2010-12-31

医療

人の命と健康を守るための行為であるが、
本当にそれが社会的に正しいのだろうか?

幸せ=長生き、ではないと僕は確信している。
それに現代社会にいたるまでの長い年月、
人は死に際に美学を求める行為に勤しんでいた。
無駄な延命は命より大事な誇りへの、家系への汚名とされた。

それに医療の発達が逆に不幸を導く実証を経験をした。

父は
定期健康診断結果として医者の言われるまま、
肺がんになるから、たばこを辞め
元気な体作りのために、適度な運動を言われた。
それなのに、
ストレス性の胃がんが発症、健康体ゆえに
がんの進行が早くあっけなく死んだ。
医療を信じてこの結果である。
ある意味、夭折したと思える感はあるし、
所詮医療が発達しても無駄なものは無駄だと痛感した。

そして、父の兄である伯父は
高血圧、高脂血漿、すい臓病で
ことあるごとに入退院を繰り返しているのに
もう喜寿を迎えている。
その分の高額医療費で生活苦になっている。

生存権のもとに医療を発達させたが
人を幸せにしたのか?
その延命行為に膨大な費用をかけていることで
個人、社会を不幸にしているかもしれない事実を
命の価値という大義名分で割り切ることにいささか疑問を感じている。

新渡戸稲造たちが国際社会に説いた

武士道

が近年までの大義名分だった国家のあるべきすがたなのだろうか?

2010-12-30

良問

受験や資格試験の過去問題解説や問題集において
「この問題は良問です」
と表記されているものがある。

この表記の基準が僕にはかなり不可解に思える。
基本、出題者と模範回答者は別人格であり、
出題者の意図と模範回答者の気持ちは通じることはない、、
通じてしまったら、それこそ癒着賄賂につながる。

一度大学の教授に聞いたのだが
入試問題について、
学校や予備校の講師たちが
「○○について理解しているかどうかを問う問題なので、出題者の意図を汲み取って、、」
という説明をしているが
当の大学の出題検討している人たちは
広報レベルではそれなりに考えて発言するが
問題作成の時には
「こんなことを知っていて当然、ちゃんと勉強して来い」
という発想であり、出題者の意図というレベルは
回答、解説者の自分の正当性の言い訳に過ぎないとのことだった。

僕の思いとして
問題に良し悪しはないと思う。
出題された以上、それに対して答えるだけである。
いろいろと憶測を練って考えていることは、、、
基本的に目的を異化していることになる。

ひとつ言いたいのは
良問を解くことは目的ではなく
出てきた結果を得ること、合格することであればよく
その問題がいい問題だったということにこだわるのは
その先の目的を見失っている証拠である。

資格が持っているに越したことは無いが
それを持つこと
問題の良し悪しを語ることが
ゴールになっているのはいかがなものか?

2010-12-29

真打

噺家の世界の、前座、二つ目、そして真打となる。
高座において、最後を務められるくらいのうまさ
しめ方を持っていると認められた存在とされる。

転じて、社会活動においてキーパーソンにみ当てはまるところで
使われたりしている、なじみのある表現となっている。

しかし、価値はインフレを導く。
真打とされるものが重宝されればそれるほど
その器がなくても真打にあげてしまい、
真打全体の質が下がることになる。

そうなると、真打の中の真打みたいな存在が出てくるだろう。
現在の噺家の世界では、真打の上は明確になく
名誉としての名人格、そして名跡の襲名がある。

これは噺家だけではなく、どんなところでもあり、
相撲も偉大なる関取で、大関が最高位だったのが
その上である横綱という存在を導いたり
京都の五山に相国寺をを追加したいからって
南禅寺を五山の上という地位に格上げしたりと。

すべての価値は市場原理なんだろうなと感じる。
結局、どんどん階層、階級のカテゴライズが陳腐化していくので
それ以上の地位を求めてしまい、今の地位が相対的に低下する。

逆に言えば、
新しい最高位が出てくる環境とは
現時点で活性化、社会的認知度が高い環境ということができる。

芸事も市場も
現在認知されている最高位という地位に就くことはゴールではなく
新しい最高位を創設することが永遠の命題かもしれない。

2010-12-28

新聞

新聞の論調に
「新聞が衰退したら、民主主義は終わりである」
と記事があったと話題を振られた。
僕に振られたのは
電子化、政治学専攻の観点から
ご年配から振られたネタだが、、、、

僕の見解からして、
新聞も民主主義もすでに過去のものであり、
それに価値はないと断言できる。
新聞記事の論調が既に破綻している。
新聞と民主主義は関係ない。
もっと言えば、現代社会と新聞はすでに民意と離れている。

新聞は第4権力であるメディアの旗手のつもりでいるが、
それは日本の中堅大手新聞社が行ってきた宅配制度による悪しき結果だ。
人々は毎朝、決められた新聞社の社説、見解を読み
鵜呑み、洗脳していていた。
これは民主主義における表現の自由の背理である
情報の選択の自由を抑止しているわけであり、
民主主義とは言いがたい。
新聞社に都合のいい民主主義であったともいえる。

現代はIT技術の高度化、個人思想の自由化で
誰でも、自分の意見を不特定多数に配信できる時代になっている。
決まりきった情報統制から離れた
新たな時代に入ってきたのかもしれない。

新聞社からすれば、自分たちの作った
思想統制でなりたっていた民主主義の崩壊かもしれない。
もっとも、新聞の見えない統制から離れた民意が
自由なのか
混沌なのかは
後の時代に評されることになるのだが。

2010-12-27

通勤

弊社において、創業して一番初めに否定した社会通念かもしれない。

出勤行為は必要だろうか?
この点から考察して、
必要性どころか、
負荷でしかないという結論になった。

・個人が作業に集中できる場所は会社か?
・出勤、帰宅にかかる移動時間は稼働時間ではないのは会社のエゴではないか?
・交通機関の障害による通勤遅延を遅延証明にして会社は意味があるのだろうか?

僕からすれば
作業場所に集まる行為は集団知の効率化より
作業停滞の談話の促進につながるとみなしている。
ならば、作業は個々に依存、
集まる理由があるときに集めることが
真の作業効率として、通勤行為をなくした。

それにより、
社会通念との乖離している自覚をもって経営しないと
社員が勘違いするのは、弊社に限ったことではないので
気をつけているが、
無駄な行為を否定することに気持ちは常に意識すべきだと感じている。

それにしても
交通網が発達したことはいいことかもしれないが
毎日のように運行遅延が起きて
勤務時間に支障がでる社会は
いかがなものか、一歩引いて社会を見ることは日本人はできないのだろうか?

2010-12-24

削減

バブル経済の崩壊後
多くの企業体でとられてきた施策は
削減という御旗と言い切れる。

コスト削減
経費削減
稼働時間削減
人員削減

そのことを可能にさせたのが
IT技術なのだが、皮肉にもそれが現在の不景気の要因になっている。

コスト、経費削減が
仕入先企業の発注額を下げて、
企業倒産を導いている。

稼働時間、人員削減は賃金水準を下げて
家計の収支を圧迫、購買層の小規模化、衰退を招いている。

削減というものは
大きく言ってデフレーションそのものである。
削減を目的に経済活動すること自体、市場否定である。

削減は過程でなくてはならず、
ある目的を行うために、現在の多くの力を集中している箇所の負荷を下げて
余った力を目的に当てる、力の再分配の成功要因でなくてはならない。

無駄に声高に
「削減、削減」といわずに
プラスなものを見出して
そのために再分配をする結果としての部分削減を意識しないと
削減の根本的に考えれば、自分がいなくなることこそが大幅削減といえるのだから。

2010-12-22

引金

現代日本において
本当の引き金を弾く人はそう多くないが、
毎日のように人々は引き金を弾いているような社会になっている。
引き金をひくとは外来語のトリガーに由来している。

トリガーの意味は塞き止めているところを開放するに近い意味である。
この意味が現代社会しいては日本社会の現れと感じてならない。
つまり、多くの人々はないかしらを塞き止めている。
感情
問題
禁忌
それらを表に出さないように生きることが社会生活であり、
互いが互いにそのトリガーをひかないようにしてするべき社会である。
ある意味、アーケードゲームにあるイライラ棒のようなものである。
高度成長期までは、そのトリガーを触らないようにしてきたものだが、
個人主義の横行、個性の偏重が
自分のトリガーしか見えない人間台頭いや
精神的社会生活レベルが低下したがゆえに
他人のトリガーを引いていることに自覚がないのである。
だから、毎日のように対人関係はトリガーの引き合いになっているように映る。

僕のようにわかっていてあえてトリガーをひくことにより
その人との関係を計算しようとするレベルの所謂騙しあいなら
知的ゲーム感覚で探りあいができるが、
現代社会はゲームというより自分の我を通すバトルロイヤルにみえて
計算なく、他人のトリガーをひきまくっているなあって感じる。

2010-12-21

送迎

高級官僚、会社の役員幹部が社用車で送り迎え。

なんかバブルのように感じるし、
それが今で言う事業仕分けの対象になるだろう。
社会悪のように思われるが、それは一概に言えるのか?
庶民発想すぎないか?

僕の祖父や父の得意先は所謂、戦争成金のなりあがりであった。
だから、社用車での送り迎えというものを身近に感じていた。
そして、未就学児のときに
大手の得意先の社長からこんなことを言われたのを
未だに覚えている。

おじさんたちが、
運転手さんに送り迎えをしてもらうのは
電車が嫌いなわけではないのだよ。
おじさんたちを嫌う人に命を狙われたり
おじさんたちをさらって、お金を脅し取られないためでもあるんだよ。

という言葉だ。
今になってそう感じた。
成金はお金を持っているからこそ成金であり、
日本ではお金持ちは卑しいと蔑まれるし
身代金要求には、あまり本腰ではない国家レベルであるから。

まして、現代社会。
身代金誘拐が国産犯罪化している昨今もあるし、
社員の命で会社の存亡に関わる身代金ならば、
社用車で送り迎えのほうが安く済む。

社用車とて、
会社で車を買い経済活性化させ
会社の営業品目でない行為で運転手を雇用できる。

害よりも社会益が多い行為だと思う。
そもそも、庶民根性が現在の景気の圧迫を呼んでいるだから
庶民よりの発想を捨てて、考える時代になったと思うことはできないだろうか?

2010-12-20

民意

民意というものは、現状否定ということに尽きる。
古今東西、民意とされるものは現状批判になっている。
今のままではいやだという趣旨の回答ばかりである。
つまりは変革、刺激がほしいだけではないかって感じる。

そのうえ、熱しやすくさめやすい。
ある指導者を選んだ半年後には
その指導者を国賊呼ばわりすることは歴史、現代の事実が物語っている。

民意に長期視点はない。
それゆえ、民意の強い国家運営は一進一退で進化が遅いどころか、
相対的に逆行していることもありうる。

あえて言えば、
民意を尊重し始めた段階で
国家反映はなくなると思うべきである。
なにふり構わず、否定しているだけなのだから。

これは国家レベルでなくとも組織、会社もそうだ。
社員優遇を言い出すと
結果的に顧客信頼との天秤となり
会社としての与信をなくす結果をごまんと見てきている。

民意によって選ばれた存在ほど
八方美人の風見鶏であり、
選ばれたことがゴールになり、それ以上は無理というもの。

新しい価値観、長期視点で変革を求めるならば
既存の民主主義最善論を捨てる時期であると言い切れる。

「未来の子供のため」
という真意には
今の人間が生贄にならずして
成り立つわけがないことを自覚すべきだ。

2010-12-17

育成

健全な肉体、健全な精神とはなんだろう?
そしてそれを求めることは健全なのだろうか?

そもそもおかしいと思うのは
健全な精神の子供たちを育てるために
悪いことを排除した教育をしよう。
なんて発想は自体が健全ではない。
それは思い込みの人格洗脳でしかない。

いろいろな経験、
場合によっては如何わしいことに触れてきたからこそ
ものの有用性、大切さがわかるものである。

「これがいいことだ。」
「悪いことに触れてはいけない。」
という温室育ちが健全だろうか?
やっていることは、
ブロイラー育成、
農薬加工栽培の野菜と同じで
外害に弱い劣勢種の生産に変わりないと言い切れる。

現代社会は他人に理想を突きつけて
自分はやらなくていいと思う思想が多すぎて
結果、他人批判しかおきていないのも
この健全育成という夢物語信仰の悪しき成れの果てと思うべきである。

やけどしたことのない人間に熱さの痛さ、怖さを理解できようか!

2010-12-16

肩書

最近の日本において、どう間違ったのか、
肩書の存在、運用が形骸化されている。

はっきり言えば
名刺の1ラインだけになっていると言い切れる。

肩書は

・上下責任の所在認定
・社内の絶対的ランク付け
・給料体系

を象徴するものであり、この肩書きだけで
社内外の他人に簡潔に自分の存在意義を示すものである、、べきだが、、

・プロジェクト制による地位の乱立
・肩書きでの呼称を嫌う不敬文化の正当化
・能力主義

で責任の所在やその人物の存在意義が
社外どころか、社内でも全くわからなくなっている。
そんな状態で、正当な絶対的な査定、評価が可能なのか
会社を持つものとしていささか疑問に感じる。

会社は学生の学級会ではない。
たまたま、日直、班長になった存在では責任はとれない。
みんながんばろうという落としどころは存在しない。
組織内外に示すをつけるために、賞罰必須をとらなくては統治できない。
だから、肩書きによる責任とそれに伴う対価が求められるのである。

上記の思いをしっかり受け止めれば
真の社会人ならば、
必然的に肩書で呼び合うことになるはずである。

2010-12-15

職人

創作技術を生業とする者たちへ
職人をprofessionalとしたら
芸術家をartistとしたら
としたら、決定的に違うのはなんだろうか?

お金を稼ぐかどうかだって?
日本のアーティストといわれる人たちは
高額納税者に名を連ねていることを考えれば
彼らをartistにした場合のprofessionalの定義は?

いろいろと言い訳のような定義を耳にするが
結論はここに示すものが正解と言い切れる。

professionalである職人は
無数の縛りを抱えた中での結果を導く存在であり、
artiastはsの縛りから解き放たれた自由発想の創作活動者といえる。
その縛りは
時間的
環境的
予算的
なものであり、
出てくる結果のアウトラインを多くの関係者と意識の共有が行われた
創作活動の結果を求められる。

対して、artistとされる芸術家は
その芸術家の感性、思い、表現の方向性の結果であり、
出てくる結果への納期、完成場所、無論金額も算定できないものである。
結果により、初めて関係者に意思の共有が初められるのである。

Businessにおいて
artistic な完成はいらない。
professionalとして、与えられた条件のもと
結果を出せるそんな職人気質を強く求めたいものである。

2010-12-14

才能

個人の才能というものは
個人ではなく、その才能を引き出した人のおかげである。

断言できる。
才能を出すのは自己啓蒙では決して無理であると。
なぜなら、才能というものは他者評価であり、
自画自賛では才能とは認められない社会なのだからである。

とはいえ、才能なんてものは無能の紙一重。
時代ともに評価は変わる。
抽象画をうまいといえる社会があるから、認められるピカソの絵画。
ドラクロアの的確な描写力よりデジタルカメラのほうが解像度が高いので
デジタルカメラ作成者をたたえることができようが
ドラクロアの描写力を未だ持って評する。
石川啄木が評価されたのは、死した後のこと。

個人が自己の才能の気づくのは
生前ではなく、死した後のほうであり
かつ、経済的な投機マネーの臭いがしてならない。

今、自分の才能が認められないと思う人が多いと思うが
それは才能というより、投機マネーの対象に現段階では値しないからであり、
そして、あなた自身がまだその才能に固執しているから
評価されないのかもしれないと理解してわりきったほうがいいと思う。

2010-12-13

試験

試験、テストの趣旨が
社会としておかしくなっていると思う。

「100点をとれた。」
「基準以上の点数を出しています。」

という言葉が踊っているが、これは品質を下げているという可能性のほうが高い。
つまり、基準のしきいを下げれば、下げるほどその合格ラインに
届きやすくなり、言葉の意味を誇大表示したことにならない。

そもそも、テスト、試験の必要性は
品質維持と同等に、発生した不具合から今後の改善点、改良の種を見出すことでもある。
不具合が出ることは、
問題ではなく
改善への一歩である。

間違えたことを責めるは愚の骨頂であり、
間違えたことの原因、要因、再発の可能性の因子を
洗い出すことで全体品質の向上が図れるものである。

まして、現代社会の
オンラインによるパッチ配信
機能改善の機会増大
により、完全なものの出荷より
出荷後の定期改善、メンテナンスがあることが
よいサービスと思われる社会価値観の変革であればなおさら
試験の目的は
合格点より
不合格ポイントへの対処が
重視されるといえる。

2010-12-10

芸術

生産性はないが、精神を癒す形而上活動といえよう。
この定義からすれば、
娯楽はすべて芸術ではないかと思う。

現代日本人は愚かにも
彫刻、絵画等を崇高に考え、
漫画や人形の類を相対的、絶対的に下等にみなす傾向がある。

僕からすれば
古典芸術はその芸術性は薄れ
資産的ステータスに異化されている以上
真の芸術性を持っているのは
現在身の回りにある娯楽そのものではないかと思う。

バロックアート等を美術館で1時間見続けるのと
漫画喫茶で1時間読みふけるのでは
どちらが精神的に楽だろうか?

多くの現代人は漫画喫茶である。
美術館でくつろいでいるのは、
現代社会では少数派であり、
その少数派が崇高とは僕にはまったく思えない。

ゆえに僕は
古典芸術とされるカルチャーとされるものと
漫画等のサブカルチャーとされるものと
を同一軸で楽しんでいるんだが
なかなか庶民には階層立ての壁があるようで、、、僕には理解しがたい。

2010-12-09

充実

充実した生き方とは、
不自由であることが必須条件といえる。

不自由が少しずつ改善されていく過程こそ人間が充実感を得るものである。

だからこそ思う。
治世、監督者の行うことは
生活改善ではなく、不自由要素を常に提示し続けることではないかと。
生活改善を提供してしまっては
充実感をえられる過程の機会をなくしてしまうどころか
庶民は与えられて当然、
もしくははじめから持っていたものと錯覚してしまう。

普通選挙権は今では当たり前だが、
これを獲得するのに多くの人々が苦労したことは
現代人には教科書レベルでもわからないのだから。

便利、よい生活と自覚するためには
不便、苦しい生活を経験しなくてはならない。
それゆえに、充実感、幸福感をかみ締められる。

それを結果的、作為的でも経験させることも
人の上に立つものの使命ではないと最近は感じる。

2010-12-08

将校

兵隊たちからすれば
「将校は口で言えばいいだけで、現場で生死をかけるのは自分たちだ」
という論理で騒ぎ立ている。
多くの物語やメディアもそのような論調で表現を展開している。

しかし、そうだろうか?
本当に将校という存在はそういうものだろうか?
強いて言えば、現場管理職として兵隊たちより楽な存在だろうか?

僕は現代の管理職を含めて思う。
管理職は現場のために、全方位で戦わなくてはならないと!
それは味方なき戦場ではないかと。

兵隊の存在意義を常に矢面受けて立たねばならない。
行動の正当性を上層部に説明、納得させ、
行動のタイミングは兵隊たちに統制させて、
戦果の立証を多くの第三者である人民に伝えなくてはならない。

上も下も世間もいろんな意味で、敵である。
それに対峙し毅然としなくてはならないのが将校、管理職である。
現場サイドは目の前の行動を遂行する’だけ’でいい。
その前後に控える、生き地獄をかいくぐることは考えなくてはいいからだ。

目の前のことに当たるだけで文句をいうより、
その前後に耐え難い、罵声と蔑視をうけ続けることにどれだけの人間が気づいているのだろうか?
現代の管理職不足の多くはこの事実に耐えられずに
現場に逃げることへの自由があることもまた不足を呼んでいるのではないかと思う。

管理職の苦痛を理解、敬うことが組織を強くすることと思うし、
その管理職を助ける気持ちや守る気持ちを持つことが
組織の結びつきを強くするといえよう。

もしかしたら、
読者のお父さんももしかしたら
それ相当の将校、管理職かもしれないのだから、
敬ってみては?

