2012-04-27

漆黒


人間にとって黒は万国的に忌み嫌う色とされる。
闇=黒とみなされてきた。
視覚的に、光を反射しない色彩
儀礼的に、何物にも染まらない
とされている。

しかし、漆黒という真の黒とは
数多くの色が混ざった結果
これ以上ありえない究極の状態
ともいえる。

個性を<いろ>というこの時代、
それぞれの個性の結果、
それぞれの要素を汲み取った究極の姿が
漆黒ともいえる。

そんな黒という概念を

「みんなの意見を汲み取ると、結果忌み嫌う黒につながるから、主張するな!」
「黒こそ、至高の存在にとらえよう」

と受け取り、発言するかは、
また、その人の<いろ>の出し方かもね。

2012-04-26

周囲


古い概念、悪いが頭の悪い人ほど
「周囲にいるんだから、直接話せ!」
というが、僕はそれこそ、コミュニケーションがおかしくなる温床と断言できる。

人と人とのつながりが弱くなったといわれる現代社会だが、
それは技術の発展と能力主義の代償である。

技術の発展により、他人とのコミュニケーションを
・距離(電話やテレビ会議)
・時間(メールや録画)
を超えている。
人間の存在は一つだから、それぞれにかける時間は割合になり、
必然的に近隣のひととの交流時間は比率的に下がる。

能力主義、現代社会は原資基本主義なので
結果的に相対評価になる。
相対、つまりは周りのひとと比較されるということになる。
いわば周りの人は経済的排他関係になるのである。
そういう関係において、強い結びつきを求めることもおかしいし
競争を促している社会の矛盾を感じる。

接点も弱くなり、場合によっては敵対関係になっていることもある関係を
知らず、あえて、直接話せとかいう発想が
現代社会のストレスということになるだろう。

自分の当たり前を他人に強制させる時代は終わっているので
個々と付き合うのなら、集団、周囲的な発想で
人と触れないように心づかうことが求めれる自覚をもつべきといえる。

2012-04-25

隘路


あいろ とよみ、意味は狭い道、、
そして、軍事、ビジネスの世界では、ボトルネックの日本語読み。

仕事におけるボトルネックとは、、、
いろいろと発言されるが、実際問題、、
役割の業際、コミットメントという、
誰がやるかというポイントに集約されると思っている。

隘路たるゆえん、
狭いということは
物理的
技術的
金額的
に多くの人が手を出せないということであり、
それを誰かがやる、誰かにやらせるということができ、
その人間の心技体がそろえば、
隘路になるわけはないと思っている。

多くの人は、心技体がそろうことができないから
その隘路に太刀打ちできないとされるが、
それは考え方だと思う。
そういう人材がいないというなら、
わざわざその隘路を選ばないということをすればいい。
無理にボトルネックを通ろうとしない方法に目を向ければいいのである。

行くべき目的地への道は一つではない。
左折したければ、右折を繰り返せば、左折としたと同じ方向に進路をとれる。
地球は球ゆえ、逆方向に行っても目的地に着ける。

近道が隘路であることは、
時間的に遠回りしているかもしれない計算的な道のり感覚を養うべきである。
時は金なり、そして時は道でもあると僕は考えている。

2012-04-24

設備


ちょっと気になることが起きている。

反対を押し切って、導入した設備がある。
導入した張本人は、それを使うことを部下に強制させた。
使おうとしない部下を徹底して叱責した。
いやいや使わされているのだが、
張本人は
「導入したら、みんなついたがって困るくらいだ!」
と外部に報告している。

これは身の回りにおきた事件なんのだが、
実際問題、施設、設備というものはこういうものが多い。

僕の結論から言えば
権力者がそれを強制させるものが施設、設備だと思っている。

民意による施設、設備なんてものはないと言えるのは、
結局、多くの人が自分の利益を中心に発言するので
その最大公約数になる施設、設備はまずカタチにできない。
それではなく、与えられた施設、設備を下々のものが
いかに活用するか、いかに活用させるのか
それが、施設、設備の価値なのではないかと思う。

