日本では、
ネガティブでよくないイメージをもつ言葉かもしれないが、
僕は思う。
否定こそ、自我の表明ではないかと。
否定すると言うことは、
定まったことへの異を唱えることであり、
少なくても、そこに2つの見解が存在することになる。
否定される見解と否定する見解とである。
(否定するが、その根拠がない愚は対象としない)
そして、否定する側に立っている時点で
自分の見解が存在しているといえる。
否定しなかれば、その存在はいてもいなくていい存在とみなされることになる。
定説とされる側に意思を持っていようが、埋没されるのだから。
スキルアップ、地位アップという
自分としての存在の向上を求めるならば
まず否定する立場を前提条件で考えてみること。
それにより、
否定すべき、自分の思う見解が解るし、
もしその否定より肯定になったしても
より深い考察から、今までの見解より磨かれた見解を自論として持つことができることになる。
肯定して考えることでは、
付加価値、自己存在の優位性は見出せないのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