2010-01-29

疲労

疲れの大元は、精神、気持ちではないかと感じる。
確かに肉体的なもの、筋肉、神経、痛みとあげられるが、
肉体疲労は安静にしていれば、徐々に回復が見込まれることが多い。
その疲労を緩和もしくは慣れで疲労を自己本能でカバーするからである。

対して、精神の疲労はなかなか取れない。
なぜなら、精神の疲労は個人の問題ではなく、
他人、社会から起因していることが精神の疲労の正体だからである。

疲労である以上、休息により復旧が望まれるものだが、
精神の場合は、休息と言う行為がありえないものである。
休んでいても脳裏によぎるものであり、その疲労は取れるどころか
落ち着かないことを呼び覚ます結果になるだろう。

精神疲労への対処は、
自己啓発、自らで環境改善といわれるが、
それができるのならば、疲労という概念はないと常に感じる。

多くの場合、社会環境に対して、
自らその環境から離れるか、
他人をどかすことでしか、改善しないことだろう。

精神疲労をなくす努力もそうだが、
精神疲労を蓄積しないように
常に環境をかえつづける組織運用も重要だと思う。

2010-01-28

昼食

考え方かもしれないが、
昼食は、朝食、夕食と違い、中断要素をもっていると思う。
朝食、夕食ともに、行動の切り替えの節目になる要素、つまり
睡眠状況から行動状況が、朝食
行動状況から余暇状況が、夕食
と感じられるが、昼食の場合は同一状況間のブレイクタイムと感じる。

行動が連続していれば、昼食を取らなくてもいいのではないか?
なんて考えてしまうこともあるが、だからこそ昼食は必要なようだ。

昼食の重要な要素は集中力の再起だと僕は思う。
人間が集中できる時間は短い。それを何度も繰り返すことは難しい。
筋肉に溜まる乳酸のようなもので、時間と安静がないと回復しない。
だから、人間の活動時間を2つに分けて午前、午後に2度の集中させるために
午前分の集中の回復期間が昼食ではないかって感じる。
人間の生産性なんて、この集中力の時間以外はあまり期待できないと思うからこそ
昼食や休息の時間を重視したいと思う。

だらだら、
長く稼働するより、
極限の集中活動とそれに対する余暇
これが、ビジネスとしてあるべき姿ではないかと。

2010-01-27

神像

人間は古今東西、人種を問わず、信仰を持っていることになる。
確かに無信教と言うかもしれないが、
社会、風習に宗教色が混然一体化しているところを取られば
何らかの形でその信仰に関わっている。

その際に、人間は精神の世界のものを具象化するために神像を祀り上げる。
神々とされる彫像物、聖人の似姿がそれにあたる。

僕は神像への参詣が好きだ。
父とともに寺院に回った際に、
その大きさ、雄大さに感銘を受けたことだ。
子供のころに無理やり見に行ったときではなく、
人生の転機に、父とともに自らの運転で寺院に出向いて
他の参拝者がいないなかでの対峙できた経験がそれにあたる。

神像はある意味、自分の心情の鏡ではないかって思う。
自らの心情でその神像をのぞけば、
叱咤、慈愛、憂い、を自分に与えてくれると思う。

忙しく、かついろいろな思いで自分を見失っている人は
じっくり自らの信じる神像の尊顔を拝するともしかしたら
何か得られるのでは??

2010-01-26

徒歩

人間の持つ移動手段のなかで経済的に最小限のもの。
考え方によっては、
目的地と移動手段をつなぐコネクターとしての移動手段ともいえる。

徒歩での移動は移動手段としての経済効果が薄いが
移動手段の中では一番購買可能性を持っている。
ネットでの購買が増えた事実はわかるが、
一般生活品の購買はほとんど徒歩を伴うことになる。
やはり、自ら必要なものを自らの手足で確かめて買うことになる。

健康のために徒歩と言われるが僕はそれ以上に
社会見学、見識のために徒歩と思いたい。
徒歩では、
自分の目線、歩幅での風景を見て理解でき、
自分の気の向くままに店舗、公共施設に入れ
そしての自分の口で、話しかけられる。

今まで乗り物で通り過ぎていた場所も
いざ自らの足で、歩いてみると気付かないいろいろなことを感じられるし、
気になっていた店舗も徒歩でないとなかなか入らないもの
そんな感覚を徒歩が導いてくれるといえる。

2010-01-25

出来

出来る、より、出来ない という言葉について考えたい。
出来ないという言葉に意味があるだろうか?

