2012-12-28

師走

12月を師走というが、
本当の意味での師走は3月ではないだろうか?
進級、卒業、などの準備等で忙しくなるのは
12月より、学級年度絞めの3月のほうだと思う。

言葉として、成り立っているが
それが時代の流れで本質を見失う言葉について、
考えなおすことはしないのだろうか?

当たり前、今までどおりが許されない時代になっているだけに
日本語の有り様についても考えるべき、
そこにもしかしたら、新しい可能性やいろいろな糸口があるかもしれない。

このブログを書いていて、
いつも熟語というもの存在意義を感じながら書いている。
使っている言葉の意義どころか
真意を全く理解しないまま使われていることが多い。
正しく使おうという警鐘を鳴らす気は毛頭ない。
正しさより、なぜこう変わったのか、
日本人はどういう傾向があるのかを自分なりに考えることが
結構有意義と思ってならない。

もしかしたら、この熟語が僕の師であり、
僕の思考を走らせているのかと感じながら、
今年を終わろうと思う。

2012-12-27

調性

聞きなれない熟語かもしれないが、
長調、短調という言葉なら、、、音楽の授業で聞いたはず。
しかし、長調と短調の違いは明るい音、暗い音と
漠然として認識になっているだろう。

かくいう僕とて、絶対音感を持ち合わせているわけでも
きちっとした音楽教育を修めているわけではないから
正しくは定義できないのは事実。

そう思うと、
学校、、、義務教育における音楽の授業ってなんだろうね。
だっておかしいよ。
音楽の授業を真面目でない輩が
ロックバンドで大人気とかいうと、
教育をうける意義とその結果が伴っていない社会に感じる。

調性を理解することで食べていけるのは、万分の一の人である。
なら、そこは一般教養、義務教育にあるべきだろうか?
知りたいと思う人への選択肢を広げて
義務教育課程から外すべきではないかと思う。

調性について、ちゃんと’調整’すべきではとね。

2012-12-26

不断

不断は ’ふだん’ と読み
’不断の努力’ とかの使い方になるが、
この言葉、日常への音便がなされ、
’ふんだん’
という表現もあり、
’料理の具材は、ふんだんにあるから、、’なんて使われ方もする。

ふだん
ふんだん

使われ方が異なるが、
ずっと、絶え間なく 
という意味、意義は共通している。

ふだん、ふんだん がなぜ共存かつ使い分けがあるか、
それは説のレベルで分からないというのが、今の状況だ。
説の多くは
・社会変化
・地域性
などがあげられる。

つまり言葉はTPOでかわると力説するのが、、
それって、正しい日本語がないということなのだが、
平気で正しい日本語といわれる昨今。

不断の努力で意識して、正しい日本語を使う努力しても
ふんだんに生まれでてくる新しい表現で
正しい日本語の定義すら危うい。

言語、表現の変化は、その語族の進化でもある。
今、日本語が乱れているといわれるが、
乱れる体質になった日本人だからだと思うがね。

日本として不断として使ってきた日本語、
今後、どうなるのかな?
英語に変わって、途切れる?
いや曖昧に生き続けるでしょうね、
それが日本の不断のカタチだから。


2012-12-25

陰謀

文字にすると悪いことのようになる。
しかし、それは発言者の主観であり、
実際は、製作、ネゴシエーションの結果である。

はっきり言えば、
陰謀という発言を口にする輩は愚者である。
結果として、
現状を他人のせいとして、
その一言で自分の愚かさを正当化しようとしているだけである。

情報は秘匿してこそ価値がある。
人と人との親密度はイベントや積み重ねである。

それらの活動をして手に入れた結果を
敗者が、陰謀があったというのはどうだろうか?
自ら何も行動していないことへの反省どころか
それを清いという発想がおかしい。

陰謀という言葉を発する輩は
発想からして、自分に不利益についてはそういうレベルで言いたがり、
社会を前に進めない因子を内包している。

清く正しいという妄想で、負け続ける現状を自覚して
もっと、あるべき事実を受け入れること、
受け入れない愚者を罰することをしないと生き残れない。
潔いことで惨めになることもより、
どんな事をしても勝ち生き続けるほうが
市場能力主義のこの時代なのだから。

2012-12-21

拘泥

こだわりをもつこと、

市場、ビジネスの世界では両極端な評価を受ける。

「時代に左右されることなく、こだわりをもって挑んでいる」

「市場を意識しないで、ひとりよがりのものばかりを作っている」

僕からすれば、やっていることは変わらないのに
他人の評価だけで印象が変わる。
まして、この評価、常ではなく、日々変わる可能性がある。

市場が正解という意見がある。
だから、ある一つのことにこだわることは危険かもしれない。
されど、人間器用にいろいろと対応できるものだろうか?
拘泥というより、ひとつのことにかけるという考え方が
ある意味での選択と集中になるかもしれない。

だって、いつ、何がリバイバルするか全くわからない世の中だけに、、

2012-12-20

調律

楽器が発する音のピッチを演奏の目的に適うように調整すること

多くの一般人ではなかなか難しいというより、
どれが正しい音なのかわからないといえる。

人によっては、調律されていないときに
なんとなく違うと思うことがある。
それを調律されていないことに気づけるというが、
それってある意味、洗脳されているということではないかと思う。

いつもの聞き慣れたものが正しいという概念。
本当は何も根拠がないが、いつもであるということが正しい。

それってやばいことではないだろうか?
その結果がガリレオの宗教裁判のようなことを導く。
正しいという思い込み、、、、
ある意味一番調律しやすいのは、人の脳波なのでは?!

