することが人間が行える
知的活動といえる。
これは<権>という東洋でなくても
<X>という不確定要素での論証は西洋科学でも用いられている。

だから最近ふと思う。
「解らない」
「できない」
ということは人間の知的活動ではない。
「<権><X>という不確定要素の前提で考察したら」
「<X>で進めたら、<X>は逆説で存在がわかりました」
ということが本当の知的活動といえる。

教えてもらっていない
出来ないという理由での活動停止は
僕としては人間らしからぬ活動とみなしてならない。

2009-10-27

視野

見える範囲。
でも多くの場合は視力ではなく、行動範囲だといえる。
僕は視野を3Dで捉えて、社員教育することにしている。

縦  :並行して動いている自分が行っていない活動
横  :自分が影響を与え、受けている人間の存在
奥行き:過去、現在、未来

自分の存在というものに対して、
視野の意味では自分自身全体を見ることはできないし、
過去と言うレベルでは、写真等により見ることはできるが、
将来を見ることはできない。
制限された視野という前提にたって、物事を捉えるようにする。
そう考えれば、自分の行動を他人がどう見ているか、
逆に他人の視点にたち、いろいろと目の届かないところを
見てあげるという視野的な補完が相互作用すると確信している。
それは何も見える視点だけでなく、
考えること、行動することという点にもつながり、
見えていない将来についても、
今はどう行動していけばいいかがわかり
ひとつひとうの行動が未来の道しるべになるだろう。

ゆえに、管轄下のものとこの論点で話すときに
見えないという劣等感を感じるなら、
一歩引いて、見えていないという自覚と
それをどう見てもらうかという思いを持つ方が
よっぽど建設的ではないかと叱責することを心掛けている。

2009-10-26

小言

咎めの言葉。
叱る、怒ると酷似している意味合いをもつ。
小言を言われる側はいい思いはしないのは人間の常だが
その小言を言う側の立場として、
多くの場合、
言われる側の人間より広い視野、重い責任をもってのことが多い。
そして、忘れてはならないは
小言を言われる側に対して
小言を言う側は改善責任、義務をもっていてことだ。

社会である以上、
他人と関係しあって活動するものだからこそ、
叱り、小言のような
内的攻撃反応も示さなくてはならない。
もし、社会性を否定すれば
叱り、小言はなくなり、攻撃的発言になるだろう。。。

あれ?
最近の社会って、
もしかしたら、個人主義過ぎて、自分以外攻撃姿勢なのかなあ?
だから、多くの場合、無責任主義になるのか、、、

2009-10-23

寒冷

寒い時期になってきた。
寒いという言葉と
冷たいという言葉とは
語彙は同じ低温度を示す言葉なのだが、
日本語も英語も使い分けをしていることが読み取れる。

寒い、cold は
空気に使われることが多い。
物理的な空気である、気温に対してだけでなく、
雰囲気、atmosphere にも使われる。

冷たい、cool は
直接、主観的な感覚に用いられる。
触ってみての皮膚感覚もそうだし、
直接対話により切れ者とわかったときにも用いられる。

寒い時期には動物は縮こまる。
人間も例外なく、
活動エネルギーの消耗を抑えるために、動かなくなる。
だったら、それを逆手に
みんなが動いていないときに、空気を読まずに動いてみる。
動けないなら、be cool 頭をうまく使う。
できるだけ、逆を意識して動くことに
活路があるのではって思うことが多い昨今といえる。

2009-10-22

循環

一連の変化の過程を繰り返すこと
医療の世界では、心臓、血管系をあえてこちらの表現にしているそうだ。
経済の世界では、金融は市場経済の血液としているように
資金の流動性が経済循環、景気の潤いにつながる。

自然界において、万物は流転するという言葉のように
停滞は好ましくない。
とはいえ、行ったまま、送りっぱなしという状態だと、
流す行為自体が出来なくなってしまう。

循環として流れるためには
・流し続けられる担保
・流すことで得られる利益
・循環しているということによる自己の存在意義
というものが必要ではないかって感じる。

これを念頭に
組織内情報の循環
社内資産活用の循環
等も考えていかないとならないと思う次第である。

2009-10-21

生地

手を加えていないもとのままの性質。
生まれつきの性質。

材料がいいから、
加工がうまいから、
どっちがいいか、という評価はしづらい。

国家歴史の観点から具体例を出せば、
イギリス料理とフランス料理がある。

イギリス料理は
ビーフの質が高いために、
ローストビーフのようなそれだけでおいしい食生活だった。

対して、フランスは国土、作付面積にわりに
おいしい食材に恵まれなかったため、
生地を引き立てるさまざまなソース作りを行った。

結果、
イギリス料理というものより、
フランス料理というものが、
味にレパートリーや素材を生かす調理法とされている。
しかし、ローストビーフの存在により
イギリスの食文化の貧富の差異はそう大きくなかったと言われている。

生地がいいと下手に加工しなくても大丈夫だから、
他の行動に注力できるという考え方もある一方、
加工技術が発達しないと、歴史的に衰退するから
生地が悪くても、それはそれで享受しなくてはならないことも事実である。

これは、、人材集め、教育に通じるところであり、
組織の永遠の課題とも言えるなあ。

2009-10-20

挨拶

コミュニケーション開始の初動動作と捉える事ができて、
社会人として、重要な行動だと思う。

そうと解りながら、僕自身その行動に自信がない。
多くの行動に自信を持ちながら行っていることが多いのだが、、、

実はこれはトラウマということはずっと解っている。
学童時代に挨拶が丁寧にできる子供だったのだが、
あるときに、きちっと挨拶したときに
おばさんから、
「何この子?冗談じゃない!」
って言われて、相当傷ついた。
今思えば、ヤンキーママの走りであり、
正しいことを受け入れないおばさんだったのだろうが、
幼少期の僕の気持ちにはそれはきつい結果だ。
だから、心から挨拶しても
相手に嫌がれるという感情が未だに残っていることは
もう一生ぬぐえないだろう。
「三つ子の魂、百まで」 とはよく言ったものだ。

だからと言って
挨拶をしないわけにはいかないことは解っている。
三つ子の魂のあるように、社員や若者が僕を見習っては困るからだ。

できるだけ、相手の状態、行動経緯を伺い
相手と同時に挨拶ができるように
行動を調整するように努めている。

挨拶は
コミュニケーションの初動。
それは、相手だけでなく、その周りにいる若者たちに対しても
見習うべき行動でのコミュニケーションの開始とも捉えるようにしなくては!

2009-10-19

純粋

混じるものがない、けがれがない状態。
プラトンで言えば、イデアにあたるものとも言えよう。

現実社会において、
純粋を求める気持ちがあったとしても
純粋なものを得ることは無理といえる。

存在、過程にて純粋性が失われることは想像できると思うが、
ほぼ確実に純粋性を失うのは
手に入れる瞬間であるからだ。

純粋なものを何のために手にいれるか?
その純粋そのものを維持するのは
手に入れる以上に、負担が大きいだろう。

僕は純粋なものを手に入れることもある。
素材、素体、人材など、いろいろとある。

自分がビジネスで生きているからこそかもしれないが、
その純粋なところから、
より付加価値を出すところに重きをおいている。

・何もされていないから
・何もついていないから
・何も教育されていていないから

これは
即時性においてはマイナスだが、
不要なものを削除しなくていいという点では長所である。

物事の捉え方を逆にしてみることが価値を見出す一歩かもって感じる。

2009-10-16

計算

数を数えるという意味もあれば
結果、将来予測をする意味と幅広く使われる言葉と言える。
計算とは自然界のルールでの行動積み上げといえる。
数字のルールは四則演算をそのルールに基づき、実施して答えがでる。
計算で出た答えの多くは、これから行おうとする物理の世界の予測である。
「冷蔵庫に2個の玉子しかないので1ダース買ってきても冷蔵庫、玉子置きにおける」
ということは、
残りの玉子 + 1ダースの玉子 ≦ 冷蔵庫の玉子置き
という計算の結果での行動が始まる。
身近なものはそんなものだが、
複数人、多くの社会事象も上記のようにできるといえる。
そう、計算は行動前のシミュレーションといえる。

シミュレーションは本番ではないので、
自由かつ何回でも行うことができる。
ある意味、ヴァーチャルな経験ともいえるが、
そのシミュレーションをどれだけできるか、
精度よくできるか、
それが、計算高い人っていえる。

計算高いって、こう言われると
悪いイメージよりも
結構、地道な活動の賜物だと感じる。

2009-10-15

方法

ある目的を達するためのやり方。

組織、事業性について教えをもらった中、
生産成果物が耐久財、消費財ではない会社は
方法論を持つべきとの話を賜った。
確かに、そうだと思う方法論は、会社の骨になる。

あるときは、セールストークのネタに
あるときは、仕事のスコープを守る防御壁に
あるときは、会社員の行動原理の教本に
あるときは、行動実績が昇進、評価基軸に

とあらゆる会社の骨になる要素を持っている。
小さく起業ばかりの会社だからこそ、
それを今のうちに準備、仮制定でもいいので
運用をし始めることがこれからの会社の方向性を示すことになる。

されど、いきなりは方法論という大全を示すことは
創作時間
社員の理解、吸収時間
から考えて、無茶なこと。

ひとつひとつ
行動定義
共通表現
行動前後関係
を繰り返して、説明して
社員の頭の中にイメージを作ることが
今の僕の活動だといえる。

その結果、会社としての方法論体系がまとまれば
それが今後の課題、、目標と捉えよう。

2009-10-14

語彙

言葉は進化、変化する。
例えば、メールと言えば今では多くの人は電子メールを連想するだろう。
でも、自分の幼少期は叔父が海外赴任だったので、
メールといえば、エアメールのことをずっと連想していた。
しかし、根本的には、メールとは手紙であり、
手紙は手紙として、日本人はメールとはあまり呼ばない。

外来語、専門用語が横行している現代社会において、
和訳すれば、同じ事象を差す言葉だったのだが、
進化、用例の代用が本採用になることで意味が変わることをある。

そこで僕はとても大切にするのは、
その言葉の本来の意味であり、
そして、その言葉どうして変化したのかを
常に意識すべきだと思う。

言葉の語彙を丸暗記し続ければ、
それは永遠の作業になるし、新たな意味の理由がないまま
同音異義で覚えなくてはならない。
でも、その元の意味を知り、どのような理由で意味が派生したのかを
リンクして理解すれば、その真意をつかむことや
今後の派生、そして、聞き洩らしや確認すべき論点の差異はなくなるといえる。

日本語、外来語に関わらず
その元の語彙を意識すれば、
案外、言葉というものはそう理解に苦しむことも対象ではなくなるし、
それより、その人間がどう理解して使っているか、力量も測れるといえよう。

2009-10-13

知恵

「頭がいい」の代名詞。
しかし、日本人というものは
「頭がいい」
という一言で終わらせてしまうが、実際には、
どう頭がいいかが必要である。

英語の場合、知恵について
intelligence
wisdom
と分けている。
英和辞典では、両方とも知恵と訳しているが、
実際の語法、語用からは違っている。

intelligenceは、理解していること、それの影響を論じられる。
wisdomは、解らないことを応用実証する。

日本人はそのことを理解していないけど、
感覚で解っている。

現場を知らないディスクワーク、研究肌の人間を「インテリ」と呼んだり
新しいことを始めて成功したビジネスマンを
賢人=wise man と呼んだりしたりしている。

僕自身も知恵を身につけたい知的好奇心で
物事を理解したりしているが、
多くの場合、intelligence が多い。
立場、役割を考えれば
wisdom としての知恵を身につけたいがなかなかだなあって感じるし、
これは、思考錯誤の結果、
思考錯誤の時間はとめどないのだから、
僕はまだまだ、賢人には程遠いと感じている。

2009-10-09

爪噛

癖の中でも自傷行為に位置づけられる爪噛み。

爪噛みの行為は、
親などからのプレッシャーに対して現れる怒りや攻撃心を相手に表現でず、
自分に向かって表現した結果、
自己破壊的な行動になってしまったことを意味するとされる。

僕もその癖は抜けない。
でも、この癖は幼少期になかった、、、いや対象が違った。
幼児性アトピーにかかっていたのは
この自傷行為だったのではないかと今は感じる。

根本的に僕自身、フラストレーションの塊と思っている。
確かに、他人からみれば、自分の目標に向かって
それなりのカタチを出してきているように見えるかもしれない。
しかし、それは結果、軌跡であり、
当の本人からすれば、
目標達成しているときには、
すでに違うものが見え、
それに対して満たされていない自分への自傷行為に走っている。

世間で言う前向きであったとしても
決してポジティブではなく、
前が見えてしまい、そこに達しない自分への怒りで行動を誘発している
その誘発が、、、爪噛みなのかもしれない。

2009-10-08

偏見

偏見と信念はほぼ同意とみなすべきである。
言葉として、耳障りの基準で見れば方向性の異なる言葉かもしれない。
しかし、根本的な主旨は

自分の思うまま、他人の意見が入る余地がない

という点に尽きる。

偏見を持つな
信念を持って生きよ

なんてことを聞くと、論理矛盾にしか聞こえない。
こう書くと
「そんなのお前の思い込みだ、正しくは、、、」
という反論も想定できるが、
それこそ、また、自分の思い込みである正しさという偏見ではないかって感じてしまう。

人は根本的に偏見の塊であり
その偏見に対して、懐柔をしていくことが会話であり交渉である。
そう考えれば、少しは交渉するときの心のクッションになるのでは
っと思う次第である。

2009-10-07

正義

正義とは、、、いわゆる信仰、宗教のひとつといえよう。
自分が正しいと思っていても、必ずしも他人がそれを正しいとは思わないだろう。
自分の信じるものが正義であり、
他人が信じて行っている行為において、自分の信じるものと相いれないのが悪だろう。
この発想こそ、信仰信教の世界に通じる。

そんな馬鹿なって思うかもしれないけど、
古来から最近まで行われている、戦争はその発想の塊だ。

戦争の大義名分は、正義を論拠した立証である。

仕掛ける側は、平和を乱す行為の脅威への報復のため
請ける側は、国民全員の安寧を取り戻すため

であり、互いが正義を立証している。
そう、当事者間では互いが悪である。

どっちが正しいとは一概に言えないと思う。

それは、信仰においても
どっちの神様のほうが偉いの?
っていうのと同じと言える。

そして虚しいのは
その正義を第三者が批判すると
その第三者もまた、当事者から悪の認定を受けることだ。

正義と言う名目がある以上
他人誰でも悪と言う病気にかかっているとみなし
排斥、改宗させようとする可能性がある。

正義論はいわゆる、精神伝染病ともいえる。

だから、僕は基本的は正義というものは判断基準におかないようにしている。
信教の自由は国民の権利だからね。

2009-10-06

発言

言葉を発した時、いや発するときに
自分の意図するところより
相手にどう捉えられるかを強く意識しなくてはならない。

自分としては、ちゃんと話したつもりであっても、
それが相手に伝わっているかどうかが
その発言の真意である。

「ちゃんと説明したのに」
「なぜ伝わらないんだろう」

ということより、

「相手の関心は今はなんだ?」
「言葉の意味定義は共通しているものだろうか」

があまり意識されてないような気が現代には感じる。

言語で他者とコミュニケーションをとる動物でありながら、
その言語が複雑になり、コミュニケーションという
動物の進化の産物がかえって、ストレスになっている人間。

コミュニケーションである発言は
<他者に意思を伝える>
ということであって、他者ありきであることを蔑ろにしているからではないか?
他者に伝わってこそ、発言した意味があるわけであって、
発言すればいいやでは、奇声をあげていると変わらないということを
もっと自覚しなくてはならないと思う。

2009-10-05

緩急

緩急自在、緩急をつける
というように、緩やかと急ぎを組み合わせて行うことといえる。

持論なのだが、
仕事はこの緩急の切り替えのタイミングが重要だと思う。
人間の集中力は短い。
その集中力を持続させて、高いパフォーマンスを求めること自体が
非人道的と思っている。
でも、現代社会は時間清算主義ゆえ
常に高いパフォーマンスを求めてくる。

高いパフォーマンスを出すための準備期間
いわゆる緩い時間も必要である。
それが、コーヒーブレイク、喫煙タイム、昼寝でも
それは有意義だと思う。

いくら時間を使ったとしても、結果が出るとは思わない。
緩急の中、ふとした事が新たな思いと集中力を呼び覚ましてくれることがある。

これは、自然界でも同じあり、
鉄の鍛造は加熱と冷却の繰り返しで丈夫な鋼を作るのだから。
今の時間清算主義は、たぶん加熱一辺倒だろう。
だから、それらしいものが出来上がるが、もろく、実用性に耐えられない。
冷却という一見、生成とは異なる過程をえるからこそ
強靭で実用的なものが生まれる、そう感じてならない。

仕事に対して、その気持ちで挑むことを常に言い続けたい。

2009-10-02

未解

解っていないいない不安要素が明確なこと。

尊敬してやまない僕の親方の意見は

「わかるところは後回し、もしくは任せた輩が助けを求めたときに
 行えばいい。その方が自分の価値を高めてくれるぞ。
 今やることは、わからない事象をいかにわかりやすく切り崩していくかだ。」

多くの人間は解らないところを後回しにして
出来るところだけをやるようにする。
現在の日本の教育の典型例だといえる。
しかし、ビジネスの社会においては解らないことを後回しにすることは
問題を先送りしているだけで、時の利益損失になったりするだけでなく、
解っているから行った行為も解らなかったことが解析されると
影響を受けて手直しをすることになり、返って工数が発生してしまう。

それに、社会人としての成長、ステップアップと口にしながら
解っていることばかり行っていることは論理矛盾ではないのか?
解らないことに挑み、克服することがステップアップだろう。

解らないということに対して、
アプローチを複数、効果的な汎用性のあるものを
どれだけ持っているか、それがポテンシャルといわれるものではないだろうか。

2009-10-01

作戦

現代用語でいえば、準備のことと言えるだろう。
文字通りで考えれば、戦(いくさ)を作るという物騒な言葉なのに
気軽に
「作戦を練ろう!」
って使われ方をしていることを考えれば、上記のとおりの意味になるだろう。

正式には作戦とはこれは戦略にあたり、
行動企画に位置づけて捉えるべきである。

何事も行動企画をもって当たるべきなことは
PDCA等の活動改善にもあらわされている。

ことに最近はその作戦とされる行動企画が無策化している。
それは情報が多すぎて、それだけ考えても結論に行きつかないとか
どんなアイデアでも、批判される
という
情報社会化
意見の平等
という近代社会の恩恵が逆に弊害になっているとされる。

はたして、そうだろうか?
作戦を立てて実行して、その結果をみて次の行動をまた行う。
それこそ、行動企画ではないだろうか?

