2009-07-31

時短

造語であり、今回は労働時間の短縮の意味で話そう。
気になる点として、時短にはワークシェアという言葉がつながってくる。
労働時間を短くして、仕事を分け合おう。。。

意味がわからない。
労働時間を短くするくらいならば、
新しいビジネスを創設すればいいのではないか?
そう活動を始めればいいのではないか?

なぜ、仕事をもらうという発想なのか?
仕事は企画して、それを受け入れてもらえるかどうか?
だと確信している。

派遣ビジネスがもろに打撃を受けている時短問題かもしれないが、
派遣ビジネスが口をあけてるだけのビジネスになっているからだと思う。
派遣、請負において、自分のできることをどう応用すれば
相手の潜在需要に応えられるのか?
そして、こんな時代だからこそ、
言われる要望より先に自分のしたいことをどんどん提案すべきだと思う。

愚者の多くは
忙しくなると
「自分に負荷ばかりかけて、好きなことができない」
暇になると
「自分のやりたい仕事を出してくれない」
って言われる。
そんな発想だから、結論は時短を導かれてしまうのだと思う。
もっと、頭を使った活動を意識すべきだと言いたい。

2009-07-30

独学

師についたり学校に通ったりせずに、一人で勉強することであるが、
技術、知識を身につけると言う行為は、すべて独学だといえる。

確かに、他人に教えてもらうことはあるだろうが、
その他人の教えとされる動きを自分なりに理解、実践することができて
初めて身についたということになる。
その理解、実践は、いくら他人の干渉があったとしても
独学そのものである。

すべての技能は
結果として、自ら学ぼう、身に着けようという意思がないと
できないと言い切れる。
読み物等で、いつの間にか出来るようになっていたっという
話があるが、それは極めて虚偽に近い。
その技能行為が必要という自覚があってのことであり、
いつの間にかという無自覚な習得は
他の技能行為がカテゴリ的に同じであったか、
偶発的になしえたということになるだろう。

技術習得にセミナーや講習会に参加することは
社会人において、頻度よく訪れる機会だろう。
その機会に対して、
自らがそこで得たものをどのように技術習得するかを
常に独学かのように意識することが、もっとも技術取得の成長要素になるだろう。
その技術、知識の一般的な素養は
自分の肢体を駆使して見つけるしかないのだから。

2009-07-29

熱心

いちずにそれに打ち込んでいる気持ちである。
「熱心さが感じられない」
とか言う言葉があるように、人の姿勢、方向性を
他人が感じる表現だともいえる。

ただ、熱心とは熱という字がはいるだけで
温度差により諸刃の刃になりかねない。

相手も情熱的であれば、
その熱の温度差は少なくて、
相乗効果でとんとん拍子で物事がすすむが、
相手が冷めている場合に
熱心は暑苦しいものであり、
かえって、悪い印象を与える。

また、個人差により熱意の表現が異なり、
とても熱心さをもっているつもりでも、
相手には全く伝わらないこともある。
そうなると、自分の能力にフラストレーションがたまる。

熱心さは重要だが、
熱意に伴う表現力がないと熱意は相手に伝わらない。
その熱心さだけに、熱伝導をどうするか。
・話術
・説明資料
・しぐさ
をより磨くことで、自分の気持ちと相手へ伝えたい気持ちの
温度差は少なくなるといえよう。

2009-07-28

迅速

庶民の行動が緩慢に見えてしまう。
それは、多くの人間に共通するのだが、
一つ一つの動作は個人差のレベルで
あるパートは遅いが、あるパートは早い。
それぞれあることまでは、許容するとしよう。
(それ自体も僕からすれば遅すぎるレベルなのだが、)

本当に遅いと感じるのは
次の行動に出るまでの呆けとされる
アイドリング時間が存在することだ。

それを準備の時間って言い訳するが、
そのアイドリングが終わってから、
本来の準備活動をしている事実がある。
それを指摘すると人間は無駄なことを口にする。

アイドリング時間をインターバルとするならば
そのインターバルの前後には、
その次の動作を見据えた行動が伴わなくてはならないっと思うが、
そこまで考えていないとしか見えない。

