2015-11-30

粋人

粋な人。
この粋って価値観の問題に感じる。

自分の行動を中心に考えて、
相手の行動に対して
「粋ではない」
と言い出すと、言われた側が
「はーー、お前が粋とか言える立場か?!」
ってなり、売り言葉買い言葉の喧嘩になる。

そう、現代社会の価値の多様化により
”粋”という言葉は死滅したといわざる負えない。
だって、なんでもありというということは評価できないということであり
”粋”なんてことは当人の思い込みそして、他人への攻撃的な発言になっている。

これに気づかないと
自分では、かっこつけて生きざまのように”粋”を口にするが
他人からすれば、面倒な嫌な人間でしかない悲しいことになる。

2015-11-27

完成

完全に出来上がること。
最近、、、いや人間は完成を認めないほうがいいのかもって思う。
身の回りでは、BETA版、試供版が挙げられる。
そして、過去においても
東照宮の陽明門の逆さ柱
「画竜点睛」
ということで完成を忌み嫌う。

完成させるということは、そこで過去、老朽化となる。
完成させることにより、いろいろなことが終わり、そして減耗が始まる。

完成させるより、常に未完成のほうがいつまでも進化し続けるし、
まだ完成していないからこそ、価値が決められないといえる。

契約、納期という考え方で完成を要求することが
20世紀においては当たり前のようであったが、
やはり、完成させることにより、価値の減耗、そして機能改善を求める傾向により
完成を求めないで、常に進化を求めてきている。

そもそも、完成ということは完成条件が固定されることが前提なのだが、
市場、社会情勢でその条件がぶれることが多く、それを当然と言い出す以上
完成を求めることがおかしい自覚をもっと依頼者が自覚すべきではないかと思ってならない。

2015-11-26

馘首

捕虜や罪人などの首を斬り落とすことで、
責任を取らされて解職、解雇されることの「首を斬られる」の語源でもある。
何かを行ってその結果での引責が馘首の真意である。

それゆえ、僕は思う。
経営判断の失敗では馘首すべきではないと。
そこは自分の資産を失っても、馘首すべきではない。
それと同時に
引責とは、作為だけではなく、不作為もまた引責とみなすことにしたい。

自分の判断と等しく、傘下のものにも同じ責任をもつことで
始めて労使は対等になるのではないかなあ?

2015-11-25

上梓

図書を出版すること。
語源は、梓(あずさ)が版木であったため、
その梓に文字を上げる、刻むことから来ている。
すでに、版木を使うことはないので、意味として残っているといえる。

しかし、その図書を出版するという行為もまた変わりつつある。
ネット公開、自費出版など
誰でも文章を一般公開できる今、
図書という存在意義、
出版の定義、
それぞれ揺れているといえよう。

過去からの概念で、図書として出版することに価値、地位を見出す人がいるが
その人口数も漸次減っていくものだろう。
上梓することへの価値、
意見を公開させる手法をランク付けなどは
この先大きく変わっていくのだろうって思う。

2015-11-24

公募

広く一般から募集すること。
しかし、日本においては公募といいながら一般から受け付けていないことが多い。
~公募情報の閲覧権限
~提出する書式
と応募するまでのお約束が大変だけでなく、
~これまでの実績
~コネクション
など、目に見えない判断基準で判断の俎上にも上らないということも多々ある。

その今の日本のやり方を一方的に批判する気はない。
一定水準を満たしているからこそ
品質が担保されるわけで、そこが曖昧だと公募をしたために
逆に失敗してしまうということになるから。
しかし、それが業界的、社会的硬直を招き
結局、貧富の差を産んでいるといえる。
つまり、公募に応えられる者が財産、ノウハウが富み、
次の公募にも対応できるために次のチャンスに結びつかないということになる。
それでどんどん、公募が公募ではなくなっていくことになる。

まーここで言っても結局は、、、
歴史で習った墾田永年私財法、、
つまり、開墾した誰でも土地を所有できる法律だが、
それで貴族が荘園を増やし、誰でも土地が持てるという名目がなくなった。
それは今の公募にもいえること、、、
そう歴史は繰り返される。

とうことは、貴族の没落は、、やはり根本的には武力に帰依するんじゃないかなあ。

2015-11-20

畑違

専門の分野・方面が違うこと。
組織の活性化のために、畑違いの人材登用、活用なんて言いだしたり
しているが、それが成功しているのだろうか?

