よく政府、企業のような大型組織に対して、
「徹底したコスト削減を図ります」
っていうが、それは本当に無駄なのだろうか?
例えば、箱物行政は無駄というが、
それは僕の中では大きな勘違いむしろ矛先が間違っていないと感じてならない。
なぜなら、箱物と呼ばれる建造物を作るには
多くの建設に関わる企業に支払いが行われる。
その企業がまた設備投資や消費を行うと市場が活性化される。
それにより、間接税収も増えるのである。
政府の言う利益の再分配が成り立っているのである。
逆にコスト削減を行うと、市場が逆に冷え込むと思う。
問題は箱物行政ではなく、
それに関わる過程での市場活性化要因の欠落ではないかと感じる。
・使いどころを間違えて、起こしてしまった財政赤字
・未来への不安による貯蓄
・市場訴求力のない商品の多さ
・使わないことを美徳とする世論
まがいなりにも組織の長として思うのは
社員に対して
ケインズやフリードマンの経済学を諭せずとも
「金は天下の回りもの、
自分の欲しいものを買いなさい、
その買うために貯金しなさい
貯金できるように仕事の質を高めなさい」
これに尽きる。
金を使うことは、無駄ではない。
むしろ、市場活性化に繋がると強く言いたい。
ただし、無用な返済が困難な借金をしてまでの購買は
自分の力量を見定めていない浪費だけどね。
その浪費が自己破産に繋がれば、かえって市場活性化を阻害するのでね。
2010-08-09
見切
なんとなく、相手を言い当ててしまう。
特に
本人がかたくなに否定しているが事実なことほど言い当ててしまう。
動物は元来、身を隠すことを本能としている。
外敵から捕食されないように
獲物に気付かれないように
そして人間は、本心を見透かされないようにと。
その上で隠しきれず身を晒した場合は、、まな板の鯉状態になる。
人間なんてものは、えてして
自らが思っている自分と社会から見られている自分に大きな差異がある。
その事実を知らずも、知っていてもなお
自分の思っている自分像を肯定しようとする。
これはアイデンティティーの尊厳、、人間ゆえの自己防衛ともいえる。
自分が自分自身を知らないということはありえてはいけないから。
多くの場合はかたくなに社会からの自分を否定し続けるが
事実立証だけでなく、その事実に基づく行動予測が当たってしまうと
隠し切れずに、開き直りのまな板の鯉状態になる。
僕からすれば、
相手のアイデンティティーの尊厳なんてどうでもいい。
相手のアイデンティティーとは、社会への防御壁でしかなく、
相手を見切り、
相手の本来の気質、特性、そして、その自覚を目覚めさせたほうが、
アイデンティティーが防御壁ではなく、閉じこもっていた殻であり、
気付かなかった可能性を手に入れると思う。
見切られることへの不満をもたれることに対して
見切ってもらったことへの感謝もあるではないかって思うのだが
多くの人間はただ、不満に感じ、可能性を広げない。
特に
本人がかたくなに否定しているが事実なことほど言い当ててしまう。
動物は元来、身を隠すことを本能としている。
外敵から捕食されないように
獲物に気付かれないように
そして人間は、本心を見透かされないようにと。
その上で隠しきれず身を晒した場合は、、まな板の鯉状態になる。
人間なんてものは、えてして
自らが思っている自分と社会から見られている自分に大きな差異がある。
その事実を知らずも、知っていてもなお
自分の思っている自分像を肯定しようとする。
これはアイデンティティーの尊厳、、人間ゆえの自己防衛ともいえる。
自分が自分自身を知らないということはありえてはいけないから。
多くの場合はかたくなに社会からの自分を否定し続けるが
事実立証だけでなく、その事実に基づく行動予測が当たってしまうと
隠し切れずに、開き直りのまな板の鯉状態になる。
僕からすれば、
相手のアイデンティティーの尊厳なんてどうでもいい。
相手のアイデンティティーとは、社会への防御壁でしかなく、
相手を見切り、
相手の本来の気質、特性、そして、その自覚を目覚めさせたほうが、
アイデンティティーが防御壁ではなく、閉じこもっていた殻であり、
気付かなかった可能性を手に入れると思う。
見切られることへの不満をもたれることに対して
見切ってもらったことへの感謝もあるではないかって思うのだが
多くの人間はただ、不満に感じ、可能性を広げない。
2010-08-06
給水
給水と聞くと
人間の常識とか健康の意識が曖昧と感じる事象が脳裏に浮かぶ。
子供のころ、
運動時や暑い日に対して、
「水分を取りすぎると余計疲れるから、飲むのは止めなさい」
といわれてきた。
しかし、現代では
「水分補給をしっかりしないとならないので、必ず飲みなさい」
といわれる。
科学の進化で概念が全く違うことがわかることはいいことかもしれないが、
僕が気になるのは、下記の2点だ。
ひとつは
給水を止めなさい、飲みなさいという人が
同人格でかつ違和感なく発していることである。
多くの人間がそうなのだが、
メディア、オーソリティーがそういったから
平気で意見を正反対に変えることに違和感がないことに
健康へのポリシーはないのか?
