2009-12-25

許容

受け入れられる限界と捉えるべきだろう。
多くの人間は許容を考えるときに
受け入れる側の規模を中心に考える。
つまり、どこまで詰め込めるかを視点に置く。

しかし、その認識は間違っているというべきだろう。
受け入れる側の規模や送り側の規模よりも重要なのは
その2つの間にあるバス、送り手法の性能が一番重要である。

そのバスとなす手法の性能が高ければ高いほど、
許容はいくらでも修正、補完できるものである。

物理的に見れば、
プールの水をすべて近隣の池に移す際に
スポイトで行っていたら、永遠に終わらないだろう。
スポイトよりバケツリレー、そして、給水車のポンプのように
送り方法の性能を向上させられれば、仮に池が満水になっても
その水の活用方法は消火や噴水に転用できる。
スポイトではそこまでにいたらない。

これは、人間の理解にもいえるものだが、
理解の場合は、少なすぎても多すぎても理解にとっては弊害で
ちょうどいい適量を見出さなくてはならない。
少ないということは、簡単すぎて飽きてしまう。
多いということは、理解する行為の難しさから逃げてしまいかねない。
相手の許容に対する適切なバスを見出すことが求められ、
その汎用テンプレートが教育カリキュラムともいえる。
汎用テンプレートだからこそ、
その個々人の許容量、バスに合わせて加工していかなくてはならないといえるが、
ついつい、人間はその行為を怠り、
許容に対して、なぜできないのかって責め立ててしまう。
なかなか大きな課題といえる、人間間のバスの育成は。

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