2010-07-30

福祉

福祉の充実を近代国家を筆頭に多くの組織体で掲げている。
自分が組織を持つものとして思った。

福祉の充実は組織を弱くする、、いや弱くなっていることへの自覚を隠してしまう。
福祉を充実させるためには、
利益の再分配や強きものから弱きものへの何かしらの提供行為で成り立っている。
そのために条件として、
・強者が上げた利益の十分の蓄え
・強者の成功報酬量の削減
・弱者が弱者としての自覚
等、しっかり定義しないと

「強者は自分の成功報酬が、奪われている」
「弱者は強者から分け前をもらう当然の身分だ」

という成果主義と逆の結果、それ以上に組織崩壊を導いてしまう。
強者からすれば、
弱者になぜ利益を取られるんだって思い、
組織から離れることを思うし
弱者は
もらえて当然なんだから
強者を働かせればいいので、自分は何もしない
という発想を導いてしまう。

福祉という言葉に隠れた
能力主義、成果主義への反目をきちっと理解しないと
崩壊しか導かない。

国家や大きな組織はそんな馬鹿ではなく考えている!
って反論もあるだろうが、現在の多くの国家、大企業の課題が
社会保障、年金への財源負担である事実が考えの限界と感じている。

福祉を求めるならば、
強者たる負担者への配慮、制度維持のための細心の注意
そして、弱者の弱者たる態度が求められる。
思うに近代は、自然淘汰の事実を忘れすぎて福祉と騒ぐから
自然からの予定調和を受けているだけなのかもしれない。

2010-07-29

申請

気付いているようで、なかなか多くの人は知らない。
申請と許可の違いだ。

申請も許可も管理側、、政府系なら自治体に
意思表明を示す点で同じなのだが、
申請は意思表明を示せばよく、
許可は管理側からOKの許可を得なくてはならない。

が、現代では申請だけですむことはまずなくなっている。
申請といいつつ許可になってきている。
これは管理側の問題だろうか?

否、これは管理される側の良識の欠如が引き起こしている。
本来であれば、申請さえしてくれれば
権利の名の下に行動を抑止することはすべきではないという発想が
統治論にはある。
しかし、多くの人間が他人への干渉、、つまり公共の福祉の概念を忘れ
ただ自らの欲望のままに行動するようになったがために
申請の内容について、道義性、影響度を調べた上で許可になってきている。

申請すれば、
個人の権利を保障しますよ!という性善説での統治では
もはや現代社会は成り立たない。
基本、人間は性悪であると思うべきである。
基本悪いかどうかの判断はもう管理される側に持たせるべきではない。
その発想のほうが、結果多くの人間の権利を守るようになってきている。

2010-07-28

担当

思う。

担当者になることなかれ、責任者となるべきだ。

担当者、責任者は一見、一読、一聴、すると同じような意味に感じ、
もしかしたら、多くの人は同義に捉えているかもしれない。
どこが違うのか?そう思うこともあるだろう。
しかし、その段階で、責任の意味の重さを気付いていない証拠であり、
社会的な無責任さを感じる。

多くの人間は
感覚的にはわかっているかもしれない。
「担当者出て来い!」ではなく
「責任者出て来い!」だし。
「窓口担当は○○」であり、
「窓口責任は○○」とは言わないだろう。

要は
担当は役割、手法の担い手
責任は目的、完遂の担い手
である。

相手が真に求めているのは
手法ではなく、完遂なのだから、
そこに持っていかなくならない。

ただし、場合によっては責任者になれない場合もある。
自分の身分、相手の期待度により
別の他人が責任者でなくてはならない。
その場合、自らの立場を理解して担当者に徹し
引くところは引き、責任者に任せることを即座にすべきだ。

相手は完遂を求めているが
その前提に自分の存在を肯定しているか、疎ましく思っているかも
考慮がいる。その気遣いが一番重要なのかもしれない。

2010-07-27

原文

その内容が記されたままの文章。
現代社会において、口頭言語、機械言語、等
数々の言語があるため、
それぞれに通じるように翻訳されている。
趣旨をより多くの人に伝えるために
翻訳されることは重要である。

でも、だからこそ思う。
翻訳された内容だけの理解でいいのだろうか?
翻訳には、
翻訳家の癖、思いが出る可能性や
言語特性で説明しづらい概念
が少なからず介在してしまう。

それにより、若干意味、ニュアンスに変化が起きる可能性もある。
その翻訳を正にすることをもとに、また伝聞していくと
意味が変わっていったりする。

翻訳された内容を知った上で、原文を見返そう。
そうすると、言語特性や自分の思いと異なる発見があったりするかもしれない。
僕の場合は、翻訳の意味がわからないゆえに、
原文でその意味を理解できたりする。

