2010-02-26

親身

親みたいな気持ちになって接するということだが、
この現代において、この言葉の意味は正しいだろうか?

親の定義が
生物的遺伝的系統で、
法的保護責任に過ぎない
個人主義の横行において、
親身に接するとはどういうことだろうだろうか?

僕が思う親身は
その個人と個人とが
互いに有価値を持ち、
それぞれの今後の人生の展開において必要という前提条件がなくてはならない。
その上で、互いに無理難題をわかった上で依頼と達成を志す関係。
といえる。
言葉にすると難しく現してしまったが、
実際にこの言葉の意味は
こんな言葉以上に成立させることは難しいことは
多くの人間はわかっていると思う。

2010-02-25

適度

勉強や仕事において、
もう少しで出来そうなレベルの枷が人間にはちょうどいいとされる。
緩やかなインフレ傾向とでも言おうか。

これより
少しでも低いレベルだと、ルーティンワークになり緊張感がなくなり、
少しでも高いレベルだと、達成できないと思い逃げ腰になる。
人によってはとんでもない高いレベルを自分に課して事に当たる人間もいるし、
ルーティンワークこそ自分の本領と思う人もいる。

個人で思うのと、組織の責任者として思うことは違う。
組織として、構成員を成長させて、組織としての実績拡大を考えれば
構成員に適度な不安を与え、解決能力をつけさせることが重要になるといえる。

現状維持の組織を内外から見て魅力がない組織と思われるからだ。
組織は常に進化、成長をしていることが求められる。

2010-02-24

構築

構築と製造は若干異なる。

僕がよく例に出す話だが、
いくら優秀なものづくりの得意な人たちが集まって
家を建てようと目論んでみて、
・玄関ドア
・階段
・トイレ
・システムキッチン
・壁
・柱
を独自に作ったからといって、
それが集まると家にはならない。

ちゃんとそれぞれの調和、統制
場合によっては、一方製造物の長所を削ってでも
構築には必須条件を貫かなくてはならないときもある。

構築とは全体最適である。
そのでこそ、構築された概念、構造である。

しかし、、、それゆえ、現代社会ではかなり難しい。
なぜなら、個人主義になってきているために、
自分の思い込みでのパーティションをきって
リスクも役割も自分から思い込んだもの勝ちになっているからであり、
この社会全体の調整、統制機能が皆無だからである。

社会としての構築のし直しを考えるべきだが、
全く持って、今の日本では難しい。
嘆かわしいが、自分の周りの人間の意識を少しづつでも
同調してもらうように心がけよう。

2010-02-23

資料

幼き思い出から考えれば、
社会科の授業で初めて見聞きしたもの、それが資料という概念だ。
はじめは教科書の付録って思っていたが、
今となれば、その資料があって初めて人間の意識を確定させる
重要なもので、現在の僕の仕事のメインとなる成果物である。

本質であること、
エッセンスだけで物事が判断できれば
とても効率的だと思う。
それだけ、社会が単純で人間が素直であればの前提条件が成り立てばだが。

現代社会、物事は単純ではないために
いろいろな角度、視点から情報を得て判断をすべきであり、
その判断材料や見解を得ること、与えることが資料の目的であり、
資料作りこそ、ITそのものかもしれない。
プログラム開発っていっても
経営判断するための情報一覧という資料をだす道具にすぎないのだから。

2010-02-22

海図

仕事はじめは航海と同じ。
何も指標がない中、どこに向かっていけばいいのか?
みんな悩んでいる。

大航海時代は何もない中でも旅立っていく冒険家がいた。
だから、発見や成果が出せた。
しかし、その大航海時代にもたぶん多くの航海者がそうだったと思うし、
多くの現代人はそれにあたる。
「こんなどこに向かうかわからないところで、進めるわけにはいかない」
リスク回避という甘い考えと覚悟のなさではいけない。

航海で言えば海図は先駆者の勇気で生まれたものであり、
それが当たり前と思うことがそもそも間違い。
そもそも海図だって、時代とともに地形変更されて一致しなくなるわけで
海図が間違っているから、自分は失敗したと発言する発想が
海に出る資格を感じないと思う。

仕事における海図はマニュアルかもしれない。
先駆者の恩恵であるマニュアルには忠実になるべきとともに
先駆者に恩返しするために、
このマニュアルを最新事情に改訂する心意気を
持たない存在では仕事している価値は薄い。

