2011-11-30

卸業

一昔前は中間リベートをとる悪の存在のように、

「中卸を通さず、その分の顧客還元!」

といわれていた。
人によっては、未だにそう思っている人も多いだろう。
しかし、そうではない。

メーカー5社と小売店舗10社では掛け算で、50本の輸送が発生する。
50台のトラック輸送コストがかかる。

でも間に2つの卸社をおく。
メーカー5社は2つの卸社に送るので、10本の輸送コスト。
2つの卸社から小売店舗10社に送るので、20本の輸送コスト。
合計、30台分のトラック輸送コストになる。

数字上においても 50 vs 30 になり、少なくなるし
実際の現場のオペレーションを考えれば、
梱包、積荷、入荷、検品が輸送一本ごとに発生することを考えれば
それ相当のコストに差がでることになる。

このブログで幾度も取り上げているが、
右肩上がりの経済論理はもはや通じない。
消費者がいつもあふれている、大量消費の時代ではない。
それゆえ、見えない需要を多く見積もって出せばその分、
返品、廃棄というものが必ずおきる時代である。

適正在庫ではないが、
ほしいとされている分だけ、
市場に流すべきであり、
そのマーケティング機能を持ち合わせないメーカーや在庫管理する力がない店舗は
卸社の存在、活用してビジネスを成り立たせるべきだといえる。

顧客還元、、、
本当に顧客がそれに感謝をしているかは疑問であり、
顧客というより、消費者はより安い方向に流れる傾向なのだから。

2011-11-29

白紙

白い紙という意味よりは、
今までの計画をなかったことにする抽象的な意味合いが強い。

現在社会の多くのことは白紙撤回が前提の企画が多いかもしれない。
それゆえ、今、目に見れている行われている企画も
実際問題、いくつもの企画が白紙撤回された中勝ち残った企画であり、
その企画実施のコストは、白紙撤回された分の検討コストもかかっていると言わざる負えない。

じっくり考えて行動する、検討においていくつか白紙にされるものもあるので
選ばれた企画のみの原価を評価することはいかがなものだろうかと思う。

外資にいたときに、
オプション提示する企画分の請求するというビジネスモデルがまかり通っていた時代まで
回帰することは難しいとしても、その検討過程を評価することは忘れてはならないと言える。
少なくても、弊社は検討過程のエビデンスをきちっと管理するビジネス、
逆に検討過程を含めての支払いを心がけている。

白紙は白紙であって、なかったわけではない、存在したものがたまたま白紙になっただけのこと。
その存在にも目を当ていることが温故知新の礎ともいえるのだから。

2011-11-28

引率

リーダーシップが求められる。

よく耳にするが、
歴史的にみて、
リーダーシップを発揮した、優秀な指導者、引率者は民衆から迫害される。
カルタゴのハンニバル、近代ではムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィー大佐)

引率者へ権力者という表現を使うが、
自分ら、方向性のない民衆に方向性を示すための引率権限、、権力を与えたのも民衆であり、
その引率に従うことを確約して初めて、引率者もその責務を全うできる。
ゆえに、引率する人に権限なくして、引率の本分が全うできるわけがない。
それなのに、引率者を貶める発言が多い現代の民主主義、、衆愚主義で
リーダーシップなど、発揮できるものだろうか?

民衆は
リーダーシップを責任転嫁だけに求め、
終わったらお払い箱にするのが常だ。

そう考えると、リーダーシップを発揮することはリスクであり
結論的に、現代社会の独断集権経営をしている企業成功もうなづける。

2011-11-25

回路

僕は不器用なので、ものづくりは苦手だ。
図工も技術の事業も得てしていい成果を出していない。
夏季休暇の腰変え椅子作りも父にアウトソーシングしたくらいだ。

ものづくりを不得意なのだが、
電化製品の配線、故障原因追及、修理は得意のようだ。
そして、生業のシステム構想もそう苦手というか
必然的にあるべきところが見えてくる。

僕はものづくりと回路成形は別物だと思っている。

役に立つものを自らの思いで造型して、作り上げるものづくりと
既成の有様、この流れは次にこうしないと全体が動かないという
動線把握については求められるスキルが違う。
ゆえに、造形技術に対しては労苦への敬意をこめて高い支払もいとまないが、
回路形成にそう評価していない。

いいものがあるのだから、それをうまく使いこなしてこそ
造形への謝意であり、その回路形成なぞ、
だれでもできると思う。

現代社会の多くはモノづくりと言いながら、
既存のものをつなぎ合わせているだけのことばかりだ。
まして、付加価値といって無駄な回路形成ををしているから
有様がおかしくなっている言わざる負えない。

