ある事について、互いに意見を交わし論じ合うこと。
討論、議論の意味を表す。
今までのこのサイトでの論調どおりで示せば、
自己と他人とは相容れないということであり、
討議は無意味に近いという帰着になると思われて、仕方ないだろう。
その持論を曲げずにも討議の必要性はあるといえる。
他人と相容れないが、行動の主体が他人に行ってもらう、
使役関係においては、命令よりも討議のほうが重要である。
命令どおり、他人が動くことは稀である。
なぜなら、他人との認識の違い、身体の際、行動速度、
すべてが異なるのだからである。
だから、思ったとおりの命令結果を期待してもその通りの
結果はまず出てこない。
しかし、討議の上ならどう思えるだろうか?
そもそも相容れない存在への使役だからこそ、
期待どおりでないからこそ、その結果でもって、
自分が
妥協できる、
フォローできる、
改修しやすい、
という状態にもっていくことを意識すればいいのではないか。
互いに討議した結果、いい答えがでる。
まずありえない。
多くの会議のいい答えの結論は、、問題の先延ばしと言い切れる。
僕の示す討議は、行動使役そのものであり、
互いの主張ではなく、使役側と被使役側との行動範囲選定、
それしかないと思う。
討議こそ、命令の進化のカタチであると定義したい。
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