2010-02-19

遅延

仕事における遅延って本当に遅れているのだろうか?
スケジュールを基準に早い、遅いを確認して
遅延判断を行うことになる。
しかし、そのスケジュール自体の定義自身が
根本的に問題と感じることが多い。

作業計画たるスケジュール立案には
・当組織における標準的な生産性指標
・マイルストーン
・絶対ゴール理由
だけでなく、
・現時点で発生していない障害対応工数
・外部要因による変更
をのりしろで積んでおかないとならない。

その上での遅延かどうかの判断と
その遅延への対応立案になるべきと感じる。

ただ一昔前に作成したスケジュールをもとに
作業が遅れていますって口にするのはいかがなものか。

2010-02-18

種蒔

新しいことをするのは
今行っている最中に行動を起こさないとならない。

新しいビジネスを起こすときに種蒔というが、
その活動は現在、収益を上げている段階から行動しないとならない。
活動している者からすれば
収益を上げている活動と種蒔活動とで
2重タスクになり、負荷がかかるというかもしれない。

でも、それを2重タスクで負荷と感じているうちは
その者の役割は、作業員であり、
ビジネスマンではないだろう。

今ある事象は永遠に続くものではないし、
ビジネスは絶えず、効率化、満足度を求めて遷移していくことだから、
その遷移される方向に種蒔ができて、収益につなげる意識があるかどうか。

その意識が重要と僕は思う。

2010-02-17

依存

人間が人間である証拠。
人間は人と人との間で成り立っている。
つまり、互いとが依存し合っているといえる。

今までは
依存するのではなく、
依存される存在であろうと息巻いていた。

しかし、それを貫くにはあまりにもそして無理すぎるときだった。
依存するにはその自覚をもって
いつかは依存される存在になろうと思うべき存在に
依存さればいいが、依存することを当然とされていては
ひとたまりもなかった。
その関係を正そうとすれば、
なぜ依存できなんだって逆ギレを受けるような立場では
精魂が尽きてしまうところだった。

素直に自分の出来る範囲を考えて
依存するときは依存させてもらう。
その分、依存を受けている自覚とそれをいつかお返しすることを心に決めたうえで!

2010-02-16

大工

昔の大工さんが無理な注文をこなしたあとに、
「いい勉強をさせてもらったよ、てめえの腕をあげていただいたよ」
なんて皮肉ではなく粋なことを言ったそうだ。

わからないことを解るようにすることが仕事と思っている。
できることを繰り返すことは仕事とはいえない。
新しいことをするときは、
考えれば考えるほど、不安になったりする。
しかし、それが仕事の醍醐味かもしれない。

昔の大工さんみたいな
そんな気持ちになりたいなあ。

2010-02-15

説得

相手に納得してもらうために行う説明ゆえに説得であるといえる。
その説得について、
僕は相手に行き当たりばったり説明は失礼だと思い、
説明資料や事前演習は当たり前と思うのだが、
最近の人間は、
「話せばわかる」
っていう思い込みが多すぎと感じる。

情報化社会だからこそ、
こちらが情報を集めておかないと
相手はそれら高度情報からリスクや不安を導いてしまうのだから
相当、下準備が必要になるはずである。

相手は知っているからこそ、
その分、こちらの対応に不安を感じるかもしれないということを強く理解しておかないと。

どうも、思慮の浅い人間は
知っている存在は
自分たちのみ方と感じる。
知れば知るほど、人間は不安になるからこそ、
それ相当の説得が必要になるを意識しないと!

2010-02-12

演習

inputたる行動を受けてきたら、
社会人として自らoutputする演習行為に身を投じる姿勢でなくてはならない。
いつまでも教えてもらう姿勢でいることを大いに恥じる精神がなくてはならない。

また、教えてもらってその教え通りできないことが出てくる。
それに対して、嘆く自暴自棄になることが多々見受けられるが、
そうではない。
その教え通りできないということは
自分に合わない、自分には別のやり方を見つけ初める演習が求められてきていると
自覚するべきだと断言できる。