2012-12-19

湯治


温泉地に長期間(少なくとも一週間以上)滞留して
特定の疾病の温泉療養を行う行為をさす。

言葉としては残っているが
現代日本において、湯治を行うことは
不可能、無駄となったといえる。

医学の発達で
湯治の効果より、健康保険の適用できる治療を優先することになる。
湯治の効果は、医療科学において適切ではないとみなされていることは
自明の理とまでなっている。

また、湯治を行うことは
休職、湯治場での一方的な出費を意味して
その行動をとるだけで
経済負担、場合によっては近隣者にいやみを言われる対象になってしまう。

医療科学
効率
社会性
の観点で、湯治は認められない事になってしまっているが
湯治という日本らしさは日本には要らないのかねえって思うなあ。
医療効果は、、精神的なところも認めるべきなのにねえ。

2012-12-18

電飾

ある意味、景気のバロメータ。
電飾をかなり上位の嗜好品。
とりわけ、この節電風潮の中で、電飾を行なっても許される
・経済性
・周囲への理解
・必要、効果性
が無くてはならない。

好景気のときは
街はやたら明るかったが、
明かりがちらついて、ある意味下品だったのかもしれない。
今のような、最小限の電飾のほうがその電飾の本当の意味を
再認識できるようになったともいえるのかな?

2012-12-17

直線

フリーハンドで直線を引く。

綺麗に直線が引ける状態について、

心理学では
悩みがない、ある意味、何も考えていない

宗教観
ブレがない、悟りの境地

体育館点
緊張しているから、筋肉が固まっている

とか、言いたい放題な分析をされる。

僕自身、
直線をフリーハンドでまっすぐひっけたことがない。
それは、左利きようになっていない
ノートの見開きとか
筆記具の持ち方や書き癖にも影響があると思う。

直線を引けるからといって、、
それがいいこととは思わない。
引けないからこそ、定規や罫線という
技術革新があったのではないかと思う。

あるべきことができることが必ずしも
いい結果になるとは思わないほうがいいといえる。

2012-12-14

王手

将棋などで、勝負の決め手となるコマを指そうとする一手である。
転じて、目標達成を決める直前の状態を指すことが多い。

僕の中で、王手は一番危うい時期と思ってならない。
気の緩みによる大失敗を導くからという、、いわゆる低次元なものではない。

ビジネス、人生において、目標達成となることなってはならない。
それは、法人、個人の死を意味するからだ。

王手となった時点で
次の目標を提示できないとその先がないことになる。
一つ一つクリアして、次のことを探すというレベルはお粗末な考えかたで、
目標達成前に次の目標を準備できていないとならない。

それが、使うもの、使われるものとの大きな違いかもしれないが、
そう考えられないと人や仕組みを統べる価値はないと言い切れるだけに、、、、

2012-12-13

巡合

日本語に対して、批判的な姿勢をもっているが、
稀有ではあるが、好感を持っている言葉もある。

巡り合い

辞書的な意味では、偶然出会うという意味だが、
熟語が示しているように、巡り、、、人生輪廻は流転しているから
その偶然も巡っている輪の中で起きた必然てきなことという思いが込められている。

僕は偶然とか、なんとなくという感覚が嫌いだ。
それは、起きた事象について
責任を取らないという宣言であり、
なんともアタマを使わない愚者の宣言といえるので。

偶然ということも、
何かの行為が影響し、それが人生社会の活動が
その結果を導いていると僕は考える。

自己責任が巡り巡って、その出会いを導いたと考えて
日々の活動に思いを込める、またその行動の影響を考える
そんな生き方をし続けたい。

2012-12-12

樹脂

文字どおりであれば
樹木の油のことだが、実際にはプラスチック、石油化学工業製品のことになる。
これも日本語を学ぶ外国人にはある意味、丸暗記で覚えてもらうしかない言葉だといえる。
だって、この言葉、日本人の勘違いのゴリ押しという経緯で成り立っている。

石油は植物の化石であり、それを固めたものがプラスチック、
だから樹脂のことだって平気で言い張っているものだから。

一般用語と科学技術が必ずしも一致するとは限らないが
その改善がされないと、結構意味定義の乖離が進み、かけ離れてくる。
通じればいいじゃん、
言葉は変わる、
と開き直っているからこそ、日本語というものが使いづらくなって行くのである。

今は公用語を英語にとかいう議論をしているが、
20年くらい前は、日本語を国際標準言語にしよう!だったはず。
ある意味、日本語は諦め、捨てる方向なのかなってまで思ってしまう。

