日本人は意見がはっきりしていることをバカのように
極端だという。
はっきり言えば、グローバルというより、選択というものは
○☓でしかない。
曖昧ということは判断していないということで、
選択権という権利放棄に等しい。
止揚、アウフヘーベンを日本的に都合のいい解釈をして
今にいたるが、それは未定義でも許された、
何もないから問題を先送りにできた時の話であり
今ではすべてがかつかつ、限界が見えているからこそ
極端、、極めて端的な判断しか許されなくなっている。
はっきり言うことが、日本の美徳と反するという時代は
もはや、いやそもそも愚かな美学だったという考え方でいないと、
外国はおろか、日本国内においても
ただグズグズ足を引っ張る存在とみなされることは明白なってきている。
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