2010-12-07

本質

本質を見抜く。
難しいとされることと言われることだろう。
しかし、僕からすればそれはそう難しくない。

こう書いた内容を見て
「お前にわかるわけがない」
っと思った読者は見抜くのが難しいではなく
才能がないと思うべきである。

本質とはありのままのことである。
見たままであり、それを見抜けないわけがない。
問題は、それをどう他人と共感できる表現で伝えられるかである。
見ているものが同じでも、
それをどう表現するかは、その人と伝え手の関係にも依存する。
気の聞いた表現だとより伝わるのだが
なかなか伝わらないゆえに、
その本質を見抜けていないと揶揄されるのが現代社会、人間関係であるといえる。

本質を見抜くことなんて簡単であり、
その次にその本質からどう有益な事象に展開していくかが
現代人に足りないとしか言いようがない。

知っている、見抜いたことなんても
僕らすれば至極当然。
それゆえにどうするかを考えて発言、行動を続けろといいたい。
まして、聞き手がその事実を否定することで何が得られようか?
相手の思い込みを否定する前に、
自分の固定概念の再編成を意識すべきである。

2010-12-06

模倣

他人の行為を真似る。

文化交流誌の社説からの引用なのだが、
欧米では、オリジナルへの意匠侵害だが、
中国では、最高敬意である。
この論理から、中国では違法コピーを悪いと思うどころか
オマージュとしていいことと思われる文化なのである。
欧米からいろいろといわれるから、
違法コピーを取り締まるのだが、
根底にはなぜ怒るのかわからないという思いが中国にはある。
そうだ。

日本でも、師の教え、伝統継承伝というものを尊ぶ。
しかし、切り口を変えれば、模倣そのものである。
日本では、
親しき存在の模倣は尊ばれ
見ず知らずの存在の模倣は不正コピー
とみなされることが多いが、これは独特の観念と言い切れる。

中国からすれば、
いいと思う気持ちがあるから模倣し、
それに共感するひとにその気持ちで真摯な価格で提供している。
こんなまじめの思いを違法コピーといわれることが理解できないという。

国が違えば、感覚が違う。
模倣を違法コピーとして取り締まるという概念は
これからの高度情報化社会ではナンセンスになると思う。
誰の模倣か、どっちが先に行ったかが明確にできないくらい情報が早いから。
これからは模倣されることを抑止するより
模倣されることこそいいものの証拠と割り切っていくことになるだろう。

考えてみれば
今生きている人々の人生なんて
99%は他人の模倣だと思う。
親、兄弟、先輩、先生、技術の先人からの
Copy & Paste でしかないではないか。

2010-12-03

先読

洞察力が高いゆえに僕は相手の行動を先読みできてしまう。
一聴すると、先読みができるということはとてつもないアドバンテージに感じられようが、
基本、現在社会において過ぎた能力は身を危険にするもので
必ずしもいいものではない。

先読みをできたことを第三者に伝えてしまったとする。
それはある意味予言になり、そのとおりになる。
そこで賞賛されるどころか、人間は強欲で
「わかっているなら、どうにかしてあげればいいじゃないか!」
という発言で僕を責める。

では、それを伝えたら、
行動を予測された相手は烈火のように怒り
「お前に言われる筋合いはない、自分のことは自分でわかる!」
と言い放つ。
この指摘によって得られるものは何もない。
予測どおりであると、なかろうと
「お前が言うからだ!」
という結論しか導かない。

まして、
行動予測して被害を蒙るだろう存在に助言をして貢献したつもりでも
本来加害する側の責めをかわり、こちらに対して矛先が向けられる。
なんとも、憤慨の至りだ。

所詮、
相手の行動の先読みができたところで
自分に得られるものは少なく、
それを自分以外への貢献に変えると大きな不利益になるだけである。

アルジャーノンシンドロームというべきかも知れないが
過ぎたるは及ばざるが如し
社会生活という範疇においては、異能は使わない限る。

2010-12-02

肉食

今回は自分の主観、経験の結果から認めたい。

肉食系という言葉が流行している。反対は草食系といわれる。
肉食、、、肉を食べることをこよなく愛する人についてだが、
僕の見解では攻撃的というより、
むしろ防御、、耐えしのぐタイプが多いと感じてならない。

イメージや既存の概念に抵触する発想だが、
実際に論理構成をすれば、自分の中では説明がついた。

本来の肉食系の動物は
肉を得るために、
瞬発、致命傷、噛み砕く、
と獰猛な能力が要求される。

しかし、現代人が肉を食べるのはどうだろうか?
まず生きたままの肉を口にすることはない。
それゆえに屠殺から肉として食するまでに時間がある。
また、そのためにほぼ多くの肉料理は火を入れる。
そのほうが、滅菌、柔らかく、そして美味になるからだ。
対して、
魚や野菜は場合にもよるが
生食と鮮度を要求することが多い。
刺身やサラダは噛む力が弱くても食べれてしまう。

肉は口に入れるまで
長い時間を待たなくてはならない。
そして、鮮度にもよるがよく噛まなくてはならない。

ゆっくり時間をかけて、よく咀嚼して食す。
そして、食することで体を大きくしてしまう栄養素が多い。

本来の肉食系動物というより
太古ではブロントサウルス(今はアパトサウルスが正しいのだが)
近代では、象や犀、河馬に通じる
草食系と全く同じ行動である。

そう考えて回りを見渡せば
肉好きの人間は攻撃的というよりは
あまり騒がず、重鈍な確実な運びを得意としているように感じてならない。

肉食系、、、
実際の生態とイメージは必ずしも一致しないと思えてならない。

2010-12-01

証拠

現代社会において、
それだけでは意味がないものになってきている。

例えば、

「れっきとした証拠がある、だから自分には非がない」
「これだけの証拠が示すように、あいつが悪い」

と立証したとしよう。
しかし

「非がない?だから、それでお前は何もしなくていいという意味ではないだろう!」
「あいつが悪いのはわかった、でも現実問題、お前がどうにかすることは変わらない」

というのが、日常茶飯事である。

確かに、証拠を示すという行為は
人間社会において、経緯、納得、責任の所在という点では
重要視できなくはない。
が、現代社会はそれだけでは全く無力なのである。
場合によっては
証拠を持っているからこそ、狙われ不利益を蒙ることが多いことは
仕事に忠実で優秀な人ほど感じているのではないだろうか?

証拠は武器における砥ぎ石にすぎない。
砥ぎ石では、相手を倒せない。
その砥ぎ石を使って、己の武器を鋭利にして
相手を倒すのである。

その武器は
現代社会では活動提言であり、賠償、代償請求である。

証拠があるからといっても、この世では何もならない。
証拠を持っているから、他人があなたを救うことも期待してはならない。
証拠がある以上、
自らその事実を自分の意思の礎にする思慮、覚悟を持たなくてはならない。

2010-11-30

講義

上場企業の勉強会に数度、
若手に対しては頻度よく、講義を行ってきた。
それによってわかってきたことは
大学の講義の大半は全く講義の意味になっていないということを。

講義において
受講される人たちの最大多数の目的は何か?
講義を行う人の意見を聞くことという発想なのは
愚の骨頂であり、大体の大学の講義が
学会という閉鎖環境の歪んだ価値観で行われている。

受講目的はずばり、
この機に自分の生き方への変化、変革の契機にしたい。
と言い切れる。
貴重な時間を受講するのだから
その時間では推し量れない成果を出したいものである。

講義を行う側は少なからず、
その意識をもって講壇に立つべきであり、
自分の自慢話、研究結果などはどうでもいいというくらいの気概が求められる。

無数の受講者の全員の目的なんてという言い訳も意味がない。
そんなことは、講義を行うと決めた際に
その講義の趣旨やターゲットを宣言することから
講義活動は始まっていると思うべきなのだから。
募るべき対象を特定しない講義になぜ参加するのかわからないくらいだ。

また講義中に受講生に問い、その回答レベルで話し内容を変えたり
十分な質疑応答時間を見積もっての時間配分も準備計画に必要だ。

その覚悟のない講義は行う必要も受講する価値もないのだが
この事実は大衆にはなかなかわからないようだ。

2010-11-29

保身

身を保つ。
現代社会、多くの人間は他人から攻撃を受けているとされる。
しかし、それは本当に攻撃だろうか?

というよりも、
自分の保身という防衛行為そのものが
他人への攻撃行為である。

相手に攻撃しようという意思を持って行動していることは
近代国家の刑法で故意とみなされて罰せられる。
しかし、現在多くの人間は他人から権利、精神、肉体の観点で
攻撃を受けていると思っているが、その他人が罰せられない。
それは他人も自分の保身という防衛しているがためである。

戦っている2人の言い分は

相手を攻撃しているのではない。
自分の精神の保身のために排斥を行っているのだ。

自分は言われもなく攻撃を受けている。
自分には反撃する権利があって当然。

ということが現代社会だ。

大きな武力闘争だけならず、訴訟活動、議論、強いては
道でのすれ違いにおいても人は保身のために行動する。

保身について僕は否定しないし、
自分も保身をしている自覚はある。
だからこそ、
自分の保身が相手にどんな攻撃になっているかをも
自覚することを現代人に求めたい。
そして、そのことで自分の保身の攻撃の威力を自覚してほしい。

無自覚、自分の保身の正当性
そんなことはもう聞き飽きた。
保身でおきた事実をどう考え、そしてどう新しい価値創造につなげるか
考えることに注力すべきと強く思う。

2010-11-26

手柄

ある意味、
手柄そのものは奪い合い。

自分がやった。
自分が追い詰めた。
自分のサポートがあってのこと
自分の管理能力のおかげ
自分の計画が正しかっただけのこと

本当にいくらでも手柄については自己主張できる。
そしてまったく同じプロセスで行われるのは責任転嫁である。

自分はやらされただけ
自分は最後までやっていないし、やるつもりはなかった
自分は言われたから支援しただけ
自分の管理を変えて勝手にやった
自分の計画にありえない話だ

基本人間は都合のいい動物であり、
上記の主張だけで、多くの時間を使って何も生み出さないことを容認できる。

手柄とか責任とは僕にとってはどうでもいい。
というより、統制していれば
そんな主張をする必要がない。
役割を明確にしてその役割どおりの行いの結果が
実績であり、手柄という概念は
観念的なものでしかなく、評価対象にすべきではないと考えている。

手柄に群がるものは
功名心、実力主義というものは
部分最適であり、決して次につながるものではない。

魚が取れたと騒ぐより
魚を多く取る漁法、道具を発明し、それを実践したことを
役割の実績とみなすほうが長期的、そして恒久的なモチベーションの維持につながるはずである。

2010-11-25

温情

現代社会においては、スキをみせることと言い切れる。
相手のことを思い、
もし自分がされたらうれしいと思い、
温情をかけるのだが、その行為に対して、多くの庶民は
されて当然と思いになっている。

これは老若男女関係なくそう感じている節がみえる。
そんなぎすぎすした社会ではない!
っとと思っていればいるほど多くの人は傷つくし、
思っている人ほど、当然と思っていることが多い。

考えてみれば、温情行為自身、
立場の強い方から、弱い方への譲歩であり、
平等認識の強い社会では成り立たない。

温情をかけるという行為は
かけられたと認めたくない認識を触発していたり、
そもそもそれは温情ではないと立場を下と認めない憤りを誘発している
ことにもなる。

そこまで、論理だてて考えていることは稀だろうが、
温情を温情と受け取れていない社会になっているのは事実だ。

僕は不平等、差別がある社会でも構わないと思う。
それゆえに、身分の責任、敬意、温情という
人としての社会構成の思いやりが有意義になると確信しているからだ。

2010-11-24

仇討

仇討は日本の法律では禁止になっている。
互いに殺しあうのはよくないとされる。
基本的には、、、、

でも、この仇討行為はビジネス界ではあからさまなものである。
人間の自発的なモチベーションイベントの大きな割合を閉めるのは
復讐心ではないかと思う。

「あいつにやられたので、いつか見返してやる。」
「先輩の無念は僕の手で」

でビジネス界で上記仇討が成り立つと賞賛される。
人殺しは禁止だが、
法人同士の存亡の殺し合いは市場活性化で認められている。
でも、法人も法的に人格を持っているし
法人の消滅は、場合によっては人命に関わる行為である。
場合によっては従業員を路頭に迷わせる
間接的に大量虐殺になりかねないのである。

仇討という言葉に惑わされているかもしれないが
刃物を使わない仇討は賞賛されるのが近代国家のようだ。

2010-11-22

味方

味方、、漢字で表すと面白い字の構成のひとつだと思う。
「あじのほう」
そして、この言葉、とんでもなく都合のいい言葉。

ある娯楽映画で
「たとえ世界を敵にしても、君の味方であり続ける!」
と主人公である正義の味方が言った。

それって、悪の権化だろうが!
世界から共通の敵にされることが、悪の定義だろうと感じてならない。

また最近のある経営者も
「1国民の意見の代弁者、国民の味方として」
それって、自分も国民だから何やってもいいと聞こえるじゃないか。

基本、味方という表現を使うときは危ない。
独善的な見解の自己主張でしかないと僕は感じる。
日本的に自分の正当性を他の他人のためという理由付けとして
この味方という言葉を使っているだけだ。

本当に漢字どおり、
自分にとって味をしめた方に向けられたと
解釈できよう。

お前の味方だ

なんていわれたら、
その人間の利己的な意思を感じてならない。

2010-11-19

礼儀

あってない物、
現代社会においては空想の産物かもしれないというレベル。

礼儀はあるようでなく、
個々人の考え方そのものが礼儀となりつつある。

例えば
相手の不安感を無くすためにあえて、フランクに話すことこそ礼儀と考えれば
初対面の人には敬語で話すのが礼儀という考え方もある。
その2人が会えば、互いを礼儀知らずと思うことになる。

そもそも、礼儀というものは士道、、
鎖国、
階層社会の武家、
藩制度、関所
という日本の独特な社会観念から
万国共通という思いだが、
それぞれの藩を拠点とした地域ルールで成り立っている。

それゆえ、
知れた仲での暗黙のルールが礼儀であったが、
それが
開国
階級の撤廃
交通発達
で暗黙が通じなくなってきているのだから無理はない。

もっと言ってしまえば、礼儀の語源である

仁義礼智忠信孝悌

をそれぞれの意義は正しく理解して
その実践を心がけている人間は現代に何人いるだろうか?
その状態で礼の表れである礼儀を語ること自体なんか
生兵法であり、社会的怪我の元と思う。

2010-11-18

課題

課題とは何だろうか?

・立ちふさがる障害
・予定を狂わせる邪魔
・自分へのいじめ

と感じていないだろうか?

では、学生時代の授業にあった。
「今日の課題」はそんなマイナス視点のものを
わざわざ教育の場に提供していたのだろうか?

課題とは、
スキルアップの踏み台である。

僕はそう考える。
課題をこなした数こそ、
経験の蓄積、実績そのものである。

計画通り物事を遂行することは
計画立案者の手柄であり、
実行者は、ロボット、マシーンと同等の生産ツールに過ぎないとみなされる。

実行者が自らの存在価値、得られる評価は
課題の有用克服に限る。

課題を挙げること
課題に対して、思索を講じること
課題対応を実践すること
課題を克服してそれを横展開すること

これこそ、実践者の評価につながる。

計画者にとっては課題は自分の評価を下げるものであるといえる。
計画どおり遂行できないことにつながるから、
日本人の多くは計画者きどりであるから、課題管理がきわめておかしくなっている。

実践者の立場で、
課題を挙げて、それを克服する気概を示して
自らの解決力を高めることに価値観を見出さないと
この先の国際的労働環境では太刀打ちできなくなるのではないだろうか?

2010-11-17

統計

アンケート等で不特定多数の意見を集約した指標として扱われる。
数字ゆえに説得力があるが、
僕が思うに、近年の統計は不特定多数が
特定操作された母数になっている気がしてならない。

それは集め方と質問の仕方でいくらでもなるということである。

例えば、
インターネットアンケートで
「一日のPC使用時間は?」
という質問をして、
アンケート回答者の全員が0時間と答えることがないことをもとに
「不作為抽出した全員の回答から国民全員PCをもっていると考えるべき」
という発表

食物の試供品をわたす代わりにアンケートに答える場合で
嫌いな食べ物に、試供品をあげることはないのに
「多くの人たちはこの食品に好感を持っています」
という結論

一見すると、アンケートの統計情報は正しく感じる。
数字の魔力とも言おうか。

でも、僕からすればそれは情報操作の傑物に他ならないと思う。
そもそも、統計をとって出てきた答えがアンケート集計者の思惑と違えば
その統計情報は多くの人たちに伝えられることはなく、
なかったことになるだけである。
統計を取られた人の多くはその統計情報を待ち遠しく思えっていることがないので
あまり、意識しないことをいいことにである。

そう考えると、多くのメディアで挙げている
統計結果をみるのであれば、
その大多数意見を見るのではなく
どんな母集団から吸い上げた偏見かをみるほうが
情報操作、思惑が見えて
かえって面白いかもしれない。

2010-11-16

人為

弱者とされるものたちを助けるために強権力が規制をした結果、
弱者がさらに悪化することは、歴史的に考えて既定事実のことである。

基本的に強権力が弱者を擁護すること自体問題である。
弱者は自らで弱者を脱却しない限り、弱者でありつづけるのだから。

大きな歴史的観点で見ても
武士の借金苦を解消するために幕府が出した徳政令。
そのために、以降豪商は武士に貸し出すことをためらい
余計、武士は貧窮した。
飢饉に備えての上米。
その上米を納付する名目で年貢がかさんでしまい、
農民は飢饉でなくても餓死しかねない状況に。

現代社会では、
貸金法の改正で
消費者金融を使えずに
闇金に手を出して、破産どころか、闇に葬られることもありうる自体に。

為政者は目に見えている事実への対応するのでは暗愚の君でしかない。
起きてしまっている事実を切り捨てて
新しい価値やこれから起きる被害を食い止めることに注力すべきである。
冷たいと思われるこの思想も
人間の出来ることは限られていて、今起きていることに対応するのは
自転車操業でいつまでたっても、改善されていないと思われるのであれば
自然淘汰の発想で、今の弱者を切り捨てて
別次元での規制を試みるのべきである。

織田信長が
腹をすかした兵に槍を
貧困した兵には馬を
という恩賞を与えていた。

それは、
腹を減らしている兵は自ら食事を求めて行動するが
次の戦の準備ができていない。
貧困していた兵は、武器を与えると換金してしまうので
あえて売れない馬を与え、馬を使って金策に走り回すことで、
馬術の訓練をという次の行動への布石にした。

この思想は一般庶民には理解できないし
もらってうれしいと思わないレベルもあるだろう。
しかし、僕からすればこのくらいの考えなくて
人を統率できようかって思う節を感じてならない。

2010-11-15

凄腕

凄腕とされる高い技術力を持っていれば
いい仕事と高いサラリーを得られる。
これは幻想であると僕は言い切れると思う。

世の中には、凄腕の人材はごまんといる。
でもそれが’正当’な評価をされているとは限らない。
いや、凄腕の人たちはそう思っている人が多いようだ。

僕からすれば答えは簡単である。
正当と思う基準が凄腕ゆえに市場と離れているからである。

隣町に行くのに、F1カーが必要か?
ねじ回しの仕事に、大型重機免許は必要か?

凄腕であっても
それを生かす環境を持ち合わせなければ
その腕はコストアップの足枷になるだけである。

凄腕という技術なんかより
技術を高い金額で裁ける市場を作り出すことが
本当の凄腕だと僕は確信している。

もし、凄腕であるならば
自分を高く売ってくれる市場を作るなり
売り込む能力も必要である。
それが出来て初めて、市場で通じる凄腕として
正当に評価されるのである。

2010-11-12

警察

読者のみなさんはどう思うか?

ある人が
財布からふと1万円札を落としてしまった。
あわてて拾おうとしたら
ある主婦と思われる女性が取り去っていった。
「返してください」
呼びとめて触れた瞬間に
奇声を発し、「強盗!」って騒いで
そこでお金を落とした人が警察に捕まった。

何とも理不尽と思うが
この結末は、この人は強盗未遂だそうだ。

これは身内の警察幹部から聞いた事実だ。

・お金には名前がないから、彼のものとはいえない
・自助回復行為は民間に認められていない
・他に証言してくれる人がいない

という論理である。

身内の幹部は酔った勢いで語る。

「拾ったお金を交番になんて言うが、持ってこられても捜査するわけねーよ。
 みんな自分の物って言う時代だし、ちょっとでも手続きを間違えば、マスコミが騒ぐし、
 この事件だって、おばちゃんが警察は庶民の味方って騒ぐから、、、ぜったい奪ったくせに
 町中で騒ぐから、治安のためか知らないが、落した方を悪人にしやがった。
 俺たちには、ありのまま、言われるままの事実しか調書に書けないからなあ。
 捕まえた警官は現行犯逮捕の査定アップであり、誤認逮捕の汚名もつかないからな。

 だいたい、警察官なんて感謝も儲かりもしない仕事だ、
 そしてこの不況で、上級公務員になれなかった偏屈な警察官希望者が採用された。
 犯罪を取り締まるっていうことより、昇進試験、有給休暇、権利主張が主務なんで。
 自分を守りたかったら、警察より警備会社とマスコミしかねーぞ。」

酔った勢いとは言え、
こう思っているという事実は隠しようがなく、
自己防衛はすでに公安ではなく
自分自身であり、強いては公安も自分を責める障害でしかない
そんな時代と感じた。

法治混沌期

その象徴的な内容と感じた。

自分のことは自分で守ろう。

2010-11-11

計画

未来の行動予定、
もっといえば、未来日記であれば
それはそれで、優秀な計画だったといえる。

未来日記のような計画は逆に怪しまれることが多いご時勢(不安、癒着)で、
ある程度の不測の事態への対応バッファを入れておくことが
最良の計画といえる。

僕は計画立案には自信がある。
それは未来予測に長けているということだけではない。
そういいきれる
そう実現させる
意図や作為を盛り込んで計画を立てることができるからである。

人によっては計画を立てることができない人間がいる。
計画の必要性を感じながらも
不測の事態
政治的圧力
未確認事項の不確実さ
を理由に、
「未来なんてわからない」
って言い張る。

それは敗者の論理。
計画を立てて実行する。
それは、他人の犠牲も厭わずにでも
結果を出そうとする人の意志の強さ、
勝者の論理である。

計画どおりにできた場合、
たとえ、揶揄されようがどしようか
誇り、敗者を蔑む意気込みでいないと
計画を立てた意味がまったく評価されないことになるだけである。

2010-11-10

意気

意気込みや意気揚々、そして生意気の意気である。

現代語でいえば、、やる気まんまん といえる。

現代は意気のレベルに熱が感じられなくなってきた。
熱い思いは
「なに興奮しているの?」
「べつにいいじゃん、どうでも」
と軽視される。

そして、生意気のレベルも
元来は

「僕にやらせてください!」
「小僧、そんな大きな仕事をやりたいなんて、生意気だぞ!」

という背伸びをして無理なことをやろうとして言われるものであったが

「あなた方が偉いんだから、やるんでしょ!」
「あいつの態度、生意気だ!」

目下なものが、目上に対して、見下すような振る舞いに対して
専ら使われるようになっている。

熱い意気はすでに消滅したと思う。

だから僕は思う。
熱く思う’意気’がある社会に戻したい。
そうすれば、
失敗だって、意気ゆえのことで、支援、反省、後始末を
それぞれの思いで実践することになる。
意気があるから、達成感だってある。
意気、、それは自らの意志の表れ。

社会をそうするために、
まずは会社、身の回りの組織でそれを求めていこうと決意している。

2010-11-09

肉桂

なんだと思うかもしれない。

ではある例を

祖母:漢方の調合で、胃腸にいい’桂皮’を多めにしてもらう。

母 :昔懐かし、’ニッキ’飴 を買ってきた

娘 :ケーキを作るために、’シナモン’を選んできた。

そう、これ全部同じ、肉桂のことである。

肉桂の端っこだから、、、肉桂の皮、、、桂皮
肉桂、、ニッケイ、、、、ニッキ
肉桂がスリランカから欧州へ、、、シナモン

同一品目でも
・用途
・世代
によって、呼び方が変わる。
しかし、根本的、、いや物自体は全く同じである。

万物は流転する。
それは否定できないが、
必ずしも、物自体が変わるだけが流転ではない。
本質は同じでも
そのTPOで扱われ方がかわることで
あたかも違うものと思われることがある。

これは経済活動においても言える。
ものづくりで新しいものを作ることだけではなく、
今あるものを視点、作用を変えてみることでいろいろと
商圏や売り方もかわる。

上記のように
母子3世代が同じものを別々の目的で買っている事実を知らないような
そんな発想があるべきと思い考えを巡らせている。

2010-11-08

大人

あえて言いたい。

子供を持つ世代、
新入社員を受け入れる階級、
になったのなら、
あえて、
対象となる年齢層の
子供向けメディアをじっくり見るべきである。

そしてそこに出てくる、主人公のまわりの大人の行動や仕草を
つかみ、自分の行動に反映させるべきである。

子供向けメディアを
主人公、もしくは成長した姿を子供自身にみたて
子供に夢と希望を与え、将来への可能性、方向性を教えることをも
含み制作されるし、興奮させる要素のインプリンティングでもある。

対して、大人になっても自分を主人公に考えて
その手の作品をおとな目線でみたて批判的になったり、
自分の年齢を主人公したメディアばかりを選んでいないだろうか?