迅速に行動を起こすということは
一つ一つの作業を高速化させることではないと言い切れる。
一つ一つの活動と捉えず、次の活動を意識して現在の行動を行い、
効果的な動作をとること、それが迅速な対応といえよう。

2009-07-27

体罰

暴力も体罰も変わらないという認識は社会の一般人と認識は変わらない。
しかし、僕はこの暴力、体罰行為に対して肯定的である。
野蛮かつ非人道的といわれるかもしれないが、
それを否定している今の社会こそ、混沌的であるといえる。

動物を調教するときに、文章を見せても意味がないだろう。
人間の言葉すら理解できないのだから。
それら動物に調教する際には、肉体的な刺激にて行うことが常だと思う。

人間とて同じ動物に過ぎない。
人間を調教ということに語弊を感じるだろうが、
言うことを聞かせるために、教えていることに変わりはない。
もっと言えば、現代の主張を持った人間なぞ、
野良犬よりたちが悪い。
その輩に言葉での説明など、逆効果だと思う。
言葉での説明が出来ない輩にいくら自分の言うことを聞かせようと無駄である。
だから更生させるために体罰となるが、
これは個人が行うと体罰だが、国家が体罰を行うことは戦争である。
いくら、体罰を否定したところで、
結局、人の言うことを聞かせるときは武力であることは否定しようがない。

戦争根絶、暴力の永久追放、、、、そんなこと言っても
人間の感情が存在する以上、それは決して無理なこと。
なら、体罰等の行為を否定せず、効果的にかつ抑止力をもって
有用にそれを使いこなすことが、人間としてのあるべき姿ではないかと考えている。

2009-07-24

山場

物事の最も重要で緊迫した場面、
英語でいえば、climax
面白いことに、この二つの別の言語の言葉なのに語源は同義だ。
ともに登山の頂を指している。

山になっている場所
climb で max

ということは、
人間が一番緊迫する場面は、
高く不安定な場所に至ったときの心境になるといえる。

なんとなくわかるが気がする。
というか、最近切にそう感じる。
今までの仕事においては、山場に至るのには
それなりの準備と障害対策万全の心境で挑んでいたので
山場とは、ただの通過点としか認識していなかった。

しかし起業して、
自分なりに準備、障害への配慮をしたつもりでも
会社として足りていないこと等の
自力ではいかんともしがたいことがおき、
その山場で大きく転落してきていた。
山場が頂であり、そこにきちっと立てない思いをしてきた。

今までの当たり前のことが出来ない歯がゆさと同時に
仕事において緊迫する場面、山場を肌で感じているという自覚は
今の僕にとっては貴重な経験かつ今味わっておいてよかったという思いになる。

ありがたさを自覚できるということは
現在社会では数少ない享楽のひとつだと思うからだ。

2009-07-23

貿易

外国と商品の売買をすることであるが、
この漢字だけだと、国家間商取引の意味を受けられない。
では、漢字自体を解体翻訳してみよう。

貿とは
「取引をして利益を求める」 の意味をもつ。

易とは
「たやすいこと」 の意味をもつ。

あわせて、貿易とは
「取引をして利益を求める行為をたやすくしていること」
となる。

今まで大変だった地域違いの商取引を簡単に行えるようになったという意味が
現在の国家間商取引の意味での貿易になったといえる。

言葉の意味には、現在の意味になった経緯が存在する。
現時点という一点か見れば、その言葉=一義になるが、
その意味に至った経緯を意識していないことが常だと思う。

僕は思う。
「事件は現場から」
ではないが、物事の起源から変異経緯を掴むことこそ
いろいろなことの真理をつかめると思う。

貿易という言葉とてその意味では、
利益を求めることが前提であり、その障壁をなくすことことが
真理であり、貿易活性化ということは、国家間だけではなく
組織間の障壁撤廃の活動の意味でもある。
自分の今行っている活動を振り返れば、
なじみのある言葉の真理だったりすると、温故知新、、な気持ちを得られることも
ある意味、感慨深い。