自分には出来ないという言葉を発するときを想定してほしい。
概ねは自分より目上の方に対して答えるときに
対応する可能性がないと自分に言い聞かせての発言になるだろう。
目下の者に対しては、出来ないの意味は依頼、強制委譲になるだろう。

人間の優秀さ、仕事の切り分けのうまさは
出来ないという言葉にかかっている。
自分には出来ないという表現を使っているうちでは
その人間はまだ成長がなく、任せるに値しない。
出来ないといって与えられた仕事を保留、放棄する可能性があるからだ。

優秀な人間は出来ないことはないのか?
という問いに対しては、言えることがある。
「出来ないではなく、何がどう行えないかを気付いている」
出来ないという意味には、
どういう行為が今の自分ではなぜ実施できないかを常に表現できる。

人間はすべて出来ることはないと断言できると同時に、
すべて出来ないこともないのである。
何が出来ないのかを、当人なりに考えて、他人に説明して協力、変更を願えば
ある程度の許容や支援は惜しまないと感じる。
ただし、その何が出来ないかをしっかり努力、検討する前提を忘れずにすればだが、、

2010-01-22

設定

目的に対して、ものごとを設け定めること、と辞書説明があるが、
それでは本質ではないといえる。

設定の本質は、場面における機能限定を強いることだ。
設定されていない事象は、本来用途は多様である。
簡単にいえば、なんでもできる可能性を持っている。
しかし、目的に対して事象を設定してしまうと
他の機能の可能性を外す、機能させないということになる。

日本人の多くは
汎用性
可能性
を重んじる。子供の教育等にそれが表れている。
だから、できるだけ将来や方針の確定、つまり人生の設定を曖昧に流す。

でも、考え方だが、
設定が重要であることを早めに知るべきではないか?
って感じる。

終身雇用が崩壊している現代社会において、
就職という行為は人生すべての設定が終わったわけではない。
逆に、一定期間、自分は他の可能性を否定してでも
組織においてどんな設定をうけて、それを責務に行動できるのか
体得すべきである。

設定されずに、可能性をもっているものと
少なくてもいくつかの設定を受けてきたものは
似ているようで雲泥の差があるとしみじみ感じる。

設定する、されること、ものごとの価値の現れではないかといえる。

2010-01-21

次第

○○次第という表現に使われるが、
社会活動において、中心になる要素は次第だと思う。

物事の順序であり、
次に何をしていくべきか常に出していくことと感じる。

僕は常に意識しているのだが、
仕事は目的次第、現状結果次第で
常に次の行動を宣言できるようでなくてはならない。
逆説的に言えば、

仕事とは、次行動なくして仕事ではない

今の行動次第で次の行動をどう変えられるかを意識することを続けられることが
モチベーションであったり、
当人の必要性
当人の役割
の確定につながると思っている。

2010-01-20

調査

行動する前提であり、
一番頭脳労働になる作業だと言える。
確かに、情報過多の現代において調査は簡単になっているが、
その多くのものは、調査の’調’のレベルである。
つまり、いろいろな事実を集積することは簡単になったといえる。

対して、僕が問題視したい点は調査の’査’のほうである。
’調’の行為が簡単になった分、注力すべきは’査’であるが、
多くの人間は同義に捉え、簡単にすませてしまい、返って調査しないほうがいい結果になる。

例えば、調査報告に
調べた情報を一覧にするだけで
「これだけの情報が見つかりました、以上」
のような報告が現代社会では頻繁に見受けられる。
これが調査だろうか、受取った側はこれに対してどうすればいいのか?