大人なんだから、いつまでも主人公を夢見ることは辞めるべきだ。
夢見てきた子供たちに対して、環境づくりを考えるべきであり、
彼らが見聞きしてきたもの大人を理解してあげれば、
彼らのモチベーションも変わるとのではないだろうか?

僕自身で挙げれば、
社長を主人公にした話などなんの足しにもならない。
主人公に優しい、厳しい、冷たい
王様、諸侯、隊長の仕草、行動、そして思想を理解してみようと
子供向けのメディアに触れてみる。
そして、思った。

子供の思う大人像はこう言う存在であり、
もしかしたら、この仕草がダンディズムではないかと。

2010-11-05

虚偽

事実ではないこと。
しかし、事実とはなんだろうか?と思うことが多い。
歴史というものは過去に起きた事実とされるが
それ自体も本当かどうか怪しい。

・鎌倉幕府の成立年は近年 1192 1185 に訂正
・足利尊氏、武田信玄の教科書の肖像が、高師直、小田山信茂だった

など、どんどん覆っているのが、現状であり、
覆ることこそ、歴史学と開き直る歴史学者もいるくらいだ。

歴史に関わらず、
今もそうであるのは、噂である。
噂や伝聞はあくまでも、不実の領域なはずなのだが
高度情報化社会ゆえに噂=事実となってきている。

いや考え方がそもそも逆の時代かもしれない。

高い精度、多くの情報があればそれが事実であり、
実際に見たり、話したりをしたところで
当人の情報力では、
「見ている観点がおかしい」
「その話ではだまされている」
と事実を虚偽にしてしまう感がある。

事実とは
・目に見えるもの
・五感に伝わるもの
ではなく、
・精度の高い情報
が事実といえる。

実際に僕が僕である証明を
僕自身がしようとして、
行動をとったり、
話しかけたりすればするほど
現代社会では多くの人たちは虚偽に感じ、怪しまれるだろう。

IDカード、名刺、メール送受信
といった情報を示すことで
僕という存在が事実とみなされることが多い。

存在していても事実ではなく虚偽とみなされ、
情報こそが事実であるそんな時代なのだろう。

2010-11-04

鰹節

今までの論調からすれば、
いきなりの言葉になって感じるかもしれない。

注目をしたいのは
うまみ成分と異型な調味料であることだ。

外国の調味料の多くは
液体か粉末になっていることが多いが
この日本古来の調味料は
魚そのものを削ると言う発想かつ
そのままでうまみ成分をだすという代物だ。

日本古来から製法と技術らしいのだが、
温故知新、こういうもの、日本人的と言うか
発想とエッセンスがあるのではないかって思ってしまう。
とりわけ、巷で騒がれているエコだが、
日本古来である鰹節の製法にヒントがあると思ってならない。

つまりは
現物そのものに加味させずに加工して
現物を余すことなく使い切る
まさに0エミッション、、
この発想をうまく自分の事業に応用できないか?
って考えてしまう。

2010-11-02

査定

人間、他人を正当に査定できるだろうか?
これは永遠の命題かもしれないが
結局は市場においては無理という結論しか言いようがない。

高い評価を与えれば、
その査定関係外の人から
「あいつに甘い、癒着を感じる」
「そんな優秀な奴を評価する立場なのか?自身が足枷ではないか」
と査定行為そのものの妥当性を否定される。

反対に、低い評価を与えれば
当人から
「自分のことをわかっていない」
「えらそうに」
という査定行為をもとに、相手の反感を買う。

納得のいく査定というものは
正当な評価というより、
当人が取れる選択肢をすべて取り去った評価ということになる。
・評価を覆す抗弁の無力さ
・他人に相談しても意味がないという事実
・評価を甘んじて受けなければ得られるものが全くない
という状況に追い込んで、、結果的にそうなることしかないだろう。

だから思う、
中間管理職の一次査定
感情
による評価は
ありえない希望や望みを芽生えさせるので
ないほうがいい。

あるのは、
結果
数字
と、覆る要素が全くないものでなくてはならない。

下手な査定は相手の気持ちを無駄に高揚させ、
結果的に失望感を与えてしまう。
良かれと思っても結果、反感を呼ぶのなら
行わないに越したことはない。

絶対的な決定を下せる存在が絶対的な値を示す、
それであるべきだ。

2010-11-01

脱力

人間はみんな優秀というか
自分の思う基準の優秀ではないと思う。
逆に言えば、
自分が出来ると思っていても相手はできていないことや
自分が相手を「使えない」って思っている以上、
相手は自分に「どうして馬鹿なことばかりいうんだ」
って思っているかもしれない。

理想とはエゴでしかないし、
自分の思ったとおりになることは
相手のストレスになるに等しい。
そう考えたほうが合点がいくと思うべきだろう。

肩の力を抜くではないが
仮にとてもいいアイデアがあったとしても
それを実装、運用する人間たちがそのアイデアを理解できないのであれば
それはいいアイデアでは全くなく
ただの悩ませる頭痛の種でしかないと悟ることも必要である。

逆に自分からすれば、
そのレベルかって思うことでも
相手からすれば、そのレベルでも十分価値があることもある。

そう肩に力を要れずに
相手の思うレベルにあわしてあげることをありと思う。

2010-10-29

汎用

多くの人間は、恒久的かつ汎用的なものを求める。
しかし、それは幻想であり、市場経済ではあってはならないことである。
もっと言えば、
汎用なものという肩書きの専門的なものが出来たということになる。

人間の技術進歩は
日進月歩を超えて、秒進日歩であることは
もはや疑いない。

昨日までの最新技術がいつの間にかレガシーって呼ばれる時代である。
この技術進化を市場、、つまり経済活動に関わる人間は否定しない。
出来ないはずである。技術進化こそ、有効需要、供給の礎であるからだ。

それゆえ、恒久汎用という
今後これでOKというものは技術進化の背理であり、
そんなものが出てくるということはその分野の市場限界がきたということであり、
今後の経済活動が見込めないということになる。
恒久でなくても、汎用的なものが登場した段階で
経済活動の限界が見出せ、新たな市場に目を向けるときともいえる。

しかし、人間の心理は
「何でも出来て、長く使えるもの」
を求める。
そして、
それに応えようと多くの企業が多機能、長寿命な製品を出してくる。

でも実際にその製品のマーチャンダイズライフはどうなるか。
「機能が多すぎて、理解できない、説明書が厚いよう」
「いろいろな機能のせいで、やりたい機能がすぐに動かない」
「こない市場にでた、新製品のほうがかっこいい、これ動くけどもういらない」
「修理が利くって言うけど、部品代工賃が専門の技術者で高すぎ」
という巷のクレームを浴びることになる。

汎用という訴求力のある製品はインパクトがあるぶん、
嫌われることも汎用的だったりする。

2010-10-28

音頭

音頭をとるという言葉。
リーダーシップをとるという意味とされがちだが実際には違うと感じる。

そもそも日本においてリーダーという存在はいない。
集団農耕民族ゆえに、リーダーというより
みんなが自主的に我田を耕し、繁忙期に互助する関係が出来ていた。
偉いとする立場があるとしたら、長老のアドバイスが
判例法のような採決権限を持ち、どうしてもというときに長老に仰いだ。

音頭をとるとは、リーダーというより
合力して行う活動のタイミングをとるために発声するだけの存在であり、
責任というより調子あわせの勢いのある声が求められた。

そう考えると古来日本は
・我田という責任範囲
・繁忙期の互助の暗黙化
・年配者の判例主義の絶対
・目的に合わせた役割アサイン
とある意味、自治は出来上がっていたとかんがえることもできる。

欧米式の管理方法
役割の国際化
ということが求められるが、
国際基準とて、
有力国が自国のやり方を強いているだけであるのだから、
自国色、
音頭とりというリーダーが存在せずとも自治ができる制度も
認められた仕組みではないかと思う。

2010-10-27

条約

国家間で取り交わされる契約条文を示すもの。
あまりにも大きな話で自分には関わりが薄いと思うかもしれないが
ちょっと視点を変えて俯瞰してみると面白い。

現在、国家間で取り交わされる条約のほとんどが
過去の否定条約であることに気付く。

EPAは関税自主権という条約を過去に結んだものを一部品目に限り撤廃。
国土回復は今まで相手国に占領されていたものを返してもらう
特区市場開放は不可侵条約だったものを撤廃する

ということが見受けられる。

今まであえて制御してきたことを止めるということを
緩和、撤廃して自由にさせて、人民の活動を活性化させる。
聴きようによっては国家からの恩恵享受に感じられる一方、
そもそも、国家の存在意義がもはや機能しないしなくなったのでは?
という見方も出来うる。

グローバル市場
国家間の行き来が容易
ということから、条約の緩和、規制の撤廃を導いているが
そもそも、国際的な国と地域の存在意義は?
国家そのものが国籍を与えてその手数料としての税金という
大きな人間倉庫、卸業に化していて、その存在すら規制撤廃ではと
論理を飛躍することも可能になってきていると思う次第である。

2010-10-26

当然

当然と思う心理はとても危険である。
当然ということはなく、必然、偶然しかありえないと思うべきだ。

当然という思い高ぶりは
他人に対して、威圧的、侮蔑的な印象を与える。
少なくても感謝の念は入っていない。
つまり、相手への配慮がないということだ。
また、当然と思うときはミニマムマックス、
これ以上譲れないという思いもこめられていて
当然を否定された場合、
相手への攻撃も辞さない張り詰められた状態でもある。

心の余裕というか
必ずしも相手は思い通りにならないという思いをもって
相手に接するならば、当然という表現は使わなくなるだろう。
たとえ、自分の中で当たり前と思っても
他人は他人であり、
自分にとっての当然は相手の当然ではないことを。

2010-10-25

努力

最近強く感じるのだが、
21世紀のメディア作品(映画、小説、アニメ)の
東西というか全世界的に言える傾向として、
努力を進めるものはまずなくなってきている。
多くの場合、主人公は生まれながら
・天才
・血統
・全くの偶然、ハプニング
でその主人公の地位を得ているものばかりである。

そのうえ、
いろいろと努力をしているキャラは
えてして、敵もしくは失敗の典型例に扱われることが非常に多い。

努力すれば報われる
Heaven helps those who help themselves

という言葉はすでにこの世では古典なのかもしれない。
現実世界、努力しても報われないと悟っているから
多くのメディア作品にそれが反映されているかもしれない。

とはいえ、これはゆゆしき事態でもある。
結論からすれば、何もしないという発想を植え付けることになり、
人としてのアクションを阻害するものだから。

確かに努力によって手に入れられないものが多くなっている時代だと思う。
目に見えないように既得権益保護、階級差別が制度化されつつあることに
多くの人々はストレスを感じているのだろう。

努力が報われる社会とは
新興勢力に既存の安寧が奪われるということと同義なのかもしれない。
ある意味、安寧への反抗行為とみなされかねない。

でも僕は思う。
仮に現状の安寧を壊そうとも
努力をして地位や手に入れることはあるべきであり、
それが社会の新陳代謝だと思う。
権益を奪うことを責めず、奪われる方に責めがあるべきではないだろうか。

2010-10-22

図々

図々しい。
あつかましいなどの意味であるが、
言葉で説明するとなると、なかなか難しい。
そして、尚更外国人への説明になると。

ハリウッドの映画の主役の性格は
えてして、図々しいことが多い。
若さに任せて、やりたい放題、他人の迷惑顧みず。
でも最後には、彼が評価されたりする
ステレオタイプの展開がある。

日本人の僕にはその心情の意味理解に苦しんだ時期があったが、
これはお国柄。
図々しさを美徳までではなくとも悪徳とは捉えていない
個人主張のアメリカの発想なのだろうとわかった。

やりたいようにやり、
自己責任をとるという発想ならば
図々しさもありなのだろう。

対して、農耕集団生活社会の日本においては
図々しさは悪徳に捉えられる。
我田引水、自分さえよければという考え自体が否定されている。

図々しさを考える上でお国柄で捉えると、

自分が幸せ、相手も幸せならそれでいいと
一人称を中心に捉えるアメリカ思想
相手が幸せ、その相手が幸せならば自分も幸せと
相手のことを捉える日本古来の世習慣。

どっちが正しいかはなく、
個人の思いに他ならない。

2010-10-21

戦力

多くの企業が人材募集に掲げる
「即戦力募集」
というフレーズにはいささか企業の存亡に関わると思う。

多くの転職経験と異なる実務経験を重ねた僕からすれば
即戦力を求めること自体、
企業としての独自性、特色を持っていないことに他ならない。

視点を変えて論じれば
即戦力とは、
他のフィールドでの実績を移植していること
会社実績のアウトソーシング受注ということで
利ざやを取るだけの企業になっているということだ。

独自性がある企業であれば
どんなに経験、実績があろうと
自社なりのやり方を理解して
それに合うやり方をしてもらい品質維持に努めるべきである。
そのためには、時として
実績がある人材でも社の意向に合わないければ
採用しないことや理解を受け入れないであれば
離職してもらうこともしなくてはならない。

会社としての戦力を本当に高め、
品質維持には
独自性からの社員理解の徹底にほかならないといえる。

2010-10-20

老舗

日本人は変なもので
事業の世襲を嫌うくせに
老舗の何代目という表現には安心感を得る。

古くから信頼されていることを有難く思う癖に
それを成立させようとする行為に冷酷だ。

老舗になっている企業で世襲になっている企業の創業期は
そんな事業に誰も後を継がなかった、
仕方なく、子供もが継承したという経緯もある。
誰もやらないから、子供がという条件での一族の辛酸があり
事業が軌道に乗ってきて、一族として恩恵を受け始めると
利益にたかるかのごとく、外のものが世襲批判をし始める。
個人主義、実力主義の御旗を掲げて。

僕は老舗の世襲はブランド力としてあるべきだと思う。
それは個人主義に合わないという思うかもしれないが
創業者個人の夢を血脈を通じて成立させているという
世代にわたる個々人の創意であるというべきである。
老舗をついて、発展させるか、没落させるかは
その代の力量、個人の責任である。
それに対して、外野は介入せず、
嫌なら、自分の老舗を作るか
没落させるようなライバル事業を成立させることに注力すべきと思う。

親のふんどしで相撲をとっていいのは相続者の権利と義務。
それに対して、自由や平等という概念で略奪すべきではない。

2010-10-19

気概

気概という言葉は一般的に使われない語彙かもしれない。
ただ意味合いとしては、がんばる!に近いといえる。

気概とは困難に屈しない強い意思(意志)と表されている。
使われなくなっている理由は
言葉の難しさという問題だけではなく、
こういう意思(意志)が最近の人間にはなくなっているからだとも
言い切れる。

確かにがんばれという表現や壮行行為を行うことは見受けられるが
それが困難に屈しないというレベルだろうか?
僕からすれば、困難というより個人レベルの能力不足等の極めて
個々の不足論であり、屈するというより、未達の浅はかさと感じることがある。

自分としてどう努力、検討、創意工夫を行って現在に至るかに
自信を持つことなく、ただ、仕方なくそこにいるという感覚での
がんばれに何も気概を感じない。

気概を出した結果には
それ相当の経緯の説明が語れる、、そう物語になっているはずなのだから。

2010-10-18

厳格

規律や道徳にきびしく、不正や怠慢を許さないこと

たぶん、現代社会で足りていない人格要素だと思う。
なぜなら、厳格であることは他人に嫌われることが多い。

・融通がきかない
・厳しすぎて他人のことを思いやっていない
等の批判を受けて、現代社会から煙たがれる存在とされしまう。

他人のことを本当に思いやるのであれば、
厳格に躾けることや守るべきことを守らせることが一番重要だと思う。
甘やかしているだけど、
善悪の概念が希薄になり、
自分=正しい
という思想になりやすい。

しかし、何が悪いかという厳格な躾がされていると
自分=正しい
から
行為=正しい、やばい
という認識になる。

善悪は人間ではなく、より細分化された行為に宿る。
その基準を身につけさせるために
厳格な躾があるべきだ。

2010-10-15

図書

本、書籍と並んで現される、著作物への呼称。
主に図書館という表現の一部で使用されることが多いので
図書館、、公共施設所有の公共閲覧書物として捉えよう。


僕は図書館の本では内容を理解したとは思えない。
なぜなら、書き込みやラインが引けない。
つまり、自分の意見を見出すことができないからだ。

僕の中での読書行為は
相手の意見を聞くことではない。
そもそも、僕自身、相手の意見を聞けるタイプではない。
でも、読書行為に感じることは
相手から自分の欲しい情報が見出せるかもしれないということであり、
僕の中では、ウェブサーフィンも読書の同種の位置づけである。

そして、自分が使えるかどうかまたそれがどういうものを考える上で
書き込み行為は必然となってしまう。
ウェブならば、ブックマークやコピーペーストによる編集が可能だが
いかんせん書籍になるとなかなかできない。

だから、借りてきた本を写本するわけにはいかないので
借りずに購買することにしている。
購買することで、市場経済が潤うと思えば
図書館利用より社会貢献度があるともいえるし、
購買した本、書籍は大概、身の回りのものたちに書き込みの上
渡してしまう。
あたかも自分の見解の理解をさせるがためにである。

図書館という概念から
反面教師のように感じているのは
情報は受けるものではなく、
取得、加工、発信するものであるべきだと。

2010-10-14

無法

ルールがなくて、統制されていない状態のように感じるが
実際の無法とは、現代社会そのものかもしれない。

例えば、
明文化されていなく、識字率の低い部族においても
村の掟、村長の判断は絶対であるというところを
無法地帯だろうか?

対して、
法律があるどころか、無数に存在するだけでなく
多くの条文に但し書きがあり、それぞれの個々が
己の主張する条文をもって争っているところが
法治社会といえるだろうか?

王権神授の脱却から
社会契約、条文主義で形成されてきた
近代社会思想もそろそろ
変革期なのかなあって思うことが多い。

法が人の都合よく解釈されるようになり、
自然法の概念が破綻して来ている以上、
人が他人と生きる社会についての枠組みを
進化、再構築することくらいの気持ちがいるのではないかと思う。

だって思う。
国家というレベルでなくとも
会社
コミュニティー
ボランティア
の社会構成体において
多くの話のネタは、統制者、統制機構への愚痴と反感しか聞かない状態なのだから。

2010-10-13

罪過

ある事件で
カトリック教徒である遺族が
犯人からの謝罪を拒んだという記事が
普通に書かれていた。

この世から、謝罪の必要性はなくなったという僕は感じた。
決して他人を許さないということが
社会的、宗教的に当たり前になってきた顕れである。

カトリックなら、
「左の頬を叩かれたら、右の頬を出す」
という罪を憎んで、人を憎まずの博愛の精神を
拠り所にしているはずなのに、
今回の事例から、人を憎むということが当然のように行われている。
精神のよりどころである宗教の思いはどこにやら。。
また、記事としての扱いもその宗教性、犯人の罪悪感より
事実の面白さに追求したエンターテイメント性への執着になっている。

謝罪という行為は、個人の思いではない。
社会として謝罪行為を受け入れて
それにより、社会の自浄作用を高めることが
有るべき姿である。

謝罪行為に尊きを置く社会、組織でないと
人は間違うことができない。
いや、間違いを認めないし、認めるわけにはいかなく。
それが現代かもしれないが、
僕は謝罪を認めあう社会、組織でないと
罪の重さ、更正の必要性により
全体の自浄作用がなりたたないと思う。

少なくても、社会の流れがどうであれ。
自分の管轄するところでは
謝罪に重きを置き、個々の自浄作用を高めていくようにするつもりだ。

2010-10-12

車格

車の排気量、ボディーサイズ等から
ナンバープレートの格付けで分類する基準。

昭和のころまでは
それにより、社会的ステータスを暗喩していたくらいものであったが、
自動車価値の変化、
所有する目的が用途に特化しはじめたり
都市交通の発達で必要性がなくなってきて、
現在では、社会的ステータスとの紐づきは薄れつつある。

だから、
軽車両と大型外国車において

軽車両からすれば
「大きいのだから、道を譲れ」

大型外国車からすれば
「軽のくせに、どけ」

と対等に言い合うが、それぞれに理があるように感じる。

僕個人からすれば、
大型外国車は所持に多くの税金を払っているのだから優先されていいと思う。
それゆえの車格による税率だと思うが、、、
現在の日本の個人主義、狭量の庶民レベルでは
そこまでの論理展開は難しい世の中だと感じているので、
議論もできないのかとあきらめてはいるが、、

2010-10-08

同義

同じであるということ。
同義である立証をするということは
状況にもよるが、ブレイクスルーになることもある。

多くの場合、
それぞれのものが独立、別個であるという認識である。
対して、別個、相手と違うと思っているものを
同じであるということはかなりインパクトがある発言になる。
だからこそ、同義とされる場合に
その認識から新たな共感性、共通状況をもとにいろいろと考えれるようになる。

2000年代までは
個別、カスタマイズ化で
個別の付加価値をつけることを求めてきたが、
最近の傾向はデフレもあいまって
同義を効果的に考えるような思想が強くなってきている。
同じであることに
自分のアイデンティティーを否定される嫌悪感もあるだろうが
同じとみなされてしまうこと自体に
その事実が客観的にみて、大した付加価値を有していないこと
何を持って同じとされるかのポイントの把握をもって
同義の効率化
オリジナリティーの再定義が必要になるだろう。

2010-10-07

寄付

善意をもって慈善団体に見返りなき金銭譲渡が寄付とされるが
それはこの時代においては責任放棄、慈善より偽善と感じる。

あるべき姿として、
その金銭の使用細目、運用実績を指示してこそ
市場経済においてもっとも効果的であるといえる。

慈善団体が必ず善人だろうか
慈善団体が善人としても購買先が市場価格を提示しているか
この情報は寄付後のトレーサビレティーで追うことができない。
いわば闇になることが多い。
善意なのに、闇であるという言葉遊びになりかねないような
実態はいかがなものだろうか?