教えてくれる人のコピーになる必要はあるだろうか?
世界は技術革新をしている。
毎日技術は進化しているし、
教育水準も上がっている。

教えてくれる人も教えている自体で過去の技術の伝承をしているのである。
それ以上のやり方を自ら見出して、それを後進に示すこと
教えを受けてものには課せられているという自覚をもって、
自ら演習をすべきである。
無駄に教育を受けて続けるのではなく、
受けたinputを自らの演習で加工、付加価値をつけて
後進に示す自覚を持たせる経営にしたい。

たぶん、それはこの社会には相当難しいことと解っているからこそ、
自分の課題にするつもりだ。

2010-02-10

見直

創業して、1年過ぎた。
・やりたかったこと
・最低限出来ると思っていたこと
・思いがけないこと
いろいろ起こり、創業時に思っていたことと
かけ離れた実態になっている。

それを嘆くべきか?
いや、結果としてこのような結論になったからこそ、
今の時点と創業期のビジネスプランとを
比較してみて、初めてわかることがあるともいえる。

少し時間をかけて
反省とこの先の新たなビジネスプランを創設してみようと思う。

2010-02-09

言訳

行動をせずに自らの先入観で判断するな!
これが弊社の鉄則である。
社員レベルのストラデジーで判断できるほど、社会は甘くない。
経験も知識レベルも対したことのないし、
何より年齢が若いのだから、チャレンジして失敗する勇気、
そして怒られる根性をもっと磨かなくてはならないはずだ。

僕が優秀な人間かどうか思う瞬間がある。
ある難題に対して、僕としては行ってもらいたいのだが、
その回答で力量が解る。

「たぶん、駄目だと思います。」

「やってみますので、この条件をお願いします。」

この2つの回答でわかる。
上記はクズ
下記は見識者

初めからあきらめているし、そもそもやる気がないものに成果はない。
仮にやらしてみて、
失敗すれば、「予想どおりでした。」
成功すれば、「たまたまです。」
の何も得るものがない答えだ。

対して、条件を示して行うものは
失敗すれば、「こんな問題点がわかりました」
成功すれば、「うれしいです、他にも応用できるかもしれません」
というだろう。

言訳を考えることは
論理的に説明することとは違う。
その気づきは、自らの多くの経験、失敗から学ばなくてはならないと思うが、
愚者は、経験や失敗を行おうとしない。
だから愚者なのであると言い切れよう。

2010-02-08

見舞

災にあった方への無事かどうか確認行為。
その意味なのに、見て舞うという漢字をあてるのはどうだろうか?
無事を聞いて、うれしくて舞いあがるという意味なのだろうか?

人間、年を重ねるほどに
見舞をすることが多くなる。
付き合っている人間が加齢とともに、
いろいろと経験するからだ。

見舞に行って、帰ってくるときにいつも思う。
結局、見舞に行った自分のほうが見舞われているのではないかと。

社会人はある意味、動的視点で物事を捉えている。
それは社会経済がめまぐるしく変わっているからだ。
対して、災にあった方は概ね、その災時点から視点が静的になっている。
定位置に身を置くことになるからだ。
それゆえ、動的視点で視野、思考とは違い、
見落としてしまうこと
ついつい忘れてしまうこと
をぼそっと言われることがある。

その言われたことは自分の中では大きなヒントなっている。
ちょっと考えれば解ることというより、
そういう発想か!
って思うことが自分には刺激および行動起因になる。

だから見舞にいくことは、ある意味勉強って感じてしまう。

2010-02-05

停滞

一番悪い状態。
上り調子なら、それを促進アクションがとれるし、
下り調子なら、その内容をテコ入れしようとアクションがとれる。
しかし、停滞だとその状況にアクションが全くとりない。
取れなくもないのだが、アクションすることがどっちに出るかわからないから
リスクを読んで手を出せないのが事実。

思うに、今の世の中はかなり停滞していると感じている。
実は下がり調子かもしれないが、認識が停滞である以降
何もアクションしないことが多い。
アクションをしたがために、
その下り調子が露呈して
自分のせいにされてしまうリスクが相当怖いからだ。

実際のところ、
現状は下り調子であるが、
気持ちが停滞だといえる。

これを打破するために
あえてリスクをかぶる意気込みで行動することが求められていると思い
僕らはそのリスクに果敢に挑むところもある。
それはもう、リスクを丸投げ、揶揄されようと。。。

