2010-10-13

罪過

ある事件で
カトリック教徒である遺族が
犯人からの謝罪を拒んだという記事が
普通に書かれていた。

この世から、謝罪の必要性はなくなったという僕は感じた。
決して他人を許さないということが
社会的、宗教的に当たり前になってきた顕れである。

カトリックなら、
「左の頬を叩かれたら、右の頬を出す」
という罪を憎んで、人を憎まずの博愛の精神を
拠り所にしているはずなのに、
今回の事例から、人を憎むということが当然のように行われている。
精神のよりどころである宗教の思いはどこにやら。。
また、記事としての扱いもその宗教性、犯人の罪悪感より
事実の面白さに追求したエンターテイメント性への執着になっている。

謝罪という行為は、個人の思いではない。
社会として謝罪行為を受け入れて
それにより、社会の自浄作用を高めることが
有るべき姿である。

謝罪行為に尊きを置く社会、組織でないと
人は間違うことができない。
いや、間違いを認めないし、認めるわけにはいかなく。
それが現代かもしれないが、
僕は謝罪を認めあう社会、組織でないと
罪の重さ、更正の必要性により
全体の自浄作用がなりたたないと思う。

少なくても、社会の流れがどうであれ。
自分の管轄するところでは
謝罪に重きを置き、個々の自浄作用を高めていくようにするつもりだ。

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