2012-06-29
屈伸
意識しないと気づかないことだが、
哺乳類
爬虫類
鳥類
の膝って体の方向に対して、
前
水平
後ろ
になっている、、逆にその膝関節の曲がり方で
その動物の類が分かるともいえる。
爬虫類は
地面を這うためにお腹を地面から遠ざけるために、
水平直角に関節を曲げているに過ぎない。
しっぽの反動で前進するから、膝関節への負荷が弱い。
哺乳類は
前進歩行する前提で、膝関節が後ろに曲がる。
脚を前に出した後、
地面を引き寄せることで前進するためには
後ろに曲がらなくてはならないからだ。
そして、鳥類は翼で飛び立ち、
その勢いを殺してまで着地するには、
推進力を逃がすために、前に曲がる。
それにより、地面からの衝撃を和らげている。
足関節が行う屈伸運動、
脚の屈伸といえども、
その用途にここまで違うものなんだなあって思った。
2012-06-28
太陽
巨大な火の玉とされる。
される、、実際にその存在を見てきた、熱を味わった人間はいない。
あくまでも、天文学的、計算的に導いた数字の結果にすぎない。
その火の玉からのエネルギーで
人間は生活している。
・光合成の結果で植物性の栄養源を
・日光浴でビタミンDの生成を体内で
・昼の世界の光源として
今では、
再生エネルギーとして、太陽光発電
にいたる。
太陽があるから、生命が維持ができるのか?
それとも、太陽からの日光に耐えられるから生き延びれてきたのか?
と思うことがある。
だって、布団を干すと殺菌になるといわれるように
菌類は太陽光に弱い。必ずしもその火の玉とされるものから恩恵をえて生物は生きている
わけではないので、、
また、紫外線でビタミンDを生成するが、
その紫外線の浴びすぎだと、皮膚がんになったりする。
適度な量しか許容できないのでは?
もしかしたら、
今はやっている太陽光発電も閾値があって、
有害なことをおこしたりするかも
そう考えると、太陽と適当な’距離’での’お付き合い’が必要なのかも。
あ!!
だから、「君(あなた)は僕(私)の太陽だ!」なんて語る奴は、破局しやしすいのか!
2012-06-27
田圃
田圃、、
今の日本においては、あまり価値がないかもそれないが、
2000年近く、日本の経済の単位だったといえる。
どれだけの米を手に入れることができるか、
その米粒が財力の示す基準だった。
自分の田舎が農家だったのでわかるが、
田圃と畑は大違い。
田圃を維持することは本当に大変だ。
霜柱を耕し
泥するまで水を張り
そして、からからに乾燥させて
また霜柱へ
を繰り返し、米粒を得る。
その苦労に比べたら、
他の仕事がどれだけ楽かと思うこともある。
だから、米農家の戸口が減っているのもわかる。
でも思う。
だからこそ、
向こう何十年かしたら、
田圃を耕すことが日本でできることが
財の象徴になるではないか、
日本の米を自分の田圃で得られる強さが
僕は日本の価値は流転と思うだけに、、
2012-06-26
正弦
正弦定理、、いわゆる三角関数について、どれだけ覚えているだろうか?