2010-02-04

厳守

厳しく守ること。
本当に弊社はこれを徹底している。
禁則厳守、
時間厳守、
口で怒るだけでなく、罰則をも行っている。

悪いが、最近の人間は怠けすぎである。
その怠けごころが、社会の活性化の悪さに繋がっていると感じている。
ちょっと破っただけではないか
ちょっと遅れただkではないか
そんな、ちょっと積み重ねが全体的な悪化を産む。

電車に例えるなら、毎駅ごとに5秒遅れたら、
それが累積して、終点ではどれだけの遅延になるか。
その時刻表どおりに行動している通勤客の稼働時間を
どれだけ遅らせるか。
ちょっとという甘えが大きな問題になる。

だからこそ、ちょっとでも厳格に叱ることが
管理監督者には求められると感じている。

厳格に叱る以上には、自分がそれを率先垂範しなくてはならないのだから
自分と管理下の二重の厳格さを維持するのはきついが、
そんな言い訳するなら、人の上にたつべきではない。

2010-02-03

節分

期の変わり目、運気の変わり目とされる。
日本では立春前日を主に意味して、
忌み嫌う冬から芽吹く春への到来を芽吹く元、または魔滅の意味で、豆をまく。

日本社会全体が太陽暦かつ西洋式なので、
節分のような、太陰暦、陰陽道由来の節目は
各地の行事以外、社会活動を変えることはないだろう。

ただ人は自分の行動、思考を極限まで費やした先に感じるものは
神頼み、縁起の領域になるだろう。
この節分もいろいろなしがらみ、物忌みからの解放や再起の思いで迎えることもあるだろう。
とりわけ、現在多くの人間が感じていることとして、
いい機会となかなかめぐり合えないこと、
悲しいかな、情報化社会だからこそ、そんなことがないと思われながら
その高速情報ゆえに機会が偶然性、奇抜性が否定されているからこそ、機会が発生しない。
情報化では機会はなかなか得られない。
それゆえ、今でも、縁起を担ぎ、慣例行事もすたれないのだろう。

とはいえ、
・クリスマスのような西洋的暦行事
・節分のような古来の行事
・勤労感謝の日のような近代日本独特の行事
いろいろな節目でもって自分の気持ちを入れ替えられる
日本独特の暦感覚は、順応性、臨機応変性の高さの国民性を現れと感じるところもある。

福は内、鬼は外。
聞きなれて、そしてどれだけ高度科学社会になっても
永劫続くだろう招福行事に感慨深いものを感じる。

2010-02-02

選別

選りすぐりを残すのではなく、
だめな存在をふるい落とす。
それが選別だと思う。

多くの表現は前向きな発想を口にするが、
多くの人間が行っている選別活動の大半は
ふるい落としに他ならない。

自分にとっていいものを選んでいる!って豪語したところで
結局のところ、自分にとっていいものを選びたいがために
比較物がそれに値しないという表現を用いて、
自他への納得感を得ようとしている。

僕としては、このふるい落とすことが選別という意味を
深く理解しているつもりだ。
だからこそ、ふるい落とされないような行動を
常に意識して指示しつづけている。

・時間厳守
・ホウレンソウの徹底
・5W1Hを最低限意識した表現

を行えば、
相手は少なくてもマイナススタートで評価しないはずだからである。

でも、なぜだろう。
本当に出来ない者が多くて、永遠に言い続けないとならない。
悲しい事実だ。それが、人種の問題とは思いたくないのだが

2010-02-01

先手

対人間関係において、先手を打つことこそ主導権の取得に繋がる。
別に何かにつけて、相手にちょっかいを出すわけではない。
先手といっても、内なる行動も先手といえる。

簡単なところでは、
相手にいきなり話しかけられた時を考えてみよう。

本当に無謀にいきなり話しかけられたときは
話しかけた側が先手といえるが、
だいたい、あの人は突然を装い話しかけてくるなって
予想のうえ、話しかけられた時は
話かけられた側が先手といいきれる。

先手とは先にアクションをとるというより、
先に準備が終わっていることと捉えたい。
無駄なアクションではなく、
そのアクションが効果的とわかったうえでの行動は
相手より先手、
主導権を取得できるものといえる。

主導権を得た状態での行動でこそ
自分の思い、考えを出し切れる社会ゆえに
先手の重要性は社会生活で必須の認識といえる。