あせらずゆっくりすることと定義されるが
人生における余裕は、計画どおり、想定の範囲内でものごとが進んでいる状態を
余裕というのだろう。
僕は余裕がなくなるのが嫌いである。
それなり情報を集めて、そのうえでの安全係数をかけたうえでの行動を心掛けるのであって、
その情報量が足りない
安全係数を上回るリスクは
僕の能力というより、その活動そのものの存在理由、成功条件が危ういものとみるべきである。
自分の余裕の基準が妥当かどうか?
そんなのどうでもいいと感じている。
余裕と感じるのは僕であり、
基準の妥当性を判断する社会にあふれている理論はどれもすべて眉唾にしか感じられない。
それもそのはず、判断の妥当性なんてものはその発起人の思い込み以外何ものでもないのだから。
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