災にあった方への無事かどうか確認行為。
その意味なのに、見て舞うという漢字をあてるのはどうだろうか?
無事を聞いて、うれしくて舞いあがるという意味なのだろうか?
人間、年を重ねるほどに
見舞をすることが多くなる。
付き合っている人間が加齢とともに、
いろいろと経験するからだ。
見舞に行って、帰ってくるときにいつも思う。
結局、見舞に行った自分のほうが見舞われているのではないかと。
社会人はある意味、動的視点で物事を捉えている。
それは社会経済がめまぐるしく変わっているからだ。
対して、災にあった方は概ね、その災時点から視点が静的になっている。
定位置に身を置くことになるからだ。
それゆえ、動的視点で視野、思考とは違い、
見落としてしまうこと
ついつい忘れてしまうこと
をぼそっと言われることがある。
その言われたことは自分の中では大きなヒントなっている。
ちょっと考えれば解ることというより、
そういう発想か!
って思うことが自分には刺激および行動起因になる。
だから見舞にいくことは、ある意味勉強って感じてしまう。
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