行動する前提であり、
一番頭脳労働になる作業だと言える。
確かに、情報過多の現代において調査は簡単になっているが、
その多くのものは、調査の’調’のレベルである。
つまり、いろいろな事実を集積することは簡単になったといえる。
対して、僕が問題視したい点は調査の’査’のほうである。
’調’の行為が簡単になった分、注力すべきは’査’であるが、
多くの人間は同義に捉え、簡単にすませてしまい、返って調査しないほうがいい結果になる。
例えば、調査報告に
調べた情報を一覧にするだけで
「これだけの情報が見つかりました、以上」
のような報告が現代社会では頻繁に見受けられる。
これが調査だろうか、受取った側はこれに対してどうすればいいのか?
’査’の行動は千差万別であり、
情報が多ければ、多いほどその切り口から得られる見解は異なる。
見解の相違で、相手と討論になるかもしれない。
、、、、それが正しいのはないか!って感じる。
調査をするということは
仮説と現実の認識との検証であり、
仮説を現実とどう違うのかを分析することになる。
行動していくために、
いかに効率よく、そして現実に則した行動がとれるか調査するのであって、
討論により、その後の行動が最適化されるのであれば、
それに越したことはない。
目先の困難を逃げて、その後の受難に気付かない。
それは、調査した意味ならない。
調査の意味を深く感じてあたりたい。
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