2009-07-22

説明

よくわかるように述べること。
ときあかして教えることであるが、
それはとても客観すぎる表現に感じる。

説明とは、
自分の信じる論理は相手に訴えることだと思う。

「一般的なことを説明するのは自分の信じる論理っていうのはどうか?」

って言われるかもしれないが、
説明する以上、
その相手はその一般的なことを少なくても熟知していないから、
説明という行為になっているわけであって、
相手側にとっては一般的はないということになる。
つまり、一般的ということすら、持論に過ぎないのである。

そう考えれば、
説明をするということは
相手に自分の言葉が届くことと認識すべきで
正解を言うことではないといえる。
極論でいえば、正解なぞなく、説明を求められた時点で
正解ではなく、相手が納得する持論をぶつけられるかどうかが
今回の正解になるといえる。

説明が下手とかの話を巷で耳にするが
説明が下手という言葉よりも
話し手の持論が自分には理解、共感できるものではない
という結果を導いているのではないか。
聞き手が数多いれば、その数多に対応した説明方法があり、
それをどう意識するかが、説明力だといえると感じる。

2009-07-21

変身

夏になると、「自分探し」という言葉が現れる。
この言葉はとても面白い。
自分を探しながらも、結果得られるものが、変身した自分、
現在の自分の否定、喪失であるからだ。

人はそれぞれ、変身願望をもっている。
それは、ある意味、向上心の源泉かもしれない。
憧れ、使命感、決意、いろいろなものがその変身願望に内在する。

但し、変身は自ら行うもので、
その変身にもプロセスが発生することを忘れてはならない。
変身する意思とそれに変わるための手順を
自ら発起しなくて、変身はありえない。
多くの人間は、他発的、偶然的、な可能性での
変身を待っているように見受けられる。
僕からすれば、それは異常変異であり、変身とは言いがたい。
自らをどう変えていくかを意識しないで変身したものの末路は、、、
言うまでもないとおもうが、得てして、その他発的なことへの逆恨みになりやすい。

自分探しということをするならば、一言忠告。
「探し出した自分に責任を持ってね」

2009-07-17

我慢

感情や欲望のままに行動するのを抑え堪え忍ぶこととされているが、
現代において、我慢のほとんどは違法性の強制である事実である。
「ここは我慢して欲しい」
「今は、我慢のときだから、じっとしていて欲しい」
の多くの場合は、我慢させられたほうが訴える法的根拠を持っていることになる。

つまり、
我慢して欲しい=法に抵触するがそこは訴えるなよ
という意味と解するべきだろう。

僕としては、安易に、がんばる、我慢を口にすることは権利の濫用と捉える。
権利を使いたくないではなく、
理由なき権利の使用は自分自身を納得させられないからだ。
がんばる、我慢の多くは得るという概念より
現状維持、最低限の担保になることを導くことになる。

我慢を強制するより、
得るものがある方向に権利、権力を行使していくことを選ぶこと
それが今の経営ポリシーとしている。

2009-07-16

貢献

物事や社会に力を尽くして、よい結果をもたらすことであるが、
この言葉はとても日本的な表現と感じる。
というのも、契約主義、結果主義であれば
結果を出すことが当然であり、貢献ではなく、義務の体裁が強い。

貢献という言葉は受ける印象からして、
日本人の得意な敬語表現、’譲歩’の色合いが強い。

「本来は独力/自力で行うべきとことをご協力いただき
 ありがとうございます。」

そんな意味合いでの使用が常といえよう。
組織への貢献
会社への貢献
社会への貢献
いろいろな意味で、使われるが、そう考えると
「君は、会社への貢献度が低いなあ」
って表現は善意の強制に聞こえてしまう。
できれば、そこは、表現を正しく
「君は、会社への義務を果たしていない」
だと思う。