継続した行動こそが健康だと思うが、言われるたびに変えられる体質は
健康といえるのだろうか?
もうひとつは
この科学の進歩だ。
今回は給水行為が正反対になったが、
一昔前は、ココアにおいて
・高カロリー過ぎるから、飲むないように
・ポリフェノールがあるので、飲むべきだ
・成分同士の相互作用で、あまり健康的ではない
と1年のうちに何度もいい悪いが繰り返されてきた。
このココアのように給水行為がまた、反対にならないかと憶測が成り立ってしまう。
思うに、科学といえども人間の研究の賜物。
自分の研究が無駄ではないとしないと、研究費がもらえない社会。
だから、毎度毎度、いろいろなものを発見、実験して
いい悪いを言い続けるのではないかと感じてしまう。
いくら気をつけていても、
いや気をつけていない
他人からの情報ではなく、自分自身の体調管理を感覚で行っている
人のほうがかなり安全な時代なのかもしれない。
人間の常識とか健康の意識が曖昧と感じる事象が脳裏に浮かぶ。
子供のころ、
運動時や暑い日に対して、
「水分を取りすぎると余計疲れるから、飲むのは止めなさい」
といわれてきた。
しかし、現代では
「水分補給をしっかりしないとならないので、必ず飲みなさい」
といわれる。
科学の進化で概念が全く違うことがわかることはいいことかもしれないが、
僕が気になるのは、下記の2点だ。
ひとつは
給水を止めなさい、飲みなさいという人が
同人格でかつ違和感なく発していることである。
多くの人間がそうなのだが、
メディア、オーソリティーがそういったから
平気で意見を正反対に変えることに違和感がないことに
健康へのポリシーはないのか?
継続した行動こそが健康だと思うが、言われるたびに変えられる体質は
健康といえるのだろうか?
もうひとつは
この科学の進歩だ。
今回は給水行為が正反対になったが、
一昔前は、ココアにおいて
・高カロリー過ぎるから、飲むないように
・ポリフェノールがあるので、飲むべきだ
・成分同士の相互作用で、あまり健康的ではない
と1年のうちに何度もいい悪いが繰り返されてきた。
このココアのように給水行為がまた、反対にならないかと憶測が成り立ってしまう。
思うに、科学といえども人間の研究の賜物。
自分の研究が無駄ではないとしないと、研究費がもらえない社会。
だから、毎度毎度、いろいろなものを発見、実験して
いい悪いを言い続けるのではないかと感じてしまう。
いくら気をつけていても、
いや気をつけていない
他人からの情報ではなく、自分自身の体調管理を感覚で行っている
人のほうがかなり安全な時代なのかもしれない。
2010-08-05
美学
性癖といえる。
自分からすれば、生き方や考え方のポリシーとして貫く観点かもしれないが、
他人からすれば、どうでもいいことにこだわっているに映る。
美学=価値観=個性 と考えることもできるが
昨今における社会問題から、個性を出すということは意味がないし、
かえって社会利益に繋がらないと感じる。
僕が思うに個人の美学やセンスを尊重する組織、国ほど、
凋落、貧富の差が著しいのではないかと。
社会としての全体最適により社会的利益で裾野が豊かになり、
底上げに繋がるのだが、その分ある程度の個人の尊重が犠牲になる。
その犠牲を、
「みんなのため」
と思ってきた高度成長期の日本は
それで大きく成長できたが、現在の社会では
「なんで?自分の美学に反する」
というとすそ上げにはならないし、
その美学により個人の刹那的快楽と社会的機会の喪失になる。
美学という個人の思い込みが
全体としての向上の阻害になっている事実が
気付かぬうちに身の回りに進行しているのだが、
実に見える刹那的快楽により見えなくなっている。
よく言われる
失われた10年
それは個々人の美学に踊った機会損失だったといえよう。
その期間、多くの日本人は個人、個性を口にしていたのだから。
自分からすれば、生き方や考え方のポリシーとして貫く観点かもしれないが、
他人からすれば、どうでもいいことにこだわっているに映る。
美学=価値観=個性 と考えることもできるが
昨今における社会問題から、個性を出すということは意味がないし、
かえって社会利益に繋がらないと感じる。
僕が思うに個人の美学やセンスを尊重する組織、国ほど、
凋落、貧富の差が著しいのではないかと。
社会としての全体最適により社会的利益で裾野が豊かになり、