作戦は行って初めて、作戦を行ったって言える。
何もしないで、ただ作戦を練っているそれは妄想にすぎない。

いろいろと考えて、時間になったら行動する。
そしてその結果もまた次の作戦に向けた情報ソースとしていく。
それを意識するだけで、行動を反省して、次につながる前向きに見解だと思う。

2009-09-30

候補

人に質問する際に準備しなくてはならないもの。
多くの人間は、事象が捉えきれていないときに<what>で質問する。
しかし、これはおかしい。

事象が捉えられていないどころが
質問者自身がどうとらえているかを理解しないと
回答者はそれなりの回答はできないことが常だ。

新生児が社会にさらの状態で生まれた状態での質問ではなく
現時点に自分が存在し、質問しなくてはならない状況になっているということであれば
質問する際には<what>ではなく、自分なりの見解を問いかける<which>で
自分なりの正解の選択肢を持つべきだ。

その<which>の選択肢も思いつかないという意見があるが、
それは本末転倒で、質問する内容自身が間違っているのである。
自分がどこまで、理解していて、その選択肢をどうとらえているか?
それをひとつひとつ確認して、次のステップに進まないと理解できていないことになる。

自分の質問の多くが<what>の人間の多くは
その質問の回答をもらったところで、理解はしていなく、
また同じことで<what>の質問になるだろう?

僕から言わせていもらえば
<what>の質問をする輩、その存在自身がwhat is ○○ ?

2009-09-29

志向

人生におけるアウトプットのカタチではないだろうか。
いろいろと学び、いろいろと行動、活動をする。
その際に人間はどんな人間になりたいか、
その目標を持って生きていくことを求められる。

そのなりたい姿とは、
ある意味、人生における結果の産物、アウトプットといえると感じる。

志向自体はその目標になるためのプロセスのひとつ
と捉えることもできなくはないが
なりたい姿に対して志向しているといえるので、
結果そのものと感じる。

最近、多くの人間、とりわけ社会人は志向を持たなくなっているって感じる。
人の器の悟り
業種業態、組織論による抑圧
があげられるが、
それでも、自分はどうなってみたいかを
他人に言わずとも、内に秘め、そのために行動をとるべきと思う。
その思いが
今の仕事が嫌なものでも、希望としての逃げ口に
行っている仕事が将来の自分の目指すものの礎に
ということで、モチベーションに変換され、自らの気持ちを整理できるのではないか。

2009-09-28

批判

批判を多く受けていることが、歴史上の成功になっているといえる。
批判=成功とは必ずしも言えないが、
成功された側からすれば、そう感じると思う。
・行動を起こせば、それはダメだという偏見
・少しでもうまくいきはじめれば、成り上がりという陰口
批判をどの時期でも受ける要因をもっている。

人間の多くは
批判に対する耐性はないが、
批判の論理を組み立てることは容易にできてしまう。
することは得意でされることは嫌だということである。

でもこれは発想の逆転に使えることもある。
批判の論理を受けて、その組み立てを解析すれば
その批判をうける内容こそ、いろいろな起点になるのではないか?

起点から、改善案、躍進案を見いだせることが、次の成功を呼ぶともいえる。
成功の裏に批判あり。
その意味は、批判に耐性があるという意味ではなく
その批判をどれだけ、次の一手に変えられるか等の
他人には気付かない視点を行動力があるということだろう。

2009-09-25

改善

改めて善くする、、、
本当にそうだろうか?

業務において、改善という言葉が飛び交うが
「改めて」という表現のように、今の業務を批判できるだろうか?
「善くする」という表現のように、どう善くなると明言できて行っているだろうか?

最近多く見るのは、
改善策への改善策がある。
こうなると、何を改善させているのか、わからない。
強いて言えば、今の社会が何を行っているのかわかっていない縮図みたいなものだ。

改善には、必ず対象と目的が明確になる必要がある。
そして、その対象と目的を関わる人間全員の理解、認識がないとならない。
それをどれだけ意識できるか、
もしくはその改善が目的と異なるならば、
その異なることを明確化、その軌道修正が求められる。

軌道修正をしないで、改善をすすめるから
改善がいつの間にか、
ルーティン化そして、
そのルーティンと化した改善への改善というおかしな事象を導くのである。

改めて善くする

言葉の意味を理解、そして則した行動が必要である。

2009-09-24

鉛筆

電子化、画面の高精細化の発達により
ペーパーレスが進み、それに伴い、ペンの活躍することも少なくなってきている。
ペンよりも需要が少ない、鉛筆はもっと出番が少なく
教育、試験、製図という限定状況での使用になりつつある。

だが、IT化に身を寄せる僕だが
ことのほか、鉛筆(僕の場合はシャープペンシルだが)での記述にこだわりを持っている。
鉛筆類に対して言われる、硬筆がもつ表現力が好きだからである。

電子化、そこからアウトプットされる印刷物は結果しか表わせない。
確かに結果が重要であるが、
対人的な場面や検討経緯を重要視する場面においては
硬筆の持つ味わいは効果的である。

筆圧による思いの勢いの現れ
消した跡からくる推敲の様子

は見せる相手というより、
後になって自分が見返した時に
その当時の感覚をも呼び覚ますことができる。

結果が個別具体的に相手に提出されるが
過程は汎用的、永続的に自分の財産になる。
その過程は、案外忘れやすいものであるからこそ
硬筆のかたちで残すことは重要と思っている。

2009-09-18

偏視

人間が対象物と関係が悪化する根本。 無生物への一方向なら、好き嫌い嗜好のレベルであるが、 生物に対しては、双方向になり、人生そのものを決定する原因になりやすい。 とかく、人間間の思い込みというもの、、 もっと言えば、他人への/からの思い込みがその人間の社会生活そのものである。 思い込みの方向性と度合いが 双方一致の場合は、強い絆になるだろう、 しかし、 思い込みの方向性が違えば、不審、険悪 度合いが強ければ、裏切り、失望 を導くものとなる。 また思い込みは永続的ところが、 刹那で大きく変動するものであり、 今までの方向性、度合いにより、 その相対差で激しく動揺するといえる。 一般的には、それを恋愛等に例えるだろうが、 僕のような存在だと、人間関係の一つが恋愛であり、 主従、アライアンス、敵対、共闘、すべてにおいて、 この思い込みを制しなくては、対応できないと思う次第である。

2009-09-17

誘因

ある作用をひき起こす原因のことであり、
人間が問題を起こす大本と考える。

多くの問題の反省、更生、対策にふれているが、
多くの場合はこの誘因に対して触れていないことが多い。
根本的に考えれば、誘因に手を加えれば、
問題そのものの発生がなくなるはずなのだが、
そこへの対策はあまり行われない。

理由はいろいろあるが、
誘因を導きだすには、それ相当の器がいる。
・経緯把握
・行動洞察
・心理分析
・社会権力
に長けて、それを見極め、対応するのは難しいとされる。

しかし、、、これができて、
初めて優秀とされるのではないか?
偏った知識と偏った対策を多くの人間が行うが
それは、反作用になるとしか思えない。

結局、問題への対策自体が次の問題への誘因であり、
その対策を講じた行為、人材に対策を施すことがとても重要と感じている。

2009-09-16

魅了

大衆を魅了するということはとても高度なスキルである。
そんな大衆を魅了するスキルが長けている職業は対照的に
政治家と映画スターである。

この両方の職業の目的は
「不特定多数をある特定の時期、もよりに建造物に行かせる」
という点で共通している。投票所と映画館。

そのために、
世間的にいう本業活動と
売り込み活動であるプロモーションを両立させているその魅了スキルを巧み
磨いている。

しかし、思った。
世間で言う本業とされる行為は実は本業ではなく
プロモーション活動、そしてそのプロモーション活動で
いかに魅了できるかこそ、彼らの価値であり、
本業なのではないかと。

いくら本業とされるスキルが高くても
自分を支援してくれる人に有益行為を施してもらわない限り
自分は存在しない、、できない。

この点は多くの人間、社会人に共通することだ。
本業とされる、職能技術だけでは相手は魅了できない。
魅了して、有益行為を施してもらうプロモーション活動を
意識しなくてはならないことを常に意識しなくてはならない。

2009-09-15

弱者

弱いから弱者である。
そして、弱いという事実を認めなくては弱者ではない。
能力主義、市場経済は弱者を生み出す論理である。
決まった富を平等ではなく、分配することはその根本主旨だからである。
それなのに、負け組が弱者救済を訴える。
僕の中ではありえない。

弱者は弱者と強者にみなされて救済を受ける立場であるから
弱者であり、能力、市場に負けたのだ。
それなのに偉そうに、救済の声をあげるのでは、
能力があってもなくても、変わらないことになる。

弊社は弱者だ。
その自覚があるから、
なぜ負け組なのか、これからどう勝ち組に変わっていくのか
を常に試行錯誤を繰り返すことで、この能力主義、市場経済に
立ち向かおうと思う。
その考えに、救済を勝ち取ろうという気持ちはない。
弱者が強者に脅迫したら、
それこそ、ルール無用のChaosな社会になってしまう、、、、
もっとも、今はChaosそのものとしか僕の目には映らないが、
それでは、自分たちが強者になりたいという目標がぶれてしまうからこそ、
あえて、Chaosに触れないようしている。

2009-09-14

演技

他人とともに生きていくこと。
人間、本当の自分というものはないのだろうと感じる。
ある環境、ある集団、ある人物に合わせて
常に自分という存在を演じているのだと思う。

意識無意識のレベルはあるが、
気持ちの問題や表層行為で示せば、
敬語なんてものはその演じている立証とも言えよう。
自分の立場というロールを演じているのだから。

そして、一人でいるときは演じていないのではないか
って思うかもしれないが。
myself 自分自身に対しても演じていることになる。
「なんで自分はダメなんだろう」
「不幸な自分がいや。」
「こんな一人でいる自分はなんてさびしいだろう」
なんて心情はあたかも自分自身との対話だったりする。

本当の自分、演じていない自分を見つけることを求める人が多いが
仮説的に考えれば、見つかった本当の自分自身で何をするのか?
それがゴールならば、そこで人生の終わり、死滅か?
ならば、死滅するために自分自身を探すのかって思ってしまう。

ならば、いろいろな演じ方を学び、
演じている自分をどんどん多くすれば、
他人から気付かなかった演じ方という新しい自分を見出してもらえないのか?
他人に合わせて演じる目的は
自分自身がそうしたいという思いがあるということ、
それが本当の自分ではないかと思う。

2009-09-11

不眠

年をとればとるほど、マイナス要素で起きる健康障害。
幼少期は、翌日に控えるイベントで興奮して睡眠にはいれないことが多い。
でも、年をとり、いろいろと事象が理解、憶測できるようになればなるほど
不安と恐れで熟睡できない。

眠ることは、
脳内、体内のあらゆる機能の初期化再起動とみなされる。
それが不眠により、抑止されれば、PCと同じように
いろいろと弊害もでるのだろうと思う。

最近のPCは
スリープという機能で復帰を早くできるために、
落として、再起動ということは少ないかもしれない。

このスリープという機能と人間のスリープは
文字通り同一の機能とみなせるかどうかは
未だ僕の中では未解決事項であり、、
こんなことを考えるから、、、、、眠れないのかな?

2009-09-10

無知

たぶん、幸せなこと。

知るということは、
法律上は悪意であり、
哲学的には不安の種が増えること。

僕のように、いろいろと物事を理解してしまうと
知的好奇心の充実の代償に
知ったがための不安が累積してしまう。

知識と知識がリンクして、より不安になるということもある。

無知そして無謀なほうがいいときもある。
おもいっきりできるし、何も考えていないから
得られる結果は、文字通り、想像以上だといえる。

しかし、その無知の存在を身内にいるとした場合、
僕は、また’知ってしまう’から、
結局不安は尽きないのだろう。

2009-09-09

納品

この行為はゴールではない、
これから新しいことへのスタートである。
納品相手によりよい追加の提案を行う縦展開。
納品したものを、もっと多くの顧客へ勧める横展開。

こられの行為は、納品をもって次のステップとして始めるのである。
だから、納品すればいいではなく、
納品する行為を
いつ
どのように
するかを次のアクションと連動させて考えることが重要である。

納品して一息つく。
もっと後ろ向きに、
瑕疵担保責任からどれだけ逃げきれいるかという発想で
仕事をしていたら、品質が上がる訳ないのである。
既存製品、サービスの向上は
納品行為の後ろに隠れていると思うべきだ。

2009-09-08

基礎

事象の根幹となる要因、要素であり、
一番重要でもあり、そして学ぶものではなく、捉えるべきもの。

「基礎をしっかり」
という言葉がいたるところで耳にするが、
その発言がでていること自体、
すでに多くのことで傾いているというということで
行う活動は、基礎ではなく、補強、取り繕いの活動である。

基礎となることは、
座学や講義では理解できないものである。
多くの人間は基礎を学びたいって思っているが
基礎とは、その物質、思想、そして、それを捉える人間のしぐさそのものであり、
自らが自分の手や頭を使うって、納得するものであり、
基礎を俗の言葉でいえば、コツとも言えよう。

コツを知らずに、無理やり行動するから後遺症がでるのではないか?
そう感じてならない。
まして、多くの場合、人間は勘違いしている。
自分がコツをつかんでいなくても、
技術、社会制度、がその人材の無能さを隠すようにしているから、
結局、その人材は何も掴んでいないのである。

不祥事や障害時をよく見ていてほしい。
本当に動ける人材は、基礎を自分でつかんできた人間であり、
基礎を知らない人材は、責任転嫁だけになるという人間模様が見えるから。

2009-09-07

負担

権利搾取そのもののことになっている。
受益者負担という建前は、、、もうはや、、いや、
そもそも、受益者負担ということは存在しないのである。

負担というものの実際の使用例をもとに考えれば、
本来すべき人間が他人にかけてしまっているときに使われる。
・親の負担を子供に
・国の負担を国民に
という風に使われるが、その使用例の結果は
その負担への見返りが全くないということである。
つまり、負担は責任転嫁そのものである。

古来からそうであり、
臣下、臣民は王の負担を下げるためにという名目で
納税等を強いられてきたが、王はそれを当然のように受け入れている。
そして、現代は
老人は年金、介護の負担を
子持は育児、養育の負担を
国税に投げかけているが、その負担意識はほとんどが責任転嫁といえよう。