モノづくりができないことを自覚したうえ
いいものの本質を見極めて回路形成に
もっと自分の考えを研ぎ澄ませと現代社会に言い続けたい。

2011-11-24

自主

社会全体として、主体的、自主性がなくなった反面、
批判する行為だけは蔓延している。

些細なことだが、
遊びや会の企画をする人は減っているのに、
その企画を批判する人が多いこと多いこと。

遊びや会に声をかけてもらうことに対して
「わざわざ来てやったんだ!」という
尊厳な態度だからだとこそ、平気で企画を批判できるようだが、
実際に企画する側に回ると、、、チープな発想で
批判されると逆切れを起こす始末。

そんな状態だから、自主的に行動することへのリスクが高い現状に
自主性の萎縮が蔓延しているのだと思う。

時に今は、個人主義、自己責任である以上
国外では、自主性がないものは淘汰される社会になりつつある。
いっそ、自主性のないものから搾取を
批判だけ代替案のないものには処罰を
という強制的手段で社会的変革をすべきで、
そうしないと淘汰の波に太刀打ちできない体質からは脱却できないだろう。

自主性を強制するということは論理矛盾なのだが
そもそも、日本人は子供のころから
「自分の将来のために、宿題をしないさい」
と言わる続けて、自主学習を強制されてきた人民なのだから
そこに矛盾を感じるほど、強い抵抗感はないだろうといえるだろう。

2011-11-22

似合

僕個人の見解としては
他人がその行為、ものに似合うとどうかを評することは愚行と思っている。
それを評した時点、その人のセンスそのものが最低に位置づけられるからだ。

似合うかどうかより、
その行為、ものを有することができるということがその人の能力といえよう。
それを手にする勇気、財力、価値観を有しているからだ。

対して、
「あいつにあれは似合わない」
と発する時点で、その人は負けである。
似合うとかいう前に、その人は有していない以上、
口にすべきではないといえる。

現代先進国の人は、新興国の人たちが稼いで高い買い物をした際に
「発展途上国のくせに、、」
と口にすることが多いが、
それは、新興国に負けている表れである。
彼らはその買い物に適する勇気と財を得たので、
それを有することが、似合うのである。

現代の先進国ではなく、
人昔前の日本が、欧州の国々に言われてたことと同じでその繰り返しを
今度は日本がアジアの各国にしているに過ぎないのである。

それだけ、
新興国が似合うものを身に着けるように
なってきたという事実をみとめ
自分らの立ち位置を正しく理解しなくてはならない。

でも、うちの愚弟もそうなんだが、
自らの財力もないくせに
「自分には、こういうものが似合うから、買わなくてはならない」
と言って、無駄に借金や必要性もない見栄のために行うこと自体
市場社会に生きることが似合わないという根本自覚がないことが不思議でならない。

2011-11-21

会得

教えてもらっていない、、、
最近の若者が多く口にする言葉だが、
実際問題、教えてもらうことは
身につかないか
ただの手の動きでしかない。

それは教えるというより、プログラミングされているだけであろう。
それが身につかないのは、性能が悪い素体である証拠であろう。

日本語でいう、会得という言葉は意味深だ。
技を会得するということは、
教えから、自らのやり方を確立したときに使えるものであって、
教えてもらうというより、技を盗んで自分の肢体、考え、癖に合わせて
改良することが必要である。

結果的に自己流になるといわれて
非効率なこととみなされるかもしれないが
効率化の最終型は言わずもがな、、、機械化、非人件費化であり、
人としての扱いから離れる。

人として扱われるためには
自らの有り方、やり方で
求められる結果を導けることであり、
それが、物事の会得という概念であろう。

「教えてもらっていない」=「プログラムを設定されていません」

というレベルであり、、、、
一度入力して故障するまで間違えない機械と
頻度よくポカミス、口答えする人間と
どっちが優秀かという基軸に多くの人間の評価はさらされ始めている次代だからこそ
自分なりのやり方を会得することが求められる。

2011-11-18

若気

若気の至り、、、

はっきり言えば、若さ=馬鹿さ といいたい。

若さを前面に出すという表現は、
「馬鹿ですけど、許してください」
という現れである。

若さを武器にする時代は高度成長期のチャレンジグな時代なら許されるが
原価の数値化、
効率化重視、
のこの時代に、若気の至りという表現は
その若者の馬鹿さだけでなく、
その若者を起用した人間の管理能力を問う結果しか導かない。

