2011-12-30

禰宜

神道における神職のひとつで、、、ねぎ と読む。
漢字に対しても読み書きできず、意味も伝わらない
現代における難読熟語のひとつといえる。

初詣で神社で祝詞を挙げている人が大概、
この職業の方なのだが、
多くの日本人は彼を意識せず
賽銭投げと祈願をするものだろう。

八百万の神の国、日本。
しかし、多く神が存在するゆえに
神の存在を認識しない数少ない国になっている。

日本にいるから気づいていないが
信仰する神がどうであれ多くの国家において、
神職は社会構成上重視される職である。

神事を軽視というか意識せずに生きていることが日本では当たり前だが、
多くの国家が神事を優先する文化を持ち、
他の国家の神事を不可侵と気を使っていることを
少し意識することが、国際感覚の萌芽だったりする。

古来表現である禰宜を意識することが
国際感覚という論理の飛躍と感じる人がいるだろうが、
所詮、人間のつながりは
歴史という立て関係
他地域という横のつながり
でしかなく、個別に考えずに、俯瞰的につながっているといえる。

年の瀬です。
もっと視野を広げる、考え方の枷をはずすことを考えて、
新年を迎え、初詣に行かれるのはどうですか?
祝詞を挙げているのは、禰宜さんということも忘れずにね。

2011-12-29

局地

仕事の現場というものは、局地化しやすい時代といえる。
極地という限られた空間認識だと、
・一般常識
・用語
・笑いのつぼ
がその閉鎖空間で固まる。

「郷に入れば郷に従え」
という諺も成り立つといえるが、
「井の中の蛙」
になり、自分たちの思いが世間の常識、
仕事において、もっとも効率のいいものと錯覚じみてしまう。

個人主義、個々の能力尊重が日本で芽生えていることと並行して
世界的に、ディスクロージャー、オープン化が強く求められている。
一見、両立するものと思っているらしいが、
マルチ処理が苦手な日本国民は
「自分の研ぎ澄まされた職人芸を、わからないバカに説明して意味があるのか」
「教えてくれないものを、評価できるか!」
という認識で両立どころじゃない。

わかる人だけの集まりでの仕事、、局地化が進み、
オープン化が阻害される結果
組織硬直、不正の継承が進むといえる。

僕の持論だが、
融和、チームワークというものは
局地を生み出す温床で、あまり重視すべきではない。
特定の行為のみでの結びつきを丁寧にすべきであり、
馴れ合いをになるまで付き合うべきではないと。

ビジネスは所詮、個々の評価でしかなく
今の局地的チームワークは
会社経営の抵抗勢力、足の引っ張り合いを孕んでいると
ドライに見る目が人の上に立つものには必要であると。

2011-12-28

口頭

直接、口で説明すること、
人間、日本人の善行において
「直接あって話すべきだ」
ということが挙げられるが、それは愚行になりつつある。

なぜそういえるか?

閉鎖的な個人間のこと、下手すると密会という悪行とみなされる。
証書が何も残らない
何も考えずに話し合っても正しい結論に導くことは皆無、奇跡でしかありえない

という厳しい現実を直視できていないではないか?

ドラマである話し合いのシーンは、、
脚本家が事前に練りこんだ台詞まわしにすぎない。
話し合って、結果が導けるわけがないといいたい。

話し合いすべてを否定するつもりはないが
話し合いに、気持ちだけ挑もうとする愚行は時間の無駄という事実を考え
自分の頭を整理して、話し合いに挑むべきといいたい。

口頭での話し合いは

はなしあい  話’仕合’ という認識であるべきといえる。

2011-12-27

通話

些細なことのようだが、
一般常識が崩れている、たぶん、今までの常識が逆に失礼になりつつある。

例えば、職場の固定電話に遅刻連絡を入れることだ。
今までの常識では
当たり前だ!って言うかもしれないが、
・プロジェクトワーク
・人手不足
・情報の機密化
により、固定電話で出る人がいないことが多いことが見受けられる。
それゆえ、遅刻連絡が滞るとかいうが、
そもそも遅刻連絡はすでに電話機能ではなくなっているといえる。