原文を読むことは
多言語対応に感じるかもしれないが
言葉よりも意味、概念、感覚の理解、認識の違いを理解することと思う。

2010-07-26

臨機

「臨機応変に対応してほしい。」
「社員裁量で行って顧客満足度を高めることを実現してほしい。」

いかにも正しい表現に聞こえるが、
これって現代の企業においてあってはならないことである。

ガバナンス
業務プロセスのオーサライズ
コンプライアンス
内部統制

という最近はやりの言葉から求められるのは

「社員の行動が会社として認められている行動であることを立証するため」

である。
基本、社員が勝手に行動しないことを求めている。

上記を踏まえてもまだ

「そこをうまくやって、臨機応変におこなってほしい」

という発言を耳にするが、こういう発言をしている自体、
その組織のガバナンスどころか、顧客からの信頼を得られているいないと思う。
だって、こういう発言をするということは
・想定されていないことが多く発生される
・組織の人間がプロセスに従い行動できていない
という前提があるからだ。

臨機応変という言葉
言いかえれば、無計画な現実であるということを理解すべきだ。

2010-07-23

端末

漢字のイメージだけならば末端。
一番端っこという意味だが、端末という意味はもう異化されているといえよう。

そもそも、端末とは外来語それもコンピュータ用語のterminal への当て語であった。
terminal は日本語でも交通機関の乗り換えで一般的に使われてきている。
コンピュータでも交通機関でも
terminal 自身は同じ単語である。

対象となる2物の接点であること。
それぞれの対象物からすれば、接点は末端でないと相手に接することは困難である。
その末端から自分では得られないものを得るという意味である。

現時点において、端末の意味は
携帯電話、PC等をさす意味になっている。
これは前提として、繋がっていることが前提で
使い手である所有者たる人間とデータを受け取るセンターコンピュータが
この末端である端末でもって接点にしているのである。

現代の端末の概念について俯瞰的に見ると面白い。
それぞれの端末自身は
使用者、所有者の使い勝手、好みでカスタマイズが容易にできてしまう。
しかし、それは端末の見た目であって、端末の真の価値である
接続については、所有も変更も現時点では許されることがない。

自分のものである、、でも自分ひとりでは意味がない
なんとも曖昧な存在だろう。
、、、逆に端末そのものが今の現代人そのものの投影なのではないかと
見えてしまう。

2010-07-22

認知

ただ知っているにすぎない。
この時代知っていることに価値はない、
ネットで情報は溢れているからだ。

重要なのは、
知った情報をもとに
それを自分なりの活動、行動で
新しい情報に繋がることをおこしたかどうかである。

人は知っていると出来ることの垣根が麻痺っている。
実際に人間は大したことないものである、
知っているからとはいえ、
実際に自分の肢体でできることはそうでもない。
案外、人間は無力だといえる。
その自覚が重要である。
自分でできることは、自分が実際に行ってはじめて理解できるものだ。


そう考えると、認知するで一番難しく重要なのは
自分自身を認知することと言える。

2010-07-21

熱意

なんとなく、前向きな表現に聞こえるが
実際に熱意という表現が現れて、こちらに向いているときって
今の言葉で言えば、、ウザい状態と言えよう。

熱意を表すって、
今まで定常とされていた行為に翻意を示すことに他ならない。
当たり前
これが効率がいい
といわれているから、定常としていた行為への変革である。

当事者の気持ちとして
定常活動をそのままで、今対応を求められている行為をしようとしている
可能性があるし、多くの場合は熱意を出されるまで、
気にも留めなかった行為だと思われる。

そこに対して、熱意をもってあたってくる場合、
熱意を持っている側からすれば、
ここでひとつ変えていこうという夢や野心で当たるのに対して、
受ける側の気持ちが向いていればそこで進展するだろう。
しかし、気にも留めない行為であり、自分は他の事を行動計画を立てているとしたら
進捗、ノルマを妨げる邪魔者でしかない可能性もあるのである。

熱意で押し切ることを情熱等いうが、
僕からすれば、それは相手のことを本当に考えていない
一種の押し売りでしか感じない。
自分の思いを他人の熱意にうまく乗せることに注力することが
商才、ビジネススキルであると感じる。