自助努力をせずに責任転嫁に走る行為はみていてあさましい。
少なくても、弊社は自助努力をしない社風は決して作る気はない。

2009-09-04

使用

「そのものは君に合わない」
「お前がそれを使うなんて」
という罵声?を聞くことがある。

ある製品を使用する際に、
その物の価値とその人材の今までの実績をみて
物>人材と思ったときに言われるとされる。

その発言からわかるように
物の価値を前提に、人材の適正を判断していることが多い。
しかし、その認識こそ庶民化された愚者の思想だ。

選ぶのは、物ではなく人間のほうである。
その物を選ぶ際に、少なからずそれを使える
財力
コネクション
があったわけであり、現時点その物を手にしている時点で
その物を使ってもいいはずである。
その物の価値は今までの先人たちの使われ方の結果であり、
常に変動していくものである。

そして、思う。
罵声?を口にする人材に限り、
その物を使用していない、、、使用する器にないから
そのような言葉がひがみとして出ているにすぎない。
もし、使用している人なら
「お前もそれを使うんだから、自らを高めろよ」
くらいに、物よりも当人の価値向上を使用行為に求めることになるからだ。

逆にいえば、
人の価値は使うものに合わせて、上がるものであり、
上がったからその物を使用するのではないとも言える。
いい物を知らず、まがい物、劣化物を使っていると
人間自身もまがい物のような
模倣行為しかできてないと現代社会を俯瞰してしまう。

本物を味わってこそ、本物を使いこなせるそれが
正しい使用方法と言い切れる。

2009-09-03

完璧

すべてを織り込んだ完全な状態、、、であるが、
森羅万象、なってはならない状態。

個別の事象として、完璧になることはできるが、
時間、環境は相対的に変化、流転する。
完璧ということはそれ自体で完成されているので、変更はない。
時代や社会についていけないということにつながる。

「完璧を目指せ!」
とものづくりに関わる人間は口にするが
完璧なものを作ってしまったら、
自分自身のこれからの仕事、そして技術的な成長がなくなってしまう。
完璧を目指すものであっても、達成する極みではないといえる。

顧客の立場からすれば、
完璧なものというオーダーになると思うが、
重要なのは、現時点で必要な要素を押さえていて、
この先想定されることへの準備対応の礎になるかどうかだと思う。


市場分析の資料によれば
「これさえあればOK」
というキャッチコピーの商品ほど、
毎年のようにバージョンアップしているそうだ。
なんとなく、矛盾に感じるがそれが市場であるし、
人の心情かもしれない。

個人、組織、会社として
常に完璧ではないという自覚を持ちたい。
何が完璧ではないのか
現時点で完璧に一番近づく手立ては何か
を常に意識すること、、、、成長と言い換えられると確信している。

2009-09-02

火消

火災を食い止めるという意味だが
現代では、悪化した仕事を片付けるために人的投入されることだろう。

火消しは能力が高い人材に白羽の矢が立つことが多い。
そして、これが日本において能力主義を逆転させている温床である。

日本は連帯責任を重視する、いわゆる無責任国家だ。
そのため、火消しを行う際に、
原因である人材への糾弾より先に
有能な人材を火消し要員として集めることが多い。
実はそれが問題である。

火消し要員がくると、
悪化させた人材は居場所を失う。
その人材は、そこから抜けていくのだが、
その人材にも原価がかかるので、
売上を上げようと新しい仕事につけてしまう。
新しい仕事だから、
今までと違うという認識で、仕事に当たるが
結局、反省や禊ぎをしてない人材ゆえ結果
また仕事を悪化させてしまう。

そして、また、火消しを終わらせた人材が
その悪化をまた
今までの火消しの実績をもとにされて
火消しを行うということになる。

仕事は無限ループになるのである。

有能だから、ステップアップするという夢は
その会社のビジネスのやり方ひとつで、
夢に人偏がつく、、、儚(はかな)いものになる。

「あの会社は社員に優しい」
という会社はえてして、有能な人材には冷たい、
なぜなら、無能な社員を甘やかす温床を維持するために
有能な人材を生贄にしているからだといえる。

少なくても、賞罰必須、
無能な結果に対しては必ず罰を与えないとならない。
これが、人材を確保する経営だと思う。

2009-09-01

確認

この意味は、現在においては、伝言ゲームの意に落ちているだろう。
「専門家に確認してきます」
「上司に確認します」
「一度確認してから、折り返し連絡します」
この言葉を受けたものとして、思うのは

「君はなんのために存在するんだ!」

当人たちは間違えないようにという思いだろうが、
間違えない=責任を他人に振っているだけ
にすぎないということだ。

職務分掌や業務の専門性が高まっているので、
自分の責任範囲という観点があいまいかつ限定的になってきている。
それはそれで業務の高度化ということで重要だが
それに対となる、個々人の専門化、総括化があまりにも低いなあって感じる。
確認という行為を繰り返していると、
結局は誰も責任を負わないという事実になることは明白だが
イメージがわかないと思うので実例をだせば

部下「それは上司に確認します」
上司「自分は管理職だから、現場は現場に任せている」


という会話は日常茶飯事で行われ、結果無責任体質になっている。
これは見ていて、情けなくかつ腹立たしい。

僕としては、専門性のかぶりが生じる非効率を容認しても
責任という行動実施義務と確認する際の主体的見解を示してからの行動を求めたい。

2009-08-31

刹那

非常に短い時間であるさま。
しかし、その刹那的な時間でビジネスは動いている。
コンピュータ処理の世界での高速化と思ってしまうかもしれないが、
それと同様、それ以上に人間間の交渉にもその刹那は意味を持つ。

こんな高速、性急な行動が必要か?って思うかもしれないが、
本当に性急に答えなくていいだろうか?
いろいろな問いに対して、
「ちょっとお時間をください」
「持ち帰って検討します」
という回答より、即時対応が相手の要求に応えることになるといえる。

刹那に応えることで
即時対応してくれた場合の対応により、
新たなビジネスチャンスの芽がでたり、
相手側は実施される前提で待っているのに、検討結果、拒否された場合の
時間的損失により、すぐに拒否して別のアクションを取ることによる
商機の流動、変動をえたりと
得られることは多い。

思うに、
高度情報化、移動、伝送時間の短縮を考えれば
いろいろと検討するという行為より
アクションおよびそのリカバリをどれだけ多く実行できるかが
現代ビジネスの主務ではないだろうか!

2009-08-28

筆記

文字に書きとめること。
IT化が広がってきているために、
長めの文章を直筆で書きつづることは激減してきたが、
筆記する行為自身はなくならないことは身の回りの
文房具を見れば明らかだと思う。

僕の恩師の一人の教えの言葉に
「現代人は思考するときに文字を介しないと何事も考えをまとめられない、
 だから、言語の教育は重要なのだ」
というものがあり、とても感銘を受けている。

最先端のIT知識、実活用を心掛けている僕の傍らには
お気に入りのシャープペンとクリップで留めた裏紙メモが必ずある。

IT等の技術を駆使して新しい価値を考えるには
そのIT技術だけを触っているのではなく、
その技術をオブジェクトと捉えて、どう活用するかを
図や文字で検討する作業を介しなくてはならない。

それはやはり、ペンと紙での書きなぐりが一番安易かつ効果的って感じる。
だから、逆に思う。
PCの前にだけ向かって、アイデアが浮かばないって発言する人間って
本当に思考しているのだろうか?ってことを!

2009-08-27

悪名

経営者は悪名高き存在になって行かざる負えないと思う。
いい社長は、どうでもいい社長になるだろう。

現場の活動をしている社員からすれば、
いい経営者より悪名高き経営者のほうが必要なのである。

・現場の活動への厳しい監視の目
・社長にひと泡吹かせようというチーム体の結束力
・顧客と交渉する際の憎まれ役

を経営者にすれば、会社全体としての活動力は高まるといえる。

人に好かれる経営者は理想だし、
その経営者にあこがれて会社に入ってくる人材もいよう、
しかし、いつまでも経営者で有り続けることは無理だし、
あこがれて入ってきた社員より、
相対的に経営者のほうが高齢だから年次ともに先にいなくなるのは
経営者のほうだ。

僕自身はカリスマ経営者になれる器ではない。
しかし、僕の悪名が高まる分に比例して、
組織、仕組みとしての丈夫な会社づくりはできると確信はして、
それに努めているつもりだ。

2009-08-26

恐怖

恐れおののく感情であり、現代人が一番欠乏している感情。
人間は恐怖を感じ、それを克服するために進化をしてきた。
つまり、進化に関わる必要要素である。
また、その恐怖のために、個人よりも集団、組織として一致団結して
ことにあたることもしていた。

現代において、恐怖が多く取りさられてしまった。
ある意味、恐怖を取りすぎてしまった。
そのゆえ、おおくの人間は気づかぬうちに
恐怖の感情が薄れている。気が抜けている状態といえる。
だから、進化も薄く、組織的行動もできない社会といえる。

僕は思う。
成功報酬だけでなく、逆に失敗賠償もあると思う。
願望に応えるだけのモチベーションだけでなく、
恐怖からの緊張感もまた、人が動く要素だから、
人道的ではないという批判もあろうが、
人としての恐怖からの克服を意識して動くことのほうが
どれだけ人間らしいことかって逆に批判を批判する気持ちに満ちてしまう。
必ずしも、いいことだけをいうよりも、
嫌だから脱却しようのほうが、達成感はあると思う。

2009-08-25

野党

政党政治において、政権を保持していない側の政党。
時事ネタはあまり記述したくないのだが、
気になるので挙げている。
「責任ある野党として、、」
という選挙演説を聞いて、すごく違和感を持つ。

政党の本分は、国民の意見の最大多数の実現のための集団であるべきであり、
その目的は与党になることである。
その与党になるための大きな行動が、国民に選ばれる選挙である。
その選挙において、与党にならず、野党を目指すという発言はどうか?
確かに、規模の論理で過半数を取れない事情はあるが、
それであれば、今後どうしていくか、いつ、どのように与党になろうとしているのか?
そのような施策がないまま、責任野党という形に満足している選挙戦に感じる。

この発想が、日本の悪い形だと思う。
結局、小さき者は大きくなるのではなく
大きい存在にちゃちゃをいれることに満足している。
本質としては、新しい息吹だからこそ
小さき者であるはずなのに、
選挙もそんな動きをしているのだから、
今の日本は選挙では変わらないっている。

自分たちは自分たちで、この事実を覆していかなくてはならないと感じる。

2009-08-24

報道

あるニュースの内容は

 とある日本企業のトップは
 莫大な報酬をもらわず、
 社員食堂で社員とともに食事をしている
 とても理想的な経営者である。
 とのことが、外国のメディアで放映されています。
 実に誇らしいことです。

だった。
はっきり言えば、バカすぎる内容だ。
これは報道としては愚かなレポートだ。

・このニュースソースをまとめたのは
 従業員である記者であり、そのニュースどおり
 自分の会社の経営者はふるまうことはないだろう
 他人事だから、こんな記事になるといえる。

・外国メディアの報道をあたかもの自分のネタとして
 かつ、これまた他人事のように誇らしく思うというか
 そのニュースを流す会社の経営者がそれをするかどうかには懐疑的だ。

情報が多く飛び交う、
高度情報化社会において、
今までのマスメディア企業は
報道に付加価値をつけようとして、
あるべき情報を湾曲させていることが多い。

速さ、正確さをその価値として問われる報道が
現在ではその価値を見失いつつある。
だから、付加価値をつけているようだが、
そのれは蛇足になっているようである。

このようなマスメディアの報道が盛んゆえ
各種業務報告の内容が、報告と所見が入り混じり
ゆがんだ情報になっているといえる。

高度情報化が進んだゆえ
個人が発する情報がゆがみだしている社会悪化、
それゆえ、企業活動が停滞、劣勢になっているのが今かもしれない。
精神的な公害ともいえると感じる。

2009-08-21

事件

世間ではいろいろな事件が起きているとされるが、
それは間違いといえる。
現代の我々は、事件の情報を知りすぎているのだ。

人権意識による個人特定
技術、産業の趨勢による高度情報化、マルチメディア化
により、見る側、送る側においてコンテンツに事欠かない。
100年も前であれば、
事件という概念でなかったものが
コンテンツとして、取り上げられて報道されている。

正確な情報が取れないからこそ、
断定はできないが、人口と現在事件とされる事象の割合は
そう変わらないと思う。
ただ、その事件について、情報伝播の速度、解明の論理性は
全く異なる勢いで現代社会に現れている。

例をあげれば、
江戸時代、餓死、孤独死は事件ではなく、処理のレベルであった。
飢饉等による日常性や死因の主流だったし、
そのことをかわら版に乗せるコストに見合わないからだ。
しかし、現代では餓死をすれば、全国区の報道にのるだろう。

死体なき消息不明は
神隠しという、人智を超えて存在の力として扱われたりしていたが、
現在は失踪宣告、捜索願がまかり通る。


一面、社会互助の意味合いではいいことだと思うが、
その分、社会迷惑、社会体裁を考えれば
いらぬ情報が出回ってレッテルになることも忘れてはならない。

ひっそりと終(つい)を迎えたいのに、
社会に取りださされて、挙句に「社会に救われたくせに」
なんて言われるこの社会。

価値観にもよるが、
事件に振り回される社会が正しいとはあまり感じていないし、
自分としては、自分の周りがそんな情報に踊らされないように
心掛けることを常に促し続けないと、自己存在が見失われるのではないか感じている。

2009-08-20

使役

他人に何かをさせること、
使役と我慢は対になっていることを理解しているだろうか。

我慢はするものではなく、使役させられるものである。
我慢という言葉の用例を思い出してみよう。

「我慢しなさい」
「それくらい我慢しろよ」
「僕が我慢さえすればいいのだ」→ 自分自身にさせている表現

すべて、使役の上で成り立つ。
我慢はするようにみえて、させるもの。
使役をどうするかである。
だから、よーく考えてほしい。

我慢のさせ方で、その人の評価が逆になる。

やっていることは同じ多くの人民に我慢を使役しているが、
自覚して使役するものは、為政者
無自覚で使役しているものは、悪政者
となるわけである。

過去の歴史、自分の周りを見渡せば、おのずとこの事実が理解できると思う。
別に政治でなくても、振る舞いを見れば、
本当に無自覚に使役している愚者が多いこと、
そして、本当の意味でうまく立ち回っている人をよく見れば
部下たちや周りの者たちに、かなり厳しい使役をしていることが伺えるではないか。

2009-08-19

互換

互いに取りかえること。交換すること。とされるが、
今の主要な意味は、指定された環境でも最低限の性能を出せることといえる。
国際化、仮想化、仕事の細分化、価値の多様化によって、
能力(人、物)が汎用的では示せなくなっている。
つまり、一般条件といわれるものが示せなくなっている。

この能力は、特定条件においてはこれだけ出すことがでいる。
そして、別の条件ではまた検証が必要である。
と示されることが主流になってきている。

なんか面倒な社会だなあって思ってしまうが、
この背景にはPL法のような、提供側の責任を声高に訴えてきた結果である。
互換を保つということは、
その条件の使用において、
提供側がその動作保証、強いては損害賠償を負うことになるゆえ、
提供側としては、それだけの自信をもつ条件でないと提供できなくなってきた。

僕は思う。
互換の保証なく、安全性、確実性にばかり特化した社会って
資本主義、自己責任ではなく、
社会主義、社会責任で、
個々のチャレンジを社会として受け止めないから
新しい息吹をつぶすことになっているのではないか、
だから、技術発展しないのではないかって感じる。

2009-08-18

兵站

戦場の後方にあって、
作戦に必要な物資の補給や整備・連絡などにあたる機関のこと。
こう表現すると、身近ではない言葉に感じるが、
英語でいうと、logistics つまり物流の意味である。

社員に兵站につて説明した。
なぜ説明したかというと、
いくら個人が優秀でも、その個人の能力を出させるためには
それに見合う、身支度、腹ごしらえ、等の間接支援がなくてはならない。
その間接業務を怠る者、組織に未来はないということを言いたいがためである。

個人能力主義が横行して、
いかにも個人でなんでもしなくてはならないはずなのに
間接部門を軽視して、当たり前に要求してくる。
そんな個人能力主義ならば必要ない。

自分のベストを保つために、
間接部門にコストを割くことをいとわない
そんな価値観が組織や個々を強くすると思う。

名人は道具と大切にする。
道具とは、道具自身では結果を出さない間接価値しかないが、
その道具と職人があいまって最高の結果がでる。
道具は組織という法人においては、
兵站であり、その価値を高くみなす組織にしたいものだ。

