予備校の先生の言った発言が僕を開眼させた。
「現代人というものは、思考を行うときに
必ず言語を用いて行う、言語を使わないで考えるということは
もはや人間には不可能だ、
だから、言語、とりわけ母国語について出来るだけの理解をすことが
考えるという行為の礎になる」
この言葉で、英語より国語の理解、、小論文などの学習を多くした。
そのため、、現代教育では開花できなかったと言い訳になってしまうが、、
考えることが出来るということは
言語理解が深まっているということになる。
人によっては、
言葉なんかよりも自然科学に基づいたという発想と言い出すが、
その自然科学についていくら理解しても
それを他人や文章で説明できる表現ができないということは
認められないというか、理解していないということになる。
考えるということは
ある意味、自分自身に向かって説明するということであり、
その考えたことを自分から他人に説明するということが
考えたことが初めて、考えているとみなされる。
だから思う。
現代人は詰込みし過ぎた教育ゆえ
考えていないとしかみなせない。
多くの人と話してみて
考えていないなあって思うことが多い。
概念の言語化があって初めて考えているわけで
知っている、そうなっているということはどうでもいいはずなのだが、、
そこがなんかおかしく感じる。
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