市場経済を考えれば
寄付より、
その金銭を使って
有効需要を創設することに投資することこそ
有益である。

寄付するくらいの富を得る才覚があるのだから、
その寄付予定金を使って何か経済をまわすことに
知恵を使うべきである。

お金をだしたから、という認識には全くありがたみも価値もないといえよう。

2010-10-06

迷惑

迷惑をかけるという概念は主観なところが多い。

自分では相手に迷惑をかけていると思っているときは
実は相手は迷惑という認識ではないことが多い。
対して、相手から迷惑を被っているときは
相手は迷惑をかけている認識がないことがほとんどである。

迷惑であることとは、
他人の権利に抵触していると考えることができるが
ある意味、自分の権利の正当行使をしていると思い込むと
自分の行いが迷惑とされることが迷惑と捉えることにもなる。

そう捉えると
個人の尊重、自己主張を通すという
あたかも自由主義的な発想は
いかに他人に迷惑をかけられるかっていうことにもなる。

まさに
「勝てば官軍」
自分の思いを突き通せば、結果それが是となる社会かもしれない。
いや、そもそも歴史的に考えても
迷惑を根拠に自己主張してきた強者が社会を作っていることを考えると
迷惑をかけないという発想すら、
弱者として押し付けられた論理なのかもしれないと思うことが多い。

2010-10-05

指導

「こんなところから指導しなくてはならないのか!」
という言葉が出る組織、
それは既に組織として機能が破綻している。

多くの大手企業は
十分教育されていているはずの新入社員を
数ヶ月かけて新人研修を行う。
あたかも、何も知らない人間のように。

そこが日本企業の強さだったかもしれない。

確かにそれ相当の学力がある社員を入れたかもしれない。
しかし、それはそれぞれ個々が会社の利益とはまったく別の分野で
違う価値観の先人の教えで修めてきたものであり、
会社、企業からすれば、その組織色にあった価値観に
再指導をしなくてはならない。
学生時代できたから、優秀ではなく、これから、そしてその組織内で
評価されるべき行動をして始めて評価されるのである。

大きく言えば、会社、企業の粒度だが
最近の社会的稼働状況からすれば
チーム、プロジェクト、タスクフォースという
極めて細分化された組織体においても
指導が必要である。

一から指導するということは面倒というより
教育と同じ、洗脳行為を施し、
構成員においての共通価値での成就を狙うべきである。

2010-10-04

否定

日本では、
ネガティブでよくないイメージをもつ言葉かもしれないが、
僕は思う。
否定こそ、自我の表明ではないかと。

否定すると言うことは、
定まったことへの異を唱えることであり、
少なくても、そこに2つの見解が存在することになる。
否定される見解と否定する見解とである。
(否定するが、その根拠がない愚は対象としない)

そして、否定する側に立っている時点で
自分の見解が存在しているといえる。
否定しなかれば、その存在はいてもいなくていい存在とみなされることになる。
定説とされる側に意思を持っていようが、埋没されるのだから。

スキルアップ、地位アップという
自分としての存在の向上を求めるならば
まず否定する立場を前提条件で考えてみること。
それにより、
否定すべき、自分の思う見解が解るし、
もしその否定より肯定になったしても
より深い考察から、今までの見解より磨かれた見解を自論として持つことができることになる。

肯定して考えることでは、
付加価値、自己存在の優位性は見出せないのである。

2010-10-01

忘物

忘れ物をするというのはどういうときだろうか?
ふと考えてみる。

出かけるときに、服を着忘れることはないだろう。
靴をはかずに出かけることもないだろう。
目が悪い人がメガネ等のかけずにでかけることも少ないだろう。
でも、筆記用具や書類等は忘れてしまう。

これは、たぶん出かける寸前に
今の自分に必要なものを自分の理解できる範囲で考えてしまうからである。
そうなると、出かけるのに必要のない行為、ものはついつい忘れてしまう。
ちょっとこの先のことを考えれば、
忘れていることに気づけるのだが、
出かける際の慌ただしさで忘れてしまう。

その対策として、僕は習慣づけが重要と思っている。
出かける前に、出かけ先での行動の考えてみる。
そうすれば、その行動に必要なものが見えてくる。

ほんのちょっと、次の行動をシミュレーションすることが
重要なのではって感じている。

2010-09-30

人好

お人好しであること。

社会構造的に好意的思われる人材のようだが
実際には、損をしてしまう存在。

実際問題、お人よしとは
自分の意思がなく、
相手の言われるまま受け入れてしまう気質とみなさせる。

古来日本は
「どっしり構えて」
「男は黙って」
という風に
相手に何を言われても、動じないということへの美学や
出来るだけ、相手を尊重して波風を立てないことの美学があった。

これは多くの人民がその美学に賛同していて時代である
古来日本はそれなり、というかか人類史上、類稀なる集団生活社会だった思う。
有史以来、人間はだいたい戦争のときくらいしか
一致団結しないことは、訴訟、紛争の歴史を見ればわかる。

でも、国際化、日本人気質の変動により
自己主張することが当たり前、当然と思われる中では
お人よしであることは、一方的にやられてしまう結果になる。

古き良き時代の日本に思いをはせて
昔はよかったと思うことは個々人の自由だが
現代社会を生きることになると
どうやら、人に好かれる、お人好しは
好かれるというより、利用されるだけなので、
嫌われてもいいから、
自己主張を体よくしなくてはならないといえる。

人に好かれてから、お人好し。
でも好かれるからと言って、
その人が幸福になれるかは別問題である。

2010-09-29

王佐

王佐の器。

名参謀、名懐刀、女房役なんていわれる
優秀な人材のことだろう。
TOPを支え、組織を大きくする存在として扱われる。
現代社会で、もっとも求められる才能かもしれない。

しかし、王佐の器は皮肉なもので
・年功序列
・能力主義
の現代日本社会では開花、発生しづらいのである。

年功序列であれば、
先輩、上司を支えたとしても
時間とともに、自分が支えられる存在になる可能性があり、
その才能を開花させることができても、
いざ決断者になってしまっては、
その王佐の器は本領発揮できないし、
低い評価を甘んじて受けることになる。

対して、能力主義では
自分の手柄を主張する世界ゆえに
支える存在に自分の手柄を持っていかれる以上、
支えた事実に脚光を浴びるような評価はしない。

王佐の器は、名宰相という扱われていたように
絶対普遍的な存在である王あってのもの。
評価を下してくる普遍的な存在があるからこそ
支えがいがあるというものだ。

企業における名参謀とされる王佐の器は、
創業家、ワンマン社長あってのもの。

僕は一生で何人の王佐の器を見出せるか、
それが使命と思っている。
まず隗から初めていくつもりだ。

2010-09-28

買収

企業が企業を買い吸収する意味合いで捉えよう。
日本において、
買収=MBOはなんとなくイメージが悪いような気がしてならないが、
MBOはある意味救済してくれたという概念が国際的な見解に近い。

このままでは、事業として成り立たず、
従業員の失業になりかねないものを買収して
存続させることにもなる。
また、劣悪な経営をしている経営陣を退陣させるという意味合いあり、
必ずしも悪いこととは思わない。

日本においては
基本、性善説で考える傾向ゆえに
既存の人たちを悪く言うことはなく、
外部を敵とみなしてしまうから、
MBOがよくないとみなされるのだろう。

とはいえ、MBOはいろいろな問題を抱えていることは事実。
例えば、
今まで評価されてきたことが全く逆になり、評価されなくなる。
これはある意味当然であり、その評価ゆえにMBO対象になってしまったからこそ
その評価を辞めてしまうという論理の帰着でもあるのだから。
それゆえ、MBOを成功させて事業が成り立たなくなるということもある。

つまり、
自分は会社に残りたいのに、評価されずに解雇されるか
会社の評価が自分の思うとおりでなく、自ら会社を去る決断をするか
ということで、どちらに転んでも既存社員の社員の流出は防げないことに、、

その他にも多くの問題をMBOは抱えているが、
すべての人の意見が通ることはMBO行為にはない。
なぜなら、買収されるために経営、事業運営しているわけでなく、
仕方なく、買収という行為にさらされているのだからだ。

2010-09-27

公開

公に情報を示すこと。
日本人の多くは
自社のノウハウ、ビジネスロジックをコツとして
社内秘なところがあるのに、
それを一般的に後悔することに懸念を感じていることが多い。

できるだけ、曖昧にそれを示すことにして
他人の真似を抑止しようとしている。
なぜなら、真似されて自分たちが築き上げた商圏、既得権益を
侵害されたくないからである。

この思いは
経営者としてとても切に感じるとともに
その域を超えないと、ビジネスの広がりがなくなってしまう。
その商圏、既得権益は案外、広がらないものである。
既に出来上がったものに多くの人々は
面白さと有償価値をあまり感じないからである。

FREEに記述があったのだが、
自分たちの行っている行為を細かくそしてどのようにしているかを
すべて公開してしまう。
その内容が簡単ならば、同業者の登場を容認してしまうが、
その内容がそれなりの価値であれば、
公開した情報をもとに、
自分たちが行う時間、リスクよりお金を払ってでもやってもらおう。
自分たちの時間をお金で清算しようという話になる。

公開することで
時間的規模がわかり、
時は金なり
の論理に繋がる。

真似されてしまうのは
その時の価値がより安価になること
それに伴い行為の品質劣化をいとまない社会的価値
という市場分析、自社技術の低さに他ならないのである。

Only One
No.1
で企業があるべき根拠もここである。
ある特定の行為は
公開情報により、難しく、時間がかかるからこそ
当企業にお願いするほかないと思わせることが
企業発展の要素である。

2010-09-24

二兎

二兎追うものは一兎も得ず。

この言葉はどういう意味の諺だろうか?
ひとつのことに集中してわき目も振らずに行えっと捉えるのが
一般的かもしれない。

でもそれではまずいのが現代社会ではないか?
1つのことに集中し続けることは、
はっきり言えば、いけないことと言い切れる。
社会情勢、
プロダクトライフサイクルの短期化、
により、今行うべきことがすぐに価値を喪失しかねないのである。

集中することは重要としても
短い時間内での集中にして成果につなげ
成果に至らない場合は
それ以外は周りの情勢を把握して
場合によっては今集中していたことをきっぱり捨てる覚悟がいる。

そして、もう一方、もしくは未だ見ていないものへ
気持ちをスライドさせる柔軟な方向展開が求められる。

二兎追うものは一兎も得ず
はすでになく、
百兎を視野にいれ、一兎を即時確実に
そして、それ以外は捨てさる。
これが現代の諺にあたるだろう。

2010-09-22

入門

本当に求道精神での入門の意味より
物事の基礎理解をする入門書が
現代社会の入門にあたると思うゆえに感じる。

過ちの伝播の根源といえる。

多くの入門書は
素人だましのような表現で物事を伝えようとしているきらいがある。
そのため、真にその事実を理解するときに
その入門書の記述内容が先入観ゆえの間違いであり
その訂正理解と言う二度手間を踏むことになる。

これは社会的知的レベル、市場意識の弊害の一例だろう。

筆者サイドとしては
その内容をできるだけ理解、、いや興味を持ってもらうために
言葉を変えて伝えている感、嫌味に言い方をすれば
庶民にわかるようなレベルに降りてきて書いているのである。
ある意味、不本意に書いているかもしれない。

対して、読者サイドは
この書を読むだけで、自分の知識は十分理解できたはず
その内容であるべきという思いでその入門書を手にしているのである。

書き手と読み手の思いが違うからこそ、
理解の乖離が発生するのである。

多くの人々に売りたい内容であるべきという市場論理
ちょっと知れば、自分ができると勘違いしてしまう日本の知的レベル
これが日本の入門の実態だろう。

検索する環境が容易になったこの時代からこそ
正しい理解や深い自己の考察が求められているという自覚をもって
新しい知識、概念に触れる思いをもつべきだと思う。

2010-09-21

寛大

「これくらいいいじゃないか!」
と寛大な処置を求めてくる輩が多い。

寛大とは、つまりは違法幇助に他ならない。
つまり、悪いことを見逃しているのである。

細かいことまで、いちいちルールの話をするな!っと開き直る世相。
これ自体が無法化真っ只中である。
法やルールは守られ、守らせてこそ、法治であり、
規範を知っているだけではなんの意味もない。
ただ存在する規範の社会は無法地帯以外何者でもない。

学校運営において、
紙飛行機が飛ぶと校内暴力が始まるとされる。
たった紙飛行機が飛ぶだけでそう話を飛躍させるなと
思いやがる輩が一番危ないとされる。
飛躍させるなと騒ぐ人間ほど
これがいいなら、これもありだろうと
自分の行動規範を飛躍させてくる自覚がないからだ。

現代社会において寛大なことはあってはならない。
窮屈な発想だと思うかもしれないが、
今までが自由無法すぎている。

ダムという巨大で堅固な建造物の決壊は
いきなりではない。
ほんの数ミリのヒビ
ほんの針先程度の穴
に力が加わり、そこを起点に決壊するのである。
些細なことを寛大にするということは
破綻の因子を多く生み出すということである。

2010-09-17

面倒

相手の好意に対して
「面倒くさい」
と思うことは、人道的という概念を無視して
ビジネスの観点から致命的だ。

ビジネスをするということは
基本的に敵作りなことに通じる。
利害、
コンペティション、
瑕疵、
といろいろな認識要素で相手と対峙することになる。
自分としては正当と思っていても
相手の思い、思い込みでそれは不当なものとなってしまう。
それぞれ各位が善であるのが、自由主義の社会なのだから。

だからこそ、善悪で人は区別できない。
そうなると自分の正しさやよりどころを得ようとしたら
それは好意に行き着く。

どんな些細な好意、、、いや些細な好意で有ればあるほど
その好意に感謝の念を持つべきだろう。
人間は認めてもらうことに喜びを感じる社会動物ゆえに
些細なことにも認めてもらうことは、
「まず隗からはじめよ」
のようにそれがこの先、大きくなるのである。

向けられた好意に対して
まして、裏のない素の気持ちに対して
「面倒くさい」
という表現をするのは
それはビジネスにおける失敗の根本要因と思うべきと
心得るべきである。

2010-09-16

型破

歌舞伎役者の言葉に感銘したことがある。

 基本の型をしっかり理解しなさい。
 その理解があっての自己表現の追及を、’型破り’
 理解なく、自分勝手の表現を、’形(型)無し’

という内容である。実に奥が深い。
それゆえ、この言葉があってからの僕の考え方の基軸でもある。

僕は歌舞伎の型については無知だが
この思想はすべてに役立つ。
とりわけ、人間の理解についてもだ。

人間は物事を理解するときに、言語を介して理解する動物である。
それゆえに、言語の多義性により、正しく定義されている内容で
理解しているかはいささか疑問が起きたりする。
そして、それが伝言ゲームのようにいろいろな多義性で伝播する。
確かに、言語は変化する、意味定義が変わるのはいいのだが、
その一方で、他人との共通認識の前提である
コミュニケーションが成り立たなくなることにもある。
言語は進化してもいいのだが、共通認識の意味も一緒に変革させなくてはならない。

だから僕は、歌舞伎役者の言葉を受けてから
表現について、
思い込みの勝手な新語はただの’形無し’にすぎず
本来の意味を知った上でそれを派生させることを宣言して使う’型破り’
を意識して他人と接するようにしている。
まー、これは僕の内なるルールであるにすぎないのだが、、
この思いだと相手にインパクトを与え、
伝わりやすいのが確かなのでね。

2010-09-15

時場

「時と場所を理解して行動しろ。」
という言葉に対して果たしてそうだろうか?と思うことがある。

時と場合についての感覚は人それぞれだと思うし、
言った人間の感覚と
言われた人間の感覚に
相違があるから、こんな発言に繋がっているわけである。

まして、日本人、現代人の既存概念、既成価値について
否定、改善が求められ、認められるこのchaosな時代に
時と場所の感覚を強制することは必要だろうか?

時と場所について
理由なく言及している時点でその人間は
ただ他人の作った既成概念に操られているにすぎないのである。
もし、時と場所について僕自身が他人に言うのであれば
自分の価値観を述べて、それを強制執行させる意思の表れで
他人の意思については認めない状態でしかないと感じる。

それだけ、時と場所についての言及は
意味があると感じている。

2010-09-14

二番

会社の経営者として、
二番煎じというか、
2番手の製品に興味を感じる。

新規開発の新製品はそれはそれで魅力で
消費者としての興味津々なのだが、
その新規開発を受けた2番手について、
・同一社からの2番手の付加価値
・他社が追随して発売する新製品
それぞれに興味がわく。

このご時世、だいたい二番目の付加価値は価格低下を求められる。
需要と供給の見せざる手の調整でそのなることは必然なのだが、
僕は価格より、考え込まれた付加価値に興味がある。
価格低下で得られるものは、大量生産大量消費の構図であり、
確かにものによっては品質も上がっているかもしれないが、
商品への思い入れは減っている感が否めない。

だからこそ、
新規製品の問題点、顧客ニーズを取り込んだ
2番手製品の宣伝広告を見ると
まだまだエンジニア魂はあるんだなあって感じる。
1番だからできることもあれば
2番だからこそ、できる可能になる、
やらなくてはならない使命感が欲しい。

廉価版になり、かえって使い勝手が悪くなる製品には
ものすごく嫌悪を感じるのもこの思いゆえである。

2010-09-13

良心

良心の呵責でいう、良心とはなんだろう?
清い心とは?

自分は正しいと思っていることが相手から批判されたとき
自分が悪いのか?
相手が間違っているのか?
もし自分が間違っていたのなら、
今まで自分が思ってきた良心とは?
逆に相手が間違っているのならば、
相手の良心=悪意=悪人なのだろうか?

哲学的に考えると深みにはまる内容だろう。

基本、正義と同じで良心は個々人の基準。
つまり、自分の思いが良心である。
集団的、組織的な高度成長時期の日本ならば
周りの活動に合わせて、フレキシブルに良心を変えられた。
逆に言えば、個々人の良心というものがなかったのかもしれない。
個人主義が台頭したからこそ、
個人の良心が目覚め、それに対して自分の良心以外を
悪意とみなす気持ちも生まれたのだろう。

光あるところ闇あり

良心といういい面を出すということは
その反対なイメージも浮き彫りにさせるということなのだろう。

2010-09-10

畏敬

秩序を考えるに置いて
畏敬は十分条件ではなく必須条件と僕は考える。
確かに畏れがあると気持ちが窮屈になり、違和感を持つとの声があがる。
それがどうした?

親しき仲にも礼儀あり
鋼は鋳造なくして生まれない

一定の緊張感をもって人と接することで
人間の身を引き締めて、
それにより活動、成果のリセット、仕切りなおしが起きるといえる。
だらだらとした関係、
口先だけの敬語での対峙関係、
これでは敬いは生まれない。

相手を畏れ敬うことで、
自分のなすべきことの使命感、責任感
そんな相手からのギャップのような謝辞による昂揚
逆の叱責の恐ろしさ。

これらの起伏、緩急が人間に深みを与える。
ただ生きている、思いのままに生きるそんな存在は
社会的にも淘汰対象になりつつあるのが実状だ。

2010-09-09

迷信

根拠のない噂とされる伝承、慣行。
しかし、本当にそうだろうか?とつくづく思う。
昔の人といえども人間。
思慮分別はあり、それなりの判断基準を持っていたはず。
何も言われるだけの事実を盲目的に信じていたとは思えない。
迷信には何かそれを信じさせる事象があったのではないか?
と思う。

そう考えると
あながち、迷信は温故知新。
調べ調査することで、何か新しい発見、ビジネスチャンスになるのではないか?
と思いをはせてしまう。

迷信だけではなく
身の回りで起きている当たり前のことも
自らの意思を持って紐解くことが
人生、視野を広げていくきっかけではないだろうか?

2010-09-08

共感

相手と同じ感覚、感情を持てるかどうかであるが、
最近の心理学では、その欠如が犯罪誘発性に繋がるような見解がある。
確かにそうかもしれないし、その真っ只中に自分がいる自覚はある。

相手と共感できないから、社会に適合できない。
それにより社会不適合な行為つまり違法行為を行うと言う論理であり
つじつまは合っている。
しかし、社会が必ず正しいのだろうか?
心理学ではなく社会学の見地からすればそれもありであり、
今の価値観が常に正しいのではなく、いや今の価値観が総否定されることもある。
社会とはそういうものである。

それ以上に他人と共感できることはあるのだろうか?
ある人は、自分が不幸だっていうが、
もう一人は、自分のほうが不幸だという。
人間は自分の尺度で物事を見ている以上、
共感するというはなく、
相手の言っていることを鵜呑みに捉えることを共感と思うのではないか?