2009-08-17

反省

過去の自分の言動やありかたに間違いがなかったかどうかよく考えること
と定義されている。
このレベルであれば、共通認識を僕も持つこともできる。
しかし、一歩踏み込んだレベルだと庶民レベルと
異なる方向になるかもしれないと思っている。

反省における’間違い’の認識だが、
庶民や良識とされるのは、
社会と自分との比較で、自分に否があるとするだろうが、
僕自身は自分より、社会の愚かさに感じている。
反省を社会に対して同じ過ちをしないように思うのではなく、
社会に対して、どう仕返しをしてやるか、
そう思うのである。

実はこれは、文章にすると極めて過激に読み取れるが、
多くの庶民が気付かず行っていることにすぎない。

「最近の若者は!」
「一般常識もわからないのか!」

って口にしている時点で、
自分の認識が社会であるという思いそのもの現れである。
自分の思っていることこそ、社会である、つまり自分=社会となり、
反省をするのではなく、させる側にいるではないか。

僕はその感情やその思いに忠実に従っているにすぎない。
そもそも、社会は人間が作ったものであり、
社会をよくしようと反省するのであれば、
それは社会を自分の意思で変えていくという論理が順当である。

他力本願のくせに
自分の理想を掲げることなく、
自分の思い、それが仕返しであっても
社会を変えている意味での反省のほうが
前向きと思えてならない。

2009-08-14

選択

選ぶこと、
世間では、選択の自由というか
選べることの重要性を声高に言うが、
その選べる選択肢を準備する苦労について、
実は庶民レベルは意識していなく、
結局、選ばされているということを自覚できていない。

選ばされることは悪いことではない。
むしろ、選ばせる側の知恵と努力に敬意を示したい。

自分の好みを選んでるという言葉は
自分の好みをアウトソーシングさせている
と同義であるのが現代社会であるといえよう。

選ぶ自由より、
選ばせる工夫を
どれだけ提案できるかどうか
そこが企業として、成功者として
現在社会で地位をあげていく要因だと思っている。

2009-08-13

自負

自分の才能や仕事に自信をもち、誇らしく思うことであり、
今の庶民に全くない心情だろう。
すべての事象が、画一化されていて、
他人と異なることが間違いとされる。
いくらその技術を誇っても、その技術においてもっとすごい存在が
簡単に検索、発見できてしまう情報網の整備。
それが、庶民を画一化させた存在にしている。
そのくせ、自負はないが個性を訴える、愚かしい社会とも映る。

自負に値するものが他人より秀でているという概念ではなく
他人には全くないもの、ナンバーワンではなく、オンリーワンを
求めて行動できないものだろうか?

他人から理解できないから怖いのではなく、
他人が理解できないのならば、
その事象から得られている自分の幸福度を示せば
その事象がオンリーワンにみえていくことになるだろう。

そもそも、他人がすぐに理解できるものは
いろいろと後で模倣だの、盗作だので訴えられる。
相手のわからないからこそ、
自分オリジナルで自分を幸福にしてくれるもの、
そう、その価値を自らが負う、自負と言えると僕は考える。

2009-08-12

休暇

法定休日以外にとる非稼働日ととらえるべきであろう。
法律を遵守しなくてはならない立場でもあるが、
休暇というもの考え方が、社会悪ではないかと感じる。
休暇は労働者の権利とされるが、
その労働者の定義が間違っているので、
権利が濫用されているといえる。

労働者の定義は
雇用主に労働対価を買い取られている立場であり、
対価に見合う行動をしてこそ、その存在意義が認められる。
その認められた存在だからこそ、
その生産性を雇用主は維持したいために、
本来ならば対価相当の行為を求めるところを止めて
休暇というもんを与えるのである。
いわば、機械のメンテナンスと同じ発想である。
いろいろと異論があろうが、これが真の資本主義であり、
その本質を見誤っているから、高技術の職人、経営不振が発生していると感じる。

休暇は権利ではなく、
その対価を雇用主に認めてもらっている褒章ととらえるようにさせたい。
総すれば、休暇というものありがたみ、有用性を意識して活動するし
その休暇取得が労働者の目標にもあるのではないかと感じる。
事象のありがたみが薄れている現代社会だからこそ、
ある意味、当たり前を厳しくして、
その真の価値を体で再認識させる必要があるのでは
ないかって思う。

2009-08-11

帰省

故郷に帰り父母の安否を問うこと、
血族間の年次報告会と言えよう。

忘れてはいけないのは、
お盆の帰省ラッシュは日本発祥の行動であることを。
人間は神事祭事は家族、部族で行うことはともに生きているからこそ
それを分かち合うという意味だった。
だから、農耕民族は収穫期を基準に、年次で行うし、
狩猟、海洋民族はその猟(漁)の祈願、成功をもとに謝肉祭を行う。

日本は農耕民族系ゆえ、年次での行動が多い。
しかし、産業構造の変化により、
集団就職、都市への移住が全国民的におこり、
血族の分散、部族、集落の過疎化が顕著になった。

でも、血族、出身への回帰の念が国民感情的にあるので、
8月のカレンダーには明確な祭日がないのに、お盆休みとしての
帰省を慣行化して認めている。

これと同じ現象が、
中国の旧正月やアジア系において、
都市部への出稼ぎの方々に見受けられる。

考えてみれば、毎日会っていない状況だからこそ
帰省という概念が発生するし、
そのお盆休みという長期の休みを企業体として出すのは
集団就職で引きはがされた血族への恩返しという意味合いも
少なからずあるようなことを老舗の企業からお聞きすると
日本の企業にもそれなりの歴史があるんだなあって感じる。

2009-08-10

天災

自然現象によってもたらされる災害であり、
人間の進化の歴史は天災の回避そのものともいえる。
しかし、天災ってすべて人災ではないかって思う。
今の環境問題、つまり二酸化炭素問題とかの低次元の問題ではない。

そもそも、動物は自分の生きやすいように環境を変えるために
その変化の代償で災害の危険性を得てしまう。
地下に住むものは、陥没
木に住むものは、倒木
水に住むものは、濁流
と、そこにいるからこそ、災害を味わうのである。
しかし、だからといって別の環境に住むためにはそれ相当の覚悟と世代を要する。

人間は劇的なスピードで環境適用をしてきているから
その代償である災害のレベルが複数かつ致命的と感じられるだけである。

自然現象といいながらも、
そこに住んでいなければ
その自然現象は普通の事象にすぎない。
物の変化のひとつだと言える。

どこでも生きられるということは
どこでも危険であるとあるという
本能を人間は忘れている、、天災という表現に隠して、
ただそれだけのことと思う。

2009-08-07

自責

自分で自分のあやまちを責めることとされるが、
自分のあやまちの範囲をどれだけにとらえるかで
いろいろと考え方が変わる。

一般的なレベルだと
他人のあやまちと自分のあやまちを区別してしまうが、
自分に関わるあやまちは、他人でも自分のあやまちと
すべきと僕は思う。

相手を信用したこと
相手を選んだこと
相手に指摘しなかったこと

これすべて、自分ができていないあやまちであるといえる。
そのあやまちを二度としたくないがために、
相手を使役、制裁に至らしめることは僕の中で至極当然なのだが、
一般的は、狭量のもの、つまり自分のことまで相手のせいにするものと
結果的に同じみえてしまうかもしれない。

自責は自分の自覚、
他人から言われるものではなく、
自分の判断で、自分が自分であるために相手に影響、作用させること。
これって自由主義そのものの現代社会では当然のことだが、
どうも、社会全体として見失っている感がある。

2009-08-06

善悪

哲学っぽく聞こえるかもしれないが
世の中における悪とは、他人の善に他ならない。
自分が悪意を感じつつ行動し続ければ、
相手もその悪意に対しての対応に出てくれる。
良きにつけ、悪きにtけ。

しかし、自分が善と信じることこそ、
他人には悪そのものに感じる。

自分の信念を貫くことは善行だというが、
それは他人から見れば、社会性を無視した独断行為であり、
それを悪いことと指摘すれば、
善行をとっている本人からすれば、
その指摘こそ、悪意そのものと感じてしまう。

僕は根っからの性悪説論者。
もっといえば、善そのもの存在を理解していない。
善なんてものはない、生きているそれは他の生物への悪意そのもの。
だからこそ、いかに悪意を自覚して、
それを相手の許容にあわせるか
できないなら相手を屈服させるか
を常に意識すること、生きるということと思っている。

善人、いい人、それを誇りにするものの存在意義がわからない。
現に食するために、他の生物を殺生していることへの自覚はどう説明するのか?
仕方がないってバカな回答は、善行ではないだろうに、、

2009-08-05

発汗

汗をかく、
物理的な表現ながら、心理描写をさす表現である。
・冷や汗
・手に汗にぎる
・汗ばむ陽気
・汗になる
・汗の結晶
汗にまつわる表現は多い。

人間の心理は体温に影響し、
その体温調整を汗にて行うからこそ、
このような表現になるといえる。

今は夏ゆえに物理的に汗をかくことが多い。
しかし、ビジネスの山場は下期に向かう今が肝心と思っている。
夏の暑さの汗ではなく、
ビジネスの緊張感からくる発汗を楽しみたいものだ。

2009-08-04

風邪

いろいろと定義があるようで、定まっていない体調不良の総称かもしれない。
自分にとって、この風邪という症状は
季節に関係なく、一段落したときにかかりやすい、、
かかると言っていい。

逆に言うと、風邪をひいたときは
案件活動が終わったんだなあって感じる。

現時点、風邪がひどい。
ってことは、それなりに自分の役割を一通り終えたのかなあって
思える状況になってきた。

自分の体調と仕事の状況が反比例するような感覚で
あまりうれしくはないが、自分の体調不良で
案件の完成するなら、、人身御供になるのもある意味いいか、、って感じる。

2009-08-03

情緒

人にある感慨をもよおさせる、その物独特の味わい。
また、物事に触れて起こるさまざまな感慨。
となっている、、、では、感慨とは、、
心に深く感じること。しみじみと思うこと
となっている。
つまり、事象からおきる心の動きとでも簡約できよう。

この情緒というものは、
時代、社会変動とともに、変わっていくものであるのに
普遍的なものと思われている。
それは、使われ方が普遍だからである。

情緒という概念を口にする時には
概ね、上から目線でつかわれる。
年配や上司が、下の者を評価、揶揄するときに使われる。
だから、実際には年配、上司の主観でその意味を使っていている。
結果的に何年もその表現を使われているが、本来の意味は変わっていると思われる。
実際にその年配、上司が若かったことに、その人たちからみて
年配、上司と同じ意味で情緒を使用しているとは限らない。
いや、全く逆といえるかもしれない。
やっと自分の価値観で、相手のことを評していいという事実からである。

情緒は人の価値観、人の思いの現れであり、
他人からの評価を受けるものではないのだが、
目上の人間からして、使いやすいかどうかで
その情緒を指標にして話している現代社会に違和感を感じる。
情緒での査定は意味があるのかと、、、

2009-07-31

時短

造語であり、今回は労働時間の短縮の意味で話そう。
気になる点として、時短にはワークシェアという言葉がつながってくる。
労働時間を短くして、仕事を分け合おう。。。

意味がわからない。
労働時間を短くするくらいならば、
新しいビジネスを創設すればいいのではないか?
そう活動を始めればいいのではないか?

なぜ、仕事をもらうという発想なのか?
仕事は企画して、それを受け入れてもらえるかどうか?
だと確信している。

派遣ビジネスがもろに打撃を受けている時短問題かもしれないが、
派遣ビジネスが口をあけてるだけのビジネスになっているからだと思う。
派遣、請負において、自分のできることをどう応用すれば
相手の潜在需要に応えられるのか?
そして、こんな時代だからこそ、
言われる要望より先に自分のしたいことをどんどん提案すべきだと思う。

愚者の多くは
忙しくなると
「自分に負荷ばかりかけて、好きなことができない」
暇になると
「自分のやりたい仕事を出してくれない」
って言われる。
そんな発想だから、結論は時短を導かれてしまうのだと思う。
もっと、頭を使った活動を意識すべきだと言いたい。

2009-07-30

独学

師についたり学校に通ったりせずに、一人で勉強することであるが、
技術、知識を身につけると言う行為は、すべて独学だといえる。

確かに、他人に教えてもらうことはあるだろうが、
その他人の教えとされる動きを自分なりに理解、実践することができて
初めて身についたということになる。
その理解、実践は、いくら他人の干渉があったとしても
独学そのものである。

すべての技能は
結果として、自ら学ぼう、身に着けようという意思がないと
できないと言い切れる。
読み物等で、いつの間にか出来るようになっていたっという
話があるが、それは極めて虚偽に近い。
その技能行為が必要という自覚があってのことであり、
いつの間にかという無自覚な習得は
他の技能行為がカテゴリ的に同じであったか、
偶発的になしえたということになるだろう。

技術習得にセミナーや講習会に参加することは
社会人において、頻度よく訪れる機会だろう。
その機会に対して、
自らがそこで得たものをどのように技術習得するかを
常に独学かのように意識することが、もっとも技術取得の成長要素になるだろう。
その技術、知識の一般的な素養は
自分の肢体を駆使して見つけるしかないのだから。

2009-07-29

熱心

いちずにそれに打ち込んでいる気持ちである。
「熱心さが感じられない」
とか言う言葉があるように、人の姿勢、方向性を
他人が感じる表現だともいえる。

ただ、熱心とは熱という字がはいるだけで
温度差により諸刃の刃になりかねない。

相手も情熱的であれば、
その熱の温度差は少なくて、
相乗効果でとんとん拍子で物事がすすむが、
相手が冷めている場合に
熱心は暑苦しいものであり、
かえって、悪い印象を与える。

また、個人差により熱意の表現が異なり、
とても熱心さをもっているつもりでも、
相手には全く伝わらないこともある。
そうなると、自分の能力にフラストレーションがたまる。

熱心さは重要だが、
熱意に伴う表現力がないと熱意は相手に伝わらない。
その熱心さだけに、熱伝導をどうするか。
・話術
・説明資料
・しぐさ
をより磨くことで、自分の気持ちと相手へ伝えたい気持ちの
温度差は少なくなるといえよう。

2009-07-28

迅速

庶民の行動が緩慢に見えてしまう。
それは、多くの人間に共通するのだが、
一つ一つの動作は個人差のレベルで
あるパートは遅いが、あるパートは早い。
それぞれあることまでは、許容するとしよう。
(それ自体も僕からすれば遅すぎるレベルなのだが、)

本当に遅いと感じるのは
次の行動に出るまでの呆けとされる
アイドリング時間が存在することだ。

それを準備の時間って言い訳するが、
そのアイドリングが終わってから、
本来の準備活動をしている事実がある。
それを指摘すると人間は無駄なことを口にする。

アイドリング時間をインターバルとするならば
そのインターバルの前後には、
その次の動作を見据えた行動が伴わなくてはならないっと思うが、
そこまで考えていないとしか見えない。

迅速に行動を起こすということは
一つ一つの作業を高速化させることではないと言い切れる。
一つ一つの活動と捉えず、次の活動を意識して現在の行動を行い、
効果的な動作をとること、それが迅速な対応といえよう。

2009-07-27

体罰

暴力も体罰も変わらないという認識は社会の一般人と認識は変わらない。
しかし、僕はこの暴力、体罰行為に対して肯定的である。
野蛮かつ非人道的といわれるかもしれないが、
それを否定している今の社会こそ、混沌的であるといえる。

動物を調教するときに、文章を見せても意味がないだろう。
人間の言葉すら理解できないのだから。
それら動物に調教する際には、肉体的な刺激にて行うことが常だと思う。

人間とて同じ動物に過ぎない。
人間を調教ということに語弊を感じるだろうが、
言うことを聞かせるために、教えていることに変わりはない。
もっと言えば、現代の主張を持った人間なぞ、
野良犬よりたちが悪い。
その輩に言葉での説明など、逆効果だと思う。
言葉での説明が出来ない輩にいくら自分の言うことを聞かせようと無駄である。
だから更生させるために体罰となるが、
これは個人が行うと体罰だが、国家が体罰を行うことは戦争である。
いくら、体罰を否定したところで、
結局、人の言うことを聞かせるときは武力であることは否定しようがない。

戦争根絶、暴力の永久追放、、、、そんなこと言っても
人間の感情が存在する以上、それは決して無理なこと。
なら、体罰等の行為を否定せず、効果的にかつ抑止力をもって
有用にそれを使いこなすことが、人間としてのあるべき姿ではないかと考えている。

