2011-01-11

懸命

命を懸けるという言葉は
平和な現時点ではあまり使わないし、、、

一生懸命という言葉はもともと封建武家社会の
一所懸命から転換されてきた。

ご恩と奉公の封建で手に入れた土地を
命を懸けて守るという発想。
優先順位は、土地 > 自分の生命 であり、
仮に自分が亡くなっても、
その土地があるから、子孫がそれを守り繁栄させてくれる
その礎に自分はなれるという思想である。

その土地ゆえの子孫感がのちの名籍、血統の意義を導いている。
「命を捨てて、名を惜しめ!」
なんて言葉につながる。

歴史的にこのようは背景、言葉があっても
現代には適用できないのが事実である。
生存権、個人主義の台頭が対峙することになるからである。

「命より大切なものはない」
これが現代、アメリカ的な発想である。
現代日本人は当たり前のように洗脳を受けているが本当にそうだろうか?

これは自由の国つまりはchaoticな無秩序な国ゆえに
自分の命は自分で守れという発想にすぎない。
それも19世紀の南北戦争以降のはやり物にすぎないともいえる。
古代文明からの4000年くらいの間は
ここの命の尊重なんてことより、地域、王座の繁栄こそが重要だったのだから。

僕の個人的な歴史観になるだが、
現在のような個人主義が台頭して個々人の尊厳を説いたことは
人間の歴史において、何度あったのだが、
それが長く続いてはいないではないかって考える。
そして、現代もまたその短い期間なのではないか。
じきにまた個人の尊厳より大切の概念が出てくると確信している。
なぜなら、
古今東西、人間の創作する物語において
自分の命を懸けて、何か守る趣旨の話が
多くの民衆の心を捉える傾向が強く感じるし
それを美談として扱われているところに
人間の性を感じるからだ。

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