2011-03-22

良識

健全な判断を行うことであるが、
それはもう出来ないと言い切れる。

判断をする素材は脳へのインプットである。
良識の識とは知識の識であるように情報をさすものであり、
日本のような現代教育が整備されている国家では
教諭から倣うものことが多い。

とりわけ、この良識、道徳にあたるものは
教材が少なく、担当する教諭、その教師陣環境の思いによって決まる。

ひとつお話をしよう。

僕は自動車を持っていたが
引越しの兼ね合い、
維持費
当時創業ままならない資金不足
により手放すことを考えた。
それなりの車だったので、
下取り見積もりも悪くはなかった。

そのときに、親戚の叔父が
「自分に乗せてほしい、大切にするし、婆さんの面倒を看るから」
と言いだした。
お金 VS 身内の思い
の天秤において、良識での判断と思い
その叔父に渡した。

手に入るはずの下取り金がなく、借金して経営したものだった。

で、今その車はどうなったか?
僕に一切連絡、報告せず、
そんな状況ゆえ、つまりは口にした婆さんの面倒をみていない事実のなか
叔父は車に乗らずに金に変えたのである。
「もらったんだからいいじゃん!
 自分の孫を乗せられないんだもの!孫ののためなんだから仕方ないだろう!」
って言い出した。

彼にとっては、
僕の直系親族である祖母を面倒看ることを条件に車を譲ってもらっ認識ではなく
甥っ子が車をプレゼントしてくれた
という認識でしかない。

親子くらい離れた若い甥御から車をもらうという感覚が
僕の良識的では極めて稀かつそれなりの対応があるべきである。、
そのうえ、それを車として使用せずに譲渡者に確認なく、
現金化してしまうのも良識的な判断とは思えない。
あくまでも、僕の認識では
「僕の車が欲しい、かわりに祖母の面倒をみる」
であって、
「僕が数百万円を叔父にプレゼント」ではないはずである。

僕は良識ゆえに
結果として
叔父に数百万円以上の金額をカツアゲされて、
その足りない費用、生活費を借金したのである。
という事実しかないのである。

そして、その叔父は、

県立高校の校長

で偉そうに日本の良識について朝礼をしているそうだ。

この国において良識は成り立たないと言い切れよう。

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