共感能力の欠如は時として犯罪者を生むというならば
人間はすべて犯罪者予備軍かもしれない。

僕はそう考えるとともに
共感能力の欠如があるからこそ
新しい価値観の創設が行われて、社会が変わり続けていくのではとも思う。

2010-09-07

曜日

日本では日曜~土曜日
それは、欧米のSunday ~ Saturdayに対応しているが
中国では
星期一~星期日で月曜日始まりで数え方も異なるが
一応7日間で一週間にしている。

太陽暦、太陰暦の違いから始まる暦と
それを区切る年月週曜日。

国際標準という考え方でグリニッジ天文時間を採用し、
国際経済の観点から7日間の週間が好まれそれを採用している。

しかし、それは日本が欧米に従ってきただけであり、
中国の些細な違いから始まり、
全世界的に必ずしもそうではない。

そう、人間それぞれ時の感じ方が違うといえる。
曜日のように7日間という周期性が人にリズムを与えているかもしれないが
人によってはそれは納期に追われる日常に感じたりする。
人と曜日ついて確認する際に、
ちょっとその感覚に違いを伺ってみるとその人の価値観が再発見できるかもしれない。

2010-09-06

失敗

過ちの繰り返し
「自分は違う」の思い込み

これに尽きる。

失敗であるという認識は
成功例、成功イメージを過去の事例から憶測して
あるべき姿になっていない状態への他人の評価である。

自分で失敗と宣言できるときは
ある意味、失敗ではなく、発見に近い。
なぜなら、失敗と言いきれる成功イメージを見出したからである。

失敗から人は学ぶと言うが
それは嘘だと思う。
失敗を自覚できる人間には失敗と言う概念はなく
失敗を自覚していないから評価が失敗になるわけである。

失敗を恐れるなという言葉より
失敗を自覚して、それを是正する気持ちを持ち続けろ。
という言いたい。

どうも最近の庶民の発想は責任感も達成感が感じられない。
失敗は悪いことであり、
それを二度としない、
それを是正する努力と智恵を絞りだすべきだ。

2010-09-03

書道

アジア大陸系の独特のアートだといえる。
文章内容ではなく
黒色一辺倒ゆえの色彩表現もなく
ただ、文字そのもので毛筆で自己表現することは
文字が象形文字派生ゆえの概念といいえるだろう。

僕の場合、書道はある意味違った一面を見出す機会だった。
僕は左利きである。
そのため、日常生活では左手で行動するので
文字を書くのも左手である。

左利きの人しかわからないと思うが、
文字を書くとき、
右手の人は横画は筆を引くのだが、
左手の人は横画を押して書いているのである。

日常生活を左で行っている僕も書道を行うときは右手で書く。
そうなると、同じ文字でも書き方が全く違うことになり、
筆跡が異なる文字が現れる。

書道を通して思ったのは、
いつもの文字を読み書きのコミュニケーションツールから
アートに感じされる契機だったりして、
当たり前のものが全く違うものに感じられた。

物事を多角的に捉えることが幼いときに自覚させてくれた活動だった。
実用と芸術
押すと引く
案外身近なことの中にいろいろな発見はあるものだなあっと。

2010-09-02

覇道

大義名分に裏づけされた順当なやり方を王道というのに対して
自らの意思で突き進み他を圧巻させることを覇道とされる。

この発想は、万国共通ではなく、
司馬遷の史記に由来した、
大陸系の思想である。

王道をよしとして、覇道をよしとしない論理だが
市場経済、競争社会において、覇道こそ成功の筋道である。

大義名分という歴史的な発想は
過去=いいものという認識だが、
成長経済、向上心を求める生活を旨としたら
過去=悪いものとすべきであり、
王道は悪しき踏襲でしかない。

国際的に言えば
他の事例に倣わない行為こそ
価値のある行動であり、そのために
大義名分の否定も辞さないことは当たり前になりつつある。

日本においても電通鬼十則にあるように
成功するには他を押しのけるくらい行為
覇道を貫くことが必要であり、
それが成長を示しているのも実績として伺える。

大義名分という御旗を信じず、
己の覇道を貫く気持ちをもってあたる覚悟が
これから生きる人間には必要だと思う。

2010-09-01

手紙

手紙とは何だろう?
この問いかけに多くの人は??って感じるだろう。

では、
・漢字発祥地である中国では、手紙とはトイレットペーパーなのに
 なぜ日本では手紙?

・手紙は、葉書、封書、おたより、どれにあたるの?その違いは?

・英語でletter mail とあるけど、日本語の手紙はどっちにあたる?

と多くの人が当たり前と思っていても
実際には答えられないことの代表例である。

手紙について言及すれば、説になってしまうので
あまり言及しないでおこう。

基本、日本語は定義をしない言語なんで、
人によって意味が違ってもそれがすべて正解な多義語は多い言語ともいえる。
あれも正解、
これも正解、
とすることで、他人を批判しないようにしてきたのかもしれない。
その多義の容認が論理性の弱い言語たる要因のひとつになっているといえる。

そもそも日本人の手紙の多くは
世辞から始まり、世辞で終わることを旨としていて
本来重視すべき、内容のことについては言及しないことが多い。
そんな言語体質だから、
伝えることがうまく伝わらないのだろうなってつくづく感じることが多い。

2010-08-31

傀儡

操り人形のように扱われるということ。
好ましくない表現で使用される言葉だし、
傀儡になっている存在に同情、哀れみを感じさせる。

しかし、それはどうかと思う。
傀儡になるべくしてなってしまったのではないだろうか!
傀儡になるということは
その当人の持つべきものが能力とマッチしていない状況ではないだろうか?
・先祖からの血統
・引き継いだ財産
・あまりにも大きな決定権限
はっきり言えば、その当人が持つべきではないものだったのである。

本来であれば、その当人に資質がないのだから
取り上げて最適化させるのが、社会システムなのだが、
その当人への配慮から、無資格だが能力のある人間が代行してあげる。
それによって得た結果を当人に帰属させてあげているのである。
それは代行行為なのだが、無自覚、無能である当人や関係者が
その行為に自覚がなく、騒ぐから傀儡と認識されてしまうのが世の常である。

実際問題、歴史上、傀儡にさせられた当人が仮に親政、当人実行をしていたら
結果無残な結末になっていただろう。
傀儡でかわいそうって思われるか、
馬鹿なやつのためになんで俺たちが苦労しなくてはならないのか、
は本当に紙一重でしかないのである。

2010-08-30

両立

バランスよくこなすこととされるが、
考え方として、あるべきなのは、どのタイミングで何を捨てるのか。
これに尽きる。

人間の時間というより集中力は1つと考えるべきだ。
集中力が同時期に複数出せるという話は
それ自体で論理矛盾だ。集中しきっていないではないかといえる。

その集中力は持続時間も発生タイミング、発生条件は
個人差があるとしても、おおよそその人で決まってしまっているだろう。
それゆえ、その集中力をどう使う、どう引き出すかを
得たものが両立を実現できると感じる。

僕からすれば
その両立ができること自体にあまり価値を感じていない。
1つに集中して大成させるほうが価値が高いことのほうが大きいからだ。
しかし、現代社会において1つだけに集中して大成させるのは
かなりリスクがあるので、いくつかの小さな成功を成り立たせることが無難といえる。
大きく大成せずとも、成功という結果があることに価値を感じるからこそ、
両立させることに対して、その結果的な評価を見出しているところはあるのだが、

2010-08-27

単純

実は結構難しく、そして結局は戻ってくること。

単純であるということは
簡単
簡素
味気ない
それだけ
という状態といえる。

素の状態であり、
その存在が現れたままの姿である。
その単純な状態があるからこそ、
人間はそれに付加価値をつけて
単純さとの差別化を図る。
付加価値がその単純さへの自己主張のように、、

しかし、それは付加価値でもあり汚れでもある。
その付加価値の累積が
そもそもの単純なことを見えなくしてしまい、
本来なんだのかをわからせなくしてしまう。

そうして、本来の姿ならもっと簡単なのに
付加価値という汚れがこびりついて
その付加価値前提で複雑なことをしなくてはならない
それが現代社会ではないかと思う。

本来の姿を単純と見抜く力、
単純に落とし込める能力、
が現代社会ではとても重要である。

だってそうでしょ。
部屋を自分好みにすることは=汚れに等しく
それをもとの部屋に戻すのは結構大変な清掃力、整頓感覚が
求められるのだから。

2010-08-26

間引

自然界では当たり前だが、人間には非道徳とされる行為。
優良種の育成のために、劣勢種を廃絶して優良種の発育を促進させること。

多産動物の育成方法として自然界では当然のように行われている行為であり、
自然界の生存競争のひとつの象徴である。

人間は高度生物だから、間引きなんてことはしないと思うが
それは大きな間違いである。
植物に対して、
剪定
選蕾
を行い、より強い樹木、大きな果実を得るために間引きを行う。
間引かれるのは、枝、葉、蕾である。
僕の視点からすれば、自然界の当然のことであり、
植物と人間は違うという発想がおかしく感じる。
そもそも、こけしという玩具の発祥も間引きであり、
人間も昔から間引きをすることを理解している。

間引きをすることへ非道徳の感情を持つ人がいるが、
間引きをせずに劣勢種をも救おうとして共倒れになってしまったとき
間引きをせずに助けたつもりの劣勢種が自分の意にそぐわないことをされたとき
その非道徳感を持っていた感情はより一層の憎悪になることは
多くの人間像でみてきた。

見た目の非道徳、倫理観の尊重がその後の苦しみになるのであれば
早めに処理することにためらいを持たないほうがいいと感じている。

2010-08-25

重要

逆転の発想で考えよう。
何を重要ではないかを理解して、それを捨てるということを実践することだ。

学生時代、
教科書の重要なポイントにラインマーカーを引くとすると、
教科書のセンテンスがすべて、ラインマーカーになってしまう。
そんな光景を見てきた。
今のとなって思えば、教科書自体が、重要な内容に要約された書籍であって、
重要ではないことは極めて少ない内容に構成されているのだから
それなるのは必定だったといえる。

重要という言葉は極めて
相対的、主観的な言葉であり、
話し手からすれば、自分の言葉はすべて重要と思ってしまう。
重要だからわざわざ伝えているという思いでもあるのだが、
聞き手においては、そうでもないかったりする。

それでは困ると思うかもしれないが、
いざ自分の胸に手を置いてみれば、
自分もそんなもので相手の話をすべて重要とは思っていないはずだし、
もし思っていたら、自分の意思がないと言い切れてしまうのである。

だからこそ、ポイントして話し手の言っていることで
今すべき、これだけは押えておかなくてはならないことを
見抜き後は捨ててしまい、自分の意思や他の話し手の意見を汲み取ることを
身に着けるべきである。

「相手の言っていることをすべて理解して答えてあげよう!」
なんて標語をいうが、そういう標語を掲げる人ほど
「言われないとできないのか!」
って言うのだから、重要なんてものは要領よくこなさないと
重要なことばかり行って自分の首が絞まってしまったということになるのだから。

2010-08-24

用紙

人間、いや日本人の行動規範の具象と思う。
お役所に限らず、どんな組織でも相手から出してもらう情報は
用紙に従ってもらうことが極めて多い。
読み手が効率的、画一的に処理を行うためには
用紙に従った記述情報が的確とされていたからだ。
そのため、出生届~解答用紙~死亡届と
日本人としての経緯は用紙をたどれば
その人の生き様がわかってしまうほどだ。

そのためというか、
読み手本位の用紙の概念が
書き手側には当たり前になってしまい、
フリーフォーマット
自由記述
といわれるとテンでダメで、
人によってはサンプルを要求したり、
挙句の果てには、
フリーフォーマットのサンプルおよびそれに従った書き方を示す
読み手が当たり前に現れ、自由な表現の意味をとり間違えてしまわれている。

逆にビジネスチャンスとして捉えれば
用紙を作ること=統治(ガバナンス)
であり、その用紙作成支援は運営、経営支援だと感じて行動することが
サービスのひとつのやり方といえよう。

2010-08-23

退屈

最近気づいた。
退屈とは、努力していないことと言える。
楽しい、有意義なことはもらうのではなく
自ら行うことで手に入れなくてはならないと思う。

確かに欲するものを与えてくれれば
それは楽なのだが、
実際にはそれでは退屈という真理を招いてしまう。
人間はわがままであり、
ある一定のことが満たされると
それ以上を求めたくなる。

皆もそうだと思うが、
満たされた生活だと退屈と感じてしまうし、
満たされていなく、
何かを求めているときほど、
精神的に満たされているのである。

そのように満たされたときに次の活動を起こすということこそ
ある意味、人間の努力と成長、向上心の現れだと僕は思う。

2010-08-20

逸話

年配者、先輩方の失態、武勇伝の逸話を面白おかしくきくことが
社会人生活、とりわけアフター5に聴くことがある。
いろいろな経験をしてきた人は
すごいなあって思うし、よくそんな面白い経験してきたなあ
って思う、、思っていた。

しかし、
いざ自分が聴く立場から聞かせる立場になると、
案外自分は持っているなあって思う。
振り返ってみれば、そうである。
嫌な苦労した経験は、笑い話等のネタにしなければ
やってられない思いに繋がる。

あの時、
あの時代、
について、今客観的に思えばなんて馬鹿なことをしていたんだろう。
って感じたり、
他人に説明するときに当時の緊迫感ではいえなかったことも
面白く話せてしまう今の自分に成長と余裕を感じてもいる。

そう考えると
今の苦労も少し時間があけば
ネタになるのかなあって思える。

苦労や苦痛は
未来のネタの仕込みって自分に言い聞かせるもの一興かと。

2010-08-19

事務

仕事=事務=頭がいい

わけではない。つくづく感じることだ。
事務がうまい人、
効率よく仕事をこなす人が
頭がいいと思われがちだが
必ずしも、いや得てしてそうではない。

事務の多くはルーティンワークである。
決められた時間、範囲、行動をすることが求められる。
その条件下でいかに成果をあげるかが醍醐味といえば醍醐味かもしれない。
しかし、それではそれまである。
決められた枠組みの中でしかない。

頭がいい要素のひとつである創造的なな発想にはなかなか結びつかない。
創造的な活動の前提として、
既存否定が現代では求められる。
なぜなら、物のあふれているこの時代、
何かを否定することがないと、新しいことを始められない状態になっているからだ。

決められた枠組みの中で最高のパフォーマンスを出すことを評価するより
新しい概念を創設する気概や発想こそ
今後の付加価値を生み出す頭のいい活動だといえる。

多くの場合、
新しい概念は理解されず
事務のような当たり前の概念を評してしまうところに
日本人の発想力の弱さを感じてならない。

当たり前を当たり前ってなんかおかしくないか?と言い切れる
気概はないものかと。

2010-08-18

信義

嘘の許される範囲と解すべきだろう。
いかにも、信義という言葉を正当なきれいな言葉と思っていても、
信義という表現が使われている以上、
現実社会に存在が確認できていなく、
それの事実をいかに存在しているかのように見せる嘘を突き通せるかが
信義の大きさだといえる。

信義という現時点における嘘を
・今までの実績
・今回の存在させるまでの実現可能性
等の担保行為によって、ありえない価値を見出して信用してあげるのである。

「嘘をつくことは悪いことです。」
「相手からの信用を得ましょう。」
市場社会では無理と思うべきである。

現時点であり得ない虚構をいかに実現させるか
そのために、見えないものを見えるようにすることは
ある意味、だましているという認識をもつべきであり、
そのだましているという自覚、自戒の念をもって接することが
これからの実現させるための原動力、そしてサービス品質の根拠になるのではと感じる。

市場は性悪説。
だからこそ、自らが悪、そして他人も悪であると思えば
信用の意味が互いが互いを存続させるための必要悪と感じてくると思う。

2010-08-17

回顧

人生における転機は
だいたい、回顧して初めてその時が転機だった感じるものだ。
そして、自分が転機だと思って行った行為の多くは
転機というよりも、その時の思いの延長上の方向でしかなく、
転機と言うものではないこととも回顧するものだ。

自分は決してうまく行っていると思ったことはないし
かなり損をしていると思っている。
性格上、社会情勢上、の要因でかなり不幸と感じることもある。

しかし、それは他人から見れば
そんな大変な経験をしている
普通の人ではそこで動くことはできない
という話を受ける。

そう回顧して思うと
嫌な思い出 = 貴重な経験談
小さな結果 = 投げ出さずに小さいながら結果をだした
成功     = 不幸への入り口
成約     = 足枷の始まり
と自分の思いと反対の評価してもらえることもある。

自分の思いを回顧してみる。
それを第三者に評価してもらう。
それで新しい見解が見いだせることもあるのではないかと。

2010-08-16

人材

人間は人を集めるときに、優秀な人材を求める。
でもこれは本当にそうだろうか?

少し俯瞰してみよう。

業務の標準化、プロセス化で人的ミスを廃絶するということは
個々人のクリエイティブな優秀さではなく、オペレーションの忠実性を求めている。

新しい企画、運用を立案しても
既存価値への固執、および成功体験から新しいことを行おうとする者を否定する。

あまりにも対外的に有名になってしまうと
既存の者の評価が相対的に下がるために疎ましく思う。

結果として優秀とされる人材が組織に入っても
能力を十分に発揮できなく、
正当に評価されないという思いを持ってしまう。

本来、あるべき能力主義は
所有と経営の分離で
「好きにやってくれていい、その代わり結果を残せ」
という前提、経営たる業務に口出しをしないことが求められる。

採用する側の都合のいい人材
(思うがまま、言われた通り、出しゃばらない)
を個人能力主義の市場から手に入れようと思うことは
論理的に破たんしていると僕は感じている。

2010-08-13

謙遜

あまりすべきではないかもしれない行動かも?
日本以外では謙遜という行為、概念がない。
賞賛に対して、ゆるい否定をするような好意より
賞賛に対して、ありがとうといったほうが喜ばれるといえる。

そもそも、
敬語表現がままならない現代において
より使用方法が難しい謙遜を使いこなしているようには感じられない。
へりくだるという表現を理解しているのだろうか?

へりくだることは自己否定ではない。
それを理解せずに謙遜をしたつもりの例をあげるなら、

「君に任せてよかったよ。感謝させてもらうよ!」

という言葉に対して

「自分なんか感謝されるに値しません」

は謙遜ではなく、むしろ任せた人への選定ミスのようなイメージを与え
かえって印象が悪くなってしまう。
本来あるべき表現としては、

「今まで能力を発揮できずにいた自分にチャンスをくれたことに感謝します」

だと言える。

はっきり言おう。
謙遜をウィットのセンスと同じだ。
相手の言葉をうまく気の利いた言葉でカウンターが打てるかどうか。
キャラ、センス、経験がないのならば
下手に謙遜せずに、素直に答えよう。
そのほうが相手にとっても素直な気持ちでいれるのだから。

2010-08-12

累積

思考の原点は知の累積とその活用である。
蓄積ではなく、あえて累積としよう。
ただ蓄えるのではなく、重ねるように積むことが重要である。

知っているということでは意味がない。
まして、知っていたという、過去形つまりリアルタイムの知を
使えないのでは、知識をもっているだけでいざ使えないのでは
全くもって意味のない状態といえよう。

考えるということは
・問題意識を持ち
・今まで持っている知識を検索し
・解答に導くために自発的な行動をとる
と定義すべきといえよう。

知的好奇心で
多くの人間は知を手に入れたが
実際にはそれを考えるという行為に昇華させてはいない。
知っているということで満足というべきだろうか。

知った上で、
その知識を問題点にぶつけて
解答たる新しい付加価値へ高める行為がなくてはならない。
論理的に考えれば、その新しい付加価値もまた知識であるのだから、
考えなければ、知識は全体として枯渇する。

ただ知るのではなく
累積を機能させるようにして
’考え’をめぐらせることにもっと注力すべきと今の時代に思う。

「頭がいい」って知っているということとは違うでしょっと。

2010-08-11

秘伝

情報開示を求める世の中は
実は品質低下に繋がっている。
多くの技術において、
秘伝とされるものを開示させていこうとしているが、
それは秘伝ゆえに保たれた品質低下を招いている。

多くの人の目に晒されて、多角的な視点で悪いところが改善されるから
いいことだと世間はいうが、それは大きな間違いである。

悪いところは本当に悪いのだろうか、
感覚も経験もそして責任感のない人の意見に晒されて
必ずしも正しい判断がされるとは限らない。
むしろ、思いつきや偏った思想を強いられることになる。

具体的に言えば、
おいしいとされた料理店の他店舗化は
秘伝のオープン化であり、それが必ずしもうまくいかず
同じように仕事をしたとしても
「味が変わった」
「本店の味と違いすぎる」
なんていわれリスクになる。

また、付加価値ってものはその秘伝に他ならない。
情報開示をしても、付加価値にあたるものを
開示すべきではない。それを真似られて、自分たちの存在意義が危ぶまれても
世間の言い方は
「情報開示したのは自分たちだし、真似されるくらいの技術だったのだろう」
て評されるだけである。

個人情報保護 VS 情報開示義務(ディスクロージャー)
と情報に対しては、多くの矛盾にも似た論争が尽きない。

秘伝という神秘性に魅せられて世論からの開示要求がくるかもしれないが
秘伝とは知的財産であり、それを開示するのは窃盗要求にも近いとみなし、
抗弁したりしたりしないと守れない。
秘伝はそうやって、責任を持って守り続けられた結果なのだから。

2010-08-10

無駄

よく政府、企業のような大型組織に対して、
「徹底したコスト削減を図ります」
っていうが、それは本当に無駄なのだろうか?