確かに貢献から義務に変えると表現が厳しくなるが、
率直に伝わってくるし、外国の表現はこうなっているだろう。
貢献という譲歩表現も日本らしくていいが、
本当に思いをぶつけるには、譲歩はせずにストレートにいうべきだと思うが、、

2009-07-15

深耕

土を深く耕すことが語源であるが、
現在の顧客深耕の意味に転じて
企業などの営業活動において,
従来からの顧客から新たな需要を掘り起こすこと
と使われることが多い。

転じるということは元の意味と似ているからであるが、
顧客深耕はなぜ深耕になったのか、
そもそも、土を深く耕すことの意味は何かを理解しないと
顧客深耕の真意をつかめないと思う。

深耕の意味は、
冬、乾燥と冷却により堅くなった土壌のままでは、
いくら豆をまいても芽がでることにはならない。
だから、堅くなった土壌を砕き、土を柔らかくして、
植物が根をはり、水、酸素が取り込みやすくすることである。

ならば、顧客深耕も同じように考えること、
種まきが別にあることを理解しなくてはならない。

固定、硬直化された業務運用、概念に人的に介入して
新しい新芽というビジネスチャンスを受け入れる心的環境を
作ることである。

その上で、
種まきに当たる提案、
発芽にあたる契約
を導くことがビジネスプロセスを農業に例えることといえる。

僕自身、亡き祖父が農業を営み、幼少期に仕込まれたから
農家の仕事の意義を理解しているからこそ、
どうもあまり農業もビジネスプロセスも理解せずに
言葉を濫用しているような社会になっているように感じる。

2009-07-14

帰着

いろいろな経過をたどって、ある状態や結果に落ち着くこととされるが、
僕自身の場合、まず帰着ありきと思っている。
何も考えずに生返事をすることや条件反射的な回答はしない、
することがありえない。
考えすぎてしまうことがあっても、考えないことはまずはない。
その訓練のせいか、考えていないくらいの速度、即答していると
思われてしまうが、日々考えている賜物だといえる。

なぜ、そうなったか。
何も考えずいたほうが、気が楽ではないか?
っていわれるが、何も考えずにいるほうが、気が悪くなくなる。
人生は一合一会、千載一遇、同じ条件で同じことがおきることはありえない。
今の自分の条件下でできるだけのことは配慮したい。
そう思わないと、
「あーしておけばよかった」
ということならないからだ。

僕の価値観として、
「やってしまった、、、」
ほうが
「なにもしなかったかなあ」
より上に思う。
だから、帰着をきたすことに注力している。

2009-07-13

討議

ある事について、互いに意見を交わし論じ合うこと。
討論、議論の意味を表す。

今までのこのサイトでの論調どおりで示せば、
自己と他人とは相容れないということであり、
討議は無意味に近いという帰着になると思われて、仕方ないだろう。

その持論を曲げずにも討議の必要性はあるといえる。
他人と相容れないが、行動の主体が他人に行ってもらう、
使役関係においては、命令よりも討議のほうが重要である。
命令どおり、他人が動くことは稀である。
なぜなら、他人との認識の違い、身体の際、行動速度、
すべてが異なるのだからである。
だから、思ったとおりの命令結果を期待してもその通りの
結果はまず出てこない。

しかし、討議の上ならどう思えるだろうか?
そもそも相容れない存在への使役だからこそ、
期待どおりでないからこそ、その結果でもって、
自分が
妥協できる、
フォローできる、
改修しやすい、
という状態にもっていくことを意識すればいいのではないか。

互いに討議した結果、いい答えがでる。
まずありえない。
多くの会議のいい答えの結論は、、問題の先延ばしと言い切れる。
僕の示す討議は、行動使役そのものであり、
互いの主張ではなく、使役側と被使役側との行動範囲選定、
それしかないと思う。