2010-07-20

恐竜

夏休みの風物詩。
僕が小学校2年の時にまとめた自由研究が思いだされるくらい
昔から、恐竜は夏休みにでてくるものだ。

とはいえ、調査や研究は進んでいるみたいだと
毎年思わされる。

幼き頃聞いた
ブロントサウルスは学者の喧嘩の産物で実際にはアパトサウルスと同じものであったこと。
恐竜は爬虫類ではなく、鳥類に進化したということ。
鳥類ゆえに、変温動物ではなく、恒温動物かつ羽毛があったのはということ。
など、いろいろ昔覚えたことが覆されていることに気づく。

このまま研究が進んだら、、
もしかしたら、、、恐竜というもの自体、
存在しなかったのではないかという結論にならないか
と思ってしまう。
だって、誰も見たことないし、
爬虫類って憶測していたものが実は鳥類だっという
分析結果などから、、、いろいろとわかってきたのだから。。
夢とロマンに塊、恐竜も実際には、、、、そうでもないかもしれない。

2010-07-16

期待

期待、、つまりは裏切りのことと断言できる。

期待以上、、、、、、、予定を狂わせることへの
期待通り、、、、、、、変化を求める気持ちへの
期待していたのに、、、行動結果がおこす

はすべて相手への裏切りへの表現につながる。
うれしい誤算という裏切りがあるが、
多くはマイナスイメージの裏切りになる。

そして、期待、裏切りは自分相手互いに思うことだ。

自分からすれば、
期待に対して裏切られたとなるが
相手も
期待通りに応じたつもりなのに、あの態度に裏切られた
という気持ちをもつことが多い。

自分も期待していると同様に
相手も自分へ期待もって接している。
自分が裏切られたと思う気持ちと同じ分
相手もまた自分への裏切られた感を持つことになる。

こう考えることができるようになると、
相手への思いやりがある意味自分への思いやりにも通じ
過度な期待が互いの裏切り感になるので
振幅が緩やかな期待を意識することが重要だなあって思えるようになってきた。

2010-07-15

意匠

いわゆるデザインにあたるのだが、、、
デザインというものは多岐にわたるものだなって感じる。
日本語では、意匠をはじめ、設計、造詣、製図、構図、と対応する言葉が多い。

意匠について言えば、
対象物の物理的なカタチについてを示すものといえる。
実際に作ったカタチというよりは
そのカタチを構築するアイデアそのものを意匠と示すことができよう。

デザインに代表される形而上の価値。
手に取るという概念ではないが、
爆発的な富をもたらす可能性をもつ反面
立証、他人への理解の受容が強く求められる存在。
そして、実際に物理的に存在しないから起こる
偽造、盗作の可能性。

意匠を自らのアイデアとして
自分が考え出したデザインであるという証明に
人間は多く時間をかけていくことになっている。

構想している時間に
別なアイデアを導けばいいのにって思うが、
なかなかそううまくいかない。
自分が考え抜いて導いたアイデアを否定されるのは
人間はかなり許せないないだろう。

デザインの世界は
いかに自分のアイデアをカタチになるまで貫けるか!
そこがポイントで、、、奇抜な意匠であったとしても
それを具象化に落とし込めて初めて評価されるのではないかって切に思う。

意匠そのものより、
それを貫きに世に送り出せることこそが重要なのだと思う。

2010-07-14

先知

先を見通せる能力のこと。 僕は先見の明は博打の要素が高いと思う反面、 先見の明を口にできる人間を高く評価する。 人間、未来について解らない、 しかし、先見の明を他人に言うには それなりの立証 それを他人にいう覚悟 という要素を持っていないとならないからだ。 その要素を持っているならば、 たとえ、先見の明がない結果になったとしても その人間の行った予測、立証行為は無駄ではない。 間違っているかもしれないけど それを持論として展開した勇気は称賛に値するし この気概は買ってあげるべきだと思う。 リスクをとらないこの時代において、その意気込みは認めるべきと 僕は思う。

2010-07-13

忠勤

日本人にとって、仕事をもらえると言う概念は うれしい喜ばしいという概念かもしれない。 しかし、僕の習ったフランス語においては 仕事をするという表現、traviller は限りなく嫌な表現であり、 travel の語源でもあり、旅行とは出稼ぎ、家族と離れるという意味にもなる。 日本人は基本勤勉である。 だから2つのことを理解しなくてはならない。 外国人はそうでもないという事実であり、 常識、一般的と言う表現は通じないということ。 そしてもう一つが重要である。 だからこそ、日本の勤勉さに従えという気概を持って当たるべきである。 国際化と言うのは相手に合わせるというものではなく、 いいものを相手に強制させるのも国際化といえる。 いいものという概念そのものから相手に叩き込むことに 躊躇することは返って、相手と自分の立場を解りづらくするということを 理解してあたるべきと常に考える。 勤勉さによる思いやり、 背中で語る という言葉、思いあがりでしかない時代になっていると割り切るべきだ。