2012-12-11

神頼

日本人の多くの人は多神教、、無宗教に近いとされる。
これはいろいろな長短があるだろう。

信仰が強いと人間の善悪の判断基準に近づき
他の宗教を悪とみなして、嫌悪、抗争の火種になるが、
多神教、無宗教が大半を占めれば、
必然的に多くの神に寛容にならざる負えない風土、社会になる。

信仰は人の判断、節制の軸とされるだけに
信仰を持たない人の多くは軸がないに等しいので
結構、考え、判断がブレることも多いが、
それだけ、柔軟に意見を変えられる。

そんな日本だから生まれたのだろうな、この諺

「困ったときの神頼み」

他の国では、ちゃんと信仰心を持っていると
定刻、定期に規則正しく、神に感謝する行為を行うので
困ったときのみという概念がないといえる。

こんな諺が生まれる日本、
良くも悪くも、信仰の自由が本当に認められているというべきなんだろうな。

2012-12-10

彷徨

彷徨というより、さまよう ってと言う読みのほうがしっくりくるだろう。

現代では、森や荒野が皆無なので
彷徨うという本来の意味では難しいが、
逆に、多くの人が、いろいろな意味で彷徨っている時代と思う。

場所として、変わりゆく街を
立場として、変動の激しい社会情勢を
時間として、自分のあるべき姿を

彷徨っている状態といえる。
叙情的な表現に感じるかもしれないが
実際問題、なんだかんだ言って、
自分の軸を持って生きている人は少ないようだ。

人によっては
自分探しとかいうのも
そんな流れなのかもしれないが、、、

それにしても、、あまりに多くの人が彷徨いすぎているような感じがするなあ。

2012-12-07

餡子

日本で言えば、あんこ というと
小豆を甘く煮詰めたものに代表されるが
餡そのものは
小麦粉で練った生地に包まれる具材全般を指すものといえる。

だから、必ずしも甘いとは限らない。
アンコと聞いて甘いモノを連想してしまうのは、、
実は江戸時代直前という今から400年くらい前であり
それまでは甘いというより、食事そものであった。

と考えると、
アンコというものは
確かに中国から輸入された餡の技術の応用であり、
厳密には日本食文化ではないという切り口も言い出せるが
400年の歴史がそれを日本食文化に昇華させたものといえるだろう。

その論法で考えると、、、
拉麺も、、、あと数十、百年で
ラーメンという日本食文化になるんだろうなって思う。

2012-12-06

起動

最近のOSは起動時間が早い、、
というより、起動という概念すらなくしているようである。

要件から考えれば、
「欲しい時にすぐに手に入る」というのがITの大前提であれば
この傾向は実に正しいといえる。

情報を取るために、事前情報や検索準備に手間取っていたら
情報は生物という感から
なんのための情報取得かと言われかねない。

これだけ、機器のOSの起動が早まると
今後の問題は、それを起動させる人間のアクション、気づきの問題になる。
、、、人間の起動は、、、それこそ、個体差がありすぎて

これだけ、情報検索性、多様性が高まっているので
ここの能力比較は、そのステージではできづらい。
となると、その即時機動性こそ、ある意味、能力そのものの時代であると
感じてくる。

2012-12-05

老朽

朽ち果てても認められない、
何か事件が起きない、それは老朽と言われない、この日本社会。
今、事件で盛り上がっているが
この事件がなければ、
公共施設への老朽に対して改修どころか
それは税金の無駄遣いと言われ続けていたのである。

亡き父が道路改修に携わる生業をしていて、
道路の改修を税金の無駄遣いと揶揄され続けていたが、
今生きて仕事を続けていたら
何故していないんだ、民意から言われていただろう。

いくら仮想で知っていても
そして、いくら成熟された精神状態となっているいわれても
人間というものは目先で起きた事象に
平気で今のまでの発言責任をなかったコトにできる愚かな存在と思ってならない。
そう、人間の考え方そのものが地球規模で老朽化しているではないかと思う感もある。

2012-12-04

安息

何の煩いもなく、くつろいで休むことをさす。
基本、現代人が安息を持つということはありえない。
もし、安息しているとしたら、それは仕事をしていないということだろう。

安息を持つということは責任を持たない状態であり、
それは社会において、必要のない存在である。
社会を構成するということは、いつも責任をもって緊張し続けることである。
だから、現代社会において安息はあるべきではないと思うが、、
どうやら、僕の思っていることは、この現代社会では通じなくなってきているように感じる。
無責任に安息を社会に求めていることが実に多い。

少し社会の箍が外れているような状態ではないだろうか、、
このまま進むと、
安息を求めるなら、いっそ真の意味での安息、、
命の安息を対価で示すことが、本当に必要な方向に向かっているのではないか
と感じることが漠然的だが、背筋が凍るような感覚を覚える。

2012-12-03

狂気

狂っているということを当たり前と感じているかもしれないが
実は人間の一番幸せな状態を他人が見て表現すると
狂気そのものといえる。
自分が一番幸せな状態が他人も幸せという幻想から一歩下がって冷静になれば
「なんでこの人、、狂っているだろう!」
と思う状況である。

考えてみれば
狂うということは
ある意味、他人と意識を共有できない状況、、
それが人間の真の幸福という考え方が哲学的には正解といえるだろうな。