かくいう自分も全く理解できていない部類にはいるレベルだろうし、
多くの人々は三角関数を理解しなくても生活に支障はない社会になっている。
知識のコモディティ化は
結果的に、知識理解をしなくても済む世界になっている。
自分が理解しなくても、
それを理解したがる人、
それでビジネスをする人が存在して、
それを誰かが行ってくれて出てくる結果だけを享受できればいいというマインドに
人々を導いている。
自分は自分のできること、好きなことをという感覚が横行しているのも事実。
専門知識、技能を深化が顕著で、
下手に理解すると生兵法になりかねない。
だから、自分は自分のできるところを、、なんて言ってきた。
しかし、技術の進化、深化といえども
三角関数の正弦、余弦、正接、を理解することは
そう深化しているということではないらしく、
外国のエンジニアは計算できて当たり前というレベルらしい。
逆に、これを理解せずに今行っている仕事がよくできているなって表現も出てくる。
これは三角関数だけにあらず、
技術が専門的や難しいといって、
他力本願に享受されていたツケは
じわじわと日本の学力、、強いてはモノづくりの基礎たる技術力低下を導いていることは
言わずもがな、、
「勉強しておけばよかった、」
ではなく、
「今からでも勉強しなくては!」
という感覚が今後問われるといえる。
世間では、大人の数学ドリルが売れ始めているのは
ある意味、必然的なことかもしれないね。
2012-06-25
逃避
よく成功した経営者が
「自分は向かい来る困難から逃げなかった」
というメディアソースを見る。
そして、それを賞賛する流れになっている構成になっていることが多い。
これは洗脳的な恐ろしさを感じる。
中国に故事成語で
「君子危うきに近寄らず」
本当に真摯にやっている経営なら、
逃げることを恐れてはならず、、むしろ逃げることをうまくできることに価値がある。
メディアで取り上げていることは、
逃げられなかった人が希有なことで生き残ったことを成功としているだけで
それを他の経営者、そうでないサラリーマンを鼓舞するのは、
戦時下の天皇陛下万歳、
お国のために死んできます、
神風特攻隊を煽っている感がものすごく感じる。
逃げなかったを賞賛するのではなく、
どうやって逃げたかをもっと評価する切り口に価値を置くことが
この先の社会発展につながると思う。
逃げないから成功したという幻想を誇張することを恥ずかしいと思わないと
破綻しかないという事実が、今の社会、経済なのだから。
2012-06-22
段差
生活圏であふれる段差について、
今の社会の流れはバリアフリーが横行していて
「お年寄り、子供の安全のために、段差をなくそう!危ない段差は社会悪」
となっていて、ある特集では
「段差危険地帯マップ」
なんてものが出たりする。
これって作為的だと思う。
福祉ビジネス、工事ビジネスを増やすためのプロパガンダではないかと思う。
同じ事象について切り口を変えれば、
「現代人の体力不足が深刻な問題、こんな段差も越えられない、たったこれだけで根を上げる肉体と精神」
「珍しい段差発見、経年劣化と都市計画が思わぬ形状に段差を生み出した」
上記は、スポーツ振興
下記は、地形探訪
のそれぞれの価値、嗜好、そして、ビジネスの匂いをどうとらえるかに影響する。
一概に段差が悪いのではなく、
段差というものから受け取るかは人それぞれの考え方、生き方の違いであり、
ある意味、他人との考え方と自分の考え方に段差があることは永久にぬぐえないのでは?
段差というものを物体と物体とが、滑らかにつながっていない状態といえる。
段差がない社会、、それは何事も滑らかにつながっていること?
物質的にそれができたら、きっと精神の世界では大きな段差、、絶壁になり、
それを嫌がる結果、物理的な絶壁を昇華されるようになると思ってならない。
2012-06-21
公共
公共とは社会全体に関することを取り扱う上において利用されること。
多くの人が使うという概念なのだが、
昔と今とでは大きく異なる。
みんなで使うもの、、自分のものではない、なるべく影響を小さく、壊さないように
であったが、最近は
みんなで使うもの、自分のものでもある、使い倒す、壊れたら誰かが直せばいい
となってきている。
そう考えると、君子危うきに近寄らず
僕はできるだけ、公共物に触れるのは最小限したいと思う。
壊した輩が、
「自分に直す義務はない!」
「直したい奴が直せ」
「金を持っている奴が直せ」
って、恥じらいもなくいう社会において、公共物に触れたら最後と感じたりする。
現代社会において公共物を使用しないということは社会生活そのものの否定になるから
それは無理とわかっている。わかるだけに、公共物と私物の徹底して識別をもって接することが必要と思う。
なぜ、そう敏感になるか、、、
それは公共物として自らの私財を出したのに、、
庶民に裏切られたという血の系譜がそう思わさせるのだと自覚はしている。
2012-06-20
2012-06-19
貯金
ボーナスの時期になると、
「使い道は?」
と問われて、多くの人が
「貯金します」
と答える。
しかし、、
現在の労働者家計の預貯金額は目減りしている統計情報が上がっている。
ボーナスを貯めているはずなのに、なぜ目減りしているのか?
