君主に仕えるもの、家来、
今では、まず使わない。
しかし、今から400年前以前は
誰の臣下であるかどうかがその人の存在意義であった。
臣下であることが誇りであった。
そして、今、部下という言葉も使わなくなった。
平等やフラットという言葉で
上司、部下という関係を持たないことを是とする傾向が強い。
社会構造が高等化しているからだという人は言う。
しかし、僕は臣下から部下そして、その関係がなくなることは
秩序の崩壊、混沌化、つまり退化だと考える。
上司としての責任性という秩序がないから
今までありえなかったことが犯罪にまで昇華しているこの現代社会は
紛れも無く秩序崩壊である。
僕は主従関係を肯定している。
それは哲学者ヘーゲルの弁証法にもあるように
互いが互いを認識して初めて成り立つ関係であり、
現代社会のフラット、能力主義は
他人より自分という認識が強すぎて、社会性が失われているからだ。
臣下制度のある社会が復活されることは今のところは無いだろう。
されど、臣下あっての君主の責任感、君主のための忠誠心は
現代社会が目指している絆の過去事例だと思い、
それをもっと学ぶべきだと思ってならない。
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