ニュースなので、成功事例を行うのは
レアケースだからニュースにするのであって、
成功が日常的だったら、ニュースにならないと思ってならない。

畑違いの難しさは当人より受入先に対応にある。
畑違いの人材が来た場合
~何をどうするのか
~どこを変えるのか
ということを整理しなくてはならない。
投入された畑違いの人が昔のままのやり方をしてしまったら
受入先の部署そのものの存在がなくなってしまうからだ。

とはいえ、整理できるくらいしっかりしているのならば
わざわざ畑違いの人材を招かなくても、自浄努力でどうにかなるのだがね。

なかなか人材登用は難しいといえる。

2015-11-19

公私

公的なことと私的なこと。
これは江戸時代の武士に向けての言葉であり
武士=公務員
公務=仕事
だったのだが、それを現代人に割り当てて、
仕事と私生活とするようになっている。

公私混同という言葉があり、
日本人、、いや現代人は仕事と私生活を分ける傾向がある。
それは、自分の価値観を強制しない、させないという思いだろうが、
僕からすれば、その概念おかしくないか??って感じる。

職業選択の自由
能力評価
は、ある意味、仕事のためというより、
自分のためであり、その先には私生活のためというものがあり、
仕事と私生活を分けることは根本的にできない。

通信手段の発達
BYOD
在宅勤務
となりつつあり、仕事の概念が
時間、場所の拘束ということではなくなり、
本人の意思で行うことになる。

僕自身、そして弊社の経営方針として
時間活用の自由を許している。
制約が課せられていないときは、
場所、時間を有効に使うことさせているので
その時
どこにいても、連絡、仕事ができる最新ディバイスを与え
何をしていても、遊ぶ、休むは次の仕事への充電行為、勉強もまた
という認識で行っている。

公私混同という概念を超えた
人生における活動、行為が有償、自己投資なのかは
当人の裁量で行える仕組みを与えることが
多くの経営者が考えることではないだろうかって思っている。

2015-11-18

口答

口で答えること。
一見、いや現代人の常識では、会話として当然と思えるが
僕からすると、これがコミュニケーション問題の根本だといえる。
はっきり言おう。
口答はただの時間の浪費だ。そしてこれは問題の温床だ。
口答は気軽にそして迅速に伝えれるとか言われる。
しかしだ、
~言い間違いに当人が気づかない
~音声だけなので証拠が残らない
~聞き間違いを確認しづらい
などのコミュニケーションのロスが多すぎる。

飲食店などで
口答オーダーだけだと
~聞き洩らし
~聞き間違い
というオーダーを受ける側のミス
~言い間違い
~思い込み
というオーダーする側の落ち度
を確認できず、原因が定かではないから
落としどころが見いだせないで、店として信用に影響が出かねない。

最近の飲食店はその経緯から
口答からメモとり、お客に注文を書いてもらう。
そして、今ではタッチパネルとなってきている。

たしかに、その分の設備コストはメモ帳から、お客記入の筆記具そして
タッチパネルディバイスと高騰してきている。
しかし、店の信用信頼、そして客自身の注文責任が明確化ということは
口答における曖昧なリスクに比べれば圧倒的に安いといえる。

オーダーシステムを人から機械にするのは
人件費削減というが、人件費ではなく
人間の曖昧さでステークホルダーの多くが傷つくことを回避させる
最善の手段と考えるべきではないだろうか?

2015-11-17

無類

くらべもののないこと。無比。
一緒にできるものがないという意味で使われる。
語源としては、無双と同種といえよう。
という言葉を現代語訳するとしたら、
それは
No.1だろうか?
Only 1 だろうか?
日本人としての感覚では、その第一人者とかいう表現で
同視することが多いが、英語、、欧米系の概念だと区別される。
high specific
specialty
となり、相対(数値評価)、絶対(○×評価)で判断される。

でも、、、英語の語彙からしても
spec-
という接頭辞を使っている時点で
日本語と同じく語源、起源は同じようであり、
要は必要性に対して応えられるか観点は外していないと思われる。
多言語、現在の用例が異なっていても
人間としての感覚はどこでも同じだったとわかるといえる。



2015-11-16

鷹揚

ゆったりとしてこせこせしない様子。おっとりとして上品なこと。
鷹揚に構えると使うのだが、なかなかねえ。
鷹の様をみてつけられた言葉なのだが、
鷹狩をしている時代どころか、鷹自体が絶滅危惧の意味
その意味の理解は難しいとえる。

言葉と環境はリンクしている。
それゆえ、環境が変わると言葉が変わる、
それは仕方ないし、ある意味の言語表現の違いも環境によるものかもしれない。
そう考えると、、現代語と古文の境目を考えると同時に
今の現代語とされるものも、一度どこかで区切ったほうがいいのでは?
また、文語と口語で分けるべきではないか?なんて思ってしまう。

2015-11-13

呻吟

苦しんでうめくこと。
難しい言葉で、小説などのアクセントに使われるくらいだろう。
悲しいことにこの言葉の意味がわからなくて
読者が呻吟してしまうことに筆者はあえて選んで使うのだろうか?