討議こそ、命令の進化のカタチであると定義したい。

2009-07-10

辛抱

耐え忍ぶということで、日本の美徳のように扱われてきてきていた。
辛抱の先に幸福が待っている、、、、、、
今の自分にはこれは絶対ありえないと思う。
辛抱したところで、根本的な問題に手を加えなければ改善はないだろう。
そして、他人は他人で冷酷なもので、
現時点を辛抱できるなら、もっと辛抱することも可能ではないか?
って思うことは、、、もう現代社会をみればそればかり溢れているだろう。

僕としては、他人に命令や強制を強いるが、辛抱を強いることはしない。
???って思うかもしれないが、
命令、強制の背後には、必ず目的と条件が発生させている。
しかし、辛抱には現状維持しかないから、生産性の向上は薄いといえる。
そんな活動をするくらいなら、そこで改善、回避を起こすべきであり、
それは辛抱を強いったから導かれる結果ではなく、
当人の考察、行動の結果だといえる。

耐え忍ぶことより、
なぜこのような事態になったのかを考え、行動することが
現在社会の価値と思うし、人に対してはそう評価を下したい。

2009-07-09

学習

この言葉に対していろいろな意味説明、解釈があるが、ここでは

生後の反復した経験によって、
個々の個体の行動に環境に対して適応した変化が現れる過程。

としよう。

学習能力について言及されることがよくある。
人間においては学習能力とされるが、上記内容から考えれば
生態系においては、適応能力にあたるだろう。

多くの生物は、適応能力がないと死滅してしまうことが必定だ。
仮に適応が遅れた場合、何世代にもわたる適応行為がかかったりする。
しかし人間社会においては、その分野において学習能力が低いのならば
当人が別の環境への参入という、選択肢がある。
それだけ、人間は生存率を高めているといえる。

とはいえ、、、、だからこそ、
学習という環境適応行為においては、
自分の生存そのものに関わるという意識
あいまいに、なんとなく、ということはせずに
この学習によって、自分の人生がどうなるのかを
常に意識してあたりたい、、、そして当たらせたいと思う次第だ。

2009-07-08

意見

ある事についてもっている考え、それをあらわすこと。
ここに示すように、この雑記は僕の意見そのものだろう。
自分自身を他人に示すことは、
自分の言葉、考えをまとめた意見そのものだと考える。
つまり、意見なくして、存在なし。

異論ないまま、他人に同意するということ重要だが、
なぜ同意するのか、
その根拠たる意見を自分なりにまとめておくことが重要である。

古来日本は
「男はだまっていても伝わる。」
「背中で語る。」

この表現が大和男子の理想とされていた。
意見を持たずに黙々と、、
それは、田畑やひとつの技巧に特化した、
他人の力を必要としない生業なら成立するが、
現代の商法の下の企業体に属する社会人では成り立たない。
他人との情報共有が必須条件であるからだ。

だから、会社の生産性に比例して、
自分の意見をもって説明する能力が問われている。
アカウンタビリティー、その能力が培われて、
個々人が意見をもって企業体の活動にあたることが
概ね国際企業としても渡り合えると僕は考えている。
今は、意見のほうが企業活動より大きいとしても、、、

2009-07-07

連携

連絡をとって、一緒に物事をすることであるが、
連携行為が成立しているときには、
実際には連絡をされていることはない。

連携を発生させるには、予めの事前動作、
前提条件で
どのような動作に対して、
次の引き起こされる動作を互いに了承していることになる。

白鳥の水かきではないが、
実際に見えているものとその影に潜む
見苦しいまでの下支え動作を一般人は理解できていないことが多い。
だから、連携等の連続動作を
・以心伝心
・仲がいい
と思い込むが、
本来は、事前に徹底された、
それぞれの役割を忠実に行っていて、
失敗すると関係各位からどれだけ責められるかのプレッシャーの中で
成立していることが多い。

鬩ぎあう緊張感と自分の行動の確実性
その極限状態を理解をもって、初めて個々の活動が全体の一部に昇華できるといえる。

2009-07-06

契約

意味的は

私法上、相対する二人以上の合意によって成立する法律行為。
債権の発生を目的とするもののほか、身分上の合意や物権的な合意も含まれる。

とされている。
欧米は契約社会とされている、つまり同意されている社会とされる。
でも本当だろうか?本当ならば、背理の訴訟社会といわれることはないのではないだろうか?

