悪を懲らしめる。
なんとも、すがすがしい言葉に感じるだろうが、
僕からすれば、社会的暴力の前兆にしか見えない。
そもそも、
懲悪行為を、悪がいるから懲らしめると考えているかもしれないが、
懲らしめるべき存在は本当に悪なのだろうか?
懲らしめることが出来る存在がいるからこそ、
悪とみなすべき存在を作り出さなくてはならないということを
考えたことはあるだろうか?
人間は自ら悪になるのではなく、
他人に悪にさせられるということを
わかっているだろうか?
吉良上野介は地元では治水、新田開拓を推し進めた名君であり、
石田三成は関が原の農民を全戸に退避勧告と保養地を用意して戦に挑んだ。
世間で言われる悪人の実像はこうである。
力を持つものは
その力の正当性を維持するために
懲悪行為を創設する。
懲悪とは善なる行為ではなく、
権力の確固たる物とするための軍事的、暴力的威嚇扇動行為であると思うべきである。
聖戦、
正義のための闘争、
、、、暴力反対って思いを胸に、
殺傷兵器を振ることに
陶酔し易いのは人間という動物の性だといえる。
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