充実した生き方とは、
不自由であることが必須条件といえる。
不自由が少しずつ改善されていく過程こそ人間が充実感を得るものである。
だからこそ思う。
治世、監督者の行うことは
生活改善ではなく、不自由要素を常に提示し続けることではないかと。
生活改善を提供してしまっては
充実感をえられる過程の機会をなくしてしまうどころか
庶民は与えられて当然、
もしくははじめから持っていたものと錯覚してしまう。
普通選挙権は今では当たり前だが、
これを獲得するのに多くの人々が苦労したことは
現代人には教科書レベルでもわからないのだから。
便利、よい生活と自覚するためには
不便、苦しい生活を経験しなくてはならない。
それゆえに、充実感、幸福感をかみ締められる。
それを結果的、作為的でも経験させることも
人の上に立つものの使命ではないと最近は感じる。
0 件のコメント:
コメントを投稿