例えば、箱物行政は無駄というが、
それは僕の中では大きな勘違いむしろ矛先が間違っていないと感じてならない。
なぜなら、箱物と呼ばれる建造物を作るには
多くの建設に関わる企業に支払いが行われる。
その企業がまた設備投資や消費を行うと市場が活性化される。
それにより、間接税収も増えるのである。
政府の言う利益の再分配が成り立っているのである。

逆にコスト削減を行うと、市場が逆に冷え込むと思う。

問題は箱物行政ではなく、
それに関わる過程での市場活性化要因の欠落ではないかと感じる。
・使いどころを間違えて、起こしてしまった財政赤字
・未来への不安による貯蓄
・市場訴求力のない商品の多さ
・使わないことを美徳とする世論

まがいなりにも組織の長として思うのは
社員に対して
ケインズやフリードマンの経済学を諭せずとも
「金は天下の回りもの、
 自分の欲しいものを買いなさい、
 その買うために貯金しなさい
 貯金できるように仕事の質を高めなさい」
これに尽きる。

金を使うことは、無駄ではない。
むしろ、市場活性化に繋がると強く言いたい。
ただし、無用な返済が困難な借金をしてまでの購買は
自分の力量を見定めていない浪費だけどね。
その浪費が自己破産に繋がれば、かえって市場活性化を阻害するのでね。

2010-08-09

見切

なんとなく、相手を言い当ててしまう。
特に
本人がかたくなに否定しているが事実なことほど言い当ててしまう。

動物は元来、身を隠すことを本能としている。
外敵から捕食されないように
獲物に気付かれないように
そして人間は、本心を見透かされないようにと。
その上で隠しきれず身を晒した場合は、、まな板の鯉状態になる。

人間なんてものは、えてして
自らが思っている自分と社会から見られている自分に大きな差異がある。
その事実を知らずも、知っていてもなお
自分の思っている自分像を肯定しようとする。
これはアイデンティティーの尊厳、、人間ゆえの自己防衛ともいえる。
自分が自分自身を知らないということはありえてはいけないから。

多くの場合はかたくなに社会からの自分を否定し続けるが
事実立証だけでなく、その事実に基づく行動予測が当たってしまうと
隠し切れずに、開き直りのまな板の鯉状態になる。

僕からすれば、
相手のアイデンティティーの尊厳なんてどうでもいい。
相手のアイデンティティーとは、社会への防御壁でしかなく、
相手を見切り、
相手の本来の気質、特性、そして、その自覚を目覚めさせたほうが、
アイデンティティーが防御壁ではなく、閉じこもっていた殻であり、
気付かなかった可能性を手に入れると思う。

見切られることへの不満をもたれることに対して
見切ってもらったことへの感謝もあるではないかって思うのだが
多くの人間はただ、不満に感じ、可能性を広げない。

2010-08-06

給水

給水と聞くと
人間の常識とか健康の意識が曖昧と感じる事象が脳裏に浮かぶ。

子供のころ、
運動時や暑い日に対して、
「水分を取りすぎると余計疲れるから、飲むのは止めなさい」
といわれてきた。
しかし、現代では
「水分補給をしっかりしないとならないので、必ず飲みなさい」
といわれる。

科学の進化で概念が全く違うことがわかることはいいことかもしれないが、
僕が気になるのは、下記の2点だ。

ひとつは
給水を止めなさい、飲みなさいという人が
同人格でかつ違和感なく発していることである。
多くの人間がそうなのだが、
メディア、オーソリティーがそういったから
平気で意見を正反対に変えることに違和感がないことに
健康へのポリシーはないのか?
継続した行動こそが健康だと思うが、言われるたびに変えられる体質は
健康といえるのだろうか?

もうひとつは
この科学の進歩だ。

今回は給水行為が正反対になったが、
一昔前は、ココアにおいて
・高カロリー過ぎるから、飲むないように
・ポリフェノールがあるので、飲むべきだ
・成分同士の相互作用で、あまり健康的ではない
と1年のうちに何度もいい悪いが繰り返されてきた。
このココアのように給水行為がまた、反対にならないかと憶測が成り立ってしまう。

思うに、科学といえども人間の研究の賜物。
自分の研究が無駄ではないとしないと、研究費がもらえない社会。
だから、毎度毎度、いろいろなものを発見、実験して
いい悪いを言い続けるのではないかと感じてしまう。

いくら気をつけていても、
いや気をつけていない
他人からの情報ではなく、自分自身の体調管理を感覚で行っている
人のほうがかなり安全な時代なのかもしれない。

2010-08-05

美学

性癖といえる。

自分からすれば、生き方や考え方のポリシーとして貫く観点かもしれないが、
他人からすれば、どうでもいいことにこだわっているに映る。

美学=価値観=個性 と考えることもできるが
昨今における社会問題から、個性を出すということは意味がないし、
かえって社会利益に繋がらないと感じる。

僕が思うに個人の美学やセンスを尊重する組織、国ほど、
凋落、貧富の差が著しいのではないかと。

社会としての全体最適により社会的利益で裾野が豊かになり、
底上げに繋がるのだが、その分ある程度の個人の尊重が犠牲になる。
その犠牲を、
「みんなのため」
と思ってきた高度成長期の日本は
それで大きく成長できたが、現在の社会では
「なんで?自分の美学に反する」
というとすそ上げにはならないし、
その美学により個人の刹那的快楽と社会的機会の喪失になる。

美学という個人の思い込みが
全体としての向上の阻害になっている事実が
気付かぬうちに身の回りに進行しているのだが、
実に見える刹那的快楽により見えなくなっている。

よく言われる
失われた10年
それは個々人の美学に踊った機会損失だったといえよう。
その期間、多くの日本人は個人、個性を口にしていたのだから。

2010-08-04

議論

日本人は議論が苦手である。
日本人は議論とクレームを同視する傾向が読み取れる。

議論の本質について多くの説明が、

「互いの意見をぶつけて、よりよい結果を導くもの」

等の表現をしている。

思うに嘘である。
これは日本人の発想であり、
欧米、大陸における議論はそうではない。
日本以外の議論の本質は

「自分の意見の正当性を押し通し、相手の反論に対して本質を曲げずに相手を歩み寄らせるか」

といえる。

・互い
・ぶつける
・よりよい

という発想は根本からしてなく、
自分が正しいともう結果にどれだけ誘導させるかである。
日本におけるわがまま、自己主張とされる禁忌が
かえって外国では生存権に繋がる行為なのである。

その認識の差異があるので、
日本における議論はあまりは活発にならない。
まして、日本においては
「任せた、どっちでもいい」
という風潮がある以上、自己主張する気概がないともいえる。

議論なく効率的に物事が進むことを日本の美徳とするか
それゆえに、日本の進め方がよくないという国際批判とみなし
改善しようとするかは、各位の属する組織体での各位の行動になるだろう。

僕の見解からすれば、
文頭に書いたように、
自己主張が根拠なくただのクレームになるのであれば、
議論という行為に手を出すことは控えたほうがいい。
発言の責任性、論理性を身に着けてこそ、
国際的な議論の席に立てると思っている。

2010-08-03

求道

書家の大家の文字が読めるか?
印象派の絵に共感できるか?
ロックの大御所の歌詞がちゃんと聞こえるか?

道を求めると庶民に理解できなくなるといえる。
もっと言ってしまえば、それが
文字
絵画
音楽
で評価すべきものなのか?むしろ下手ではないか!
って思ってしまうものもある。

はっきり言えば、
下手と思っていいのではないか。
求道は、はだかの王様である。
自分たちの世界でそれを言いと思い込んだ結果の内容であり
それが一般受け、市場価値に繋がるかは別問題である。
好きな人が好きであればいいのであって、
それを無理にわかろうとせず、
それを下手と思う感性も重要である。

それに上記の内容もそもそもそこから来ている。

きれいに書くという感性にとらわれて、自分の文字を書いているのか?
サロンで評価される絵画だけが絵なのか?
クラシックだけが評価される音楽ではないだろう!

既成概念に対しての挑戦がその求道を導いている。
決して評価されることはない世界だったのはずなのなのだが、、

それを賛同する評論家、それで一儲けする市場経済が
求道を大衆に、一般化を求めてくる。
多くの大衆に指示されたほうが、
発言権の確立、市場の拡大に繋がるから、、、
本来の求道者と評価者の価値観はづれている。

大衆に下手と思われても求道者はあえていいと思われていいと思っているだが、
それがうまいという評価者にゆがめられてきているといえよう。

市場社会の評価価値なんてものは
思い込ませるだけだと確信してならない。

2010-08-02

身分

物語にしやすい構成だと
・貴族に虐げられる平民
・金持ちにやられてしまう貧乏人
の視点で書かれ、共感を求めることが多い。

しかし、現実社会では逆ではないか!
・いい家のボンボンのくせに
・金持ちっていうだけでむかつく
と平民に蔑まれることのほうが多い。

本人は何もしていないのに
いい思いをしてきた
思われてしまう。

戦後の成金の子である父
そして、その事業は引き継いだ父の子である僕自身、
当人として生活が苦しくても
ボンボン
と言われて嫌な思いをしてきた。

平民は平民の負け犬根性で生きてきて、
正当性の共感を得ているかもしれないが
その負け犬根性をぶつけられる身分のたちのことを考えているのだろうか?

そして、さらに思う。
もし物語で平民、貧乏人が困難に打ち勝って大成した場合、
間違いなく、家族にその恩恵を継承させるだろう。
その家族は当人の努力と関係なく地位を引き継ぐのだから、、、
今度は物語の敵側になる条件を満たしていることになり、
結果として世代を渡り、身分が流転するように感じてならない。

2010-07-30

福祉

福祉の充実を近代国家を筆頭に多くの組織体で掲げている。
自分が組織を持つものとして思った。

福祉の充実は組織を弱くする、、いや弱くなっていることへの自覚を隠してしまう。
福祉を充実させるためには、
利益の再分配や強きものから弱きものへの何かしらの提供行為で成り立っている。
そのために条件として、
・強者が上げた利益の十分の蓄え
・強者の成功報酬量の削減
・弱者が弱者としての自覚
等、しっかり定義しないと

「強者は自分の成功報酬が、奪われている」
「弱者は強者から分け前をもらう当然の身分だ」

という成果主義と逆の結果、それ以上に組織崩壊を導いてしまう。
強者からすれば、
弱者になぜ利益を取られるんだって思い、
組織から離れることを思うし
弱者は
もらえて当然なんだから
強者を働かせればいいので、自分は何もしない
という発想を導いてしまう。

福祉という言葉に隠れた
能力主義、成果主義への反目をきちっと理解しないと
崩壊しか導かない。

国家や大きな組織はそんな馬鹿ではなく考えている!
って反論もあるだろうが、現在の多くの国家、大企業の課題が
社会保障、年金への財源負担である事実が考えの限界と感じている。

福祉を求めるならば、
強者たる負担者への配慮、制度維持のための細心の注意
そして、弱者の弱者たる態度が求められる。
思うに近代は、自然淘汰の事実を忘れすぎて福祉と騒ぐから
自然からの予定調和を受けているだけなのかもしれない。

2010-07-29

申請

気付いているようで、なかなか多くの人は知らない。
申請と許可の違いだ。

申請も許可も管理側、、政府系なら自治体に
意思表明を示す点で同じなのだが、
申請は意思表明を示せばよく、
許可は管理側からOKの許可を得なくてはならない。

が、現代では申請だけですむことはまずなくなっている。
申請といいつつ許可になってきている。
これは管理側の問題だろうか?

否、これは管理される側の良識の欠如が引き起こしている。
本来であれば、申請さえしてくれれば
権利の名の下に行動を抑止することはすべきではないという発想が
統治論にはある。
しかし、多くの人間が他人への干渉、、つまり公共の福祉の概念を忘れ
ただ自らの欲望のままに行動するようになったがために
申請の内容について、道義性、影響度を調べた上で許可になってきている。

申請すれば、
個人の権利を保障しますよ!という性善説での統治では
もはや現代社会は成り立たない。
基本、人間は性悪であると思うべきである。
基本悪いかどうかの判断はもう管理される側に持たせるべきではない。
その発想のほうが、結果多くの人間の権利を守るようになってきている。

2010-07-28

担当

思う。

担当者になることなかれ、責任者となるべきだ。

担当者、責任者は一見、一読、一聴、すると同じような意味に感じ、
もしかしたら、多くの人は同義に捉えているかもしれない。
どこが違うのか?そう思うこともあるだろう。
しかし、その段階で、責任の意味の重さを気付いていない証拠であり、
社会的な無責任さを感じる。

多くの人間は
感覚的にはわかっているかもしれない。
「担当者出て来い!」ではなく
「責任者出て来い!」だし。
「窓口担当は○○」であり、
「窓口責任は○○」とは言わないだろう。

要は
担当は役割、手法の担い手
責任は目的、完遂の担い手
である。

相手が真に求めているのは
手法ではなく、完遂なのだから、
そこに持っていかなくならない。

ただし、場合によっては責任者になれない場合もある。
自分の身分、相手の期待度により
別の他人が責任者でなくてはならない。
その場合、自らの立場を理解して担当者に徹し
引くところは引き、責任者に任せることを即座にすべきだ。

相手は完遂を求めているが
その前提に自分の存在を肯定しているか、疎ましく思っているかも
考慮がいる。その気遣いが一番重要なのかもしれない。

2010-07-27

原文

その内容が記されたままの文章。
現代社会において、口頭言語、機械言語、等
数々の言語があるため、
それぞれに通じるように翻訳されている。
趣旨をより多くの人に伝えるために
翻訳されることは重要である。

でも、だからこそ思う。
翻訳された内容だけの理解でいいのだろうか?
翻訳には、
翻訳家の癖、思いが出る可能性や
言語特性で説明しづらい概念
が少なからず介在してしまう。

それにより、若干意味、ニュアンスに変化が起きる可能性もある。
その翻訳を正にすることをもとに、また伝聞していくと
意味が変わっていったりする。

翻訳された内容を知った上で、原文を見返そう。
そうすると、言語特性や自分の思いと異なる発見があったりするかもしれない。
僕の場合は、翻訳の意味がわからないゆえに、
原文でその意味を理解できたりする。

原文を読むことは
多言語対応に感じるかもしれないが
言葉よりも意味、概念、感覚の理解、認識の違いを理解することと思う。

2010-07-26

臨機

「臨機応変に対応してほしい。」
「社員裁量で行って顧客満足度を高めることを実現してほしい。」

いかにも正しい表現に聞こえるが、
これって現代の企業においてあってはならないことである。

ガバナンス
業務プロセスのオーサライズ
コンプライアンス
内部統制

という最近はやりの言葉から求められるのは

「社員の行動が会社として認められている行動であることを立証するため」

である。
基本、社員が勝手に行動しないことを求めている。

上記を踏まえてもまだ

「そこをうまくやって、臨機応変におこなってほしい」

という発言を耳にするが、こういう発言をしている自体、
その組織のガバナンスどころか、顧客からの信頼を得られているいないと思う。
だって、こういう発言をするということは
・想定されていないことが多く発生される
・組織の人間がプロセスに従い行動できていない
という前提があるからだ。

臨機応変という言葉
言いかえれば、無計画な現実であるということを理解すべきだ。

2010-07-23

端末

漢字のイメージだけならば末端。
一番端っこという意味だが、端末という意味はもう異化されているといえよう。

そもそも、端末とは外来語それもコンピュータ用語のterminal への当て語であった。
terminal は日本語でも交通機関の乗り換えで一般的に使われてきている。
コンピュータでも交通機関でも
terminal 自身は同じ単語である。

対象となる2物の接点であること。
それぞれの対象物からすれば、接点は末端でないと相手に接することは困難である。
その末端から自分では得られないものを得るという意味である。

現時点において、端末の意味は
携帯電話、PC等をさす意味になっている。
これは前提として、繋がっていることが前提で
使い手である所有者たる人間とデータを受け取るセンターコンピュータが
この末端である端末でもって接点にしているのである。

現代の端末の概念について俯瞰的に見ると面白い。
それぞれの端末自身は
使用者、所有者の使い勝手、好みでカスタマイズが容易にできてしまう。
しかし、それは端末の見た目であって、端末の真の価値である
接続については、所有も変更も現時点では許されることがない。

自分のものである、、でも自分ひとりでは意味がない
なんとも曖昧な存在だろう。
、、、逆に端末そのものが今の現代人そのものの投影なのではないかと
見えてしまう。

2010-07-22

認知

ただ知っているにすぎない。
この時代知っていることに価値はない、
ネットで情報は溢れているからだ。

重要なのは、
知った情報をもとに
それを自分なりの活動、行動で
新しい情報に繋がることをおこしたかどうかである。

人は知っていると出来ることの垣根が麻痺っている。
実際に人間は大したことないものである、
知っているからとはいえ、
実際に自分の肢体でできることはそうでもない。
案外、人間は無力だといえる。
その自覚が重要である。
自分でできることは、自分が実際に行ってはじめて理解できるものだ。


そう考えると、認知するで一番難しく重要なのは
自分自身を認知することと言える。

2010-07-21

熱意

なんとなく、前向きな表現に聞こえるが
実際に熱意という表現が現れて、こちらに向いているときって
今の言葉で言えば、、ウザい状態と言えよう。

熱意を表すって、
今まで定常とされていた行為に翻意を示すことに他ならない。
当たり前
これが効率がいい
といわれているから、定常としていた行為への変革である。

当事者の気持ちとして
定常活動をそのままで、今対応を求められている行為をしようとしている
可能性があるし、多くの場合は熱意を出されるまで、
気にも留めなかった行為だと思われる。

そこに対して、熱意をもってあたってくる場合、
熱意を持っている側からすれば、
ここでひとつ変えていこうという夢や野心で当たるのに対して、
受ける側の気持ちが向いていればそこで進展するだろう。
しかし、気にも留めない行為であり、自分は他の事を行動計画を立てているとしたら
進捗、ノルマを妨げる邪魔者でしかない可能性もあるのである。

熱意で押し切ることを情熱等いうが、
僕からすれば、それは相手のことを本当に考えていない
一種の押し売りでしか感じない。
自分の思いを他人の熱意にうまく乗せることに注力することが
商才、ビジネススキルであると感じる。

2010-07-20

恐竜

夏休みの風物詩。
僕が小学校2年の時にまとめた自由研究が思いだされるくらい
昔から、恐竜は夏休みにでてくるものだ。

とはいえ、調査や研究は進んでいるみたいだと
毎年思わされる。

幼き頃聞いた
ブロントサウルスは学者の喧嘩の産物で実際にはアパトサウルスと同じものであったこと。
恐竜は爬虫類ではなく、鳥類に進化したということ。
鳥類ゆえに、変温動物ではなく、恒温動物かつ羽毛があったのはということ。
など、いろいろ昔覚えたことが覆されていることに気づく。

このまま研究が進んだら、、
もしかしたら、、、恐竜というもの自体、
存在しなかったのではないかという結論にならないか
と思ってしまう。
だって、誰も見たことないし、
爬虫類って憶測していたものが実は鳥類だっという
分析結果などから、、、いろいろとわかってきたのだから。。
夢とロマンに塊、恐竜も実際には、、、、そうでもないかもしれない。

2010-07-16

期待

期待、、つまりは裏切りのことと断言できる。

期待以上、、、、、、、予定を狂わせることへの
期待通り、、、、、、、変化を求める気持ちへの
期待していたのに、、、行動結果がおこす

はすべて相手への裏切りへの表現につながる。
うれしい誤算という裏切りがあるが、
多くはマイナスイメージの裏切りになる。

そして、期待、裏切りは自分相手互いに思うことだ。

自分からすれば、
期待に対して裏切られたとなるが
相手も
期待通りに応じたつもりなのに、あの態度に裏切られた
という気持ちをもつことが多い。

自分も期待していると同様に
相手も自分へ期待もって接している。
自分が裏切られたと思う気持ちと同じ分
相手もまた自分への裏切られた感を持つことになる。

こう考えることができるようになると、
相手への思いやりがある意味自分への思いやりにも通じ
過度な期待が互いの裏切り感になるので
振幅が緩やかな期待を意識することが重要だなあって思えるようになってきた。

2010-07-15

意匠

いわゆるデザインにあたるのだが、、、
デザインというものは多岐にわたるものだなって感じる。
日本語では、意匠をはじめ、設計、造詣、製図、構図、と対応する言葉が多い。

意匠について言えば、
対象物の物理的なカタチについてを示すものといえる。
実際に作ったカタチというよりは
そのカタチを構築するアイデアそのものを意匠と示すことができよう。

デザインに代表される形而上の価値。
手に取るという概念ではないが、
爆発的な富をもたらす可能性をもつ反面
立証、他人への理解の受容が強く求められる存在。
そして、実際に物理的に存在しないから起こる
偽造、盗作の可能性。

意匠を自らのアイデアとして
自分が考え出したデザインであるという証明に
人間は多く時間をかけていくことになっている。

構想している時間に
別なアイデアを導けばいいのにって思うが、
なかなかそううまくいかない。
自分が考え抜いて導いたアイデアを否定されるのは
人間はかなり許せないないだろう。

デザインの世界は
いかに自分のアイデアをカタチになるまで貫けるか!
そこがポイントで、、、奇抜な意匠であったとしても
それを具象化に落とし込めて初めて評価されるのではないかって切に思う。

意匠そのものより、
それを貫きに世に送り出せることこそが重要なのだと思う。

2010-07-14

先知

先を見通せる能力のこと。 僕は先見の明は博打の要素が高いと思う反面、 先見の明を口にできる人間を高く評価する。 人間、未来について解らない、 しかし、先見の明を他人に言うには それなりの立証 それを他人にいう覚悟 という要素を持っていないとならないからだ。 その要素を持っているならば、 たとえ、先見の明がない結果になったとしても その人間の行った予測、立証行為は無駄ではない。 間違っているかもしれないけど それを持論として展開した勇気は称賛に値するし この気概は買ってあげるべきだと思う。 リスクをとらないこの時代において、その意気込みは認めるべきと 僕は思う。

2010-07-13

忠勤

日本人にとって、仕事をもらえると言う概念は うれしい喜ばしいという概念かもしれない。 しかし、僕の習ったフランス語においては 仕事をするという表現、traviller は限りなく嫌な表現であり、 travel の語源でもあり、旅行とは出稼ぎ、家族と離れるという意味にもなる。 日本人は基本勤勉である。 だから2つのことを理解しなくてはならない。 外国人はそうでもないという事実であり、 常識、一般的と言う表現は通じないということ。 そしてもう一つが重要である。 だからこそ、日本の勤勉さに従えという気概を持って当たるべきである。 国際化と言うのは相手に合わせるというものではなく、 いいものを相手に強制させるのも国際化といえる。 いいものという概念そのものから相手に叩き込むことに 躊躇することは返って、相手と自分の立場を解りづらくするということを 理解してあたるべきと常に考える。 勤勉さによる思いやり、 背中で語る という言葉、思いあがりでしかない時代になっていると割り切るべきだ。

2010-07-12

実力

社内における実力主義、、それは組織の弱体化を招く。
そもそも、日本の現在のガバナンスにおいて能力主義は
会社の弱体化を招いたと断言できる。

能力主義の会社に身を置いたし、
その多くの企業の重鎮と話したが、
結構な論理的帰着が導かれる。

今の日本における能力主義は売上という市場的、数値的なところに目を向けない。
ほとんど、人間の判断になっている。

みんな自分は優秀と思いこむ。
そして、実力を評価しない組織の上司、体制を批判、無能扱いをする。
ふつふつとした思いは、モチベーションの低下、転職の誘発につながっていく

