2012-04-11
斯文
この学問。この道。
特に、儒教の学問や道徳をいう。
日本的にはいいこととされる概念。
勉強する行為が善とされて久しい日本だが、
考えてみれば、勉強する行為は手段であって、
勉強した結果が役に立つものでなくてはならなず、
手段を良しとするのはどうだろうか?
神童のように勤勉な子供の末が
既得権益を重視する政治家
殺人兵器をどんどん作る科学者
になることがあり、勉強することがよかったのに
なぜ、悪い人になるかは当人たちには理解、納得できないことだろう。
反対に、
・不良
・悪ガキ
だった勉強をしていない人ほど
歴史でいい評価、、伝記になったりする。
儒教的な価値観、学問を徳とみなす考え方は
実は意味をなさないのと言い切れる。
2012-04-10
布陣
現代社会では戦という概念で布陣を使うことはゲームの世界でしかなく
人員配置などの構えをさすことが多い。
僕が感じているのは
どんな緻密な計画を立てても
布陣の良しあしでいくらでも変わってしまうものということだ。
むしろ、布陣のありようで、
計画なんてものは意味をなさないということになる。
こんなことを言うと元も子もないと言い出す人もいるだろうが
その布陣こそ、社会を理解しているかどうかであり、
成功の要因そのものといえる。
優秀な人を集めた布陣は必ずしもうまくいくとは限らない。
むしろ、それゆえアクションができなくなるということもある。
互いが互いを尊重、見下す可能性を有することになるからだ。
逆に、無能な人たちを集めたら、、、それは確実で成功しないだろう。
無能という前提条件で集めたら、できるわけがない。
僕が思う布陣は
互いが互いの長短を補える関係であること、
それ以上に
相手を支えるのが自分の使命
支えられているからこそ、自分は報いなくてはならないという責任感
がある布陣をもてば、
それはたとえ、当初弱くても、必ず結果を出すと僕は確信している。
使命と責任が芽生える布陣を良しとする社会、
それは現代自由民主主義概念では難しいといえ
新しい価値観として、創設すべき、新古典的な概念なのかもしれない。
2012-04-06
芸事
芸は身を助ける
という言葉がある。
日本語で芸事というと、遊興のたしなみとされ、
生業とかかわらないことをさすことが多い。
しかし、サービスという概念、無形成果に対価を支払うことが認められると
芸事といえども、それは生業である。
だから、芸事、、、英語ではtalent。
才能ということが当たっている。
芸能人をタレントという理由もそれにあたる。
コンテンツという概念が強くなった日本において、
芸事はもはや生業というレベルに昇華していると思ってならない。
好きこそものの上手なれ。
好きなことをビジネスにできる時代になってきているので
昔来の考え方を捨てて、ビジネスに取り組みたいと思うなあ。
2012-04-05
錦糸
錦糸、、、とりわけ、錦(にしき)とはどういう意味かわかるだろうか?
ボロは着てても心は錦
錦鯉
錦とは、
種々の色糸を用いて華麗な模様を織り出した織物の総称。
英語でいえば、gorgeous が的確な逐語訳といえよう。
日本人の心は、貧乏根性から始まることが美徳であり、
目指すところが、そのgorgeousたる錦であるといえる。
錦を編む糸であるから、錦糸である。
要はgorgeousを生み出す原料であればいいわけである。
錦の定義があいまいである以上、こうなることは自明である。
錦糸卵が正解なのだが、
ある料理人が、
金糸卵と力説していた。
それが間違いというのは今までの価値観であり、
gorgeous = gold であれば、
それは間違いではないともいえる。
だって、卵と玉子どっちも正解だから、
もしかしたら、そういう意味で
gorgeous性を有し、価値を得たら
錦糸卵は、金糸玉子 になるかもしれない。
2012-04-04
練物
日本食でいえば、おでんの具材を代表する食材。
欧風にいえば、ムースもある意味練り物にあたるだろう。
考えてみれば、練り物と口にするという概念は
他の動物には見受けられない。
もともとの食材の形状をとどめないで
別のカタチにしたものを口に入れるという発想は
霊長類のチンパンジーが水をすするときに
葉っぱをスポンジ状にするという話を聞くが
それをそのまま飲み込むという概念にはいたらないといえる。
練り物というものはある意味、
料理の大きな進化といえよう。
あるべき食材の食感、味、形状、何から何までも変えてしまうのだから。
逆に言えば、それにより素体がどんなものであっても
口にできるという考え方でもあり、
人の加工するという発想はほかの動物を超えている実例だといえる。
2012-04-03
祖国
先祖代々の土地、国家という意味合いだが、
日本人にはなじみが薄いといわれる。
それは、移民に先住民として追い出された経緯がないからと言われたりする。
しかし、もっと小さいレベルでその気持ちがあるようだ。
帰郷や故郷という概念は、国、、、郷のレベルで思いがある。
農耕を主体としてきて、その支配関係を成り立たせてきた
ムラ社会である日本において、祖国という大きなレベルではなく
もっと小さい集落レベルの理解が祖国の意味だと思う。
そんな小さなものと祖国論を一緒にするなという論理は
国の大きさが強さか?
人の思いがより地域的であることが罪か?
という反論もできよう。
ドライに言い切ってしまえば、
祖国という言葉は、、言い換えれば、
土地への執着、
今は住んでいない土地への支配欲の誇大
という欲の表れともいえるだろう。
2012-04-02
素案
大まかな案、アイデア、、、場合によっては些細な気づき。
僕はこの素案を出すことがビジネス、新しい事業の種だと思っている。
誰だって、それなりの思いを持っている。
でもそれを素案にする能力がないに等しい。
そして、その能力のない人間において、素案を見ては
「そんなこと誰だって、」
「そんなこと、自分はずっと思っていたことだ」
と口にする。
しかし、思いを素案に落とし込むこと自体が難しいのである。
言われたこと、依頼を受けたことをこなすということは多くの人間ができる。
前提として支配されたうえでの行動でしかない。
素案を出すということは
何もない自分の思いを実現させる意思をもって出す行動である。
ある意味、素案とは自らの主導権、支配権をえられるものでもある。
年功序列の衰退、
能力主義の台頭、
それを助長しているというものだと思う。
もし、自分の素案が通らない、主導権がとれない環境にいるなら、
それはその環境から脱することの素案をたてるべきではないかな?
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