考えてほしい。
書籍でこの文字が出てきた場合、
この文字をどう調べるのか?
国語辞典?
無理だろう、だって読み方がわからない。
漢和辞典?
呻という文字はクチヘン
吟という文字もクチヘン
それで調べる。
とても時間のかかる作業だ。

そう考えると、ネットとは楽だな、
この文字をカット&ペーストで
検索ポータルに持っていけば、シンギンという読み方まで出るのだから。
そう、国語辞典、漢和辞典が手元にあって使いこなせない状況を
デジタルとネットは克服していたのである。

デジタル化で文字が書けなくなるというが、
そもそも現代人は言葉を知らないし、理解できていないのだから
開き直って、文字を書くことをあきらめてしまうことを制度化してもいいと
こういう文字にぶつかると思ってならない。

2015-11-12

心象

感覚(的要素)が心の中に再生したもの。イメージ。
実際に見ていなくても、映像が脳裏に浮かぶ状況といえる。

これは前提として、
イメージに近しいものを事前に目視していることがあり、
人生経験というか、それなりに多くの映像情報を脳裏に
インプットされていなくてはならない。

僕が重要だと持っていることは2つ。
~多くの映像情報を得る経験
~インプットされている
というポイントである。
旅行好きで多くの映像情報を経験しているように見えても
旅行に行く行為が好きな人間は映像情報を覚えていない。
覚えていたとしても、すぐに上書きされてしまう。
逆もまたしかりで、インターネットなどの情報サイトで見たものを
インプットして覚え、そのインプットだけで多くのことを評価してしまう。

現代人の心象の力が乏しいとは言わないが、
同一物体、事情、概念に対して、
人間それぞれの心象が異なることになることに対して
現代人は許容なく他人の心象を聞くと自分の心象とちがうことに
批判ばかりで、そこの止揚が産まれないことを嘆きたいなあ。

2015-11-11

暗澹

見通しが立たず、希望が持てないさま。
多くの現代人はまさに暗澹かもしれない。
、、ではなく、人間である以上、常に暗澹であるといえる。
なぜなら、未来という概念を持っているから、
多くの動物は常に本能のまま生きているので、今をどうするかだけであり、
未来という概念はない。

未来という概念、それにつながる計画という概念があるからこそ
人間はモチベーションなどで、本能ではない快楽を得られるが
それに呼応して、不安になる暗澹ということも同時に感じる。

仮に現代人が過去の人より暗澹であるいえるのであれば
それは、これまでの人類の経験を多く知っているがために
予想のつくレベルの結果、
多くは成功しない事例
から、希望や期待を未来に感じなくなっているからだといえるのかな?

2015-11-10

内訌

うちわもめ

人間は愚かにも同じことを繰り返す。
今はやっている能力主義、それって内訌の火種であり、
言葉を変えて表せば、下剋上
「能力のあるやつが上に立つ」である。

下剋上では平和は望めないし、
敵が身内になってしまい、組織として存在意義が見いだせないから
長幼の序を進めて、江戸の安泰を得た。
その流れを汲んで、年功序列、終身雇用を社会制度として認めてきた。

しかし、現在はまた能力主義、、つまり下剋上を容認している。
それは必ず、組織内で内訌がおきることを恐れるどころか
互いの競争心を煽っていいといわれる。

人間、実は競争心なんて持っていないよ、殺戮の本能だけさ。
相手に勝つということは相手から反撃されない状態にすることで
競争ではなく、つぶしあいになるだけ、、10人の組織が5人と5人でつぶしあうだけ

これはまた、戦乱の臭いがするねえ。
戦国時代と違う?だって、
それは、後世になって、生き残った人たちが言うだけのこと。

「あの時代は戦国時代より、おかしく、潔く殺しあわなく
 ねちねち、議論という言葉で他人を追い詰める
 なんて、卑劣な時代だったんだろう。
 あんな時代に生きることなんて考えれれない」

と評価されることになることが、十分考えられる。
僕はいつも思う。
人間の価値観がいつも偏った思い込みで
その一瞬の事象を正しいと思い、そしてそれで内訌を起こしやすい動物だと。

2015-11-09

恩返

受けた恩に報いること。
日本の昔話の多くはこの構成になっている。
つまり、日本の道徳価値観の根源である。
行ったことに対して、報いを受ける。
ある意味、等価交換に等しく、
この概念を理解して大人になる、、、、はずだった。

最近の日本人は、情操教育というか
昔話を理解どころか、なんか間違った解釈した絵本などを読み、
子供を大切したがる社会構造
個人主義偏重が重なり、
恩返しを全く理解していない。