また、どこでも話せるというコンセプトだった移動体通信の携帯電話も
画面情報の多さというプラスの側面と
公共施設での通話禁止のマナー強制というマイナス側面
で、通話機能に重きを置かない運用を強いられている。

電話による、遠距離との双方向コミュニケーションは
すでに電話でなくてもいいというより、
電話である必要が薄れつつあるのが現代の都市生活の実情といえよう。

確かに遠隔地や地方においては
遠距離との双方向コミュニケーションとしての電話は有用であり、
その必要性を一概に無視することができないという反論があるだろうが、
ビジネスは下を見たら、発展どころか、破滅になるという
経営論理を考えれば、
電話の通話への姿勢は
選択と集中でいうところの非選択要因かな?

2011-12-26

首級

御をつけて、御首級 = みしるし と読む。

戦国時代の敵のクビをいくつ取ったかの表現であり、
近年ではあまり使わないといえるが、この表現も温故知新と感じている。
中国の戦争の論功行賞は、敵の耳を出して、行っていた。
その言葉や派生で、牛耳るという表現もあるのだが、
いかんせん、耳では誰の耳なのかはわかりづらい。

対して、敵のクビであれば、面識がある顔をという表現があるように
人間の識別方法の9割がたが顔であるあるから、わかりやすいといえる。
基本、首級であれば、耳もついているし、、

敵のクビをあげて論功行賞をすることは現代では皆無になってきている。
しかし、この首級という表現は重要である。
御首級  みしるし  見知るあかし
というだけに

誰でも
みればわかる
でないと評価されない。

独りよがり、特定の人物でないとわからないことは評価の対象にしづらいのである。
現代社会は専門性の優位で、多岐にわたり、マニアック。
多くの人が勘違いしているが、仕事が専門性であればあるほど、
偉いじゃなくて、よくわからない=大したことない
と認識されてしまうし、あなただって、興味ないものを評価しないだろう。
だから、自分が評価されないのではなく、
評価しづらいし、マニアックすぎてついていけない状態である。

御首級が本当に出てきたら、気持ち悪いが
その心づもり、誰がいても一目瞭然な証拠をもとに評価をもらうようにこころがけるべきだといいたい。

2011-12-22

牛蒡

ごぼう に出会うとある事件を連想してしまう。

太平洋戦争中に
アメリカ兵を捕虜にした日本軍。
その捕虜の身辺の世話を任された農家。

戦中なのに、ろくな食事ができていない農家、
捕虜いえども、人として扱おうという思いで
丁寧に灰汁抜きを施した
滋養効果のある牛蒡の煮付けを作って与えた。

戦後、その捕虜になったアメリカ兵はその農家を
戦犯者にして、処された。
理由は、根っ子を無理やり食わせたという理由で。

人の思い、食文化の相違は、必ずしも相手のためにならない。
まして、心をこめて行っても、逆効果で罰を受ける。

今では、アメリカのジャンクフードが健康の敵、
和食はヘルシーといわれ、そんなことはないと言い切れるが、
所詮、敗戦国は何をしても報われないと感じた。

この事例はアメリカ兵の話になっているが、
台湾、満州において、日本人は逆のことをした、されたと思われる。

歴史は美談を残すが、
この牛蒡の話は僕ような奇特な好奇心と関心を持たないと
後世に残らないものとつくづく感じている。

牛蒡を見かけると、勝つことが何よりも善と思ってならない。

2011-12-20

拍子

拍子を取る、
音楽・歌舞などの調子に合わせて、掛け声をかけたり手を打ったりすることであり、
実はこの行為が、集団において、重要なアクションである。

みんなで歌い、踊るということではない。
移動行動においては、
同時進行のアクションのタイミングあわせとして
拍子をとることで、効率的かつ達成感も見出せる。

またプレゼンテーションにおいても
プレゼンターだけがしているのではない、
その聴衆者もプレゼンテーションの集団のひとりだ。
あいづち
拍手
賛否の発声
がそのプレゼンテーションをより成功に導く。