2010-07-12

実力

社内における実力主義、、それは組織の弱体化を招く。
そもそも、日本の現在のガバナンスにおいて能力主義は
会社の弱体化を招いたと断言できる。

能力主義の会社に身を置いたし、
その多くの企業の重鎮と話したが、
結構な論理的帰着が導かれる。

今の日本における能力主義は売上という市場的、数値的なところに目を向けない。
ほとんど、人間の判断になっている。

みんな自分は優秀と思いこむ。
そして、実力を評価しない組織の上司、体制を批判、無能扱いをする。
ふつふつとした思いは、モチベーションの低下、転職の誘発につながっていく

このようにして多くの企業は社内の力を失ってきたいのである。
そもそも、ガバナンスを統制する人の存在が
株主ではなく、会社の一社員、組織に任されているところも問題である。

資本主義における実力とは
自ら売上、利益をあげられるところでしかない。
「あの能力がある」
「自分はこれが得意である」
というのは、実力をだす可能性であり、実力ではない。
そこを取り間違えている多くの人たちの認識では
組織、企業の成長にはつながらないと言い切れる。

実力があるということは
それは社会が認めたというか、、、
金になること、
それが国際的な市場価値経済の根本と言うことを。

2010-07-09

出家

この漢字をみて、日本語を習っている外国の人たちが理解できるだろうか?
そんな日本的な熟語だとい思う。

意味としては、家=家族という世俗から出て、仏門に入るという意味であるが、
出る という表現は
行く と異なりなんとなく気持ちが乗っていないような表現に聞こえる。
英語でいえば、go にあたり、名残惜しさを隠し持つところがある。

外国の場合の出家、聖職への入門はある意味、洗礼、祝福の意味を介して
歓びを与える表現があてられることが多い。

たぶん、日本の歴史から解るように
出家の意味は、貴族、武家が世俗で権力を掴みたくても
掴めなかった夢破れた者たちの行きつく先であったところから
この熟語が示しているようで、感慨深いものを感じる。

2010-07-08

論証

現代社会で一番汎用的な能力だと確信している。
現代社会ははっきりいえば、
カット&ペーストで出来ている。
学校で教えることは、教科書の内容の丸暗記
脳どれだけカットしたものを蓄積して、
それを答案用紙にペーストできるかだけであり、
その理由についての理解は薄れている。
仕事の多くは、前例のものを真似て小細工することを
テンプレート適用としている。
なぜ、それをつかうといいのか?
その点に関しての理解はないまま。

多くの仕事のおいて重要なのは
どれだけすごい技術を使っているかではない。
その技術がどれだけ、今回有用なのかを
顧客に説明できるかだと思う。

高い技術であれば、あるほど、その技術は顧客には理解、使いこなすことは無理。
でもその技術が自分たちにどんな貢献、他のものよりどれだけ
役に立つのかを説明できるノウハウを持っていれば
いろいろな場面で重宝されるのである。

魚をくれる人より、
魚を釣る方法を教えてくれる人のほうが
何か別のこともできると思ってしまうのが
人間の思いだと感じてやまない。

2010-07-07

移動

移動なくして、物事の進化はない。
移動と言う行為で何を動かすかで
新しい価値観の構築になるのである。

自らの足で移動するときは、健康法、健康グッズが
交通手段を選べば、交通機関の効率化、時短のための最新技術の開発
意思を移動させるのであれば、通信、情報技術の革新
と移動と言う行為こそ、資本主義ではないかと感じる。

移動と言う行為自身の付加価値は時限的、非瑕疵の概念であり、
なかなか評価されない事業である。

しかし僕はあえて言おう。
日本の見えにみえない、手に取れないこそ
これからの移動を引き起こす大きな兆しではないかと。

集まる時代はもう終焉である。
所定日に運搬されることこそ、日本のサービスと考えしっかり、
自分の起こそうとしているビジネスモデルに今までにない
移動の概念のビジネスモデルを早く僕らは収得したいものである。

移動は日本の胸を張っていい大きなビジネスチャンスと考えて
若者たちにこの事実を知ってもらい限りである。

2010-07-06

規格

公権力や大きな団体から出される規格基準は
多くの人たちが等しく享受できるようにさせるためという大義名分を謳うが、
これはよく言って、殖産行為、悪く行ってマイノリティーの根絶である。