~自分はされて当然、されないほうがおかしい
~あいつバカだから、ただでやってくれるんだよ

なんて平気で言い出す。

こんな子供を、生意気と思うことがまたおかしいと
指摘されるおかしい社会にまでなっている。

恩返しの裏には
調子にのった悪党を懲らしめる鬼がいる。
鬼を恐れて、子供は更生していくのだが、、

現代社会において鬼がいてはならない。

僕はこの社会に鬼を復活させることで、
恩返しの真意を理解できるとまで感じてしまう。

鬼が社会悪だと思われても
恩返しの概念を理解させるための必要悪だと
僕は確信しているだけに。。

2015-11-06

演奏

音楽を現実に音として響かせる行為。
結構、奥が深い言葉だ。
楽器から音を出す、それは「鳴らす」
楽器を操る、それは「引く、拭く、打つ」
そして楽器から美音をだす、それが「奏でる」といえる。

科学的なところでは、楽器から空気振動を起こせばそれは音になるが
それを感性の世界で耳触りのいい音とするのは
科学領域でいくら説明しても、理解しづらい。
まして、モーツァルトのEine kleine Nachtmusikなんて、
作曲当時は理解できるレベルではなかったわけであり、
それを後付のように科学で説明しても、、と思う。

奏でて演じるということは
演じるためには、対象は何を模したことで演じるになるのか
それを楽器で行うということは
絶対音感を持たない僕には理解できないが
それはすごいことだとはわかり
たぶん
Eine kleine Nachtmusik
を初聴して訳も分からず興奮した当時の大衆、、
(もっとも、大衆といっても貴族しかモーツァルトは聞けなかったが)
と同じ感覚だと思ってしまう。


2015-11-05

難民

戦争・天災、また人種や信条などでいためられて)困難におちいった人民。
人道的とか発言で受け入れることを議論しているが、
人間を俯瞰して、長期的、本能的なところをみれば
受け入れるべきではないといえる。

今時点において、困っている人を助けるという発想だろうが、
それって今視点でしか過ぎない。
仮に同人種の難民を万人単位で受け入れたらどうなるか、、
30年後、その国はその国家運営が危なくなる。

難民の子孫が発言力を持たないままだと
該当難民の子孫は
「難民あがりのくせに」
とあたかも奴隷制度が再び起きるだろう。
助けてやった側、助けられた側ということで格差が生まれる。

逆に難民の子孫が発言力を増したら
「この国をただし、支えているのは自分らだ」
と言い出して、既存の人種、民族に反旗を翻してしまうだろう。
難民たちの子孫は自分たちの土地であると主張したがる。
人間は今の視点でものを見るから
生まれ育った土地であれば、そこは自分の土地と思うものである。
それが親たちが難民として庇護された土地であっても。

そうならないようにすると今までの為政者は言ってきているが
プランテーション
ユダヤ人迫害
アパルトヘイト
とどの時代もこの手の人種の壁で人は争いを起こしてきている。
それは人間の本能であり、否定するものではない。
そうさせないため、未来のために今できることは
一時の自分の感情に流されないことをしないことだ。
それいう視点、、僕のような視点を持つものは、、
ノストラダムスのように指導者的なことはできないんだろうな、
一時の感情で成り立っていることが今の民主主義だけに、、

2015-11-04

管制

危険を予防するために、ある種の行動に対し、強制的に管理・制御・制限すること。
現代社会では、人はいろいろなことが行動できるようになった。それゆえ、
管制が必要だと思うが、この言葉は管制官、航空用語でしか使われない。
X軸、Y軸、Z軸において自由に飛び回れる航空機だけに
管制官の指示で成り立っていることがあると思う。

自由な行動ができるからこそ、管制が必要なのだが
現代社会はその管制すらからの自由も主張する。
それって、無秩序、無政府状態、混沌に戻っていて
社会性がないということに気付いているのかなあ。

2015-11-02

知能

頭の良さ、

知能指数、人工知能などで知能という言葉はよく耳にする。
では、知能と知識の違いは??

知識は情報を格納、それを格納したところから検索、出力することと言え、
大量な情報を自在に扱えることが知識レベルの高さ、それを頭の良さと
みなしてきた。
ある意味、団塊ジュニアの受験戦争はこの知識レベルの高さを争っていた。
そして、今はその知識を人からコンピュータに代替されて、
ムーアの法則のように、高いスペックのコンピュータが
知識レベルが高さとみなされていた。

そして、今は知能が求められ始めた。
知識との違いは、検索性が類推、関連、応用を交えて、
1:1対応ではなく、相手の求める次のことや相手が気づかないことを
提案までしてくれることであり、必ずしも多くの情報が必要ではなく
使える情報をあることが前提である。

ある意味、量より質に変わってきているといえるが、
この知能を求めるということは、
果たして、人として、いやその当人自身が存在する価値はどうなるのか?
知能レベルを外に依頼することは、当人がいなくても問題ないにつながるし
当人のコストを考えたら、むしろ消えてほしいとならないか?