2011-11-10

政府

人間はなんだかんだいっても、攻撃性をもっている。
それを誰かに向けなくては気がすまないといえる。
それが直接的な対象者ではなくても、

昨今の天変地異
経済危機
に対して、僕の見解では、わかっているなら対応できた。
それはみんな同じことだろう、
それでもおきたのだから、と感じているが
多くの人々は、政府批判しかしない。

みんなの代表である政府が対応してくれない、対応が遅い。
と、政府批判をするけど、
多くの国家で政府の代表を選んだのは国民、
つまり自分たちの代理である。

他人ごとのように批判するけど、
代表である政府、この国民の対応の縮図であり、
自分らができること以上のことはまずできないし、
対応もその国のレベルを移すように見えてならない。

熟考するという決断の遅い国
やっていると嘯く国
ニュースで報道する前に手を打つ国

政府の対応は国民性って感じてならない。
期待しないで、自分で行える国民性が
結果として、政府も期待以上の対応してくれるものであり、
逆に
やってくれるの待ったり、批判をしている国民性なら
国民の自発性を待つ政府が生まれるのは必定といえる。

結局、政府なにも、、というけど、自己批判の範疇でしかないのである。

2011-11-09

自覚

sectionalism による分業の末路は無自覚だといえる。
もっと言えば、庶民レベルが専門、職人性を求めてしまうと
結果的に自分自身を自覚できなくなる。

現代人は他人に対して、少しでもできる人への依存心が高く
「そこまでできるなら、あれもできて当然だ!」
と平気で言う。
しかし、いざ自分になると
「自分はこれであり、それは全く違う」
といい切り分けてしまう。

旧来のマニュファクチャー、職人工芸の時代だと
専門性、分業ができていないために
結果的にすべての工程や依頼窓口がひとつで
自分がやるしかないという自覚があった。

分業による効率化、
専門性による自己の付加価値の追求、
はっきりいうと、この工程に入っている存在は
プロフェッショナルとしては失格といえる、、いやプロではなくマシーンである。

この工程において、決められた命令をこなすのであれば
機械のほうが安く、正確だ。

言われたことを自分の範囲内でしか処理できない存在が多い現代社会。
どっかの漫画、アニメではないが、
人間である必要がなく、機械に置き換えてしまっても
なんら問題なく、、、いやかえっていいかもと強く感じる。
自分の存在意義を自分自身で自覚できる存在になる努力が
今の社会ではとても重要。
この先にくる自然淘汰の波に立ち向かうためには、強く感じてほしい。

2011-11-08

確約

たぶん、21世紀は確約破綻の時代といえる。
いい意味で言えば、社会の大転換期
悪い意味で言えば、将来が極めて不安
といえる。

確約があるからこそ、信頼と目標が成り立つ。
確約を信頼して、次に進める
確約を目標に、進むべき道を見出せる。
それが、契約社会、資本主義の根幹といえる。
そして、これが地道、努力を支える根拠であり、
組織の方向性を担保までしていた。

しかし、確約は破綻してきた。
地球規模で始まっている天変地異
複雑化した経済問題
情報発信の容易化、情報精度の低下、伝言ゲーム現象
が、いろいろな条件で自分に降りかかり
これまで、確約していたことがさぞ当たり前のように消えていく。

その確約にすがろうとすればするほど、
他人から痛烈な批判を受ける事態になっている。

「努力は報われる」
と信念を持っていたとしても
その努力行為が努力どころか、
悪行とみなされてしまう時代である。

確約が確約ではない時代なので
社会、制度、人間関係もすべて時限的、刹那的に捉えるほうが
今を生きる精神として、
裏切り感、
絶望感
を最小限にできるのではないか思ってならない。

2011-11-07

相違

エコノミスト、、(この肩書きも胡散臭いが、)視聴者からの質問
「TPPとブロック経済の違いは?」
と聞かれたときに
「全然違う!理由は包括的、、」
と答えていた。

たぶん、これの発言で、視聴者の多くは、同じじゃねーか!って思ってしまうだろう。

相違について問われるということは
似ている認識を質問者側は感じていること、
似ている先入観や理解をし始めているのである。
そこに、回答者が自分の知識を前面に出して
完全否定と自らの知識の披露をしたところで、相手の理解を開眼させるには至らないだろう。