底上げに繋がるのだが、その分ある程度の個人の尊重が犠牲になる。
その犠牲を、
「みんなのため」
と思ってきた高度成長期の日本は
それで大きく成長できたが、現在の社会では
「なんで?自分の美学に反する」
というとすそ上げにはならないし、
その美学により個人の刹那的快楽と社会的機会の喪失になる。
美学という個人の思い込みが
全体としての向上の阻害になっている事実が
気付かぬうちに身の回りに進行しているのだが、
実に見える刹那的快楽により見えなくなっている。
よく言われる
失われた10年
それは個々人の美学に踊った機会損失だったといえよう。
その期間、多くの日本人は個人、個性を口にしていたのだから。
2010-08-04
議論
日本人は議論が苦手である。
日本人は議論とクレームを同視する傾向が読み取れる。
議論の本質について多くの説明が、
「互いの意見をぶつけて、よりよい結果を導くもの」
等の表現をしている。
思うに嘘である。
これは日本人の発想であり、
欧米、大陸における議論はそうではない。
日本以外の議論の本質は
「自分の意見の正当性を押し通し、相手の反論に対して本質を曲げずに相手を歩み寄らせるか」
といえる。
・互い
・ぶつける
・よりよい
という発想は根本からしてなく、
自分が正しいともう結果にどれだけ誘導させるかである。
日本におけるわがまま、自己主張とされる禁忌が
かえって外国では生存権に繋がる行為なのである。
その認識の差異があるので、
日本における議論はあまりは活発にならない。
まして、日本においては
「任せた、どっちでもいい」
という風潮がある以上、自己主張する気概がないともいえる。
議論なく効率的に物事が進むことを日本の美徳とするか
それゆえに、日本の進め方がよくないという国際批判とみなし
改善しようとするかは、各位の属する組織体での各位の行動になるだろう。
僕の見解からすれば、
文頭に書いたように、
自己主張が根拠なくただのクレームになるのであれば、
議論という行為に手を出すことは控えたほうがいい。
発言の責任性、論理性を身に着けてこそ、
国際的な議論の席に立てると思っている。
日本人は議論とクレームを同視する傾向が読み取れる。
議論の本質について多くの説明が、
「互いの意見をぶつけて、よりよい結果を導くもの」
等の表現をしている。
思うに嘘である。
これは日本人の発想であり、
欧米、大陸における議論はそうではない。
日本以外の議論の本質は
「自分の意見の正当性を押し通し、相手の反論に対して本質を曲げずに相手を歩み寄らせるか」
といえる。
・互い
・ぶつける
・よりよい
という発想は根本からしてなく、
自分が正しいともう結果にどれだけ誘導させるかである。
日本におけるわがまま、自己主張とされる禁忌が
かえって外国では生存権に繋がる行為なのである。
その認識の差異があるので、
日本における議論はあまりは活発にならない。
まして、日本においては
「任せた、どっちでもいい」
という風潮がある以上、自己主張する気概がないともいえる。
議論なく効率的に物事が進むことを日本の美徳とするか
それゆえに、日本の進め方がよくないという国際批判とみなし
改善しようとするかは、各位の属する組織体での各位の行動になるだろう。
僕の見解からすれば、
文頭に書いたように、
自己主張が根拠なくただのクレームになるのであれば、
議論という行為に手を出すことは控えたほうがいい。
発言の責任性、論理性を身に着けてこそ、
国際的な議論の席に立てると思っている。
2010-08-03
求道
書家の大家の文字が読めるか?
印象派の絵に共感できるか?
ロックの大御所の歌詞がちゃんと聞こえるか?
道を求めると庶民に理解できなくなるといえる。
もっと言ってしまえば、それが
文字
絵画
音楽
で評価すべきものなのか?むしろ下手ではないか!
って思ってしまうものもある。
はっきり言えば、
下手と思っていいのではないか。
求道は、はだかの王様である。
自分たちの世界でそれを言いと思い込んだ結果の内容であり
それが一般受け、市場価値に繋がるかは別問題である。
好きな人が好きであればいいのであって、
それを無理にわかろうとせず、
それを下手と思う感性も重要である。
それに上記の内容もそもそもそこから来ている。
きれいに書くという感性にとらわれて、自分の文字を書いているのか?
