自分で自分のあやまちを責めることとされるが、
自分のあやまちの範囲をどれだけにとらえるかで
いろいろと考え方が変わる。
一般的なレベルだと
他人のあやまちと自分のあやまちを区別してしまうが、
自分に関わるあやまちは、他人でも自分のあやまちと
すべきと僕は思う。
相手を信用したこと
相手を選んだこと
相手に指摘しなかったこと
これすべて、自分ができていないあやまちであるといえる。
そのあやまちを二度としたくないがために、
相手を使役、制裁に至らしめることは僕の中で至極当然なのだが、
一般的は、狭量のもの、つまり自分のことまで相手のせいにするものと
結果的に同じみえてしまうかもしれない。
自責は自分の自覚、
他人から言われるものではなく、
自分の判断で、自分が自分であるために相手に影響、作用させること。
これって自由主義そのものの現代社会では当然のことだが、
どうも、社会全体として見失っている感がある。
0 件のコメント:
コメントを投稿