2009-08-21

事件

世間ではいろいろな事件が起きているとされるが、
それは間違いといえる。
現代の我々は、事件の情報を知りすぎているのだ。

人権意識による個人特定
技術、産業の趨勢による高度情報化、マルチメディア化
により、見る側、送る側においてコンテンツに事欠かない。
100年も前であれば、
事件という概念でなかったものが
コンテンツとして、取り上げられて報道されている。

正確な情報が取れないからこそ、
断定はできないが、人口と現在事件とされる事象の割合は
そう変わらないと思う。
ただ、その事件について、情報伝播の速度、解明の論理性は
全く異なる勢いで現代社会に現れている。

例をあげれば、
江戸時代、餓死、孤独死は事件ではなく、処理のレベルであった。
飢饉等による日常性や死因の主流だったし、
そのことをかわら版に乗せるコストに見合わないからだ。
しかし、現代では餓死をすれば、全国区の報道にのるだろう。

死体なき消息不明は
神隠しという、人智を超えて存在の力として扱われたりしていたが、
現在は失踪宣告、捜索願がまかり通る。


一面、社会互助の意味合いではいいことだと思うが、
その分、社会迷惑、社会体裁を考えれば
いらぬ情報が出回ってレッテルになることも忘れてはならない。

ひっそりと終(つい)を迎えたいのに、
社会に取りださされて、挙句に「社会に救われたくせに」
なんて言われるこの社会。

価値観にもよるが、
事件に振り回される社会が正しいとはあまり感じていないし、
自分としては、自分の周りがそんな情報に踊らされないように
心掛けることを常に促し続けないと、自己存在が見失われるのではないか感じている。

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