このようにして多くの企業は社内の力を失ってきたいのである。
そもそも、ガバナンスを統制する人の存在が
株主ではなく、会社の一社員、組織に任されているところも問題である。

資本主義における実力とは
自ら売上、利益をあげられるところでしかない。
「あの能力がある」
「自分はこれが得意である」
というのは、実力をだす可能性であり、実力ではない。
そこを取り間違えている多くの人たちの認識では
組織、企業の成長にはつながらないと言い切れる。

実力があるということは
それは社会が認めたというか、、、
金になること、
それが国際的な市場価値経済の根本と言うことを。

2010-07-09

出家

この漢字をみて、日本語を習っている外国の人たちが理解できるだろうか?
そんな日本的な熟語だとい思う。

意味としては、家=家族という世俗から出て、仏門に入るという意味であるが、
出る という表現は
行く と異なりなんとなく気持ちが乗っていないような表現に聞こえる。
英語でいえば、go にあたり、名残惜しさを隠し持つところがある。

外国の場合の出家、聖職への入門はある意味、洗礼、祝福の意味を介して
歓びを与える表現があてられることが多い。

たぶん、日本の歴史から解るように
出家の意味は、貴族、武家が世俗で権力を掴みたくても
掴めなかった夢破れた者たちの行きつく先であったところから
この熟語が示しているようで、感慨深いものを感じる。

2010-07-08

論証

現代社会で一番汎用的な能力だと確信している。
現代社会ははっきりいえば、
カット&ペーストで出来ている。
学校で教えることは、教科書の内容の丸暗記
脳どれだけカットしたものを蓄積して、
それを答案用紙にペーストできるかだけであり、
その理由についての理解は薄れている。
仕事の多くは、前例のものを真似て小細工することを
テンプレート適用としている。
なぜ、それをつかうといいのか?
その点に関しての理解はないまま。

多くの仕事のおいて重要なのは
どれだけすごい技術を使っているかではない。
その技術がどれだけ、今回有用なのかを
顧客に説明できるかだと思う。

高い技術であれば、あるほど、その技術は顧客には理解、使いこなすことは無理。
でもその技術が自分たちにどんな貢献、他のものよりどれだけ
役に立つのかを説明できるノウハウを持っていれば
いろいろな場面で重宝されるのである。

魚をくれる人より、
魚を釣る方法を教えてくれる人のほうが
何か別のこともできると思ってしまうのが
人間の思いだと感じてやまない。

2010-07-07

移動

移動なくして、物事の進化はない。
移動と言う行為で何を動かすかで
新しい価値観の構築になるのである。

自らの足で移動するときは、健康法、健康グッズが
交通手段を選べば、交通機関の効率化、時短のための最新技術の開発
意思を移動させるのであれば、通信、情報技術の革新
と移動と言う行為こそ、資本主義ではないかと感じる。

移動と言う行為自身の付加価値は時限的、非瑕疵の概念であり、
なかなか評価されない事業である。

しかし僕はあえて言おう。
日本の見えにみえない、手に取れないこそ
これからの移動を引き起こす大きな兆しではないかと。

集まる時代はもう終焉である。
所定日に運搬されることこそ、日本のサービスと考えしっかり、
自分の起こそうとしているビジネスモデルに今までにない
移動の概念のビジネスモデルを早く僕らは収得したいものである。

移動は日本の胸を張っていい大きなビジネスチャンスと考えて
若者たちにこの事実を知ってもらい限りである。

2010-07-06

規格

公権力や大きな団体から出される規格基準は
多くの人たちが等しく享受できるようにさせるためという大義名分を謳うが、
これはよく言って、殖産行為、悪く行ってマイノリティーの根絶である。


規格基準というものは耳触りがいいが、
基本的に利益をあげたい一部の者たちの効率行為の独占であり、
規格から外されたものは、今までのビジネスモデルの総否定、
ビジネスチェンジもしくは廃業を言い渡されている意味でもある。

多くの人たちのためという大義名分は
一握りの人たちの利益に繋がっていることを
十分理解しながらも、僕は規格基準を覇したいと思う。

それがビジネスにおける野心ではないだろうか?
儲けたい、自分の理想に近づけたい
その煩悩に近い思いを相手に印象付けるものが
価値の正当性である規格基準を覇することと素直に認めたい。

2010-07-05

推理

日本語ではミステリーを推理小説と訳されるが、
推理は論理そのものである。
今ある事象の関連性、必然性、道義性等をもとに
追求していくことを趣としているところである。

だが僕自身は
推理小説を読み切ったことは、、片手で数える程度しかない。
本来、この手の論理に繋がる行為にはとても興味があるのだが、
物語という活字の正解よりも
より情報量の多いメディア環境に多く触れられていること、
そして、事実は小説より奇なり、
今自分の周りに起きていることを常に
洞察の上、推理することのほうが有意義と感じることが多いからだ。

性分なのだろうか、
身の回りに起きる事象に対して、
その前後関係でいろいろと推理を行って、
自分の論理の構築の訓練を行っているような気がして
毎日の行動を素直に観ていない気がしてならない、、、、。

2010-07-02

言語

互いの意思の疎通を行わせる手段である。
人間は言語を通じて、
他人と意思の疎通を図る。
そして、その言語のようにして、
人工知能への命令を可能にさせている。

意思の疎通ができるであれば
無理に苦手な言語を使う必要はないのだが、
結果的に一番思いを伝わせることができるのが
言語となるのが、現代と言えよう。

僕は2つの言語問題を抱えている。
1つは日本語ではない言語の必要性であり、
もう一つはコンピュータ言語をわざわざ日本語に置き換える
必要性についてである。

日本語外言語については
僕とて、そう外国語が得意ではない。
しかし、重要なのは意思を伝えようとする意思が
強いかどうかである。
どうも、外国語というだけで、尻込みしてしまう人が多く
伝えようとしている相手のことを理解していない。
僕は思う、意思を汲み取りたいなら、
「外国語が解りません」っていうのではなく、
「僕にもっと解りやすいカタチで説明しろ!」
っていうこともありだと思う。

そして、もうひとつの問題である
コンピュータ言語はある意味日本語外の問題と逆である。
日本語、コンピュータ言語も言語であり
別の語法で成り立っている。
だから、その機能表現を表すときに無理して
日本語等の会話言語のドキュメントにする必要はなるのか?
って感じる。
まして、その言語を理解している人が読むことが
前提であるドキュメントなのだから、
わざわざ無理した会話言語にせず、
そのコンピュータ言語をそのまま読むべきだと思う。

何度も言うが、言語は意思疎通の手段である。
手段であり、目的達成のためなら
無理する必要はないと思っている。

、、、もっとも、現代人は意思疎通への目的意識そのものより
意思疎通していること自体に生きがいを感じている節があり
相手に伝えるという行為はあまり意味がなくなりつつあるのかもしれない。

2010-07-01

妖艶

妖しく艶やか。
僕には縁遠い熟語なのだが、この言葉。
考え方によっては、ものすごく覚悟の決まった言葉だと感じる。

各種ミスコンテストの禁止等で人の美に対する偏見が
過剰、過敏になっているこの時代。

人と比べることは好ましくないという理由での禁止概念は
ある意味、統一規格の人間を量産し続けている一方で
個性とかゆとりとか論理矛盾を呼び出している。

妖艶であることの裏には
自分自身への美的探究と自信を持たないと
妖艶であり続けることはできない。
妖艶であると他人に言われること、自負する気持ちは
自己研鑽であり、それが個性につながるのではないかと言い切れる。

妖艶であり、仕草や行動が他の異性に対して
あらぬことをさせてしまうということを問題視するが
その妖艶さに対抗できない自我の弱さ、その才能と拮抗できる
自らの誇れる才能がないのだから、市場経済として
当然の報いではないかって思う。

妖艶を引合に出したが、
基本、自らの誇れる才能、自他共に自覚して
それで社会、市場に訴求させる覚悟を持って挑めない存在は
淘汰、生贄にされることもよしとすべきだ。
それが、市場経済、自然界のあるべきすがただ。

2010-06-30

雛型

雛型があるところ、進化、改善は遅れる。
前提条件として、雛型ありきで物事を考える。
その雛型自身の改善への提言は禁忌化される。

僕が思うに
雛型そのものがある種の雇用の足枷になっているだろう。

雛型は効率化、工期の削減目的で揃えられる。
その効率化、工期の削減自身の目的は人件費の削減である。
拡大再生産の時代であれば、
人手が足りないからこそ、人件費にあたる費用を代替させている
ための雛型があるべきであったが、
現在の不況、そしてこれからの付加価値が求められる時代において
世間一般で言われる表現でもある
人件費が一番高い
という経営論理はあるべきだろうか?

雛型という同じことを繰り返す生産ツールよりも
同じものを二度と作れない一点ものを多く作るノウハウのほうが
この先のビジネスのあるべき姿ではないかと思う次第である。

それに雛型を作り人件費を抑える経営は
これからの社会においては
購買土壌である家計に対してて
市場流動性を導く購買意欲を低下させる社会悪であるという
認識にならないと景気や経済は回復しないと断言できる。

経営自身も今までの経営の雛型思想から脱却しなくてはならない。

2010-06-29

並行

複数の事象物体が並んで目的に向かうさまを指すのだが
平行と並行を同義に捉えているせいか
多くの人間は並行を実現できないのが現実といえる。

平行の意味は交わらないというという意味があり、
複数の事象物体が合うことがなく目的に達成することである。
対して、並行は同時、同期をもって達成にあたる意味をもつ。
それぞれが独立、協業、競合しながら、目的達成に進む意味をも持つ。

それゆえに並行には調整、采配が求めれるが
現状の状況から、それぞれがどうあるべきかを示す存在として
なのだが、

多くの人間は並行というより、平行の感覚概念で
「それぞれがそれぞれの判断でよろしく」
って発言するから、、並行が成り立たないのではないだろうか?

僕は並行を実現させるための采配は意識しないと
交通事故ではないが、衝突が発生しかねないと常に思っている。

2010-06-28

叱責

社員や目下の人に叱責をしている。
相手側に立てば、それは怒られている被害者の意識なるだろう。
でもあえて、僕は怒るより叱責していると自負できる。

起きた事象に対して、
目指すところに近づいてないことへの
原因探求とその理由
そして、目指すところにどうすれば行きつくかを
感情をあらわに示している。

丁寧に説明することも重要だが、
緩急として、僕の思いをあらわにすることで伝わることを意識している。

それにより、相手が思考を巡らせてほしい。
「なにくそ!偉そうに言いやがって!見返してやる」
「だめだったから、改善しよう。」
人間は刺激に対して、抗体を活性化させることで進化するので。

2010-06-25

手順

僕自身のポリシーとして、
仕事のうまさは、技術ではなく、手順の確立だと思っている。
これは、僕個人の私見かつ特技であり、
技術の積み上げこと、仕事の醍醐味となる職人気質も
当然会っていいものだと思う。

僕が仕込まれた帝王学の一旦として親から
「例えテストで満点とっても、お前はないもできないんだ!」
と言われ続けてきた。

満点とっても、それは覚えていたことと鉛筆の動きが合っていたにすぎないのであり、
自分ができたことは鉛筆運動にすぎないのだと。
鉛筆ではご飯も食べらなければ、橋も作れない。
何もできないではないか!っと。
しかし、鉛筆を動かし、口で説明できれば
人にお願いや理解が得られる。
その理解のうえでのそれぞれの作業の順番をも説明できれば
人間の対外のことはできてしまう。
それぞれの特技が活かせるのであるから。
その順番どおりに人を動かすことこそが手順だと。

多くの会社で管理職を目指す人が多いが、
管理職という行為は、、
手順と言うものを
生まれながらの今教育、特技そして無力の自覚がないとできない。

優秀な技能工、職人を高く評価する傾向をもつ
日本にはなかなか根付かない発想だから
日本の管理職は手順を理解できていないのだろうと思う。

いいものはいいに決まっている。
問題は、いいものをいかに大量かつ高品質で生産できるか
それをいいものとして多くの人に高価で取引してもらうか
の手順的な技能を軽視しすぎだとつくづく感じる。

2010-06-24

障害

障害に対して、どういうイメージを持つだろうか?
前向きな人は、成長のチャンスと言いきれる人もいるだろう。
障害という平時には起きない経験を得られるからだという。

しかし、僕はやはり障害は嫌なものとなってしまう。
僕の場合、性分として事前に調査、回避できなかったことからの不利益、
いろいろな経験をするより、もっと気持ちを穏やかにさせることに時間を使いたい。

いろいろな障害を乗り越える術を身につけても
それは各論という個別の術であり、
汎用的なものではなく、同じ方法はまず使えない、、いや
使おうとして逆に悪化させる思いばかり、、、そんな思いしか障害対応には覚えがないからだ。

2010-06-23

範囲

世の中でかなり曖昧なもの。
自分の能力、可能性、という抽象的なものは当然のことながら、
明確に定義されている範囲内外の認識も
当事者の思い込みで結構異なる結果になったりする。

範囲を確定して活動を行うことを
他人に求めることが社会生活において頻繁だが、
範囲を確定した
ということは無理で
範囲を確定し続ける
ということが社会では求められている。

権利の前で胡坐をかく者を救わないという
法格言があるが、
常に範囲と言う自己主張する
せせこましい人間のほうが範囲は守れるようだ。。。
まー、その分、反比例するがごとく、
嫌悪、不信を持たれるリスクも高まるが。

2010-06-22

野望

Boys be anbitious!(少年を大志を抱け!)
anbitiousとは大志と訳しているが、基本は野望とすべきだ。
野望とは、他人に秘めた自らの欲の塊と言いかえられるだろう。

日本人は調和を好むからこそ、野望という表現を嫌う。
しかし諸外国では、野望という欲望に対して
比較的オープンに近いというか、
秘めた思いではなく、恥じることなく水から欲をさらけ出す。

狭い国土、鎖国の歴史、農耕気質が強いために
自らの野望は他人への侵害になりかねないから
野望より調和をとり、共存を狙っている感が日本の表現には
見受けられる。

対して、開拓精神、征服感、狩猟気質が強い欧米は
まず自分が!というところを出すから、
野望という概念もオープンできるし、その発言責任として
降りかかる障害も自己防衛という概念で、訴訟、戦闘も辞さない
構えになれるわけである。

欧米化が進んでいるといっても
気質に絡む野望、欲の実現について
口先だけでなく、相手を争っても手に入れるという概念、
相手からの交戦意識に断固対抗できる自己保全意識を
持たないと、概念のちがい国家とは交渉にあたれない。

日本人の思うありえない利権争いという考え方そのものが
国際的にはありえないと強く意識すべきだ。

2010-06-21

自戒

自戒するとは、自発的な反省であり、
そもそも、反省と言う行為は相手に求めてはいけないものといえる。
自戒である反省は自分自身が自発的に行うものでしかない。

例えば、
「反省しなさい」
って言われて、自分なりに考えて自戒した結果を
使役した側に告げたら
「反省していないではないか!」
って怒鳴られることが、人間社会で多々見受けられる。

僕から言えば、
「反省しなさい」
ということ自体、自戒を認めないエゴの塊だ。
相手を自分の思うような考えをさせたいだけであり、
自発性が全くないと言わざる負えない。
「反省しなさい」
ではなく
「私のために都合よく生きるようにしなさい」
って言っているのだが、
多くの人間は偽善者で、その事実を認める器量がないと言わざる負えない。

僕からすれば、組織を束ねるのだから、
ルールはこちらから強制させることこそ、
組織的一丸性を導けると結論付けて
使役することになんら違和感がないのだがね。

2010-06-18

伝送

情報伝達において、必ず漏れが発生すると思うべきである。
ITネットワークとて、
伝送エラーについて予め想定の前提で設計、構築されている。

人間同士の情報伝達である
コミュニケーション行為も基本は漏れのあるものでいるべきだと思う。
「そんなことはない!うまく伝わっているよ!」
という反論に対して、はっきり言えるのは
受け手の補完憶測がうまく行っている証拠と言いたい。

うまく伝わっているということは
伝達された側が、曖昧なポイントに対して
送り手の今までの発言、行動、思考を照らし合わせて
あたかも聞いたようにみなして行動補完がされていると言わざる負えない。

いくら送り手が丁寧に説明しても
人間すべての言葉を正しく理解できないものである。
僕とて言葉をすべて覚えていたとしても
その真意はその伝達のみではわからない。
しかし、その送り手側の行動から憶測をして行動していることが多い。

うまく説明しているつもりでも
結局は受け手の
能力
やる気
そして、勘の鋭さ
なくして、伝送がうまく行っているということはできない。

説明が下手でもうまく人が動いているのは
受け手の気持ちが送り手の気持ちに同調しているのであり、
送り手として、その事実に感謝すべきだろうと思う。

2010-06-17

稚拙

あまりにも表現力が乏しく、幼いもの。

僕はファーム時代
文章が稚拙であることを注意されて
結構な嫌な思いをした。
そして、そこで必死に磨いた表現力を駆使したら
「もっと簡単な表現にしろ」
とクレームをもらうことが多くなった。

文章等の稚拙なところは
相手にレベルが合っていないということに起因する。
相手の知的レベルに合わせた表現をすべきだって
社会的に言われるが、それはおかしいと思う。

相手に合わせ続ければ、
究極的には最下位のレベルの表現に落ち着いてしまう。
社会として成熟、成長することが求めれるのに
結局、相手のためという理由で
社会全体の知的水準が下がっていく一途である。

最近は
「そんなことも知らないのか!」
という表現がタブー化されているが、
稚拙なことこそ社会悪として
恥じて、奮起させることこそ、
知的水準の向上につながるのではないだろうか?

僕はその信念での指導が今の社会は必須だと思う。
愚かである恥じないことは罪だと思う。

2010-06-16

近隣

近くにいるけど、、、いや近いからこそ触れたくないのだろう。
そのくせ、周りの人間は近いことを批判する。

「隣なんだから話せばいいだろう」
「同じことをしているのだから、会えばいいじゃないか」

なんて平気で言ってくる人ほど
こちらが同じように見える存在に対して
同じように接するように問うと

「全く違う存在だ、何を言っている!」
「なんで俺が!」

なんて平気で言ってくる。

近親憎悪
遠交近攻
のようなもので
自分に近いものほど、人間は嫌い。
遠い存在に憧れ、親しみを覚えるものである。
悲しいのは、多くの人間がこの事実を認めようとしないことだ。

例えば、
仕事のことを同業を営んでいる親に聞けって言われた者が
取引先に妹がいるから仕事をもらってこい言い返して
殴り合いになっていたりしている。
根本的は同じ軸にしか僕には見えないのだがね。

2010-06-15

求人

企業の求人広告に
「一から教えます!」
というのをみるとどうしても納得いかない。

新卒採用の見出しならば、
一から教えますというキャッチは意味がないので
社会人経験者に向けてになるが、
その一から教えると言うのは企業として成り立つのか?

教える環境を持っているのか?
そんな素人を集めている企業に顧客は信頼できるのか?
と言う観点にたつ。

得てして顧客に信頼をいただいている企業は
それだけである種の社会的信頼があり、
求人するにもプロ意識を持って集めるだろう。
逆に素人が担当になって顧客の信頼を失うのが企業のリスクだから、
一から教えるという行為はタブーだろう。

そう考えると安易に素人を求人するスタンスは
企業としての経営ポリシーに関わると感じた。
人がいれば頭数で儲かる時代から
質の高い人材でいかに信頼枠を増やすかという経営思想で挑むことが求められる時代であることに。

2010-06-14

余裕

あせらずゆっくりすることと定義されるが
人生における余裕は、計画どおり、想定の範囲内でものごとが進んでいる状態を
余裕というのだろう。

僕は余裕がなくなるのが嫌いである。
それなり情報を集めて、そのうえでの安全係数をかけたうえでの行動を心掛けるのであって、
その情報量が足りない
安全係数を上回るリスクは
僕の能力というより、その活動そのものの存在理由、成功条件が危ういものとみるべきである。

自分の余裕の基準が妥当かどうか?
そんなのどうでもいいと感じている。
余裕と感じるのは僕であり、
基準の妥当性を判断する社会にあふれている理論はどれもすべて眉唾にしか感じられない。
それもそのはず、判断の妥当性なんてものはその発起人の思い込み以外何ものでもないのだから。

2010-06-11

宿敵

「的は己に内にいる」
物理的にもそうだろう。

テレビ番組のドラマや長編物語において
宿敵にあたるものは、、身内や近隣のものが
条件をかえて敵になる。

それも虚構の世界だけでなく、
市場においても、
顧客、ライバル会社と敵を想定しても
結局は出世レースで同僚が最大の敵になるのだろう。
まして、引退したのち
その経験を生かして、別の同業ライバル社の役員に平気でなるこのご時世。

近親憎悪というべきか
自分のことをよく知り、
自分の歩む道を歩こうとするもの、歩いてたものに
嫌悪や怒りを感じることが人間なのかもしれない。

昨日の友は今日の敵。
信用し過ぎるから裏切られたときの心傷も深くなる。

他人は他人の人生なのだから、
あまり自分と同視せずに距離を持っておいたほうが
自分のためではないかと感じてならない。

2010-06-10

範疇

カテゴリ、カテゴライズのことだろう。

僕は少し気になっているのだが、

国際協調を宣言している日本において
例えば、ニュースで

国内ニュースです、少子化問題が深刻です。
国際ニュースです、人口爆発による食糧問題が深刻です。

というのは、どうもしっくりこない。

少子化というのは、人口が増えないことであり、
食糧問題とは、人口に見合おう食糧が賄えないということである。

人口が減り、高齢化すると国際社会での発言力が減るから問題だ
というのだが、結局は国際社会において、自国の優位を保ちたいのであり、
国際的に人口爆発を抑止しているという発想には目を向けていないと感じる。
いろいろと問題を複雑にカテゴリをわけて、
自分たちの正当性を保つことにしかなっていないのではないか?