思うに人間に合意なんてありえない。
価値観、自己主張、他人を思いやることに注力されていない。
思いやりが重要っていう主張も、思いやっている自分が好きなだけと言い切れる。

契約という行為において、重要なことはいかにその契約内容をもとに
自分の言い分を主張できるか、それが今重要といえる。
契約が自分たちを護ってくれるという、前代的な発想はもう通じない。
契約をもとに、いかに自分の主張を貫くか、その発想が求められる。
自分が自分がという発想を好ましく思わない日本文化と思われるが
その傘下にいる庇護者どもは、上の人間がもっと主張してくれないから
自分たちが日の目をみないって思い込んでいるのも、
日本文化といえることを軽視してはならない。

2009-07-03

記憶

経験したことを覚えこんで保持しておき、
のちに過去の経験として再生する働き、また、その内容そのものである。

記憶力と頭の良さを同視する傾向が人間にはあるが、
正しくも感じるが、僕はそうではないと思う。
覚えているということ自体では、生産性、効率性は導かれない。
覚えていることを元にして、その応用力もしくは発展を試みて
成功を見出したものが頭がいい等の賞賛に値すると思う。

逆説から考えれば、
覚えていることが前提で、その覚えていなければ応用も発展も出来ないではないか!
という指摘のとおり、覚えていることも頭のよさの必須条件なのだが、
ただ覚えている、情報という素材を頭という倉庫に収めているから
出来るという認識はおかしい。

例えるなら、
とても良質な素材を手に入れているレストランの中には
とてもおいしいレストランがいいが、
必ずしも、おいしいとは限らない。
素材をどう加工したか、そのスキルに賞賛すべきであり、
良質な素材を手に入れる行為はその加工技術の必須条件にすぎないと変わらないといえる。

いいものを
もっといいもの、、使えるものにすることが
人が優秀といわれる要素といえる。

2009-07-02

安全

危害または損傷・損害を受けるおそれのないことをさすが、
生物にとって、安全でないことを自覚することが種の繁栄につながってきた。
安全ではない、いつか滅んでしまう、その自覚から
・より長く生存できるためには
・自分の行為、功績をもとに、多くの同族が楽な生活を
という発想、、いや本能からそれを導いていると思われる。

人間は知的行為によって、安全を具体化、具象化させているが、
多くの動物は、遺伝、親子継承によって、
進化というカタチで、より生存率を高める特性を身につける。

「本当の安全は買えない」

というキャッチコピーを見てきたが、
安全を得てしまった、、緊張感のなくなった生物の末路は
あきれるくらい簡単に絶滅してしまう。

安全なぞはない、、、、
いや、常に緊張感と種の存続を意識していることが
本当に意味での、安全ではないだろうか。

2009-07-01

状況

時とともに変化する物事の、その時、その時のありさまであるが、
状況報告という場合、多くの人間は勘違いしている。

状況というものは時間とともに変化するのだから、
報告をまとめているその時点で、すでに現在は存在しない。
いくら、状況報告をしたくても、過去のことをまとめているにすぎない。
だからこそ、僕がもとめる状況報告はそんな後ろ向きなことではない。

過去~今まで  どう推移してきたかの事実立証
これから    今後企画されているアクション、イベント

をもって、次の施策を講じるための奏上が状況報告だ。
報告を受けて、
「大変だねえ」
「がんばって」
だけならば、状況を報告するための検討、
記述時間はとても無駄な時間になってしまう。

人は等しく、時間をもっているが、役割権限はその瞬間で異なる。
その中で互いを効率的に機能させる手段が状況の報告であり、
その趣旨たる瞬間を捉えることが、状況把握である。