プレゼンテーションにおいて、
とかく説明するプレゼンターに責任をかぶせるが
聴く側もその一翼、、というか
聞かせてほしいという姿勢で拍子を合わせることで
よりよい説明になっていくと思う。

それをサクラをいれたプレゼンテーションという風潮があるが、
聴こうという姿勢を見せないところへのプレゼンテーションを行うこと、こそ否定すべきものであり、
拍子を合わせること、、これが現代人にはとっても必要といえる。
っていうより、、拍子抜けの輩ばかりの現代では結果出てこないことに気付こうよ。

繰返

繰り返しという行為は結構矛盾をはらんでいる。

物事の修練には、繰り返し実施が重要といわれる。
ことをなすためには、繰り返しを行うことで
身につくとされる。

しかし、人間は単純作業だとミスをしやすいとも言われる。
つまり、繰り返し行うような行為は熟練どころか
ミスを生み出す温床とみなされる。

修練するものと単純作業は根本的に違うと言い張る人がいるが、
その境目、分水嶺が極めて曖昧なで、
高度技術化された現代において、単純作業の領域は広がっていると言い切れる。
つまり、人間の行うことが出来ることは単純作業であり、
繰り返しすることでミスする可能性を持っているといえる。

繰り返しは
精度を高める過程か、
それとも単純ゆえのミスを生むものか
は、その繰り返し行為に向上心があるかどうかだといえる。
向上心、、改善する気持ちを持ってあたれば
繰り返し作業のように周りに見えても
やっている本人には、いつもチャレンジであり、
何かを良くしようと思っていることで
作業そのものの質が変わる。

繰り返しを
同じことをまたすることと捉えるか
毎回チャレンジと思うか
それは行う側の意識の問題でその意識が
職人か悪い意味でのブルーカラーかの違いといえよう。

2011-12-19

愉快

嘲ることと同義と言えよう。

愉快という表現を使うとき、
多くの人は、他人を見下すようなときに使う。
そうでないときは、楽しいという表現を無意識に使う。

それゆえ、
不愉快という意味は他人から受ける視線への負の感情をさしている。

意識的に、愉快を導く職業は
道化師、ピエロがその象徴的な仕事で
ピエロの行動の愉快は、見ている側の見下した、自分じゃそんなことしないよ。
という思いから愉快さを導いているわけであり、
本質的には、非道徳的な感情と現代教育になるはずなのだが、
その事実を黙認ですか?って思える社会と言えよう。

愉快という言葉の本質は
自分ではない他の生物、多くは人間への蔑みであるということを
意識することも必要である。

あなたが愉快と思っていることは
誰かを傷つけている可能性が高いということから
目をそむけないようにしないと、笑ってはいられないはずだ。

2011-12-16

絶対

他に比較するものや対立するものがないこと。また、そのさま。
となるが、現代社会では絶対の否定が
前提であり、目指すところという矛盾を抱えているといえよう。

絶対などない、この理屈が成り立たないと市場や技術は進化しない。
絶対とされているものより、よりよいもの、それがほころぶことが
発展のチャンスだったりする。

対して、ビジネスモデルや知的発見は
先だって、自ら無比の存在と立証しなくてはない。
つまり、自分が絶対である立証がないと
その行為の恩恵が得られない社会システムになっている。

現代社会といわずに
人間というものは
絶対という概念を常に意識して、あこがれ続けていることは
歴史も証明している事実であり、
絶対という概念は人の究極の業なのかもしれない。

2011-12-15

定量

定性、定量という言葉がある。

最近、故Steven Paul Jobs のプレゼンテーションがうまい
理由に 、数値的なスペックではなく直感に訴えるところがよく、
仕様を数で表す日本メーカーを馬鹿にしている論調があった。

この理由は愚論である。
言葉を悪く言えば、ゆとり教育の失敗発想である。

偏差値社会からの脱却と掲げ、
偏差値の値でない評価を求めた結果、
評価できないではなく、評価に値しないレベル人間を多く生み出してことは
国際的な学力 ”指標” に色濃く現れてしまった。