’査’の行動は千差万別であり、
情報が多ければ、多いほどその切り口から得られる見解は異なる。
見解の相違で、相手と討論になるかもしれない。
、、、、それが正しいのはないか!って感じる。

調査をするということは
仮説と現実の認識との検証であり、
仮説を現実とどう違うのかを分析することになる。
行動していくために、
いかに効率よく、そして現実に則した行動がとれるか調査するのであって、
討論により、その後の行動が最適化されるのであれば、
それに越したことはない。

目先の困難を逃げて、その後の受難に気付かない。
それは、調査した意味ならない。
調査の意味を深く感じてあたりたい。

2010-01-19

小事

小事こそ人のモラルと言えよう。

モラルが低下している人間は
小事を蔑ろにして行動して、自分の大義を誇示する。
例えば、
・整列を無視して、自分の順番にしてしまい、
 注意されると、「そんな小さなことで声をあげるな!」という
・人にぶつかったのに、
 「自分は急いでいるんだ!」って怒る
ような、些細とされることを自分の大義でもみ消そうとする行為があげられる。

当人は当然と思っているが、
それが許されるとみると、
周りの人間もその行動を容認されるとみなされて行動する。
みんなでこのような行動をすることが混沌状態、無秩序の始まりになる。

秩序を具象化である組織を運営する立場だからこそ、気をつけたい。
小事の積み重ねが、組織力、モラルの向上になると思う。
些細なことこそ、人の器が垣間見れる。
技術論、運営方式等、いろいろと教えることもあるだろうが、
この小事に気を払う気持ちを常に意識させていきたい。
そのゆえ、率先垂範、自分も引き締めなくてはならないけど。

2010-01-18

塩梅

梅干しのつかり具合のことから、
事象の程度、具合、調整のことを指すようになった言葉だ。
この塩梅をうまく行ったものこそ、成功者ではないかとしみじみ思う。

特定の技術に精通した人間は数多いる。
特定のコネクションをもった人間も数多いる。
多くの場合、その成功者が必ずしもその領域のトップではない。
しかし、塩梅だと思う。
特定技術を特定のコネクションにうまくはめることができたこらこそ、
その人の活動は成功したといえる。

多くの場合は
技術、技巧の素晴らしさを誇張して、
コネクションから必要性が導けない。
コネクションからの要望が無理すぎて、
技術が対応できていない。
こんな塩梅の悪さが失敗になるのだろう。

塩梅はいつも一定の基準ではない。
その状況下で常にかわるものだからこそ、
把握し続けることが必要とされる。

たぶん、その理解はとても難しい。
技術の方向性
人の気持ち
はいつ変わるか解らない。
だから、タイミングを待つというより
今のタイミングを見失わないように行動できるか、
その速度感をもって行動にあたるようにしたい。

2010-01-15

鎖糸

連鎖という概念こそ、論理そのものだ。 鎖で繋がれたかのごとく、という意味は 事象の前後関係、誘因、必然を示している。 連鎖になることが、自然的で論理的であると言える。 だから自分の説明、文章を構成するときには 頭の中では、図示した鎖のイメージをもつことがいいと言える。 ・この鎖は次の鎖とくっつくものか ・この鎖の結びつきは、引っ張ると取れたりしないか ・あまりにもくっつけすぎて絡まっていないか と考えると、ある程度の論理整合性は保たれる。 ただし、その鎖のイメージを 世間一般、いや説明する人のイメージと合わせておかないと 自分は硬度の高い材質のジュラルミンチェーンでも 相手にとっては、有刺鉄線と感じてしまう。 鎖のイメージはそこの整合性の意識は結構重要なので 論理の連鎖を構築するときはくれぐれも忘れずに。

2010-01-14

保護

保護と庇護はほぼ同じ意味のようだが?
一般的には、同一の意味で使われるだろうし、
庇護のほうがもはや保護に意味吸収されていくだろう。
それは言葉が背負う時代からの影響の性といえる。