2009-07-24

山場

物事の最も重要で緊迫した場面、
英語でいえば、climax
面白いことに、この二つの別の言語の言葉なのに語源は同義だ。
ともに登山の頂を指している。

山になっている場所
climb で max

ということは、
人間が一番緊迫する場面は、
高く不安定な場所に至ったときの心境になるといえる。

なんとなくわかるが気がする。
というか、最近切にそう感じる。
今までの仕事においては、山場に至るのには
それなりの準備と障害対策万全の心境で挑んでいたので
山場とは、ただの通過点としか認識していなかった。

しかし起業して、
自分なりに準備、障害への配慮をしたつもりでも
会社として足りていないこと等の
自力ではいかんともしがたいことがおき、
その山場で大きく転落してきていた。
山場が頂であり、そこにきちっと立てない思いをしてきた。

今までの当たり前のことが出来ない歯がゆさと同時に
仕事において緊迫する場面、山場を肌で感じているという自覚は
今の僕にとっては貴重な経験かつ今味わっておいてよかったという思いになる。

ありがたさを自覚できるということは
現在社会では数少ない享楽のひとつだと思うからだ。

2009-07-23

貿易

外国と商品の売買をすることであるが、
この漢字だけだと、国家間商取引の意味を受けられない。
では、漢字自体を解体翻訳してみよう。

貿とは
「取引をして利益を求める」 の意味をもつ。

易とは
「たやすいこと」 の意味をもつ。

あわせて、貿易とは
「取引をして利益を求める行為をたやすくしていること」
となる。

今まで大変だった地域違いの商取引を簡単に行えるようになったという意味が
現在の国家間商取引の意味での貿易になったといえる。

言葉の意味には、現在の意味になった経緯が存在する。
現時点という一点か見れば、その言葉=一義になるが、
その意味に至った経緯を意識していないことが常だと思う。

僕は思う。
「事件は現場から」
ではないが、物事の起源から変異経緯を掴むことこそ
いろいろなことの真理をつかめると思う。

貿易という言葉とてその意味では、
利益を求めることが前提であり、その障壁をなくすことことが
真理であり、貿易活性化ということは、国家間だけではなく
組織間の障壁撤廃の活動の意味でもある。
自分の今行っている活動を振り返れば、
なじみのある言葉の真理だったりすると、温故知新、、な気持ちを得られることも
ある意味、感慨深い。

2009-07-22

説明

よくわかるように述べること。
ときあかして教えることであるが、
それはとても客観すぎる表現に感じる。

説明とは、
自分の信じる論理は相手に訴えることだと思う。

「一般的なことを説明するのは自分の信じる論理っていうのはどうか?」

って言われるかもしれないが、
説明する以上、
その相手はその一般的なことを少なくても熟知していないから、
説明という行為になっているわけであって、
相手側にとっては一般的はないということになる。
つまり、一般的ということすら、持論に過ぎないのである。

そう考えれば、
説明をするということは
相手に自分の言葉が届くことと認識すべきで
正解を言うことではないといえる。
極論でいえば、正解なぞなく、説明を求められた時点で
正解ではなく、相手が納得する持論をぶつけられるかどうかが
今回の正解になるといえる。

説明が下手とかの話を巷で耳にするが
説明が下手という言葉よりも
話し手の持論が自分には理解、共感できるものではない
という結果を導いているのではないか。
聞き手が数多いれば、その数多に対応した説明方法があり、
それをどう意識するかが、説明力だといえると感じる。

2009-07-21

変身

夏になると、「自分探し」という言葉が現れる。
この言葉はとても面白い。
自分を探しながらも、結果得られるものが、変身した自分、
現在の自分の否定、喪失であるからだ。

人はそれぞれ、変身願望をもっている。
それは、ある意味、向上心の源泉かもしれない。
憧れ、使命感、決意、いろいろなものがその変身願望に内在する。

但し、変身は自ら行うもので、
その変身にもプロセスが発生することを忘れてはならない。
変身する意思とそれに変わるための手順を
自ら発起しなくて、変身はありえない。
多くの人間は、他発的、偶然的、な可能性での
変身を待っているように見受けられる。
僕からすれば、それは異常変異であり、変身とは言いがたい。
自らをどう変えていくかを意識しないで変身したものの末路は、、、
言うまでもないとおもうが、得てして、その他発的なことへの逆恨みになりやすい。

自分探しということをするならば、一言忠告。
「探し出した自分に責任を持ってね」

2009-07-17

我慢

感情や欲望のままに行動するのを抑え堪え忍ぶこととされているが、
現代において、我慢のほとんどは違法性の強制である事実である。
「ここは我慢して欲しい」
「今は、我慢のときだから、じっとしていて欲しい」
の多くの場合は、我慢させられたほうが訴える法的根拠を持っていることになる。

つまり、
我慢して欲しい=法に抵触するがそこは訴えるなよ
という意味と解するべきだろう。

僕としては、安易に、がんばる、我慢を口にすることは権利の濫用と捉える。
権利を使いたくないではなく、
理由なき権利の使用は自分自身を納得させられないからだ。
がんばる、我慢の多くは得るという概念より
現状維持、最低限の担保になることを導くことになる。

我慢を強制するより、
得るものがある方向に権利、権力を行使していくことを選ぶこと
それが今の経営ポリシーとしている。

2009-07-16

貢献

物事や社会に力を尽くして、よい結果をもたらすことであるが、
この言葉はとても日本的な表現と感じる。
というのも、契約主義、結果主義であれば
結果を出すことが当然であり、貢献ではなく、義務の体裁が強い。

貢献という言葉は受ける印象からして、
日本人の得意な敬語表現、’譲歩’の色合いが強い。

「本来は独力/自力で行うべきとことをご協力いただき
 ありがとうございます。」

そんな意味合いでの使用が常といえよう。
組織への貢献
会社への貢献
社会への貢献
いろいろな意味で、使われるが、そう考えると
「君は、会社への貢献度が低いなあ」
って表現は善意の強制に聞こえてしまう。
できれば、そこは、表現を正しく
「君は、会社への義務を果たしていない」
だと思う。

確かに貢献から義務に変えると表現が厳しくなるが、
率直に伝わってくるし、外国の表現はこうなっているだろう。
貢献という譲歩表現も日本らしくていいが、
本当に思いをぶつけるには、譲歩はせずにストレートにいうべきだと思うが、、

2009-07-15

深耕

土を深く耕すことが語源であるが、
現在の顧客深耕の意味に転じて
企業などの営業活動において,
従来からの顧客から新たな需要を掘り起こすこと
と使われることが多い。

転じるということは元の意味と似ているからであるが、
顧客深耕はなぜ深耕になったのか、
そもそも、土を深く耕すことの意味は何かを理解しないと
顧客深耕の真意をつかめないと思う。

深耕の意味は、
冬、乾燥と冷却により堅くなった土壌のままでは、
いくら豆をまいても芽がでることにはならない。
だから、堅くなった土壌を砕き、土を柔らかくして、
植物が根をはり、水、酸素が取り込みやすくすることである。

ならば、顧客深耕も同じように考えること、
種まきが別にあることを理解しなくてはならない。

固定、硬直化された業務運用、概念に人的に介入して
新しい新芽というビジネスチャンスを受け入れる心的環境を
作ることである。

その上で、
種まきに当たる提案、
発芽にあたる契約
を導くことがビジネスプロセスを農業に例えることといえる。

僕自身、亡き祖父が農業を営み、幼少期に仕込まれたから
農家の仕事の意義を理解しているからこそ、
どうもあまり農業もビジネスプロセスも理解せずに
言葉を濫用しているような社会になっているように感じる。

2009-07-14

帰着

いろいろな経過をたどって、ある状態や結果に落ち着くこととされるが、
僕自身の場合、まず帰着ありきと思っている。
何も考えずに生返事をすることや条件反射的な回答はしない、
することがありえない。
考えすぎてしまうことがあっても、考えないことはまずはない。
その訓練のせいか、考えていないくらいの速度、即答していると
思われてしまうが、日々考えている賜物だといえる。

なぜ、そうなったか。
何も考えずいたほうが、気が楽ではないか?
っていわれるが、何も考えずにいるほうが、気が悪くなくなる。
人生は一合一会、千載一遇、同じ条件で同じことがおきることはありえない。
今の自分の条件下でできるだけのことは配慮したい。
そう思わないと、
「あーしておけばよかった」
ということならないからだ。

僕の価値観として、
「やってしまった、、、」
ほうが
「なにもしなかったかなあ」
より上に思う。
だから、帰着をきたすことに注力している。

2009-07-13

討議

ある事について、互いに意見を交わし論じ合うこと。
討論、議論の意味を表す。

今までのこのサイトでの論調どおりで示せば、
自己と他人とは相容れないということであり、
討議は無意味に近いという帰着になると思われて、仕方ないだろう。

その持論を曲げずにも討議の必要性はあるといえる。
他人と相容れないが、行動の主体が他人に行ってもらう、
使役関係においては、命令よりも討議のほうが重要である。
命令どおり、他人が動くことは稀である。
なぜなら、他人との認識の違い、身体の際、行動速度、
すべてが異なるのだからである。
だから、思ったとおりの命令結果を期待してもその通りの
結果はまず出てこない。

しかし、討議の上ならどう思えるだろうか?
そもそも相容れない存在への使役だからこそ、
期待どおりでないからこそ、その結果でもって、
自分が
妥協できる、
フォローできる、
改修しやすい、
という状態にもっていくことを意識すればいいのではないか。

互いに討議した結果、いい答えがでる。
まずありえない。
多くの会議のいい答えの結論は、、問題の先延ばしと言い切れる。
僕の示す討議は、行動使役そのものであり、
互いの主張ではなく、使役側と被使役側との行動範囲選定、
それしかないと思う。

討議こそ、命令の進化のカタチであると定義したい。

2009-07-10

辛抱

耐え忍ぶということで、日本の美徳のように扱われてきてきていた。
辛抱の先に幸福が待っている、、、、、、
今の自分にはこれは絶対ありえないと思う。
辛抱したところで、根本的な問題に手を加えなければ改善はないだろう。
そして、他人は他人で冷酷なもので、
現時点を辛抱できるなら、もっと辛抱することも可能ではないか?
って思うことは、、、もう現代社会をみればそればかり溢れているだろう。

僕としては、他人に命令や強制を強いるが、辛抱を強いることはしない。
???って思うかもしれないが、
命令、強制の背後には、必ず目的と条件が発生させている。
しかし、辛抱には現状維持しかないから、生産性の向上は薄いといえる。
そんな活動をするくらいなら、そこで改善、回避を起こすべきであり、
それは辛抱を強いったから導かれる結果ではなく、
当人の考察、行動の結果だといえる。

耐え忍ぶことより、
なぜこのような事態になったのかを考え、行動することが
現在社会の価値と思うし、人に対してはそう評価を下したい。

2009-07-09

学習

この言葉に対していろいろな意味説明、解釈があるが、ここでは

生後の反復した経験によって、
個々の個体の行動に環境に対して適応した変化が現れる過程。

としよう。

学習能力について言及されることがよくある。
人間においては学習能力とされるが、上記内容から考えれば
生態系においては、適応能力にあたるだろう。

多くの生物は、適応能力がないと死滅してしまうことが必定だ。
仮に適応が遅れた場合、何世代にもわたる適応行為がかかったりする。
しかし人間社会においては、その分野において学習能力が低いのならば
当人が別の環境への参入という、選択肢がある。
それだけ、人間は生存率を高めているといえる。

とはいえ、、、、だからこそ、
学習という環境適応行為においては、
自分の生存そのものに関わるという意識
あいまいに、なんとなく、ということはせずに
この学習によって、自分の人生がどうなるのかを
常に意識してあたりたい、、、そして当たらせたいと思う次第だ。

2009-07-08

意見

ある事についてもっている考え、それをあらわすこと。
ここに示すように、この雑記は僕の意見そのものだろう。
自分自身を他人に示すことは、
自分の言葉、考えをまとめた意見そのものだと考える。
つまり、意見なくして、存在なし。

異論ないまま、他人に同意するということ重要だが、
なぜ同意するのか、
その根拠たる意見を自分なりにまとめておくことが重要である。

古来日本は
「男はだまっていても伝わる。」
「背中で語る。」

この表現が大和男子の理想とされていた。
意見を持たずに黙々と、、
それは、田畑やひとつの技巧に特化した、
他人の力を必要としない生業なら成立するが、
現代の商法の下の企業体に属する社会人では成り立たない。
他人との情報共有が必須条件であるからだ。

だから、会社の生産性に比例して、
自分の意見をもって説明する能力が問われている。
アカウンタビリティー、その能力が培われて、
個々人が意見をもって企業体の活動にあたることが
概ね国際企業としても渡り合えると僕は考えている。
今は、意見のほうが企業活動より大きいとしても、、、

2009-07-07

連携

連絡をとって、一緒に物事をすることであるが、
連携行為が成立しているときには、
実際には連絡をされていることはない。

連携を発生させるには、予めの事前動作、
前提条件で
どのような動作に対して、
次の引き起こされる動作を互いに了承していることになる。

白鳥の水かきではないが、
実際に見えているものとその影に潜む
見苦しいまでの下支え動作を一般人は理解できていないことが多い。
だから、連携等の連続動作を
・以心伝心
・仲がいい
と思い込むが、
本来は、事前に徹底された、
それぞれの役割を忠実に行っていて、
失敗すると関係各位からどれだけ責められるかのプレッシャーの中で
成立していることが多い。

鬩ぎあう緊張感と自分の行動の確実性
その極限状態を理解をもって、初めて個々の活動が全体の一部に昇華できるといえる。

2009-07-06

契約

意味的は

私法上、相対する二人以上の合意によって成立する法律行為。
債権の発生を目的とするもののほか、身分上の合意や物権的な合意も含まれる。

とされている。
欧米は契約社会とされている、つまり同意されている社会とされる。
でも本当だろうか?本当ならば、背理の訴訟社会といわれることはないのではないだろうか?