数字つまり、定量は比較、評価に適している。
直感に訴えるという定性表現は相手へのインパクトとしては評価できるが
決定打にならない。

定性はタイトル、定量はその裏づけというバランスといえよう。

偏差値教育は、定量評価が強く、定性的なもの、目的意識が希薄だった。
高偏差値だったから、何が実現できる?という問いには対応できない課題があり
問題視されて事実はある。
対して、ゆとり教育は、どうなりたいという定性的な気持ち先行で
その裏づけがないゆえ、結局何もできないという結果を導いて、破綻したといえる。

Steven Paul Jobsのプレゼンに振り返れば、
定性表現は本人の論調に対して、
バックモニターには、比較すべき数字が多く出されている。
定性と定量のバランスがあるといえよう。

今の日本メーカーの製品とて、そうなっているし、
すぐに対応できているといえる。
裏づけとなる数字に表れる性能を有しているからである。

日本製品もそれ相当と思っている。
っというより、消費者側がだまされすぎではないかと思っている。

「すごいものが出来ました!」
「優秀です!」
「こんなことが出来ます」

なんて言葉を鵜呑みするほど、思考がないのかといいたい。

「どうすごいのか?」
「優秀の根拠は?」
「こんなことが出来る裏づけはなにか?」

そのポイントを、定量的なもので理解、説明できないままの買い物は
一昔前の、
おもちゃ屋の前でぐずる子供となんら変わらないレベルと
自覚がないのだろうか?

2011-12-14

助言

真の意味で助言をするときには、強制力がなくてはならない。
強制力のない助言は、相手を冷やかしている、チャチャをいれていると変わらない。

助言を受けるということは、ある意味、降伏宣言に近い。
自らの使命に対して、自らの能力で応えきれていないといえる。
その前提、助言を賜るということは、
無能か
極めて有能か
と二極化されるといえる。

無能であれば、
上記のように強制力のもとに相手の指示に従うことで
自分にはできないことを他人にゆだねるというカタチになり、
有能であれば、
自ら結果を出せるのに、
あえて助言を求めて、手柄を独り占めにしない作為があるといえる。

悲しいかな、
無能な人はこの助言の意味を理解できないし、
有能な人はこの助言の定義に、ハラを探られたくないと遠ざける。
実際にこの助言の意味を共感することは難しい社会になっているといえよう。

2011-12-13

幸福

幸福論は難しいこの現代で、
国民総幸福量
国民総幸福感
という概念がある。

定性的な感覚を、
ある尺度で定量的に表そうとする概念なのだが
それってどんな意味があるのだろうか?

幸福は人によっては異なるのだから、
それを尺度、、、恣意的に定めるのだから、、

「お前!幸福といえ!」
「はい、幸福です」

ということにほかならず、いったいどこが幸福なのだろうかと感じる。

まして、現代社会は競争と衆愚の塊。

「あいつが幸せなんて許せない!」
「どうして、あいつが儲かるんだよ!」

という言葉が日常茶飯事なのだから、
他人の不幸は蜜の味が大きな比率を占めているのが、
嘘のない国民感情だろう。

逆に考えれば、不幸という自覚こそ幸福への努力の糧と考えて
不幸であることをどうやったら解消できるかを考えている規模を
評価するほうが建設的と思ってならない。

幸福なんてものは、
嫌な思いである不幸を知るからこそ強く意識できるのだから。

2011-12-12

駆動

省エネ、ECOの流行で、
低燃費
超時間駆動
少ないエネルギーで多く活躍を求めれることが実に多い。

でもこれはこれで、自分たちの首を絞めている暗喩でもある。

「機械ならこんな少ないラーニングコストですむのに、、君らは、、」
「機械の稼働時間が伸びているのに、君らはなぜ仕事をしないの?」

人間の多くは機械を使う側の論理で、見てるだろうけど
その機械と同じ視点で、労働者、作業者を見てしまっているところもある。

自分たちが
・給料が少ない、
・対価に見合わない
と思っている視点もあれば
「機械の進化に、それに関わる人間のコストが高すぎる」
「機械より使えない人間はいらない」
と思われているフシもある。

モノの駆動の進化に伴い
人の稼働の価値が低下する
これは自明の理である。

人の稼働は、駆動と同じレベルではなく
発想、考察、熟練と
世に言う、アタマ、ウデを使うものに昇華できないと
機械に駆逐されて当然な社会になっている。

昭和初期の漫画にあった
「機械に支配された社会」、、
自覚の問題だが、この駆動状況からして
すでにそうなっている言い切れるくらいと言えないか?