庇護より保護のほうが、包括している表現である。
庇護は庇(かば)い、護る。
保護は護り、保つ。

庇護は、護っている行為そのものに注力した表現に対して
保護は、護られているものが安全を保たれていることまで示す表現といえる。

だから、
「親の庇護下になる」という表現はあるが、
親のことを’庇護者’とは言わずに、’保護者’というのも
包括性が伺える。

ただし、ひとつ思う。
本当に保護するとはなんだろう。
確かに、外的要因から護ることは、庇護でも保護でもある。
しかし、護られてるものがいつまでも護られつづけられることは
時間的老朽の歯車にのっている自然界ではありえない。

あえて外的にさらして、自己防衛力を身につけさせることも
保護、真の保護ではないかって思うことがある。
安全を保つためには、自ら安全を勝ち得ることが必要だと思う。
相手を庇うことができるようになって初めて
保護ということが理解できるのではないかと。

他人、組織が庇ってくれないと思うこともあるだろうが、
自らで護る行動をしてこそ、保護の意味がわかり、
今度は自分が他人、組織を護るべき存在にならなくてはならない
と思いはじめなくてはならないのではないだろうか?

2010-01-13

主語

日本人は風習、語族的特性で、主語を省いた文章で意思疎通をする。
相手の名前を直接呼ぶということを失礼、忌み嫌う風習や
助詞、動詞、尊敬表現を用いることで、主語がなくても相手を特定できる
日本語の特性を持ち合わせているからであった。

しかし、それゆえ個人それぞれを自覚、指示、役割を曖昧にした
言語となり、個々人の責任や意思を表明しづらい言語になってもいる。
あくまでも、主語を隠すゆえに話者間の間で暗黙の了解がある前提ゆえ、
役割宣言のように、これから暗黙の了解の関係を築いていく間柄ではなかなか伝わらない。
日本的に考えれば、言葉ではなく行動で示してから信頼をえよ。
ということだが、農耕民族から高度社会に傾倒している日本では難しい。

だからこそ、
社会人になっている社員、部下、後輩にいつも意識させる。

「他人と言葉を交わすときには自ら意識して、主語をつける表現にせよ」

と。例え自分のこと、相手のこと、であっても
私が、あなたが、という表現をすることが重要である。
わざわざそうしなくてもって思う気持ちが意思疎通の大きな障害になるだろう。
意思疎通が悪いという社会悪は自分自身、相手の存在を互いに認識していない。
主体性をもたない現れと僕は感じ、主体性を意識するための主語表現と考えている。

2010-01-12

感化

他人に迎合していくように捉えられる表現だが、
実際のところ、感化されるということは、
その人間の視野が広がったと捉えるべきだろう。

現代社会はいろいろなことがありすぎて、
なかなか感動しなくなってきたのではないか?
むしろ、感動すべきことに触れられなくなったのではないかと感じる。
仮想現実、人間関係の希薄化がそれを導いているかもしれない。
また個人主義のために、相手の意見を鵜呑みにできない世相も感じられる。

自分でいいと思ったら
思いっきり感化されていきたい。
自己主張の強い僕でも、結構感化されることが多い。
でも、それは人間より動物の本能に感じることが多い。
もっとも心に訴えるものは、限りなく本能に近いことであり、
その本能を隠さず、示している動物の行動はある意味見習うべきと感じたりする。

感化して、その人、ものに倣うこと、
それは模倣というより、
新たな自分の発見、
忘れていた自分の気持ちの再認識
そう前向きに思うべきつくづく思う。

2010-01-08

開発

開発と製造は似ているようでまるで違う。
開発も製造も作るという意味の派生に感じるが、
開発は作ってもそのまま役に立つものではなく、
役立つものになる準備の段階をさし、
製造は役に立つものを生産する意味である。

実際に工場等の生産現場において
開発ラインと製造ラインは解りやすい。
開発ラインはその製品を作れるかどうかの
品質
工程
生産性
を試験するラインであり、
製造ラインは
いかに大量かつ同品質の製品を生み出すかにかかっている。

ちょっと気になったのは
IT実装においてPGMを作る工程を開発、製造と区別なく使われる。
意味を正しく捉えれば

顧客の新業務に向けての開発としてPGM作成
ITプロジェクトの工程上の製造フェイズのPGM作成
となるはずであるが、そんな理解までして
IT技術者が言葉を使っているかどうか??