思うに人間に合意なんてありえない。
価値観、自己主張、他人を思いやることに注力されていない。
思いやりが重要っていう主張も、思いやっている自分が好きなだけと言い切れる。

契約という行為において、重要なことはいかにその契約内容をもとに
自分の言い分を主張できるか、それが今重要といえる。
契約が自分たちを護ってくれるという、前代的な発想はもう通じない。
契約をもとに、いかに自分の主張を貫くか、その発想が求められる。
自分が自分がという発想を好ましく思わない日本文化と思われるが
その傘下にいる庇護者どもは、上の人間がもっと主張してくれないから
自分たちが日の目をみないって思い込んでいるのも、
日本文化といえることを軽視してはならない。

2009-07-03

記憶

経験したことを覚えこんで保持しておき、
のちに過去の経験として再生する働き、また、その内容そのものである。

記憶力と頭の良さを同視する傾向が人間にはあるが、
正しくも感じるが、僕はそうではないと思う。
覚えているということ自体では、生産性、効率性は導かれない。
覚えていることを元にして、その応用力もしくは発展を試みて
成功を見出したものが頭がいい等の賞賛に値すると思う。

逆説から考えれば、
覚えていることが前提で、その覚えていなければ応用も発展も出来ないではないか!
という指摘のとおり、覚えていることも頭のよさの必須条件なのだが、
ただ覚えている、情報という素材を頭という倉庫に収めているから
出来るという認識はおかしい。

例えるなら、
とても良質な素材を手に入れているレストランの中には
とてもおいしいレストランがいいが、
必ずしも、おいしいとは限らない。
素材をどう加工したか、そのスキルに賞賛すべきであり、
良質な素材を手に入れる行為はその加工技術の必須条件にすぎないと変わらないといえる。

いいものを
もっといいもの、、使えるものにすることが
人が優秀といわれる要素といえる。

2009-07-02

安全

危害または損傷・損害を受けるおそれのないことをさすが、
生物にとって、安全でないことを自覚することが種の繁栄につながってきた。
安全ではない、いつか滅んでしまう、その自覚から
・より長く生存できるためには
・自分の行為、功績をもとに、多くの同族が楽な生活を
という発想、、いや本能からそれを導いていると思われる。

人間は知的行為によって、安全を具体化、具象化させているが、
多くの動物は、遺伝、親子継承によって、
進化というカタチで、より生存率を高める特性を身につける。

「本当の安全は買えない」

というキャッチコピーを見てきたが、
安全を得てしまった、、緊張感のなくなった生物の末路は
あきれるくらい簡単に絶滅してしまう。

安全なぞはない、、、、
いや、常に緊張感と種の存続を意識していることが
本当に意味での、安全ではないだろうか。

2009-07-01

状況

時とともに変化する物事の、その時、その時のありさまであるが、
状況報告という場合、多くの人間は勘違いしている。

状況というものは時間とともに変化するのだから、
報告をまとめているその時点で、すでに現在は存在しない。
いくら、状況報告をしたくても、過去のことをまとめているにすぎない。
だからこそ、僕がもとめる状況報告はそんな後ろ向きなことではない。

過去~今まで  どう推移してきたかの事実立証
これから    今後企画されているアクション、イベント

をもって、次の施策を講じるための奏上が状況報告だ。
報告を受けて、
「大変だねえ」
「がんばって」
だけならば、状況を報告するための検討、
記述時間はとても無駄な時間になってしまう。

人は等しく、時間をもっているが、役割権限はその瞬間で異なる。
その中で互いを効率的に機能させる手段が状況の報告であり、
その趣旨たる瞬間を捉えることが、状況把握である。

2009-06-30

代謝

外界から取り入れた物質をもとにした合成と分解とからなる物質の交代と、
その物質の変化に伴って起こるエネルギーの生産や
消費からなるエネルギー交代とが密接に結びついていることである。

基本的は、生体活動の意味だが、
社会、経済活動にも往々にあてはまる。

組織活動において、代謝が進まないと衰退がおきうる。
プロジェクトチームはいざ知らず、
ルーティンワークの組織ならそれは少ないって思われるが、
それは逆である。

人は老いる。そして人は進化を求める。
できれば、前向き、次につながる活動を指向する。
そうなると、今行っている活動も恒久ではなく、時限的と捉えるべきある。
対して、仕事は進化しないし、基本必須活動事項である。
だから、誰かがその仕事を引き継がなくてはならない。
前向きの前提ならば、若く未熟なものに引き継ぐことが定石といえる。

そう考えると、仕事を受け持つ組織の前提条件は
引継ぎという人材の代謝ありきでみるべきだと思う。

「誰かさんがいるから、大丈夫」
という属人主義ではなく、引継ぎのスキーム、引継ぎを意識した効率化を
をいかに日常業務に取り入れるかが、組織の代謝促進といえる。

引継ぎというものは
ある意味、組織のデトックス活動ともいえる。
優秀な人材を毒素に例えるというのも弊害があるかもしれないが、
たんぱく質とて、代謝の過程でアンモニアに変わり、排出されるように、
優秀な人材をいくら囲っていても、そのひとのモチベーションや性格で
組織を悪い方向に持っていく可能性を考えたら、、
デトックスといって差し支えないといえる。

常に自分も組織も代謝を意識することが、健全な生活活動だといえる。

2009-06-29

猛暑

夏は暑いものだ。
日本には四季があり、そういう時期があるものだって説明を受けてきた。。
でも思う、英語だけでなく、フランス語等の多言語にも四季の季節表現は存在する。
つまり、四季は日本だけの風情ではないということだ。
そして思うのだが、四季は本当に存在しているのか?
黄道の推移で、太陽の角度による南中角度の差はわかるが、
4つのカテゴリに明確に分けづらいどころか、
太陽どおりの四季は味わえなくなってきている。

冷夏、暖冬という言葉や梅雨のあいまいさなど、
季節の感覚がづれつつある。

猛暑のように、夏を示すという気象状況の意味は
今はその事実をもとにした、経済活動の購買動機の説明になっている。
・暑いから、冷たいビールを
・熱帯夜に安眠を得られる、クーラー
・こんな暑さに滞欧した、衣類
季節を示すことは、今では経済、、購買を促す一事象になっていると思う。
風情という言葉もあるが、花より団子、
現在社会を回すためには、季節すらその活動に取り入れていることが
まさに市場経済だと言い切れるだろう。

2009-06-26

睡眠

周期的に生じ、
感覚や反射機能その他種々の生理機能が低下し、
意識は喪失しているが容易に覚醒しうる状態
を言うらしい。

睡眠については、いろいろな効果、憶測が研究されているが、
その代替、つまり睡眠をしないで済むような活動については
あまり大きく表明されていないことに気付く。

僕の価値観からすれば、
無防備かつ非生産性の時間を持つことはあまり好きではなく、
できれば睡眠時間、、睡眠そのものを無くすということをできないかと
考えてしまう、、、、、、、っと考えていると眠れなくなるので
睡眠時間は相対的に少ないようだ。

でもこれは結果的に少ないだけで、
身体的にはよくないのではないかと思うこともあり、
それを考えるとまた瞼が冴えてくる。

ただこの覚醒状態は決して生産性のあるものではなく、
ただ起きているに過ぎないのだから、無駄な時間といえる。

睡眠時間を無くして、生産時間を!って考えるより、
何も考えずに寝て、
すっきり朝目が覚めることが、
本当に効率的で生産性の高いということに
論理の帰着を得てしまい、自分の思考の危うさをまじまじと感じてしまう。

2009-06-25

引用

古人の言や他人の文章、
また他人の説や事例などを自分の文章の中に引いて説明に用いること

引用が巧みになると説得力が増す。
しかし、引用を間違えると、
自分の意見がなく、受け売りになってしまい逆効果になることもある。
この違いはなんだろうか?

答えを言えば、理解における消化不良といえる。
引用しようとしている文章内容を自分なりに解釈して
自分の言葉で説明できている、つまり引用といえでも
結局は自分の説明の一節でしかないのだから。
それをとり間違えて、引用文自体に自分の責任をしつける
「・・・・にあるように、これが正解!」
では、過去の事例がすべてであり、今あることは否定でしかなく
とても前向きではない。

引用するということは、
過去の事例の成否の理由をもとに、
自分としては、その活動に賛成か、、
もしくは、否定ではなく、引用を元にした代替案の提案が求められる。

引用される側にたてば、
過去の事実をもとにされるだから、
反対というだけの現状停滞よりも、
何らかの進展の礎になりたいものだと思う。

2009-06-24

階層

上下に層をなしたかさなりのこと。
この概念が人間を人間たらしめるものといえる。
確かに、動物には一義の階層、偉いとそうではないの判断はあるが、
生きている同一時間において、
複数かつ条件をもつ階層をもって生きることは人間以外にはいない。

物理階層  建物、ページ、引き出し
論理階層  話の章立て
時間階層  スケジュール、見積もり、見立て
社会階層  立場、役割


を常に意識、無意識にそれをこなしている。
そして、出来る人間と判断される条件の要素はずばり
階層管理のうまさだろう。

今自分はどの階層に存在していて、
相手はどの階層に向っているいるのか
また、どの階層まで戻れば、
内容や事象を復旧できるのか
それを意識して、自らの行動をおこせば、概ね間違いはない。
というよりも、間違いを正しやすいし、間違いとわかる。

そう、逆に言えば、
自分がどの階層に存在しているかを理解できないことが
出来ないという証拠といえる。

2009-06-23

価格

物の価値の貨幣による表示、
市場経済における統一時価基準評価とされる。

とても難しいものである。
重要と供給できまるとされてきた適正価格。
それはあり得ないのではないか?

適正価格だから買うとことではなく、
高いからこそ買う価値があるもの
安いからこそ買う価値があるもの
の2極化でしかないと思える。

高いからこそというものには
それだけのステータスとブランドがあり、
それを安く買うことはそのプライドを傷つける行為として
好まれない。

対して、安いものはその安さ自身に価値があり
1円でも安いものにとびつく。
なんせ、5円安いからって買い物に自動車で出かける話を聞くと
ガソリン代のことを考えていないくらい
その5円安いという価値にとびつくんだろうと思ってしまう。

適正価格を模索していることが多いと思うが
弊社は少なくても品質、オリジナリティを掲げている以上
安い側に飛びつくくらいならば、
会社をたたむ覚悟で価格に挑む意気込みで経営し続ける。

2009-06-22

理想

自分の思いを実現させる、その目的のカタチ。
多くの人間が追い求めるものだが、
それは自分以外の障害であることが多い。

理想の多くが実現できない理由は
他人が求める理想
もしくは、他人が今享受している安泰
を否定することに他ならない。

ならば、みんなで理想をあわせていこうというのが
民主主義と捉えられるが、
そんなこと出来るわけがない。
「みんなのため」
「君の将来を思って」
なんて言葉は、その言葉が当人に理解できていない以上
理想とはかけ離れたものでしかない。

結局、理想は他人の否定、相手からの搾取
それをどれだけ積み重ねた
業の上でしか成り立たない。

2009-06-19

職位

権利ではなく、義務の大きさだと思う。
一般的に、職位があがれば権限が与えられて好きなことができるようになる。
と若いときは思う。
考えてみれば、その好きなことって実際に職位による権限を与えられたら
それを実行するだろうか?
多くの人間は、NOの回答になるだろう。

若いときと価値観が変わったり
管理業務等のやることが増えたり、
と物事の見方、捉え方が変わっているからだ。

では、逆に職位を実行できる権限ではなく、
若い者たちへの奉仕の義務と捉えることはどうだろうか?

自分が若いときにやりたくても出来なかったことをやらしてあげる。
確かに時代が違い、価値観や思惑は違えども、
若者には若者の独特の価値観はいつの時代も存在するはずだ。
その感情に積極的に触れて、今、自分の持っている権限でどこまで
出来るかを奉仕する、それが職位の本当の意味だと思う。

~「権限があっても何をやっていいかわからない」
~「別に、、やりたいことなんてない」
そんな存在が我が前に来ることはない、、、、故に、、

2009-06-18

指向

ある目的を目指して向かうこと。
新しい言葉では、
オブジェクト指向、
指向性アンテナ、
という、外来語に当てたりしているので、
意味が多義化していることようではある。

根本的な意味では、結果、目的に突き進んでいる状態といえる。
この指向の意味は現代社会においては、
かなり難しく、そして定義を一義化できないといえる。
多様化する価値
秒進分歩の社会変動
において、一度定めた目的を時間的推移のなか、
変えずに邁進するのは本当に至難だといえる。

しかし、だからこそ、指向を意識した行動に
正当性、論理性が見出せるし、その結果、自信、確信が得られると思う。

常に自分は何を指向しているのか
を意識することが、ある意味、自分の存在の確認なのかもしれない。

2009-06-17

強制

力によって他人を従わせることだが、
実は、従わせた者の得るものによって、そのイメージが変わる。

そもそも人間は怠惰な動物だ。
自然淘汰の世界ならば、自ら食を得ないものはすぐに息絶えてしまう。
人間以外に社会性をもつ動物がいて、その中では
助け合っているっていう見解もいうだろうが、
実際のその動物の社会性は残酷なことが多い。
少しでも怪我を負ったものやボスの機嫌を損ねたものは
得てして、見捨てられて死を迎える。
だから、その死への拒絶から社会集団性を本能的に従うのである。

しかし、人間は社会制度の高度化により
死を意識することは少なく、選択の自由を得ている。
その自由の反対に、強制を意識していると見受けられるが、
怠惰な活動を強制しないと、その自由すら得られないと捉えるべきではないか?
物理的、心理的に強制を受けても
それにより、従った者が高い技術や行動実績を身につけることが
その者にとって、この先の選択、自由のよりどころになるのではないか?

強制から逃げているものに、与える享楽は、、あってはならない。

2009-06-16

複雑

いろいろな要素がからみ合ってわかりにくいことをさしている。
、、、だから、この言葉からも複雑の解消方法は導ける。
「いろいろな」 から、1つではなく複数の事象が存在し
「要素」から、それぞれ個別の原点単位に捉えることができ
「からむ」から、それぞれに何かしらの接点をもつということだ。

複雑のポイントは
ひとつひとつは単純に近い要素なのに
いくつかの集まりが、
多くの接点をもって結合している様子といえる。

だから、
・そもそも要素は何か定義
・いくつかの要素が存在するのか
・どういうところが接点になっているのか
を把握すれば、複雑の難題から、各個個別の検討事項に分解できる。

複雑なものほど、
人間が恣意的にそうしているものだ。
・機械構造
・組織体系
・人間関係
その複雑を解析すればするほど
複雑さを引き起こした、人の思考、傾向、思惑が
おのずと見えてくる。
複雑=人の思考回路の具象そのものなのだから。

2009-06-15

継続

継続は力なり、
この言葉、僕の人生行動において、確証の出ていることだ。
しかし、多くの人々との継続について、認識が違うのではないか?
って感じることがある。

僕の思う一般人の継続の意味は
・決められた行動
・決められたタイミング
を繰り返すという意味と思えるし、
そのように行動していることが目に映る。

しかし、僕の思う継続の意味は
・目的に向って、毎回違うことを
・目的達成のために出来るタイミング
を行うことである。

同じことを繰り返すのであれば、
それは継続ではなく、プログラムであり、
人の行動ではない。
日々、変わり行く環境の中で
目的達成のためにどう動くかだといえる。

だから、
継続につながる定期活動について思うのだが、
その活動をすることが目的になってはいけない。
その活動をとおして、人間がどうなっていくべきか?
次に何を企てていくかを意識することを
活動を開始する前に検討する必要もまた重要である。

「そんなことを考えていたら、定期活動なんでできない!」
って言う意見には、、、、その意見を持つ時点でその人間に価値はない!

2009-06-12

経済

経世済民の略語。
文字通り、世を經(おさ)め、民を濟(すく)う、という意味で
本来の意味は為政者の行為であった。
しかし、日本においては
・貨幣の流通が国民の生活を潤すと学者や著述者が言い始めた。
・外来語のecomonyに当てる訳語にこの言葉を当てた
ことから、経済は現在の意義になったようだ。

確かにそうだろう。
為政者が民を救う行為は
・防犯(立法、裁判、警邏)
・国防(軍事)
・財政(利益の再分配)
であり、近代国家において、一番、生活を潤すものは財政活動だろう。
そして、だからこそ為政者が一番評価を落とすのも経済活動だろう。

為政者といわず、経営者にも財政の扱いは同じだ。
利益の再分配といえば、給与、賞与の扱いが等しい。
活動必須なものだが儲からない仕事に従事しているからこそ
低い評価に出来ないし、
顧客から高い評価を得ている者にはそれ相応の評価をしないと
モチベーションを維持できない。

この感覚、経済感覚が経営者には必要、、、、
人の上に建つ者にはこの経済感覚、、才能が器だと思う。
能力主義、、本当にその経営者が行っている活動が
能力、役割に納得した<経済>になっているのだろうか??