相違についての立証は
・似ていると思われたこと
・異なるポイントの具体例
をすること、理解のカテゴリの分別を促進することができる。

この視点はどうやら、
有識者には欠如して、自らを無知と自覚している人のほうが切実に説明できることが
僕の経験則で思ってならない。

専門性に偏ったために、自分視点が物事を俯瞰的に見えることを遮って
相違、、いや逆に他との重要な酷似要素を見落としていないかなって思うことがある。

2011-11-04

援助

たぶん、人間が身につけて社会で一番勘違いしている概念。
相互扶助の概念の社会主義が破綻している現代において
援助という概念は成り立たない。
援助ではなく、未来利益を担保支払いを投機行為でないと成り立たない。
仮に、心からの無償支援と思っていても
こういう場合、援助を受けている側は
「もっと援助しろ」
「我々を助けさせてやる」
という弱者の論理で、援助側の気持ちを踏みにじることが大概発生している。

ビスマルク宰相にまつわる逸話がある。

沼に嵌って溺れている友人から助けを求められたところ、銃を向け
「その沼は底なし沼なので助けようとすれば二人とも溺れ死んでしまう。
 せめてもの友情で、君が苦しまないよう一発でしとめてやる」
と言い放った。
驚いた友人は、懸命に泳ぎ自力で沼から這い上がってきたといわれる。

僕はこれこそ、これからの時代の最高の援助だと思う。
下手な支援ではなく、自ら助くるものを助く、その行為を促すことが重要といえる。

2011-11-02

権限

若かりしころ、零細企業の社員だったために
元請、下請け、孫請けの社員に馬鹿にされたことを鮮烈に覚えている。
それは、自分の才能ではなく、
会社のブランド力のせいと思っていた。
その屈辱をバネに
ヘッドハンティングなどで、外資、一部上場企業を経てきて今に至る。

若かりしころの思いは今もあるし、
そして、当時の自分の才能に欠如していたものも意味では見えてきている。

確かにブランド力や現場での肩書きは重要だ、
これらのものがあれば、馬鹿でも自分の好きにできる。
でもこれらの根本にあるのは、、権限の恐怖だ。
権能と違い、
権限は限りの力、抑止を前提にしている力だ。
ブランド力のある企業に逆らうと、この先仕事がもらえる権利を失う
肩書きのある人に逆らうと、自分の発言権などが否定されてしまう
この関係で成り立っている。

だから、権限をどんなカタチでもいいから握ればいいと悟っている。
権限ってものは本気でやれば、いろいろな形で手に入れられる。

みなさんも気づいているように、
権限を持っているのは、地位のある人とは限らない。
お金を握っているとも限らない。
権限はいろいろな要素のなかに転がっている。
それを使い、
相手を追い詰めることができるものが現代の勝者と言い切ってもかまわないだろう。

発想を変えれば、権限取得は誰にでもチャンスがあるということでもあるのだから。

2011-11-01

普請

なかなか使わなくなった言葉といえるが、
現代国際社会において、普請が今とても求められることといえる。
普請とは、社会インフラ公共施設整備活動である。

日本の建物行政はある種、税金の無駄遣いのような評価を受けているが
実際問題、道路の掘り返しや建物建設は
規模の大きな仕事の経験、実績を多くの民間企業にさせて
日本の建設技術を高めさせてきたと思ってならない。
震災後の早々の道路復旧活動は日本の技術の賜物と思わざる終えない。
逆に、建物行政が衰退したからこそ、
日本の失われた10年がきたのかもしれない。

僕の見解としては、福祉よりも普請活動を優先すべきだと思う。
社会として明確かつイメージしやすいものづくりが経済活動を活発化させて
それに携わるモチベーションや労働意欲が高齢化への起爆剤になるといえるし、
ただ生きている福祉よりも、何かを作り残すために生きる活動のほうが
よっぽど道徳的だといえる。

「働かざるもの食うべからず」
って子供を教育してきた老人たちが福祉、年金と騒ぐのは
本当に自己主義に感じて醜く感じる。