僕の感覚が異なることがわかった。
貯めているという表現は
現実社会では、プールしているという意味であり、
現代の貯金は
日々の浪費で足りなくなる月給分の補填財でしかないのである。
積立という概念ではなく、取り崩しになっているだけ、
欲しいものを手に入れたいからお金を貯めるのではなく、
欲しいものはないけど、何となく買っていしまったら、いつの間にかお金がなくなっている。
これが現代の消費と貯金ゼロへの真理であり、
モノの価格がこなれて、誰でも買えるようになったことは
購買意識、財産意識の欠落、になっていると言えよう。
ほしいものがないのに、お金がたまらないのは
ほしいものがないから、貯金して溜めるという概念がないという意味であると。
2012-06-18
窓口
Windows の登場以来、
窓口というものは、ほぼインターフェイスの意味でつかわれているといえよう。
閉鎖空間がら外部とのやり取りを行う孔の意味で
wind + ow 風(空気)の通り道であったが、
IT化、社会変動で
自分の世界と相手の世界をつなぐ意味で、窓口が使われるようになった。
PCのウィンドウ は コンピュータ世界と人間社会のインターフェイス
みどりの窓口 は 鉄道会社と利用者のインターフェイス
窓口業務 は 法人組織と外部とのインターフェイス
社会の窓 は 、、これはエチケットの、、、
窓口という概念がこうはびこる前提に
それぞれの閉鎖空間の容認と不干渉への暗黙の了解があり、
窓口というインターフェイスを通さないと、
コミュニケーションがしづらい社会であるといえる。
2012-06-15
法則
お約束ごと。
自然や社会において、法則の前提で成り立っている。
重力による落下を始め、摩擦などが自然界で成り立っているものを前提に
現在の生活、経済がある。
法則を理解して、それに合わせて生きることで
人間が発展してきた。法則の理解、その応用が生活を豊かにしてきたからだ。
自然の法則、社会の法則、それが人を秩序立てて効率化を導いていた。
しかし、その法則も揺らいでいる。
地球規模での天変地異、
社会の定義が個人に属し、その事実への介入を許さない個人主義。
今まで、これまでの法則の適用はこの先も通じるとは限らない。
何を信じ、
何を前提条件に活動すればいいのか
と悩むことがあるのであれば、
それは今までの法則を理解してきているから応用もできるのではないかといえるが、
悩むことなく、不平ばかりの輩の台頭が、、法則を逸脱して
効率化、適正を失わせて結果、悪化を導いているのではといるといえる。
法則、、、お約束について、もう少し、真摯な理解とそれができないことを罪に罰することは
そろそろこの世界には導入、、いや古に回顧しても’復活’させるべきではないかと思う。
2012-06-14
清水
岩の間などから涌き出る澄んだ湧水のことだが、
読み方は
しみず
きよみず
せいすい
しょうず
ずんず
と多く存在する。
読みの違いは、、おくに、方言による地名によるものだ。
飲料使用できる湧水は人間の需要な場所で
必然的に、その場所を呼称する。
その呼称において、
清らかな水の場所
という意味で、、それぞれのおくにことばで呼称すると
上記のように多く派生することになる。
僕は呼び方が異なることより、
これだけ、清らかな水が各地、多くの場所で湧いていたということに
日本の水の豊かさを感じる。
外国は、飲料水を確保するだけで、戦争になることもあるのだが、
これだけ多くの場所で水が湧いていたことは
狭く起伏が激しい日本だから天然濾過作用にて実現されていたゆえかと考察できる。
狭い日本かもしれないが、それゆえの地形的機能があることに気づかされると、
どんなものにも、いろいろな機能が内包されているかもしれないと思いをはせたくなる。
2012-06-13
地図
社会科の教育大綱が改訂されて
地理の授業で、地球儀を多用することが求められたそうだ。
うーーん、やはり教育を考える人は教育ができないと言わざる負えない。
地球儀で理解することなんて、
庶民生活レベルでは意味がないこと、
地球儀が必要なのは
地球規模での活躍できる
航海士
航空士
飛行士
という職種の人であって、
他の多くの人は地球が丸いことを意識して生きるより、
今の自分の位置からどこに何があり、そこへどう行くのかを
把握できる力のほうが重要である。
まして、
携帯電話、カーナビはGPSで地図を的確に表示できるのだが、
その使用者が地図を理解でいないレベルの可能性のほうが高い。
地理の授業では地球儀を使った理解で満点だが
地図が読めない。
地図は地理の授業ではあまり使わなかったから。
なんて平気言い切る子供を無駄に大量生産するだけといえる。
現代社会の方向性を見据えた教育大綱を
真剣に考えることはできないのだろうか?