2010-01-07

楽観

ポジティブシンキングをすることは
常に意識するように自分自身に言い聞かせている。
やはり、どんな些細なことにもヒントや有益な情報は隠れている。
それをどう捉えるかだといえる。

言い聞かせるという表現にあるように
小さいころの苦い経験から

「期待やうれしく思っていればいるほど、その逆になったときに心傷は深い
 だから期待よりも常に不安に思っているべきだ」

という言葉に強く感銘をうけて、
気付かぬうちに座右の銘になっていたのである。

確かにこれだと常にリスクを警戒しているし、
どんな不具合でも動じることはなかった。
斜に構えている機運があったからである。
しかし、
チャンスをつかめなかった感がある。
人を信用できない感もある。

それでは、組織として、企業としての発展にならない。
だからこそ、楽観視するように自分に言い聞かせてきている。
今まで以上にうれしさを感じ、表現できるようになった分
落ち込む機会も増えたかもしれない。
もしかしたら、落ち込む機会のほうが多いかもしれない。

でも、何か前向きさを示すためには
楽観視、常に自分には恵まれているって思うようにしたい。
自分を偽らずに、楽観視することはそれは当面の僕の試練かな?

2010-01-06

要望

要望とは現在の支障のあること、悩みへの打開である。
充実感を得ているときに要望はない。
もしあるとしたら、その充実感がこのまま続くこと
つまり、将来への不安に対しての要望だろう。

必要は発明の母という言葉と同じであり、
今時点の生活、行動を満たされないと感じない限り
要望は生まれない。
そして、その要望について、
本当に支障、悩みのレベル出ない限り
具体的な要望にならないといえる。

なんとなくあったらいいなあという感じでの要望ほど
実現させる要素が曖昧かつ目的意識が薄いので実現させづらい。
できるだけの切迫感がないと要望というレベルではないのである。

社会的に現代は
要望をあげるというより、
要望を聞かれることが多い。
真に要望があれば、聞かれることはなく、あげることしかないのだが、
現在の要望確認が形式的になっているといえる。

それゆえ、
他人に要望を伝えるときは
自分における支障、悩みとそれへの他人からの支援内容
をまとめて伝える準備と覚悟が必要とされると切に感じる。

2010-01-05

立場

立場の違いが互いの主張をぶつからせる。
比喩を大きくするが、戦争なんてものはその最たるものである。
戦争するとき、自分こそ正義と思っている。
多くの場合は仕方がないという状況に追い込まれれているとされる。
そして、後付け論で戦争批判をうけることになる。

人間は立場がなければ、主張はしない、、できないのである。
自分が親だから、子供だからという立場をもとに
自分の存在意義を主張し始める。

そう考えると、立場の存在意義を示している社会という考え方が
主張対立を導いて、戦争を起こさせているのではないかって思ってしまう。
論理の飛躍かもしれないが、立場という認識概念があるからこそ、
人は善行、罪悪感を感じられるとは言い切れるだろう。

もっとも、社会が存在しなければ
弱肉強食のままで、
社会的安全、福祉、厚生という概念も得られない環境だったといえる。

社会という存在で、立場を得るということは
ある意味で新しいメリットを得られる半面
ある意味で必要以上の生命に関わるデメリットを得てしまうことと
改めて認識してしまう。

2010-01-04

新規

新しいこと、
漢字の字が示しているように
新しい規則で新規である。
新はわかるが、
規は何のため?
と感じてしまうところはある。

規の字にもそれなりに意味はある。
規則から始まり、規範、規格、というように
定まった有り様、という意味であり、
新しいことを定まった有り様にて始めることを意味するものである。

ただ新しいからではなく、
方向性、その行動に意味を感じる有り様で
物事を興すことを旨に行動をする
それが新規といえよう。

新しい年こそ、その思いで行動していこう!