僕は権力者の意向、上等って思っている。
だから
「導入してやったんだから、感謝しろ!」
というのは、愚者であり
「導入したんだから、こうやれ、あーやれ」
までの権力を使うところまで実施してこそと思ってならない。

2012-04-23

長箸


仏教の逸話で餓鬼界の話にある

ご馳走がたくさんお皿に盛られています。
そして、それを食べるためのとても長いお箸があります。
そこに  二つのグループの人たちがいます。
 一つのグループの人たちは、
箸を使って一生懸命食べようとしますが、
あまりに箸が長いため、自分の口に食べ物を運ぶことができず、
目の前にご馳走があっても空いたお腹を満たすことがでず、
ひもじい思いをしています。
一方、もう一つのグループの人たちはどうかというと、
長い箸をうまく使ってご馳走を食べています。
どのようにしてこの人たちは食べているかというと、
自分が長い箸で摘んだ料理を人に食べさせてあげているのです。
そして、自分も人に食べさせてもらっています。
お互いがお互いに他に食べさせてあげているのです。
これなら長い箸でも食べることができます。

ありがたい逸話とされるが、
これは実際にはあり得りえるとしたら
誰かが生贄になっていると思う。

確かに逸話の内容に論理性はある。
そのようなルール、仕組みであればまんべんなくうまくいくだろう。
しかし、この逸話が言われ続けて、もう1000年も経っているに
この事実どおりになっていないは?という疑問はあるのではないだろうか?

・そもそもなぜ長い箸を使わなくはならない、そのルール自体が問題だ
・自分は食べさせてもらうべき存在で、食べさせることなんてしたくない
・自分の順番を待ってられない、そいつが邪魔

という感情がおきるのが、人間である。
そしてこの感情は、決して悪いことではなく、
それが改革の礎でしかない。

・ルール自体に疑問視することは、制度改革
・自分の自由を主張、権利の獲得
・相手よりいい条件、競争社会による止揚効果

人を成長させる要素であり、それが現代の経済、人権、そのものの考え方である。

長い箸を使うというルールに従うという発想をありがたいと思う精神、
それは隷属を容認する思想、日本特有に近い考え方であって、
グローバルを求めていく発想として、欠落した発想と言わざる終えない。

2012-04-20

関係


ある事柄と他の事柄との間につながりがあることを示す。

ビジネスにおいて、関連性をうまく説明、活用することが成功の近道である。

人間関係
問題発覚
新規事業

というものに直面した時に
未知の要因ばかりが目につき、
多くのことに対して、不安を抱く。

不安を払拭するときに重要なのは、関連性である。

「だれだれのの知り合いであり、こういう関係である」
「以前起きた問題と酷似しているので」
「既存ビジネスの同じような、、」

と、未知と既知と関連させることが前に進めるヒントになる。
関連性を見出し、
関連性を確実なものにすること、
実は座学、教育機関ではなかなか教わらない。
その関連性を見出すヒントは教育機関にあふれているといわれるが、
それに気づけるのであれば、、わざわざ教わりにいかないだろうし、

現場で学び、それを応用させる。
それは関連性を自分の中でカテゴライズできて、
それを相手にうまく、、うまくとは、不安を払拭させ、機体させることであり、
それができるものがビジネスの成功者になっていくといえる。

2012-04-19

孤立


孤立するという表現はかなり難しい。
孤立しているという状態はある一方的な見方でしかない。

彼は組織内で孤立しているというが、
実はメールやチャットで多くの人とコミュニケーションをしていて
逆にその組織の他の人たちが組織内だけの付き合いで
社会から”孤立”しているということがある。

また、発言で孤立したということも
現時点では多くの賛同を得られないが
後に評価されると、その賛同しなかった人たちが
後世の人々から理解できない愚か者とみなされる。

孤立はマイナスイメージになるが、
それは集団行動を善としすