2010-08-31

傀儡

操り人形のように扱われるということ。
好ましくない表現で使用される言葉だし、
傀儡になっている存在に同情、哀れみを感じさせる。

しかし、それはどうかと思う。
傀儡になるべくしてなってしまったのではないだろうか!
傀儡になるということは
その当人の持つべきものが能力とマッチしていない状況ではないだろうか?
・先祖からの血統
・引き継いだ財産
・あまりにも大きな決定権限
はっきり言えば、その当人が持つべきではないものだったのである。

本来であれば、その当人に資質がないのだから
取り上げて最適化させるのが、社会システムなのだが、
その当人への配慮から、無資格だが能力のある人間が代行してあげる。
それによって得た結果を当人に帰属させてあげているのである。
それは代行行為なのだが、無自覚、無能である当人や関係者が
その行為に自覚がなく、騒ぐから傀儡と認識されてしまうのが世の常である。

実際問題、歴史上、傀儡にさせられた当人が仮に親政、当人実行をしていたら
結果無残な結末になっていただろう。
傀儡でかわいそうって思われるか、
馬鹿なやつのためになんで俺たちが苦労しなくてはならないのか、
は本当に紙一重でしかないのである。

2010-08-30

両立

バランスよくこなすこととされるが、
考え方として、あるべきなのは、どのタイミングで何を捨てるのか。
これに尽きる。

人間の時間というより集中力は1つと考えるべきだ。
集中力が同時期に複数出せるという話は
それ自体で論理矛盾だ。集中しきっていないではないかといえる。

その集中力は持続時間も発生タイミング、発生条件は
個人差があるとしても、おおよそその人で決まってしまっているだろう。
それゆえ、その集中力をどう使う、どう引き出すかを
得たものが両立を実現できると感じる。

僕からすれば
その両立ができること自体にあまり価値を感じていない。
1つに集中して大成させるほうが価値が高いことのほうが大きいからだ。
しかし、現代社会において1つだけに集中して大成させるのは
かなりリスクがあるので、いくつかの小さな成功を成り立たせることが無難といえる。
大きく大成せずとも、成功という結果があることに価値を感じるからこそ、
両立させることに対して、その結果的な評価を見出しているところはあるのだが、

2010-08-27

単純

実は結構難しく、そして結局は戻ってくること。

単純であるということは
簡単
簡素
味気ない
それだけ
という状態といえる。

素の状態であり、
その存在が現れたままの姿である。
その単純な状態があるからこそ、
人間はそれに付加価値をつけて
単純さとの差別化を図る。
付加価値がその単純さへの自己主張のように、、

しかし、それは付加価値でもあり汚れでもある。
その付加価値の累積が
そもそもの単純なことを見えなくしてしまい、
本来なんだのかをわからせなくしてしまう。

そうして、本来の姿ならもっと簡単なのに
付加価値という汚れがこびりついて
その付加価値前提で複雑なことをしなくてはならない
それが現代社会ではないかと思う。

本来の姿を単純と見抜く力、
単純に落とし込める能力、
が現代社会ではとても重要である。

だってそうでしょ。
部屋を自分好みにすることは=汚れに等しく
それをもとの部屋に戻すのは結構大変な清掃力、整頓感覚が
求められるのだから。

2010-08-26

間引

自然界では当たり前だが、人間には非道徳とされる行為。
優良種の育成のために、劣勢種を廃絶して優良種の発育を促進させること。

多産動物の育成方法として自然界では当然のように行われている行為であり、
自然界の生存競争のひとつの象徴である。

人間は高度生物だから、間引きなんてことはしないと思うが
それは大きな間違いである。
植物に対して、
剪定
選蕾
を行い、より強い樹木、大きな果実を得るために間引きを行う。
間引かれるのは、枝、葉、蕾である。
僕の視点からすれば、自然界の当然のことであり、
植物と人間は違うという発想がおかしく感じる。
そもそも、こけしという玩具の発祥も間引きであり、
人間も昔から間引きをすることを理解している。

間引きをすることへ非道徳の感情を持つ人がいるが、
間引きをせずに劣勢種をも救おうとして共倒れになってしまったとき
間引きをせずに助けたつもりの劣勢種が自分の意にそぐわないことをされたとき
その非道徳感を持っていた感情はより一層の憎悪になることは
多くの人間像でみてきた。

見た目の非道徳、倫理観の尊重がその後の苦しみになるのであれば
早めに処理することにためらいを持たないほうがいいと感じている。

2010-08-25

重要

逆転の発想で考えよう。
何を重要ではないかを理解して、それを捨てるということを実践することだ。

学生時代、
教科書の重要なポイントにラインマーカーを引くとすると、
教科書のセンテンスがすべて、ラインマーカーになってしまう。
そんな光景を見てきた。
今のとなって思えば、教科書自体が、重要な内容に要約された書籍であって、
重要ではないことは極めて少ない内容に構成されているのだから
それなるのは必定だったといえる。

重要という言葉は極めて
相対的、主観的な言葉であり、
話し手からすれば、自分の言葉はすべて重要と思ってしまう。
重要だからわざわざ伝えているという思いでもあるのだが、
聞き手においては、そうでもないかったりする。

それでは困ると思うかもしれないが、
いざ自分の胸に手を置いてみれば、
自分もそんなもので相手の話をすべて重要とは思っていないはずだし、
もし思っていたら、自分の意思がないと言い切れてしまうのである。

だからこそ、ポイントして話し手の言っていることで
今すべき、これだけは押えておかなくてはならないことを
見抜き後は捨ててしまい、自分の意思や他の話し手の意見を汲み取ることを
身に着けるべきである。

「相手の言っていることをすべて理解して答えてあげよう!」
なんて標語をいうが、そういう標語を掲げる人ほど
「言われないとできないのか!」
って言うのだから、重要なんてものは要領よくこなさないと
重要なことばかり行って自分の首が絞まってしまったということになるのだから。

2010-08-24

用紙

人間、いや日本人の行動規範の具象と思う。
お役所に限らず、どんな組織でも相手から出してもらう情報は
用紙に従ってもらうことが極めて多い。
読み手が効率的、画一的に処理を行うためには
用紙に従った記述情報が的確とされていたからだ。
そのため、出生届~解答用紙~死亡届と
日本人としての経緯は用紙をたどれば
その人の生き様がわかってしまうほどだ。

そのためというか、
読み手本位の用紙の概念が
書き手側には当たり前になってしまい、
フリーフォーマット
自由記述
といわれるとテンでダメで、
人によってはサンプルを要求したり、
挙句の果てには、
フリーフォーマットのサンプルおよびそれに従った書き方を示す
読み手が当たり前に現れ、自由な表現の意味をとり間違えてしまわれている。

逆にビジネスチャンスとして捉えれば
用紙を作ること=統治(ガバナンス)
であり、その用紙作成支援は運営、経営支援だと感じて行動することが
サービスのひとつのやり方といえよう。

2010-08-23

退屈

最近気づいた。
退屈とは、努力していないことと言える。
楽しい、有意義なことはもらうのではなく
自ら行うことで手に入れなくてはならないと思う。

確かに欲するものを与えてくれれば
それは楽なのだが、
実際にはそれでは退屈という真理を招いてしまう。
人間はわがままであり、
ある一定のことが満たされると
それ以上を求めたくなる。

皆もそうだと思うが、
満たされた生活だと退屈と感じてしまうし、
満たされていなく、
何かを求めているときほど、
精神的に満たされているのである。

そのように満たされたときに次の活動を起こすということこそ
ある意味、人間の努力と成長、向上心の現れだと僕は思う。