僕から言えば、若さ=馬鹿さは許されない。
無能である自分を自覚して、自分でできないことを悟って初めて
社会人として認める次第だ。

そうではない若さをアピールする愚者はチャンスより辛酸を与えることが
社会人、責任者の務めとも思っている。

2011-11-17

根性

物事をあくまでやりとおす、たくましい精神。気力。
というが、根性という表現がでるときは能力が低いといえる。

根性という言葉を現す前に、
計画
効率
分担
という表現が用いられるべきである。

根性を出さずに、結果を出すことが現代社会の評価であるべきであり、
そのための管理教育、情報管理があるわけである。

悪いが、スポーツを含めて、根性を口にするものは愚者であり、
根性の発想で仕事を進めているのは原始的、管理能力のなさの象徴である。

根性を胸を張って言う人間を
評価どころか、処罰するくらいの社会管理にならない
作業品質は向上しないと僕は確信している。

2011-11-16

公正

公平で偏っていないこと
というが、公正なことって現実問題ありえないし、
ありえてはいけないといえる。

公正取引委員会という組織が
独占禁止法を掲げて活動してきたことは既に過去のものといえる。
日本国内での独占による市場支配を
公正の名のもとに取り締まってきたが、
国際的に考えれば、日本国内では1社でも太刀打ちできない市場になり、
国内独占という公正基準は全く意味がない。

韓国やフランスは国をあげて、一社に市場独占をさせて
国際社会を戦おうとしているのだから、日本の公正は全く持って意味をなさない。

また、市場取引も公正ではない、
お得意様という日本語あるように
特定懇意の人に向けての特別仕様の扱いは当然である。
英語でいえば、Customizing という言葉があるように
一般顧客と分けている。

公の正しさというものは、
人間それぞれの正義が認められる現代社会では
存在しなくなっている。

公正を維持する努力を高らかにいうより、
自分の関わる人々を特別視することをみんながするようになれば
公正ではなくとも、精神的安寧が導けるといえる。
逆に正しさを掲げすぎると、相手への嫌悪を導き
社会的不和を導きかねない。
正しさも求めること、その行為こそ相手から悪意と捉えられるものかもしれない。

2011-11-15

貧富

あえて言いたい。

「金持ち優遇施策こそ、国家発展の礎」

であると。

貧富の差がある国ほど、経済成長が高い。
旧来の言葉の発展途上国しかり、
先進国のアメリカも、貧富の差があるからこそ
未だに発展しているといえる。
逆に貧富の差をなくして、高福祉社会にする
成長は鈍化、、、衰退するといえる。

今の日本も成長が止まっているし、
多くの若者に向上心がないのも
この貧富の差といいたい。

これは簡単なこと。
現代社会において、
お金を稼ぐことほど、身分、生まれ、育ち、より平等であり、
その稼いだお金は通貨として個人裁量で使えるのである。

稼いだものがそのお金を支払って特権的に得られる。
真の意味での能力主義といえる。

だから、多くの人がそうなりたいと思い、
稼げるように行動する。
その結果が、経済発展といえる。

お金持ちを目指そうという思いがあるからこそ、
前向きになるといえる。
古来でいえば、豊臣秀吉がその典型例である。

今のように、
何もせずとも、手当、保障を受けられる社会が幸せというのは
成長を捨てた概念でしかない。

お金がないから苦しいだから、
稼ごうという気持ちにいやおうなくさせる施策や仕打ちが
現代社会にはあまりに足りなさすぎると痛感している。

2011-11-14

身形

身形、みだしなみを注意とかいう。
しかし、本当にどいうものが正しいのだろうか?

現在社会において、
それは見た目の清潔感ではなく、
発言の強さそれだけではないだろうか?

例えば、無精髭、
一昔前であれば、
不潔の象徴であり、父の世代ではビジネスにおいては決して許されなかった。
しかし、イタリア系のファッションの台頭により
無精髭をおしゃれと言い切れることになる。

逆に保守的な正装をしている人に
ファッションセンスがないと言い切る人もいる。

価値観が変わったという人もいるが、そうではない。

例えば、高級な時計をしているがいれば、
社会的、組織的に強い人であれば
「おしゃれ」といわれるが
そうではない人がすると
「似合わない」といわれるだけだ。

身形、みだしなみ、は現代社会においては
清潔さ、かんじのよさではない。
「俺はコメントするな」という強さ、気高さを押し付けられるかどうかである。

根本的、歴史的には
任侠、マフィアの傾いた身形に憧れたことがファッションの根底であるから
現代社会は原点回帰になったというべきか。

2011-11-11

都心

都心に居をかけまえて、すごく思うのは
サービスの開始が一番先行していることだ、
例えば、通信網の充実などがあげられる。

新しいサービスを発表します。
まず東京23区から開始します。
その結果をもって、拡大します。

ということが多いなか、
自分の住んでいるところにいつサービスが行き届くのか?
と思うどころか、
実質問題、勤め人のは一日の半分以上はビジネスエリアで過ごしている。
それゆえ、ビジネスエリアのサービスを受けていても
居住区にそのサービスが始まっていないと
使いたいサービスを選んでいいのか、悩んでしまうのが現代日本人といえる。