2012-06-12
紡績
原料の繊維から糸の状態にするまでの工程
紡ぐという言葉の意味は
より合わせていくというもので、
ねじるって一本のものにするというイメージなら理解できようか。
何気なく目にする、糸、紐のようなもの。
この糸、紐のようなものから、いろいろなものは出来上がっている。
衣類などの織物だけが紡ぐものではない。
工学的に言えば、カーボン繊維というものは紡いで成り立っているし、
生物学的には、皮膚などの生物の細胞も実は組織繊維を紡いで成り立っている。
そして、、、生物の遺伝子情報もある意味、紡いでいるものといえる。
モノの起源、
モノの要素、
を深いところから見つめなおすと
紡績行為に突き当たると僕は思う。
ねじって一本のものにする。
もしかしたら、いろいろな問題点の根源は
紡績行為にヒントがあるのではと思うのだが、
頭の回転がままならない今の僕ではなかなか展開できていないなあ。
2012-06-11
校正
相手側に納品するに先立って仮刷りを行い、
それと原稿の内容を突き合わせ、誤植や体裁上の不備を正す。
とされる。
しかし、この校正行為、僕は懐疑的だ。
もっと言えば、事実の改竄の温床といえる。
誤植を体裁というが
それを直す側は当事者ではない、
表現をかえることは、
その訂正者の意図が入ってしまう。
たとえば、必ずしも全員ではなかった事実をもとに
「多くの人が」と表現しても、校正する人はそれでは伝わらないということで
「全員が」とかえてしまったり、
事実、
よくないものを「よくない」と表現すると
校正者の人間関係に不具合をきたすので
「ひとによっては受け方がことなる」
のなどとしてしまう。
納品、品質主義というが
後日パッチやアップデートできることが
逆に付加価値になっているし、
納品した瞬間から、それは過去、間違った方向性の代物に変わってしまう。
時代のスピードが速いこの時代。
校正で情報を改竄するより、
そのままの情報を流すべきという思いがあるなあ。
高い品質を全面に押し出してきた
日本ブランドの凋落は、校正のように
体裁を整える時間、コストが導いていると感じている。
品質が悪いものを出せ、とまでは言わないが
時流を考えて、今あるものを出して
それを改訂していく気概がないと、
本当の意味での品質、、、
そして校正をする真の目的にはなっていないと言える。
2012-06-08
2012-06-07
即席
即席麺などで有名な言葉、
辞書的には
その場ですぐにすること
辞書的には
その場ですぐにすること
席に座って、すなわちに、、
つまり、何もすることなく、結果が出るという意味になっている。
現代社会は即席の社会になっている。
通信販売が栄え、
お店といっても、コンビニエンスストアで多くのことが済んでしまうこの時代。
座って、、思ったらすぐに結果出る時代といえる。
便利であることは事実だと思うし、そのことが前提である生活になっている。
いつの時代も便利、豊かにアンチテーゼはでてくるもので
いろいろとこの即席社会に一石投じる事象はあるが、
その一石も即席の流れには勝てない一過性のことが多い。
丁寧に作るものも、、その丁寧さが機械で数分で実現。
熟成させた、、化学反応の研究で100年の熟成を大量生産できることに、、
即席を求めることは、人間の業、性であるとしか言いようがないのではないだろうか?
2012-06-06
2012-06-05
2012-06-04
抜擢
多数の中から選び出す行為で多くは人に使われる。
抜擢するというと、多くの人は抜擢される側への期待と優秀性に目を向けるが
抜擢する人
抜擢されなかった人
について考えることが経営、管理監督者には必要なこととなる。
選ぶということは選ばないという消去法の説明が求められることが多い現代社会。
選んだ側の妥当性、他ではダメな理由
選ばれなかった側への、理由や次回や次のステップ提示
がないと、いきなりの抜擢に人間の感情は大きく揺れて、ストレスにより実績低下につながる。
選ばれることを目指すための努力は
僕からすれば、視野の狭い努力であり、
選ばないことにより、他の者たちへの配慮が
抜擢という行為の真の意味と僕は強く感じている。
2012-06-01
経験
人間の学習そのものと思う。
座学や理論、演習ではなく、
実際にそれを経験しないと理解できないと言える。
また繰り返し実施することで
その活動への勘所というか、
効率的なアクションが習得できる。
効率化を進んでいる現在、
その活動そのものを経験せずに非効率、無駄と言い切る発想が多い。
しかし、経験を得るということは大きな財産といえよう。
僕からすれば、経験はいわゆる失敗の塊だ、
もしそれが成功と思うことも失敗の経験になるだろう。
失敗してそれをリカバリするというノウハウを得ることができていないという点では。
僕の持論では
成功は、売上という財務会計的に
失敗は、経験という管理会計的に
会社の資産が蓄積できると思っている。
適度な売上も重要だが、
それでは手に入らない経験を積ませるように会社の経営バランスよりよくしたいものだ。
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