サロンで評価される絵画だけが絵なのか?
クラシックだけが評価される音楽ではないだろう!
既成概念に対しての挑戦がその求道を導いている。
決して評価されることはない世界だったのはずなのなのだが、、
それを賛同する評論家、それで一儲けする市場経済が
求道を大衆に、一般化を求めてくる。
多くの大衆に指示されたほうが、
発言権の確立、市場の拡大に繋がるから、、、
本来の求道者と評価者の価値観はづれている。
大衆に下手と思われても求道者はあえていいと思われていいと思っているだが、
それがうまいという評価者にゆがめられてきているといえよう。
市場社会の評価価値なんてものは
思い込ませるだけだと確信してならない。
印象派の絵に共感できるか?
ロックの大御所の歌詞がちゃんと聞こえるか?
道を求めると庶民に理解できなくなるといえる。
もっと言ってしまえば、それが
文字
絵画
音楽
で評価すべきものなのか?むしろ下手ではないか!
って思ってしまうものもある。
はっきり言えば、
下手と思っていいのではないか。
求道は、はだかの王様である。
自分たちの世界でそれを言いと思い込んだ結果の内容であり
それが一般受け、市場価値に繋がるかは別問題である。
好きな人が好きであればいいのであって、
それを無理にわかろうとせず、
それを下手と思う感性も重要である。
それに上記の内容もそもそもそこから来ている。
きれいに書くという感性にとらわれて、自分の文字を書いているのか?
サロンで評価される絵画だけが絵なのか?
クラシックだけが評価される音楽ではないだろう!
既成概念に対しての挑戦がその求道を導いている。
決して評価されることはない世界だったのはずなのなのだが、、
それを賛同する評論家、それで一儲けする市場経済が
求道を大衆に、一般化を求めてくる。
多くの大衆に指示されたほうが、
発言権の確立、市場の拡大に繋がるから、、、
本来の求道者と評価者の価値観はづれている。
大衆に下手と思われても求道者はあえていいと思われていいと思っているだが、
それがうまいという評価者にゆがめられてきているといえよう。
市場社会の評価価値なんてものは
思い込ませるだけだと確信してならない。
2010-08-02
身分
物語にしやすい構成だと
・貴族に虐げられる平民
・金持ちにやられてしまう貧乏人
の視点で書かれ、共感を求めることが多い。
しかし、現実社会では逆ではないか!
・いい家のボンボンのくせに
・金持ちっていうだけでむかつく
と平民に蔑まれることのほうが多い。
本人は何もしていないのに
いい思いをしてきた
思われてしまう。
戦後の成金の子である父
そして、その事業は引き継いだ父の子である僕自身、
当人として生活が苦しくても
ボンボン
と言われて嫌な思いをしてきた。
平民は平民の負け犬根性で生きてきて、
正当性の共感を得ているかもしれないが
その負け犬根性をぶつけられる身分のたちのことを考えているのだろうか?
そして、さらに思う。
もし物語で平民、貧乏人が困難に打ち勝って大成した場合、
間違いなく、家族にその恩恵を継承させるだろう。
その家族は当人の努力と関係なく地位を引き継ぐのだから、、、
今度は物語の敵側になる条件を満たしていることになり、
結果として世代を渡り、身分が流転するように感じてならない。
・貴族に虐げられる平民
・金持ちにやられてしまう貧乏人
の視点で書かれ、共感を求めることが多い。
しかし、現実社会では逆ではないか!
・いい家のボンボンのくせに
・金持ちっていうだけでむかつく
と平民に蔑まれることのほうが多い。
本人は何もしていないのに
いい思いをしてきた
思われてしまう。
戦後の成金の子である父
そして、その事業は引き継いだ父の子である僕自身、
当人として生活が苦しくても
ボンボン
と言われて嫌な思いをしてきた。
平民は平民の負け犬根性で生きてきて、
正当性の共感を得ているかもしれないが
その負け犬根性をぶつけられる身分のたちのことを考えているのだろうか?
そして、さらに思う。
もし物語で平民、貧乏人が困難に打ち勝って大成した場合、
間違いなく、家族にその恩恵を継承させるだろう。
その家族は当人の努力と関係なく地位を引き継ぐのだから、、、
今度は物語の敵側になる条件を満たしていることになり、
結果として世代を渡り、身分が流転するように感じてならない。
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