2009-06-11

謝辞

感謝、謝罪の言葉。
一見、+と-の反対の意味を持っているように見えるが、
根本は
相手に対して、敬いの気持ちを伝えすること
という意味であり、自分の気持ちが+か-かは重要視されるものではない。

欧米から
日本の謝罪会見の意味がわからない。
誰に向って謝罪をしているのか?
謝る必要のないところに謝って意味がない。
という発言を耳にした。

この発言に関して、僕として肯定、否定の両方の見解を示せる。

肯定の見解では
謝罪という謝辞を述べる以上、
対象となる相手を不特定にした会見では
相手を敬っていないと見えてしまう。
そして、その敬いの気持ちを持っていれば
会見よりその救済、復旧行為を優先させるべきだ。

対して、否定の見解は
相手というものを、自分に見えているステークホルダーだけというわけでなく、
自分の見えていない関係各位、社会への影響を考えれば
社会全体が相手であり、もし自分の謝辞が伝わらない可能性があるならば
それを踏まえて、会見という場を開いて、謝罪を述べておきたい。

謝辞を述べる行為としては、どっちの意味でもとれる。
どっちも正論といえば、正論といえる。
では、どっちをとるべきか、、、、
謝辞の根本の意味をもう一度見て欲しい。
自分の気持ちが+か-かは重要視されるものではない
相手にとってどうして欲しいかのかを考え、行動する
それこそが謝辞である。

2009-06-10

更新

新しいものに改めること、
更新行為は記録という観点で「点」で扱われることが常だ。
スポーツの世界記録、
行為達成の最年少記録
が例として挙げられる。

しかし、ビジネスにおいては、「線」で捉えなくてはならない。
一回きりではビジネスとしての可用性を満たさないから
できるだけ、定期的、定量的、効果的なものを
常に意識しなくてはならない。

顧客心理からすれば
更新行為、内容もそうだが、
更新頻度が顧客からみた
既存顧客志向かどうかのポイントにもなる。

これは顧客心理といいながら、
「釣った魚に餌をやらない」
っていう古来の表現があるように、
既存とされる人たちに対しての配慮がないと足元を救われることになると
昔から理解されていることだ。

全くの新規ではなく
既存のものへの新しい価値の提供が更新であり、
それを怠れば、自分自身の存在すらなくなることを意識しなくてはならない。

2009-06-09

体力

継続的に物事を行うことができる、からだ全体の能力。
特に、病気に対する抵抗力や疲労に対する回復力。

って言われるものだ。
日本語において、この言葉の真意は体の力というより
生命力そのものに近い。

確かに体を鍛えれば、
その生命力が高まるといえるが、
生命力の源は、、、使命感ではないだろうか?
・自分しか出来ない仕事、活動
・自分を必要としている人が待っている
・まだ自分には行いたいことがある
そんな思いが人の生命力を高めている。

体を鍛えていなくても、
仕事が忙しいときは、風邪を引く暇がないってこともあるし、
その逆で、仕事が終わるといきなり寝込むことがある。
また、やたら体を鍛えている人がよく風邪で休むのも見てきた。
体を鍛えても、その鍛えることが目的になって
社会活動たる仕事に集中できないのならば、、
経営者たる僕は、無駄な時間だなあって思うしかない。

2009-06-08

民話

子供の童話に代表される口伝の話。
内容が伝言ゲームにより空想上の存在が登場するが、、
実は民話はその地域の価値観、正義感を表し、
その地域の不文律だったりする。

今の民話、童話は
イソップ、国木田独歩のような研究者により厳選、編集されたうえ
政府や出版業者によって、国家の求める理想的な善人育成のツールと化している。

みなは知っているだろうか?
白雪姫の継母女王は白雪姫の指示で、油風呂に投げ込まれることを
ありとキリギリスの最後は、凍死しそうなキリギリスを蔑むありを
かちかち山の狸は捕まったときに、やさしさで逃がしてあげようとした婆を
殺し鍋で食ったが、のちに泥の船で沈むときにウサギと爺に石を投げつけられて
沈んでいったという話であったことを。

子供には残酷だから、話をマイルドに再編集しているというが、
今の子供たちのほうがもっと残忍なことをしている。
それは残忍というものを見聞きするとことで
自分では出来ないものと認識させる、古来の不文律の民話のほうが
犯罪抑止効果が高かったのではないか。

ただならない国策、施策が人を愚かに誘っているといわざる終えない。

2009-06-05

書面

紙に書いた文。文書のこと。
PCの普及、IT化の潮流で、ペーパーレスになりつつあるので
書面というより、画面になりつつあるとされる。
では、紙のもつ役割はすべて画面になっていくのか?

そうはならないというのが、世間の意見だと思う。
契約書等の今まで紙面での管理してきたものは変わらないとか、
メモ等の気軽に書けるものは紙でなくてはとか、
紙を尊重する意見は数多ある。

僕の見解としては、いつかは紙はなくなるだろうって言い切れる。
そして、PC等の画面という概念もいつかは駆逐されるだろう。

人の歴史を思い出して欲しい。
書面は紙で始まったわけではない。
壁画や地上絵のように、周囲の構造物に記載して
それをわざわざ見に出向いていたことにより、
意思の継承、伝達を行っていた。

その後、木簡、パピルスの普及で
現在の紙に至っている。

紙の有用性は今までの伝達手段に対して
・軽くて、折りたためるので運びやすい
・紙に適した筆記具の普及で記入しやすい
・とても廉価で入手できる
というポイントが大きく上げられる。

対して、
ペーパーレスにおける画面の有用性は紙に対して
・紙やインク等がおこしやすい物理劣化を抑止
・電子送信による、即時伝達
・情報のデータによる、物理保存容積の軽減
となっている。

伝達手段は、人の技術進化、生活方法の変化により変わりつつある。
いつかは、紙の書面はなくなると思う。

その兆しは身近にある。
現在、”メール”っていう”日本語表現”は
便箋や葉書ではなく、携帯、PCのeMail であることは
若者だけではなく、ご年配者も暗黙の了解だろう。
このような認識の変化で、書面の意味は変わっていくといえる。

2009-06-04

珠玉

美しいもの、すぐれたもの、尊いもののたとえで使われる。
珠、玉、ともに球体を示しているが、球とは表さない。
古来中国において、丸いもの、真球こそ高貴、神聖なものとされてきた。

球体の特徴は丸いことであるというだけでは十分ではない。
球の特徴は中心から等距離にある点の集合体であることだ。
点で面とは言いがたい表層を作り出している。
その点が無限大にされる存在。
だから、無限大を人民に例えて、
すべての人民から等距離で触ることができない存在だからこそ
珠、玉は高貴かつ権力の象徴とされてきた。

理論的はとても考えられたものだと思うが
たぶん、この手のものは後付け理論だといえる。

理論があるから、権力者が珠玉を手にしたのではなく、
権力者が珠玉を持っていたから、理論が作り出された。

逆に言えば、珠玉という価値観も当時の権力者の好みが
そうでなければ、生まれなかった価値観といえる。

高貴なものが権力者に装飾されているのではなく
権力者に装飾されたからこそ、高貴な扱いをうけるのだ。

言葉も価値も、権力を握ったものにより
定まることを再認識しなくては。

2009-06-03

訪問

訪問の’問’であり、’門’ではない。
つまり、相手の拠点となる場所の入り口’門’をたたくのではなく、
相手に会い、問いを行うことをいう。
重きをおくべきポイントは、問いを行うということだ。

相手に会うときに、どんな問いを用意していくかを
事前に考えないでいくことは、僕のとしては訪問とみなさない。
確かに、ただ会いにくるだけなら、相手も会えばいいので
気持ちは楽だと思う。

でも、それでは会う目的やその後のアクションになんら影響を示さない。
どんな行動も月のアクションへの予備動作と思うべきであり、
せっかく、相手とのインターフェイスが行われるだから、
それに会った準備はあるべきである。

問いかけとは、考えかたを返せば、自分自身を見つめるポイントでもある。
自分の理解、説明力でしか問いは成立しないから、
どんな問いを行いたいかにより、自分自身の力量も測れる。
相手に訪問するということは、相手に会い行動を引き起こす問いを行うという一面と
自分確認を確かめるという裏の一面も意識しなくてはならない。

2009-06-02

立地

建物が建っている位置における行動優位性とでも言おうか。
いわゆる、地の利ということ表現にも該当する。
駅前、
都心、
徒歩nn分、
高台にあるので眺望がいい、
とかが、具体的な意義になるだろう。

ITの発達、
交通網の発達、
物流機構の高度技術革新、
により、生活立地における格差は10年前に比べれば
大きく緩和してきているといえる。
しかし、だからといって立地における優位性という意味が
失われたわけではない。

とりわけ、ビジネスにおいては都心回帰を強まってきている。
立地の根本は人の所在であり、
その人がどこでどうしようとしているかが
仕事における大きな判断基準だといわれる。

例をあげれば、
ヘッジファンドなどの大口口座の金融取引業は
このITによる受発注が主たる業務なので
都市の中心になくてもかまわない。
しかし、大口口座を成約させるためには
都市の中心にオフィスを構えているという安心感が
投資家の信任を得られやすいから、都心を求まる。
また、新興産業で世間的に知名度が低い業種業態の
旗手となる企業の目指す立地は都心にオフィスを構えることだ
っていう経営者の話も聞く。

行動を楽にさせるための立地は現在
精神や社会的地位という形而上の楽を求める立地になってきている。

2009-06-01

将来

これからやってくる時
未来より現在に近い時をいうという意味らしい。

将の意味には、率いる意味の 将る(いる)という意味があり、
来の意味には、未来でわかるように、くるべきものの意味がある。

くるべきものを率いる

と言う意味が将来といえる。

???これって、自発性を求めるではないか!
つまり、将来と言うものは自分で持ってくるものと意味である。
「なんとなく、将来は」という意味ではどうも使うべきではない。

将来とは、自分で定めて、導いてくるものと言える。

人生の目標、、それ自体が実は、将来について考えていることであり、
自分を動機付けて動かす初動って捉えるべきである。

2009-05-29

影響

影が形に従い、響きが声に応ずる意から、
関係が密接で、他の物事に力を及ぼして、変化や反応を起こさせることを言う。
僕の考えでは、影響と因果は同義の意味をなす。

だから、
「影響を受けてしまって、、、自分には、、、」
という言い訳は許しがたい。
影響を受けているのではなく、
・どこが接点であり
・どんな作用で
・自分はどうなっているのか
という因果関係を掴まないと説明にならないし、
その因果関係がわかった上で、それからの対応もまた因果に組み込まれる。

社会生活は、影響そのもの人間関係活動と言い切れる。
誰かが動いたから、自分もある目的に向かい動きはじめる。
他人の影響という論理で考えたら、結局は輪廻して、自分が起点になる。
それが人間社会だ。

だったら、自分自身を常にどんな因果にあるかを意識して
影響を受けるという受身から、能動的な対応を心がけるべきだと思う。

2009-05-28

持論

あることに関して前から主張し続けている、その人独自の意見。
思うに、持論と’論’の字を掲げている以上、
論理性、論拠が必要になると思う。

「論拠なんてあるか、ただそう思うからだ!」
って口にする人も多いが、そう思うということの裏には
そう思うようになった、生い立ち、経験、があるはず。
そして、その自分の傾向を探ることこそ、自分自身を見つめることだと言える。

相手の思いに対峙して持論を掲げている人ほど、
自分自身を見ることに対して、怠惰だと思う。
相手自身も自分の意見を相手にぶつけるという行為に出るのだから
その意見の思い、論理性を示さなくてはならないために
いろいろと考えてくる。
その思いを怠惰な発想の持論という壁でふさいでいる。
結局は、当の本人の思いを他人に対して依頼するときに
同じ経験を繰り返してしまう。

自分自身の見つめなおすことにより、相手の論理もまたわかるようになる。
強いては、持論自身も相手の持論とシンクロする可能性が高まる止揚が起きるかも??

2009-05-27

流行

一時期に多くの人々に愛好され、世に広く行われることをいうのだが、
これは背理として、今までになく、これからも定着しないと思われる事象として
扱われていることと言える。

「流行に左右されない経営を目指す」
という言葉を聴くことがあるが、僕はそれはおかしいと思う。
趣旨として、安定しリスクのない運営のことをを指していると思うが、
資本主義経済において、恒久安定と言うものはないといえる。
景気変動や技術革新により、価値が相対的に変わるからだ。
その変動の予兆を示すものが、社会の流行であり、
その流行が
・なぜ流行ってきたのか
・そこに費やす費用はどこから出てきているのか
・その流行と自分らの関係は
を常に考え、対応策を講じることが求められると思う。

、、、っと言っても、これは経営だけでなく
私生活においても、流行、、社会の動きに合わせた
Life style を持つことが結果、ポリシーをもったその人の価値観になると思うけど、、

2009-05-26

映画

活動写真。
人類の代表する娯楽のひとつ。
個人的はとても好きな娯楽だ。

なぜ娯楽として人気があるか、
それは、得てして擬似経験を享受できるからだ。
人間の好きなことは、
他人のうらやましい行為を
自らは実際に行わないが経験、陶酔できることが多い。
自分のキャラをもつTVゲームなんてその典型例だろう。

実際に経験するほうがいいに決まっていると思うこともあるが、
人間はいざ自分に降りかかり日常生活を揺るがすものには
手を出さない。リスクが怖いからだ。
だから娯楽で擬似経験をしたがる。

僕のそうなのだが、
実際にはそこで使っている機略、せりふ、思考は
すぐに今の生活に応用してしまうことが出来ることが
他の人とちょっと違うところかもしれないけどね。

2009-05-25

比重

ある事柄が全体の中で占める割合のことだが、
人において使われる場合は、生活行動の比率を言うことが多い。
しかし、人における比重の計算という把握は難しい。

実際にその活動をしているように見えても
頭の中、、思考は別のことをしていることもあるし、
その場合の占有状況は体なのか、思考なのかは判断できない。

仕事を一生懸命していないという言葉で捉えてしまえば
そういえるかもしれないし、でも十分の成果を出していれば
それは否定、批判できたものどころか
効率よく自分の活動を分配しているということもできる。

ひとついえることは
人は常に一つのことばかり、
ずっと行ってはいられないということだ。
あることを行っていても、思考は
別のこと
先のこと
過去のこと
をずっと思い巡らせている。
これは否定できない。

だからこそ、
ほかの事を忘れるくらいにその作業に注力する、集中力。
他のことを、現在の作業に反映させる、応用力。
他のことと、今のことをスパッと切り分けられる、適応力。
これらの能力が、人の価値につながるといえる。

2009-05-22

清書

下書きなどをきれいに書き直すことを示す。
しかし、清書によって本当の意味で’きれい’になったかどうかは
疑問である。
きれいにするとはいえ、書き直すことには変わりはなく
今まで記してきたものとは別のものである。
だから、表現方法、文字の大きさ、見栄えから
受け手に汲み取って欲しい内容が変わってしまう可能性はあるわけだ。

清書する行為は否定しないが
清書を行う際の気持ちは
書き写すのではなく、
今まで以上のものを作り出すという心構えがなくてはならない。

清書は過去の自分の模倣ではなく、
今までの自分の経験を糧にした新たな創造でなくてはならない。

2009-05-21

裁判

裁判員制度が今日から始まるが、、、

殺人犯が無期懲役の判決を受けて際に
被害者遺族が死刑の求刑を求めて
上告するのは、殺人ではないのか?

お金を騙し取られたとして訴えて
だました相手から当該金額だけでなく損害賠償を請求するのはいいが
そのだました相手に支払い能力がない場合、
国への請求の矛先をかえるのは、詐欺ではないだろうか?

裁判という行為の前提、
「人は人を裁けない」
っていうことが、平気でまかり通っているが
ならば、裁判そのものが意味がないと感じてしまう。

そもそも、生物は弱肉強食だ。
自分は自分で護れ、
近代国家の社会契約の前提、
自分自身を自分の得意分野で護れる仕組みであって
護ってくれる仕組みではない。

それを多くの愚民が勘違いしているのが、解せない。

2009-05-20

通信

本来の意味は
通い合って(通じて)信頼を深める(信(よしみ)を通わす)
という意味だが、現在は電気通信と言い切れるものだろう。
その意味では、IT=通信と言い切っても過言ではないだろう。

しかし、これが面白いことに
通信技術が発達すれば、
本来の意味の通信が疎遠になってしまうことを
再認識しなくてはならない。

音声~画像~動画と通信技術は進化してきたために、
実際に会わなくても、会った感覚をITが補完するために
実際に通い合って(通じて)信頼を深めるということが
希薄になるということがおきる。

ある意味、移動における時間、労力、経済コスト削減ということにはなるが、
それも使い分けができると思う。

IT等の技術革新は、
今出来ることがそれに変わったのではなく、
新しく出来ることが増えたという認識をしたほうが都合がいい。

電話ならば、聴覚での通信
メールならば、視覚の通信
でも、対面ならば、、、握手等の触覚の通信も発生するので
大きい印象を与えられるといえるのだから。

2009-05-19

専門

専らあることに従事しているという意味。
これも不思議な言葉で、門ってどういう意味だろう。
ここにおける門とは、道場や研究所の中国の意味に通じている。
つまり、その生業で生きているという意味である。

でもこの専門という意味は現在社会ではあまり意味はないって感じる。
その専門の門という意味が強い社会。
つまり学者さまには、寄付や国家支援があるような時代であれば
庶民がわからないことをずっと行っていればよかった。
しかし、現代はディスクロージャーの時代。
自分が何をやっていて、それがどう有益なのかを示す必要がある。

だから、専門家だからそれだけをやっていれば言いという時代ではないのだが
多岐多様な技術があふれていて、それを行っているから
専門家きどりの輩が多すぎる。
別に直近で役に立たないのであれば、それは無価値に過ぎないだが、、

2009-05-18

奥義

学問・技芸の最も奥深いところとされる。
実はこの認識が大陸系たる中国、日本とでは異なる。
奥義に至るのは、
大乗ととらえるのは、大陸系
小乗ととらえるのは、日本
である

大乗とは、みんなでその境地に行こうとすることであり、
人民に無償で教える少林寺や国外に伝播する行動にでるのが、
対して、小乗では、その境地に至らないものには伝えないとしている
一子相伝、秘伝という行為によくあらわれている。

簡単に耳にすると、大乗のほうがみんなのため、
社会的だと思うかもしれないが、そうとは限らない。
その技術が危険性を伴ったり、
その技術がまだ未完成、これから自ら深めていかなと間違ってしまう。
ようなものある。