規格基準というものは耳触りがいいが、
基本的に利益をあげたい一部の者たちの効率行為の独占であり、
規格から外されたものは、今までのビジネスモデルの総否定、
ビジネスチェンジもしくは廃業を言い渡されている意味でもある。

多くの人たちのためという大義名分は
一握りの人たちの利益に繋がっていることを
十分理解しながらも、僕は規格基準を覇したいと思う。

それがビジネスにおける野心ではないだろうか?
儲けたい、自分の理想に近づけたい
その煩悩に近い思いを相手に印象付けるものが
価値の正当性である規格基準を覇することと素直に認めたい。

2010-07-05

推理

日本語ではミステリーを推理小説と訳されるが、
推理は論理そのものである。
今ある事象の関連性、必然性、道義性等をもとに
追求していくことを趣としているところである。

だが僕自身は
推理小説を読み切ったことは、、片手で数える程度しかない。
本来、この手の論理に繋がる行為にはとても興味があるのだが、
物語という活字の正解よりも
より情報量の多いメディア環境に多く触れられていること、
そして、事実は小説より奇なり、
今自分の周りに起きていることを常に
洞察の上、推理することのほうが有意義と感じることが多いからだ。

性分なのだろうか、
身の回りに起きる事象に対して、
その前後関係でいろいろと推理を行って、
自分の論理の構築の訓練を行っているような気がして
毎日の行動を素直に観ていない気がしてならない、、、、。

2010-07-02

言語

互いの意思の疎通を行わせる手段である。
人間は言語を通じて、
他人と意思の疎通を図る。
そして、その言語のようにして、
人工知能への命令を可能にさせている。

意思の疎通ができるであれば
無理に苦手な言語を使う必要はないのだが、
結果的に一番思いを伝わせることができるのが
言語となるのが、現代と言えよう。

僕は2つの言語問題を抱えている。
1つは日本語ではない言語の必要性であり、
もう一つはコンピュータ言語をわざわざ日本語に置き換える
必要性についてである。

日本語外言語については
僕とて、そう外国語が得意ではない。
しかし、重要なのは意思を伝えようとする意思が
強いかどうかである。
どうも、外国語というだけで、尻込みしてしまう人が多く
伝えようとしている相手のことを理解していない。
僕は思う、意思を汲み取りたいなら、
「外国語が解りません」っていうのではなく、
「僕にもっと解りやすいカタチで説明しろ!」
っていうこともありだと思う。

そして、もうひとつの問題である
コンピュータ言語はある意味日本語外の問題と逆である。
日本語、コンピュータ言語も言語であり
別の語法で成り立っている。
だから、その機能表現を表すときに無理して
日本語等の会話言語のドキュメントにする必要はなるのか?
って感じる。
まして、その言語を理解している人が読むことが
前提であるドキュメントなのだから、
わざわざ無理した会話言語にせず、
そのコンピュータ言語をそのまま読むべきだと思う。

何度も言うが、言語は意思疎通の手段である。
手段であり、目的達成のためなら
無理する必要はないと思っている。

、、、もっとも、現代人は意思疎通への目的意識そのものより
意思疎通していること自体に生きがいを感じている節があり
相手に伝えるという行為はあまり意味がなくなりつつあるのかもしれない。

2010-07-01

妖艶

妖しく艶やか。
僕には縁遠い熟語なのだが、この言葉。
考え方によっては、ものすごく覚悟の決まった言葉だと感じる。

各種ミスコンテストの禁止等で人の美に対する偏見が
過剰、過敏になっているこの時代。

人と比べることは好ましくないという理由での禁止概念は
ある意味、統一規格の人間を量産し続けている一方で
個性とかゆとりとか論理矛盾を呼び出している。

妖艶であることの裏には
自分自身への美的探究と自信を持たないと
妖艶であり続けることはできない。
妖艶であると他人に言われること、自負する気持ちは
自己研鑽であり、それが個性につながるのではないかと言い切れる。

妖艶であり、仕草や行動が他の異性に対して
あらぬことをさせてしまうということを問題視するが
その妖艶さに対抗できない自我の弱さ、その才能と拮抗できる
自らの誇れる才能がないのだから、市場経済として
当然の報いではないかって思う。

妖艶を引合に出したが、
基本、自らの誇れる才能、自他共に自覚して
それで社会、市場に訴求させる覚悟を持って挑めない存在は
淘汰、生贄にされることもよしとすべきだ。
それが、市場経済、自然界のあるべきすがただ。