僕の場合、仕事も私生活の区別をすること自体意味がない生活をしているからこそ
判断に拠点の差異を入れたくないと思っていたくらいだ。

都心に住まう。
それは自分のビジネス、ライフスタイルの統一という観点からも
有意義なことと言い切れる。

2011-11-10

政府

人間はなんだかんだいっても、攻撃性をもっている。
それを誰かに向けなくては気がすまないといえる。
それが直接的な対象者ではなくても、

昨今の天変地異
経済危機
に対して、僕の見解では、わかっているなら対応できた。
それはみんな同じことだろう、
それでもおきたのだから、と感じているが
多くの人々は、政府批判しかしない。

みんなの代表である政府が対応してくれない、対応が遅い。
と、政府批判をするけど、
多くの国家で政府の代表を選んだのは国民、
つまり自分たちの代理である。

他人ごとのように批判するけど、
代表である政府、この国民の対応の縮図であり、
自分らができること以上のことはまずできないし、
対応もその国のレベルを移すように見えてならない。

熟考するという決断の遅い国
やっていると嘯く国
ニュースで報道する前に手を打つ国

政府の対応は国民性って感じてならない。
期待しないで、自分で行える国民性が
結果として、政府も期待以上の対応してくれるものであり、
逆に
やってくれるの待ったり、批判をしている国民性なら
国民の自発性を待つ政府が生まれるのは必定といえる。

結局、政府なにも、、というけど、自己批判の範疇でしかないのである。

2011-11-09

自覚

sectionalism による分業の末路は無自覚だといえる。
もっと言えば、庶民レベルが専門、職人性を求めてしまうと
結果的に自分自身を自覚できなくなる。

現代人は他人に対して、少しでもできる人への依存心が高く
「そこまでできるなら、あれもできて当然だ!」
と平気で言う。
しかし、いざ自分になると
「自分はこれであり、それは全く違う」
といい切り分けてしまう。

旧来のマニュファクチャー、職人工芸の時代だと
専門性、分業ができていないために
結果的にすべての工程や依頼窓口がひとつで
自分がやるしかないという自覚があった。

分業による効率化、
専門性による自己の付加価値の追求、
はっきりいうと、この工程に入っている存在は
プロフェッショナルとしては失格といえる、、いやプロではなくマシーンである。

この工程において、決められた命令をこなすのであれば
機械のほうが安く、正確だ。

言われたことを自分の範囲内でしか処理できない存在が多い現代社会。
どっかの漫画、アニメではないが、
人間である必要がなく、機械に置き換えてしまっても
なんら問題なく、、、いやかえっていいかもと強く感じる。
自分の存在意義を自分自身で自覚できる存在になる努力が
今の社会ではとても重要。
この先にくる自然淘汰の波に立ち向かうためには、強く感じてほしい。

2011-11-08

確約

たぶん、21世紀は確約破綻の時代といえる。
いい意味で言えば、社会の大転換期
悪い意味で言えば、将来が極めて不安
といえる。

確約があるからこそ、信頼と目標が成り立つ。
確約を信頼して、次に進める
確約を目標に、進むべき道を見出せる。
それが、契約社会、資本主義の根幹といえる。
そして、これが地道、努力を支える根拠であり、
組織の方向性を担保までしていた。

しかし、確約は破綻してきた。
地球規模で始まっている天変地異
複雑化した経済問題
情報発信の容易化、情報精度の低下、伝言ゲーム現象
が、いろいろな条件で自分に降りかかり
これまで、確約していたことがさぞ当たり前のように消えていく。

その確約にすがろうとすればするほど、
他人から痛烈な批判を受ける事態になっている。

「努力は報われる」
と信念を持っていたとしても
その努力行為が努力どころか、
悪行とみなされてしまう時代である。

確約が確約ではない時代なので
社会、制度、人間関係もすべて時限的、刹那的に捉えるほうが
今を生きる精神として、
裏切り感、
絶望感
を最小限にできるのではないか思ってならない。

