現代社会において、
それだけでは意味がないものになってきている。
例えば、
「れっきとした証拠がある、だから自分には非がない」
「これだけの証拠が示すように、あいつが悪い」
と立証したとしよう。
しかし
「非がない?だから、それでお前は何もしなくていいという意味ではないだろう!」
「あいつが悪いのはわかった、でも現実問題、お前がどうにかすることは変わらない」
というのが、日常茶飯事である。
確かに、証拠を示すという行為は
人間社会において、経緯、納得、責任の所在という点では
重要視できなくはない。
が、現代社会はそれだけでは全く無力なのである。
場合によっては
証拠を持っているからこそ、狙われ不利益を蒙ることが多いことは
仕事に忠実で優秀な人ほど感じているのではないだろうか?
証拠は武器における砥ぎ石にすぎない。
砥ぎ石では、相手を倒せない。
その砥ぎ石を使って、己の武器を鋭利にして
相手を倒すのである。
その武器は
現代社会では活動提言であり、賠償、代償請求である。
証拠があるからといっても、この世では何もならない。
証拠を持っているから、他人があなたを救うことも期待してはならない。
証拠がある以上、
自らその事実を自分の意思の礎にする思慮、覚悟を持たなくてはならない。
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