2011-12-09

通魔

最近の治安と犯罪の概念がおかしく感じる。

地域治安、地域教育の復権を掲げている一方で
犯罪認識の肥大化がある。

上記の表現を簡単な表現で表せば

ある好々爺が、
信号無視をしてそれを回避して車が急ブレーキで大変なことになったので
その子供を
「こら、危ないから、いかんぞ!」
とげんこつで説教した。
そうしたら、その親が
「うちの子供が通り魔にあった!逮捕してください!」
と騒ぎ出した。

好々爺は、地域治安、安全意識、地域ぐるみの指導のつもりであっても、
親バカからすれば、見ず知らずの老人に子供が襲われたと認識して犯罪とみなしてしまう。

マスコミも
地域教育というポイントではなく
親の意見のほうが報道しやすいので
その論調で書き立てる。

子供のため、交通安全のために
叱れば、通り魔扱いになるのならば、
関わらないほうがいいと判断することも当然だろう。
それゆえ、近所付き合いが薄くなっていくことも必定といえる。

本当に地域の人付き合いを活性化させるのであれば
子供は宝という概念や犯罪に敏感にならない社会認識を
先に変えないとならないと強く感じる。

僕の持論だが、犯罪は人が認めて初めて犯罪になるのであり、
敏感になればなるほど、治安感は薄れるだけである。

ニュース報道、噂の通り魔、不審者って
本当にそうなのか?もしかしたら、それなりの正義感で行っているのでは?
と現代社会の情報操作に不信感を抱いてならない。

何が正しいのか、本当にわからない社会と考えれば考えるほどわからない。

2011-12-08

森林

「人工的に作られた竹林」

この表現が誤っていると気づいている日本人は多くないだろう。

林:人為的に作られた樹木の集合域
森:自然発生的に成り立っている群生

であり、竹林という言葉だけで上記の「人工的」の意味を含んでいる。

この事実は、
現代人の多くが林業から遠ざかっているという事実と
熟語成立の語源を学ばない事実と
2つの容認が重なっている結果である。

高度サービス事業に産業構造を遷移させたゆえに
自然とされる、生態系からの乖離
ITの発達による読み書きの自動処理による覚える理由付けの形骸化
を導いている。

この事実に対して、
僕個人としては、ものごとの移り変わりを理解するために語源は知っておきたいと強く意識しているが、
社会全体視をすれば、移り変わりに、「どうでもいいこと」という価値を与え
そして、知っていることが必ずしも評価されないことも。

しかし、教育やら学習やら騒いでいても、
結局、物事の本質、経緯を理解しない知識や発想は
現実社会では役に立たないし、
その末路が現代の付加価値と思い込んでいる蛇足なものの氾濫と思っている。

「木を見て森を見ず」
応用して
「木々も林も森も見分けられない」
ような眼力に本質ありきの付加価値の定義ができようか。

2011-12-07

炒飯

チャーハンと焼き飯
ある人は、同じだ
ある人は、全く別物
って言い始める。

はじめは地域差や風習の差と感じていた。

おむすび  おにぎり
おはぎ   ぼたん餅

と同じようなものを地域やそれを食する風習の違いから
言い方が変わるのではないかと感じた。

しかし、現代社会はもうその概念は通じないようだ。
基準はその個人に委ねられ始めている。

フライパンでつくるか、鉄板で焼くか
タマゴを入れるタイミング
と各位が好きな定義ならともかく、
ある輩は

「俺が認めたものが、チャーハンでそれ以外は、ただの焼き飯にすぎない」
「チャーハンなんて、焼き飯の偽者だろう」

という偏見を平気で言う時代になってきている。

各地方で乱立していた言語特性を
集団の共通認識、意思疎通の効率化から
標準語というものを定めてきた近代国家社会に対して
現代社会は、地方どころか各個人レベルまで乱立されている。
これでは、他人と意思疎通、、、共同目的意識は芽生えないことも自明といえる。
意思疎通しているつもりが、多くは独りよがりとみなせるだろう。