2011-11-07

相違

エコノミスト、、(この肩書きも胡散臭いが、)視聴者からの質問
「TPPとブロック経済の違いは?」
と聞かれたときに
「全然違う!理由は包括的、、」
と答えていた。

たぶん、これの発言で、視聴者の多くは、同じじゃねーか!って思ってしまうだろう。

相違について問われるということは
似ている認識を質問者側は感じていること、
似ている先入観や理解をし始めているのである。
そこに、回答者が自分の知識を前面に出して
完全否定と自らの知識の披露をしたところで、相手の理解を開眼させるには至らないだろう。

相違についての立証は
・似ていると思われたこと
・異なるポイントの具体例
をすること、理解のカテゴリの分別を促進することができる。

この視点はどうやら、
有識者には欠如して、自らを無知と自覚している人のほうが切実に説明できることが
僕の経験則で思ってならない。

専門性に偏ったために、自分視点が物事を俯瞰的に見えることを遮って
相違、、いや逆に他との重要な酷似要素を見落としていないかなって思うことがある。

2011-11-04

援助

たぶん、人間が身につけて社会で一番勘違いしている概念。
相互扶助の概念の社会主義が破綻している現代において
援助という概念は成り立たない。
援助ではなく、未来利益を担保支払いを投機行為でないと成り立たない。
仮に、心からの無償支援と思っていても
こういう場合、援助を受けている側は
「もっと援助しろ」
「我々を助けさせてやる」
という弱者の論理で、援助側の気持ちを踏みにじることが大概発生している。

ビスマルク宰相にまつわる逸話がある。

沼に嵌って溺れている友人から助けを求められたところ、銃を向け
「その沼は底なし沼なので助けようとすれば二人とも溺れ死んでしまう。
 せめてもの友情で、君が苦しまないよう一発でしとめてやる」
と言い放った。
驚いた友人は、懸命に泳ぎ自力で沼から這い上がってきたといわれる。

僕はこれこそ、これからの時代の最高の援助だと思う。
下手な支援ではなく、自ら助くるものを助く、その行為を促すことが重要といえる。

2011-11-02

権限

若かりしころ、零細企業の社員だったために
元請、下請け、孫請けの社員に馬鹿にされたことを鮮烈に覚えている。
それは、自分の才能ではなく、
会社のブランド力のせいと思っていた。
その屈辱をバネに
ヘッドハンティングなどで、外資、一部上場企業を経てきて今に至る。

若かりしころの思いは今もあるし、
そして、当時の自分の才能に欠如していたものも意味では見えてきている。

確かにブランド力や現場での肩書きは重要だ、
これらのものがあれば、馬鹿でも自分の好きにできる。
でもこれらの根本にあるのは、、権限の恐怖だ。
権能と違い、
権限は限りの力、抑止を前提にしている力だ。
ブランド力のある企業に逆らうと、この先仕事がもらえる権利を失う
肩書きのある人に逆らうと、自分の発言権などが否定されてしまう
この関係で成り立っている。

だから、権限をどんなカタチでもいいから握ればいいと悟っている。
権限ってものは本気でやれば、いろいろな形で手に入れられる。

みなさんも気づいているように、
権限を持っているのは、地位のある人とは限らない。
お金を握っているとも限らない。
権限はいろいろな要素のなかに転がっている。
それを使い、
相手を追い詰めることができるものが現代の勝者と言い切ってもかまわないだろう。

発想を変えれば、権限取得は誰にでもチャンスがあるということでもあるのだから。

2011-11-01

普請

なかなか使わなくなった言葉といえるが、
現代国際社会において、普請が今とても求められることといえる。
普請とは、社会インフラ公共施設整備活動である。

日本の建物行政はある種、税金の無駄遣いのような評価を受けているが
実際問題、道路の掘り返しや建物建設は
規模の大きな仕事の経験、実績を多くの民間企業にさせて
日本の建設技術を高めさせてきたと思ってならない。
震災後の早々の道路復旧活動は日本の技術の賜物と思わざる終えない。
逆に、建物行政が衰退したからこそ、
日本の失われた10年がきたのかもしれない。

僕の見解としては、福祉よりも普請活動を優先すべきだと思う。
社会として明確かつイメージしやすいものづくりが経済活動を活発化させて
それに携わるモチベーションや労働意欲が高齢化への起爆剤になるといえるし、
ただ生きている福祉よりも、何かを作り残すために生きる活動のほうが
よっぽど道徳的だといえる。

「働かざるもの食うべからず」
って子供を教育してきた老人たちが福祉、年金と騒ぐのは
本当に自己主義に感じて醜く感じる。