とはいえ、小乗でも、
閉鎖的、多くの意見を聞かないので
社会的、相対技術的には劣化していくだろう。

奥義というものをどこまでのものを奥義として
大乗、小乗で世に訴えていくかが、匙加減、
まさにその講義がその技術の奥義自身だったりする。

2009-05-15

道具

道具は道具だ!っていいたくなるだろうけど
この熟語をよく見てほしい。
道の具であることに。

辞書的な意味は
物を作り出すため
あるいは仕事をはかどらせるため、
また生活の便のために用いる器具の総称

となっている。
あまり「道」という意味は持っていないように感じる。
実は道という漢字自体が我々の認識と違うのである。
道の真意は
「目的に達するための何か」
という極めて抽象的な意味であり、
多くの人の認識している「道」は「道路」の短縮と思うべきである。

そうなれば、
剣道
書道
その道を極める
という言葉の意味も納得できると思う。

そして、今回の道具というものも
目的を達せさせるための具象物
という意味になると思う。

道具という、
さぞ簡単になっている言葉でも
いや簡単になっている言葉こそ
本来の意味、真意が眠っていると思うし
その原点回帰、初心に立ち戻る思考が
温故知新になると思う。

2009-05-14

戸惑

予想外の事に、どう対処していいかわからずにまごつくことをいう。
人生の多くは、戸惑いの連続だといえる。
すべてのことが予想通りではないからだ。

逆に予想通りになることの多くは、日常行為と同じといえる。
つまり、ほとんど無意識のレベルでこなされる
生理活動と同じであり、生物に刺激を与えることが極めて少ない。

戸惑いは、生物において思考するタイミングといえる。
とりわけ人間においては、人生の選択肢であり、
この先にむけて人生を決めることになる判断、決定の時である。

僕としては、戸惑いを否定する気はないだが、
戸惑っている時間が長ければ、長いほど
判断する材料、リスクが変化、悪化することも
念頭にいれることを心がけている。

いつも考えている、
これから考えなくてはならない
という発言は戸惑いというよりは
言い訳になることが多いと感じ、
活動ながらも常に戸惑うことが
生きる上では重要かつ必須ではないかと思う。

2009-05-13

邪魔

言葉はとても禍々しい2字の漢字の熟語だが、
実際には簡単に使われる面白い言葉である。
そして、思うにこの邪魔という表現を使う側のほうが
禍々しい感情をもっているといえる。

概ね邪魔という言葉を使われるときは
対象者はえてしてその邪魔と思われている事実に
気付いていないことが多い。
気付いていたら、それは邪魔という表現ではなく
抗争になるからだ。

無神経というか、気にしていない事実に
人は邪魔という感情を芽生えてしまうのが実情だ。
とりわけ日本語の多くの魔表現は
見えていないもの、理解できないものが多い。

自分がわからないもの
それが、人間の一番嫌うものっていることだと言える。
邪魔って言葉はそんな意味の現れといえる。

2009-05-12

選挙

民主主義らしく、組織、団体に所属する選挙権有権者が
権能をもつべき人材を投票によって選定すること。

現代社会秩序において
この規範を受け入れなくてはならないが、
この行為は決して正しい結果を導かないことは歴史も証明している。
ヒットラー、
ムッソリーリ、
サダムフセイン
彼らは圧倒的多数決で国家最高責任者になったが、
その国家が歩んだ道は有権者の思いとは異なる結果だったといえる。

近代歴史においても教科書に登場する人材は
選挙とは別の次元で時代の寵児になった人材が多い。

企業においても最高責任者を社員投票で行った企業が
今まで存在してきたが、それの多くは会社の解散か制度の廃止に進んでいる。

選挙という行為は意味がない。
なぜなら、投票権を持っているだけに愚民に選ばれる基準しかない
人材に革新的な行動が執れるわけがないからだ。

2009-05-11

有難

日本語の変革を示す代表的な言葉といえる。
ありがとう!
は感謝の意味です使われているが
この言葉はそもそも、
有難い=有ることが難しい=めったにないこと
という意味である。

めったにないことが自分に施されていることへの
八百万(やおよろず)の神への感謝の思いが俗事化されて
人に使われるようになったのである。

相手への敬意を示すという意味では
ありがとうという言葉、しゃれていると思うが、
本来の有るごとが難しいという意味に
有難いというと、現代社会では間違った用例のように扱われる。

本来の意味なのに、
それを時流で、否定するのが日本語かもしれない。
本質、核心を隠したがる民族の典型例とも言葉から読み取れる。
だからこそ、本質、核心にメスをいれることこそ
これからの社会において対峙すべきとではないかと感じている。

2009-05-08

興味

人の嗜好は人それぞれ。
その嗜好を生み出す引き金が興味という衝動といえる。
現代において、興味は自発的に発生することはない。
他人が起こすなんらかのプロモーション(促進)活動によって
その事象に衝動を覚えることが、現代の興味だといえる。

「なんだ、結局自己がないんだ!」
って、悪いほうに考えるべきではなく、
むしろ、その事実を把握して行動をとるべきだ。

興味ということは、
×興味をもつ
○興味をもたせる
という受身表現であること。

相手に興味を持ってもらうのではなく、
相手の衝動をいかに誘発させるかを意識した行動が
現在の社会行動として効率的といえる。
興味を持ってもらうのを待つプロモーションより
興味を持たせるためのプロモーションが正しい。

むやみやたらに行動せず、
・この事象に興味を抱く傾向があるのはどんなタイプに人間か
・逆にこういうことには興味を示さない
なんて考えて行動することになるだろう。

おや、、これは釣りの歴史と同じだ。
かかってくれることを待つ針に餌から
その魚の主食に似たもの、餌らしい動きをさせるルアーフィッシングに、、、
、、、人も魚も根本は変わらないということだ!

2009-05-07

矜持

プライドのこと。
ではプライドとは、
自信や誇りを持って、堂々と振る舞うことといえる。

その矜持を持つためには
自分の確固たる’何か’を掴まなくてはならない。
その’何か’をどう掴むか、わからない人間が多すぎる。
しかし、矜持やプライドを口にする。

矜持を持つために、
自分の自信となる’何か’、、、
技術
信念
思想
を他人に胸を張れるくらいの立証力、実証実績を
身につけて、常に維持し続ける意思と活動をしてこそと思う。

矜持を持つために、いろいろな行動を伴おう!

2009-05-01

回避

防御と同じように位置づけられる行動といえる。
しかし、僕が思うにはこちらのほうが高度かつ目的に忠実といえる。

防御とともに同じ目的であるならば
核心の現状維持が主是になる。
防御はそれに触れないようにしているが
回避はそもそも、その核心に当てないことである。

低次元的な回避は、
外的要因を認識してからの逃避行動であるだろうが、
それは防御よりたちが悪い。
なぜなら、当たってしまったら、防御行為をしていないので
すべて吹き飛んでしまう。
そんな回避は僕の思う回避ではない。

真の回避は
外的要因をすべて把握して因果の先を読み、
あたることがないようにして振舞うことである。
また、それ以上の回避は
外的要因そのもの自体に作用をかけて
こちらの核心への干渉をそもそもさせないという手法も挙げられる。

回避という、
一見、後手のような行動発想も考え方を変えれば
回避を円滑にさせるために、
先に行動するという先手の意味と捉えるべきである。

自らの核心を護るために
僕は、あえて先手で動くことが重要と認識している。

2009-04-30

防御

外的要因から核心たるものが現状維持できるように緩衝行為をとること。
身を守るために、
何かと何かぶつけていることが防御ということになる。

守り耐え抜くということは、
ある意味、美談のようにされるのは、
日本が専守防衛をよしとする国として風潮があるからだと思うが、
守るということは、はっきり言えば、
すでに危ないとということは忘れているのではないか?
守らなくてはならないということ、
その緩衝行為が必ずしも現状維持を担保するものだろうか?


僕のことを知っている人は気付いていると思うが
僕は守るということを主是としない。
なぜなら、それ以上に真に守る本質の行為をするからだ、、、

2009-04-28

距離

距離と道のりは違う。

距離は、物体の空間的隔たりの大きさを示し、
道のりは、実際に移動物体の行動制限内での移動方法での長さを示す。

口語でいう、「最短距離」とは意味合い的には間違いで
移動手段を考慮した一番短い道のり
が正しいと言える。

これは、物理的な長さだけにとどまらないないだろう。
手法
心理
にも応用が利く。

距離=道のりと思って、
近いものほど、楽と思って行動すると結果失敗する。

距離が短くとも
道のり的には難しいということのほうが多いといえる。
というのも、
「近いのに」
、って言葉を使っていること自体、
うまくいっていないということの表れであるだろう。
本当に近いのならば、そんなことを意識しないだろうに、、

2009-04-27

世論

世間の大多数の人の意見とされるが、
これは現代社会において、これほど疑わしいものはない。
・母集団定義からのあいまいさ
・恣意的介入されていない立証がまずできない
・そして発表者の報告方法
によって、全くもって相違と違う結論になるからだ。

例えば、
軍事産業で成り立っている都市で
戦争反対というアンケートをとることが世論だろうか?

仮に、ある投票結果が

賛成:45%
反対:35%
無効:20%

となった場合に
「ほぼ、過半数の人が賛成しています」
「1/3以上の方が反対を表明しています」
「5人に1人はこの件に無効を示していること自体問題ではないでしょうか?」
って報告、報道されたら、
どれも正しく、そしてどれも正当性を持って世論とされてしまうだろう。

世論なんて、所詮子供の
「みんな持っているんだから!、おもちゃ買ってよ!」
と全く同じ、自分の意見を正当化させる手段に過ぎない。

みんなの意見とする世論は
個人のためにしか使われないというが事実である。

2009-04-24

同盟

共通の目的を達成するため、同じ行動をとることを約束すること。
という意味だが、組織間での同盟という行為は微妙だ。
なぜなら、
同盟を強くするなら、それぞれの組織同士が合併すべきだし、
それぞれの組織を優先するのなら、そもそも同盟を築く理由はない。

合衆連合が取りざたされる今日において、
同盟、提携という言葉取りざたされるが、
本来であれば、組織は互いを食い潰しあうもの。

自分と意見が同じだから集まって組織ができる。
集まる理由は、数の論理で自分たちの意見を
違う意見と対峙させるがために。
そうするがために、組織が出来ていると認識できないか?

同盟を総否定するわけではないが、
同盟をするにあたり、
目的があるのなら、達成後の解散も念頭に
同じ行動というのなら、どこまで同盟での活動でそれ以外は所属組織の活動かを
明確にしておかないと、同盟そのものの意味が失われ、
傷のなめあいの集会になりかねないので、
線引きたる綱領が重要だ。

2009-04-23

財宝

宝探しとか、
トレジャーハンティングとか、
聞くと夢とロマンを感じる人がいると思う。
でも、それは窃盗行為ではないか!

探しだす立場から楽しんでいるとしても、
それはセキュリティーをかいくぐって来る脅威でしかない。

財宝を隠すには、それ相当の理由がある。
逆に言えば、そういう窃盗犯からできるだけ守るためにであり、
本末転倒的なことになる。

宝探しの魔の手から、厳重に隠す。
その厳重なセキュリティーを破って宝を得る。
そんな宝探しをするほうに贔屓目で見ているかもしれないが、
この行為は、ハッキングと全く同じである。

見た目、立場を変えれば違ってみることができるが、
本質論に立ち返れば、
自分のものでないものを相手の嫌がっているやり方で手にしていることに
変わりない。
違法性、悪事の認識が人間に弱いことが伺える。
そう、人間は性悪なのだと。

2009-04-22

評論

自分の経営哲学において、
認めない行為の代表的なものといえる。

評論をすることで、
生産性が高まるのか?
新しい付加価値の創設につながるのか?
答えは、どれだけ言い訳を作っても、、否である。

仮に評論のおかげでということをいうが者がいるが、
それは、その評論を受けた後の行為自身に価値があるわけであり
その評論に価値はない。

そもそも、評論という行為自身が主体行為であることがありえない。
自分の思い描いている検討案と相手の検討案が
似ている
異なっている
ことをぶつけているときに、
相手の意見が自分からすれば、評論に見えるだけであり、
それぞれは自分の案の実践にまい進しているに過ぎない。

無下に、部下、社員という相手を評論だけして自分のア意見を論証できなくなったら、
この椅子は論証しているものに譲るのが、最善の経営判断と僕は決している。

2009-04-21

洗濯

物事を洗い、濯ぐ(すすぐ)ということ。
物質では、衣類に使われるが、食器に使われない。(使うとしての洗浄という)
精神では、心の洗濯というが、心の洗浄とは言わない。

洗濯と洗浄の違いは、、というより、衣類も心もなぜ洗濯なのか?

洗うとは、
表層に付いてるものを
中和要素(水にあたるもの)で
取り除く行為

濯ぐとは
内部にしみこんでいるものを
洗うと同じように中和要素を用いて
抜き出すこと

浄めるとは
すべてを無垢にすること


IT好きなみなにわかりやすくすれば
洗濯は、過去復旧 バックアップリカバリ
洗浄は、初期化  フォーマット
と思ってくれて構わない。

衣類は買った当初から
すそ上げ等のカスタマイズや色あせが逆に味になることで
ある意味、買った当初に戻すことは求められない。
今ある、汚れを取り除きたいがために行われる。
対して、食器はカスタマイズはしないから、
漂白剤等で洗浄して、買った当初の姿の維持に務める。

対して、心の洗濯も、初期化という赤子レベルというより
ある程度、自分が落ち着いていた時期と同じようにしたいために
水ではなく、いろいろな嗜好要素という中和要素で自分を取り戻すとしている。

洗濯行為は
行動の最後に
現状において、いらないとされる汚れを取っておく終了行為でもあるし、
次のステップに進むために、開始準備行為でもある。

洗濯は終わりか、始まりか どちらと捉えるかは
その当人のこれからの生き方そのものかもしれないなあ

2009-04-20

領域

地理的、論理的、にてある状況下にあること。

自分の領域を堅持することは
相手の抗争を生み出す温床と言える。

その領域内に進入するということは、
進入行為に排除活動を誘発する。
その領域外とみなすことは
他者への責任委譲、自己の責任放棄を導く。

最近は、自分の個性、専門ということを容認しているために
’領域’を作りたがるが、その領域意識が
人間関係、社会秩序における隙間を導いているといえる。

「ヒトの領域に入ってくるな」
「自分の領域ではない」
「それはあなたの領域ではないか!」

領域の線引きが個々人に任せているので
結局、漏れが発生してその責任を押し付けあう。
物事を円満にさせるためにはその漏れを処理することが
一番重要だと思うが、なかなかそこに気づかない社会になっているなあ。

2009-04-17

収支

自由資本主義だからこそ、
収支の実情を理解したうえで、
夢や理想を求めなくてはならない。

いくら、高い夢を理想を持っているとしても
それを実行する原資を自分で集め、その支出を最適になるように
計算したうえで実行しなくてはならない。

その理想を実現するための準備段階であれば
仮に理想と逆なことと思われることも行わなくてはならない可能性もある。
そのことによって、理想から離れるのであれば、
それはそれだけ小さな理想だっということに感じられる。

これを論理矛盾というかもしれないが、
戦争をなくすための聖戦って言ってきた人間の歴史が物語っているし、
今の社会は古人たちの理想のはずでもある。

現代社会にて実現できる理想は
その自由の代償としての稼いだ収益と
理想を効率的に行う支出の計算どおりにされていること!
そのものなのだろうな。

2009-04-16

整理

整理整頓ということは、いつになっても耳にする。
整理するとは、どういう意味か?
多くの人間は、今あるものを片付けることを整理としているが、
よーーく、考えてみれば、
片付けるということより、
次に使用しやすいようにすることこそ、整理だといえる。
言われてみれば、その通りであり、
その場しのぎで片付けるとその結果、またもとの通りになり、
整理しなさいといわれる。これの繰り返しだ。

しかし、次に使うのが自分であり
自分の行動をいかに効率よくするとした場合、
その整理方法が導かれて、整理が常時行われる。
効率的な配置は整理しているとされるといわれるのは
その結果だといえる。

だから、整理しなさいって言われている以上、
整理できないって思う次第だ。

もっとも、汚いと思われる部屋でもそれはそれで
当人には効率的といわれてしまうとそれもまた事実であり、
汚いをどう感じるかの美的感覚の差異であり、
整理の議論ではないのだが、大義名分に整理を使い
自分の美的感覚を押し付けるのも、
また人として整理されていないのかも??