チャーハンひとつで国の実情がわかるといえよう。

2011-12-06

格差

格差問題と騒がれているが、
一昔前に、能力主義偏重した当然の結果と思っている。
能力主義はできるできないということで
差をつけるのだから、格差が起きなくてはならない。
それを格差社会というのは何ともおかしい論理と思っている。
まして、社会主義の思想より資本主義の思想が正しいと言わんばかりに
経済がなっている以上、格差の推奨を促しているとしか見えないのに、、

社会の潮流に対して、アンチテーゼのごとく新たな波が立つのは
歴史上当たり前だが、現状起きている格差において、弱者、負け組を助けるために
強者、勝ち組が生贄になるのは、社会主義国でおこった
「どうせ、がんばっても無駄、むしろ他人がやったものをもらうことのほうが賢い生き方」
という社会後退を招きかねない。

冷たいと思われようが、無駄に弱者を助ける論理は
将来のためにならないし、格差があるが、機会は平等という社会として
弱者制裁は抑止効果、上昇志向の礎としても重要だと言いたい。

将来、未来の子供たちのためというならば、
現代において、
格差ということを目の当たりにして
上昇志向を促すために結果的に
犠牲にならなくてはならない存在を必要悪として認めることが
大人ではないだろうか?

2011-12-05

分岐

人生と大きく考えなくても、生きるということは判断の分岐の連続である。
AorBという単純な分岐もあれば、
やる、やらない、作為、不作為もまた分岐である。
判断、分岐、には反省、後悔がつき物である。

自分の判断は正しかったのか
その分岐において、逆を選んだら、、
多くの人間はその点の思いに付きまとわれる。

とはいえ、分岐をそうとらえるのは贅沢な証拠。
分岐がある、選択できる自由をもっているということは
決められた、約束された道を歩まされることではない
個々としての尊厳が守られている証拠ともいえる。

2011-12-02

演出

基本的に演じるという行為は虚構行為であり、
現実レベルからかけ離れていることである。
弁護士の役を演じる俳優に、司法試験合格者のみということでは
芝居が成立しないだろう。

現実社会から逸脱すること、それを見て現実逃避ではないが、
悦に入ることで精神的な恩恵を得るべきである。

その虚構の流れを司る演出に対して、
近年の批評、報道がおかしすぎる。
「やりすぎ、」
「どが過ぎている」
と否定するくせに
その要望に応えると
「つまらない」
「わざわざ見る価値もない」
と言い始める。

演出という非現実世界に対して
他人、それも対価を十分に出していない者たちが
自己主張をするのはいかがなものか?

自分なり演出をして、
対価を払う観客の同意を得られなければ
自滅になるリスクを抱えているものに
安易に声を出すべきはないといえる。

命がけの演出と
安全な立ち位置からの批判
なにかおかしい。

創作活動である演出活動に僕は批判ではなく、
敬意を感じてやまないものだ。

2011-12-01

畦道

畦とは水田の中の泥土を盛って、水が外に漏れないようにしたもの
その盛り土の上は作業用の農道としても使うので畦道という。

そういう畦道だから格好の隠喩の対象になりやすい。
・物事の曖昧な境界線
・道ではない道
・わけ隔てるものであるのに、その存在が互いをつなげているもの
といろいろな意味で使われる。

とりわけ中庸を好む日本人は畦道のような存在を容認どころか憧れる。
しかし、農耕民族でなく、Yes or No が重視される多くの民族には
この発想なかなか通じない。
通じないから、今までの日本はそのような谷間ビジネスで活躍できたと思う。
ある意味、日本は畦道ビジネスモデルといえよう。

もっとも、現代人はその畦道の存在認識も暗喩の意味も薄れてしまっているので
中庸を理解できないのに、Yes or No を決められない
という状態、、、畦というより、泥山の存在になっていて、嘆かわしいのだが、、