遊びたわむれること
深い意味では
幼稚園や小学校などで、運動と娯楽を兼ね、
集団内での役割を自覚させることなどを目的として一定の方法に従って行う遊び
のことを指す。
遊ぶという行為は
非生産性の意味でつかわれることが多い。
学業、稼働の反意の意味で用いられるからである。
しかし、遊ぶということは非生産なのだろうか?
確かに非生産ではあるが、間接的は生産性の根源ではないかと感じる。
遊ぶことにより、
日頃の精神的負荷の発散を行い
次の生産の精神的な糧になるということ
遊ぶという行為の多くは浪費であり、
その浪費があるからこそ、生産しなくてはならないという発想に繋がるのではないか?
遊戯、娯楽は決してなくてはならない。
というより、人間が人間であるのはこの遊戯、娯楽に興じることができるからである。
衣食住を超えたところに、自分の存在を示す歓びに身を投じる
経済的、嗜好的、そして社会の寛容性が成り立っているからこそ、
人間らしい生活になると思う。
遊戯に、娯楽に、趣味に、もっと興じていい環境がなくては
次の生産性へのモチベーションやアイデアは生まれないと思う。
僕自身、そして僕ももつ組織自身に遊戯を認める許容を持つようにすることが
今後の抽象的だが大きな目的である。
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