下手に範疇をつけて言い訳せずに、
もっとエゴイスティックになってもいいのではと感じる。

America is No.1
移民排斥運動

外国の活動は恐ろしいくらい解りやすいし、
それをバッシングすれば、紛争を起こそうと圧力をかけてくる。
それこそ、国際社会のあるべき範疇での行動だと思う。

2010-06-09

排斥

辞書的には
容認しがたく、拒み退けること
とされる。

しかし、排斥の真の意味は、自己主張の強制でしかない。
排斥の根拠は、自分の意思でしかない。
その意思を貫くために、認めないものを眼中から消すことである。

結局人間は自分の嫌いという思いをいかに理由をつけて正当化させるだけある。
排斥という行為により、
人間は自分の我を通している。

こう考え始めるとなんか今までの自分の強張っていた思いが馬鹿らしくなる。
カッコつけずに、嫌いって言い張ろうよってね。

2010-06-08

既存

存というものは、、、悪である。
保守とは悪の幇助である。

いきなりと感じるかもしれないが、
社会的、歴史的にみて、新しいことが善とされることが多い。

子供向け番組の多くは既存社会秩序に若者が向かって勝ち取る。

大手企業のシェアに挑むベンチャーを応援する。

新しい技術のよさで、既存技術の問題点を指摘する。

昔の言葉で
「権力は腐敗する」
とあるように、既存は存在悪になる。

既存という概念は
前進がなく、あることが当然になっている概念である。
時代が流転しているのだから、
既存というものは変化をしない以上、
社会から取り残され、その存在だけで社会悪になるだろう。

天下りや老人の溜まり場となっている
既存の権利組織とて、発足当初はそれなりの正当な目的があった。
(確かに発足に問題があったとしても、それが認めれる理由がなくては現代社会では発足できないので)
悪事を行うという目的ではなかったはずだ。

基本的に悪事というものは
今まで行ってきたことが形骸化、異化して発生するものであり、
癌という表現が本当に適切である。

既存はいわば、悪性新生物。
当たり前の存在のようで、実はただ無駄に消費している存在、活動かもしれない。
それを監視、駆除する機能を絶えず進化させて持ち続けることが
組織、社会秩序といえよう。

2010-06-07

残酷

ちょっと前にブームになった

本当は怖い~の童話

結末や過程で残酷な表現があるということを著していた。

現在のほ童話は
子供の教育上よくないから
残酷な描写を抜いてあるとの見解だが、
そんな浅はかな発想で編纂をするから、
残酷な事件が起きるのではないか!

今の虐待事件の多くは、加減を解らない、残忍さの認識なさである。
~まさか死ぬとは、、、
~これくらいやっても、、
という愚かな認識、、、というか残忍の概念の欠如である。
残忍なことを知り、それに目を背ける概念を幼きうちから叩きこめば
残酷なことを自ら行う時に感情がおかしくなり、躊躇もでてくるだろう。
知っていると知らないとでは大きく違うのである。

犯罪の裏に生まれ、教育が関わっているとされるが、
過保護のような事実から目をそむけた教育が
結果として、無自覚な残酷さを導いているのである。

2010-06-04

評価

評価を受ける際に、
目上からの覚えがいいのと
目下からの信頼をえるのはどちらがいいのか?

多くの民は、
将来的に考えて目下からの信頼が後になって効いてくると
未来志向で考えるかもしれない。
しかし、それは現実逃避になりかねない。

目上から好かれていないと
いい役回りを与えられない。
そういうものは、目上のお気入りの者に与えるからだ。

だから、目下のものと目上の者のことを愚痴っていれば
目下たちから一時信任されるだろう。
しかし、持たざる者の末路は目下からの裏切りしかない。
結局、持たざる者につき従っても得るものがなければ
その者との関係を解消したがるのが人間だ。

この時代、
上司がいつまでの同じ組織の目上のものとは限らないが
目下の者のことを守りたい、使い倒したい、利用したいという気持ちを持った上で
目上の人と接することが必要だ。
なぜなら、その目上の人間もまた同じ考えで、
自分を利用してくるのだから、互いの利害関係が解りやすくなれば
割り切りもしやすいだろう。

評価を気にする真の目的は
究極的には、保身に他ならない事実を強く意識すべきだ。

2010-06-03

労働

不況期の
安定志向
専業主婦化

好況期の
個人株式
ベンチャー投機

基本多くの人民は労働する気がない。
もっといえば、何もしたくないといえる。
何もせずに購買力を得たい。
対したことをしないで高い収入を得たい。
これが社会人の本能だろう。

「なぜ儲かっているのだろう」
「これ以上活動するとどこに影響がでてしまうか」

と僕のように考えているのは極めて希少だと自覚はしている。

労働の前提条件として、
付加価値の創設があり、
その付加価値がどのような状態だから
その価値に見合う対価かどうか常に考えてことにあたるべきと
親からの帝王学として、
そして自らの人生訓として、生きている。

労働において嫌な行為、
本来みんなが嫌がる行為ほど、
高い代価を得られるべきだと思うが、
みんなが憧れる仕事のほうが高い代価になっている。

その裏付けが
肉体的、精神的、技巧的、企画的、いろいろな側面からも
現代社会では見出せなくなくなっているのではないか!と
問いかけたいにも、誰も答えられないところに日々虚しさを感じてならない。

2010-06-02

点火

火のないところに煙は立たない。
という諺があるように、
火というものは因果律の塊みたいなものである。

火と言う存在は多くのものの存在価値を否定する自然現象であり、
失くしてしまう存在価値が大きければ大きいほど
勢いよく燃えるものであり、その火の付け方も特殊である。
そしてまた、その火によって、調理、蒸気、火力発電と
人間は進化を得たのである。

火こそ、破壊と創造の象徴とみなせるだろう。

ゆえに社会や人間関係にある火種も
ある意味、破壊と創造になるかもしれない。
重要なのは、破壊なくてして想像ない、
起こしてみて初めて新しい価値観が発生するというもの。

破壊は多くの人が嫌がる現在価値の否定だが、
現在価値の肯定だけでは進化はない。

社会的行動、人間関係においても
ある種の点火を試みてその結果が
どんな創造を導くかを常に意識すべきだと思う。

2010-06-01

例年

例年行われる行事、イベント等についてマニュアルを求めてくる。
毎年行っているのだから、
毎年使える恒久的なものがあれば楽になる。
人間はそう考えるが、、、、、そんなの無理、無駄、無謀である。

同じように見えて同じではない。
参加者も違えば、その時の時代、はやりが異なり、
同じことをしたくてもできないのである。

それに、たまたま同じ条件であって、
昨年と同じことをしたとしよう。
その際に、実行者が受ける言葉は

「昨年の反省がいかされていない」
「君たちの創意工夫がまるでない」

と平気言うのである。
そう、去年までマニュアルを作れと言っていた人間こそが豹変するのである。

毎年繰り返されることほど、
毎年作り直す思いで実行すべきだと思う。
所詮、人はその時の気分、思いで生きているのだから、
例年通りという過去はもう一度やってこないものである。

2010-05-31

救済

社会的に批判を受けるとかもしれないが、
救済は悪いことと言いたい。

救済は字のごとく
困っている人を助ける意味であるが、
現代社会において、
救済行為が社会をダメにしている。
する側もされる側もである。

救済される側になくてはならない概念として
救済されている意識がなくてはならない。
自分には何かしらの救済を受ける条件があるということ
ある意味の非がなくてはならない。
その意識がないと、
他人が労働して得られる対価を
自分は何もせずに得られる特権、、、貴族意識を導いてしまい、
永遠にその特権にしがみついてしまう。
救済は時限的でないと、ならないはずなのにだ。

対して、
救済する側も認識がおかしくなる。
救済される側の自立に対して
仕組みを作ってしまうほうが効率的と思われていた。
その仕組みが目的をもって機能していればいいが、
救済される側と同じように意識がないと
タダの資金プールの温床、
何もせずに参加することに対価をもらえるという認識になってしまう。

現代社会の救済行為は
自立、公正から見れば社会悪である。

救済よりも市場競争、自然淘汰の脅威から
回避方法を時限的に教えるという
より具体的な各論で行うことこそが、
結果的に社会が公正されるものである。

消えるべきものが消えて
新しいものが新たな価値を生み出すことをしなくては社会は進化しない。
また消えるという恐怖の事実が
動物に大きな進化への起爆剤となるだろう。

2010-05-28

抑止

抑止効果という言葉があるが、有名無実だと思う。

抑止効果の裏には、必ず恐怖の感情を芽生えさせなくてはならない。
生命の危険を味わせなくては効果はないのである。
平和ボケをしている現代において、抑止効果のためというのは
単なる言訳、費用の無駄な計上である。

危険であることは安全ではないというが、
危険かつ恐怖を持つことこそ
人間が動物本来の危機察知、危険回避を行えると思う。

僕はもっと人間に危険かつ緊張感を与えるべきだと思う。

相手が暴力を振るかもしれないと畏怖するから、敬意が芽生えたり
身の回りの物は凶器で安全ではないから、慎重になる。
それが、社会生活における抑止効果が思いやり、大切に扱うという行為に繋がるといえる。

2010-05-27

奉業

サービス!サービス! って日本語の表現が蔓延しているために、 サービス=無料 と感じてしまっているが、 サービスとは、代行行為である。 相手が出来ない、しないことを代行してあげるから それに見合う対価をもらうことがサービス業である。 「タダより高いものはない」 という諺の裏には、 タダと思い込んでいるからそこ、 それに伴う対価の認識のなさが 思わぬしっぺ返しに感じるんだろう。 とりわけ、 アジア系の人間が代行というものに対価を支払う感覚が薄い。 それは、欧米の概念である権利という認識より形而下の存在しているものでないと認識できないからだろう。 一つ例に出せば 魚が店先に並ぶ。 その魚を買うと言う行為は 日本を代表するアジア系の人たちは その魚を手に入れるという認識だろうが、 権利の概念で考えると 本来自分で魚を ・釣って ・〆て ・運ぶ という行為をすべきところ他人に代行してもらったのだから ・釣った代金 ・〆て梱包した代金 ・輸送代金 がこの魚にかかっているという原価意識になる。 サービス業とは代行行為の積み重ね 原価の集積であるという意識をもって 相手に接すると、、、、他人への感謝の気持ちが出てくると思う。 存在して当然と思う気持ちからいろいろな意味で脱却すべき社会的状況になっていていることを もっと日本人は感じなくてはならないと思う。

2010-05-26

叱咤

怒ると叱るの概念が変わってきたのは、
価値の多様化が導いた結果だろう。

先生が生徒を怒っていることの多くは
叱りつけることであった。

それは、生徒が道徳的に正しい道と思われる方向に進んでいないからこそ
大人の怒りの感情を子供に示して、
自分らの行いだと、こんな嫌な思いをするんだなあって思い知らせることだった。

しかし、社会の価値の多様化、国際化、自己主張の横行により
自分たちが正しいと貫く思想
間違っているものはどんな相手でもかみつく
概念がまかり通るようになった。

その結果が
・モンスターペアレンツ
であり、それゆえの
・サラリーマン教師
の台頭である。

僕は思う。
多様な価値観で個々を尊重することは狩猟民族的な思想であり、
自己防衛前提の生き方だと思う。

日本のように、農耕民族、集団的防衛を常にしてきた思想では
個々人よりも、組織を維持するためには
責任ある存在からの体罰で、みんなで痛みを共有する指導こと
叱咤がないと、自分自身および自分の組織を維持発展できないと思う。

日本がめまぐるしく成長した高度成長期
個人主義という概念がなく、外れたものへの叱咤があったからこそ、
組織としての行動が国際競争力を持っていたと思ってならない。

2010-05-25

蛇足

庶民が間違う、付加価値の意味。

自分としては相手のことを思い、
付加価値を付けたつもりでも、
その付加価値のために、
本来すべきことへ弊害を起こしてしまう。

特に現代社会において、多々見受けられる。

要因はいくつかあり、

成果主義という個人評価の増長
相手への思いやりが恩着せがましくなった教育
高度技術が簡易に実現できるフレームワーク

人間の生活を良い方向へ導こうとしている活動が裏目に出ている。

相手の真の目的を理解すれば
蛇足は減るが、その分、付加価値が減るのが現代人、庶民だろう。
味気ない結果にあふれてる現代の成果。

結局、付加価値をつけても蛇足になるのに、どうすればいいか?
視野を広く持たないか?
その時点では蛇足なものかもしれないが
別の角度からすれば、、、、、それは副産物かもしれないし
新しいビジネスの切り口かもしれない。

一番早く蛇を書いたので足をつけてしまい、
目的を見失い、褒美の酒をもらえなかった男は
視点を変えれば、足を書いたことで、
後世までその男の行動は語り継がれるという
故事成語の礎になって、後世の人々に教訓を与えていると言える。

その一点だけを見ずにその後に
どう応用させるかを考えれば
蛇足になった付加価値も決して捨てるものではない。

2010-05-24

勇者

勇者になること、、それは最強の敵になること僕は確信している。
ゲームや物語の主人公が勇者として
既存の社会制度に対して立ちあがり、
その社会制度の根幹を駆逐して新しい社会に変えるという
ステレオタイプのパターン。

作品が違っても多くの人の思いにそれぞれの作品が思いつく内容である。
僕がいつも気にするのがその後だ。
たぶん、その勇者が祀り上げられて、
新しい社会を気づくが、それが次世代の勇者に潰される社会の始まりだろう。
勇者に解放された部落は繁栄する
勇者の仲間は重鎮になる。
しかし、それは
悪の根城
中ボス
を作ったにすぎない。

視点を変えれば、
勇者に倒されたラストボスの存在は
倒されたその存在は、まわりの方々からすれば
名君だったのに、新しく来た悪の王が倒して
悪政をしくようになったととも見えるのである。

自らの信念で社会をかえるということは
他人の視点からすれば、
勇者にも悪の王にも見えるのである。

みんなのためになんて考えて生きていても無駄である。
ただ、自分の思いに忠実あればいいとつくづく感じる。

2010-05-21

捨物

役に立たないもの。

役に立たないから捨てるという論理になるが、
実際に、捨てるの反対の意味で、収得した時点でそのものが捨物であることはない。
何かしらの理由で必要性、欲に相まって収得されたのである。

だからこそ、
重要なのは、収得、収集された事物、事象をいかに捨てると割り切るか。
一度手に入れてものを手放すことに、人間はかなり躊躇する。
しかしだ、自分自身は一人かつ平等な時間を過ごす。
自分が手にいれたものに関われる機会、時間がないのであれば
それを手放さないで持っていることこそ、非効率になるとえる。

これは、物体関わらず、権利そして人間の存在にも関わる。
手に入れて使いこなせないのであれば、
それを手放すことに躊躇するのは互いに嫌な思いをするだけでなのだから。

2010-05-20

収集

人は集めたがるものであり、それを手離さないものである。
多くのものが自分に帰属することへの歓びは
その対象物に差があるとして、本能だといえよう。

収集は物欲とされて、悪徳のようにいわれるが
それこそが、人間の向上心の根源である。
その欲があるから、人間は進化、発展できたといえる。

しかし、今は分岐点、
集め過ぎていること、
集めるものを有効につかっていないこと
集めることが欲から義務になっていること
等の異化が始まっている。

いろいろと思う。
だからこそこれからは、
集めるための捨てるが必要ではないかと。

2010-05-19

統合

僕はall in one が好きだ。
総ての機能が内包されている。
それ1つですべてのことができる。

人によっては欲張りとか言われるが
自信を持って言えることは、身の回りのいろいろな物質、
とりわけ家電製品については、全機能を使ってから
その機器の有用性を考えている。

携帯電話に代表される多機能になっているから
実質使わない機能があるといわれるが、
その機能が有用かどうかは僕自身が実際に使ってみたうえで
生活に有用化どうか判断している。

その機能がここに内包されている、つまり統合されていることによって
得られる効果があるかどうか、
その機能がわかれていたほうがいいという観点で物事をみている。

だから、僕の携帯電話やPCはそれ相当に酷使されている
統合の象徴だからである。
他人からすれば、なんでそんなに酷使するのって思われるが
僕からすれば、同じ機能を複数持ち歩くほうが非効率に感じてしまったりする。

これは、機器だけでなく、
人事においても統合機能を求めていて、、
まーそれを酷使しているというのであれば、、それはそうかもしれないが、、

2010-05-18

先駆

ビジネスは先手でなくてはならない。
他より一歩先に行かなくてはならないが、
二歩以上進み過ぎていると、市場や世間がついてこない。
この絶妙なバランスがなくてはならないが
僕および弊社はそれが弱い。

革新すぎると相手はついてこないし、
当たり前のレベルだと相手にされない。
そのバランスが一向につかめない。

しかし、これはある意味、努力や資質の問題ではなく、
時代や価値観、社会現象にところもある。
いったい、今隆盛な企業を10年前に予想していた人はいるだろうか?
それに成功したからこそ、
大きな発言をできるのであるが、10年経つと
なんて偉そうなことを言っていただろうって後世でいわれることが常だ。

先駆することは
時代の寵児にもなるが
過去の道化ともみなされることでもある。

それでも、、、だからこそ、
僕らは過去の道化と呼ばれるような実績を求めて活動し続けるしかないのだが、、

2010-05-17

責務

どうも庶民の発想が責務を意識しない社会になっていると感じる。

政府として、、
会社として、
組織として、、

等の発言をして、あたかも自分はすでに責務をしているような発言をしているが、
実際には他人に負担を押し付けることが当然のように口にされる。

自分はここまで行います、それゆえ、
・前後
・権能
・能力
の理由でできないところを代替していただけませんか?

という発想がまったく庶民がみいだせない。
この発想が、社会契約論にもとづく、近代社会のはずではないか?

今の状況は、六道の餓鬼道
自分の欲さえ満たせればいいのではという発想にしか見えない。

自分の行動を宣言、立証して
相手への要望を伝える知恵や意識を
もっと磨くべきだ。
だからこそ、責務という意味が成り立つ。
今はただの鬼ごっこ、時限爆弾渡しゲームでしかない。

2010-05-14

調整

はっきり言えば、management の本当の日本語訳だと思う。
management を管理と訳したりするが
control との違いなど、いろいろとしっくりこない。
調整こそmanagement だと感じる。

調整の字のごとく
調査し条件を整えることであり、
とても難しく、そして重要な活動だ。

管理職をマネージャーというのは
そのような調整をする役割でなくてならない。
だから、管理職ではなく、調整職と訳すべきだと思う次第。
本当の管理職はディレクターではないかと感じる。

既存の日本語訳に流されて、
本来のあるべき意味を理解しない人が多すぎるとつくづく感じる。

2010-05-13

畏怖

人を統べるときに充分条件ではなく、必要条件のスキルと感じている。
結局、人を使役する際に必要なのは、
畏怖しかないのではないか?

褒めるとか
信頼関係をもつとか
利害が一致したとか
いろいろと成功者は口にするが本当にそうだろうか?
やはり、その人が出す威圧的なものが
他人を使役しているのではないかって考える。
仮に威圧的な畏怖を感じさせなかったら、
その美味しいところだけを盗んでいくのではないだろか?
それがある意味での市場主義でもあると感じている。

他人を畏怖させる強い胆力で圧していかないと
多様化した価値観のこの社会で
自らの意思を他人に押し付けることは無理といえる。

2010-05-12

批難

人間は何をしたところで批難されるものだ。
善くても悪くてもだ。

「あいつ、あんな悪いことしやがって!」
「偉そうに、正しいことをしやがって、かっこつけてやがる!」

僕からすれば、批難、批評をすることに価値は全くない。
その行動に似た行動で有意義なものをするならば
当人と行動根拠、結果について討論すること
自分の思う点での指摘、アドバイスをすること
は互いの市場的、人格的価値を高めることに繋がるといえる。

批難、批評は言葉の責任がない愚民の行動でしかない。
言葉を発して相手と対峙することができない陰口より
正面で相手へ自分の見解を発する気概を持って生きるべきと思う。
それが難しい??
だから批難している?
そんなレベルの存在に、エンジニアリング、革新的付加価値の創設が望めようか!

2010-05-11

断定

断定させることは
リスクでもあり、
責任が伴うことである。
しかし、、、だからこそ、断定は必要なのである。

現代社会において
責任をとらないとために、
推論と仮説が横行している。
それだと、どうなるか。
仮説の上に仮説を積み上げていくことになる。
その仮説のまま、目標に達せれば、
仮説をコンクリート(具象)にして結論になる。

結論が正しい、間違ったかと後に検討する場合
この考え方では前提条件の仮説に責任転嫁しつづけるだけで
結局、反省や成功根拠を導けないことになる。

断定することで、そこまでの責任をかぶるとともに
そこまでの成果の帰着にもなるべきだとだと言える。

ハイリスクハイリターンという言葉が形骸化しているこの時代だからこそ
その責任と報酬を明確にしていきたいものだ。

2010-05-10

協働

協力して仕事をするということは、基本的にありえない。
その事実に多くの人間は気づいていない。

道徳のせいだろうか?
それとも理想なのだろうか?

子供会等で子供たちに
「みんな仲良く」
って口にしている婦人会、多くの場合は他の婦人の悪口しか口にしない。
まして、多くの仕事を共同といって他人に丸投げをしあうだけである。
その投げ方での陰口が婦人会の多くだし、
僕は記憶力が高いので未だに覚えているが、
小学校、中学校の先生たちは非常に仲が悪いし、
そのために、先生間だけでなく、まじめでマスコット的だった僕を取り込もうとしている
活動を多く目にしていたし、、、、それを利用させてもらった。。。

基本的に、共同、協力して仕事をすることなんてありえない。
出来ることは、自分の役割と他人役割とのインターフェイスを明確にして
そのインターフェイスの効率性を高めることやその責任の果たしあいで互いを信頼すべきである。

プロジェクトワークや組織運営を長くやっているが
他人と仕事を協力するという発想は甘え、組織の生産性の低下につながるから
喧嘩状態でもいいから、インターフェイスの明確とその責任の明確化を徹底させた。
プロセスにおいて険悪であることで、パフォーマンスが下がるのは
それは、管理職の管理の仕方の問題。
険悪だからこそ、同じことではなく、他人のせいで自分が迷惑していると言うくらいの結果を出し合わせれば
最終的にはパフォーマンスは向上すのだから。

なかよしこよし、、、そんな世界での高パフォーマンスの夢を捨てようではないか!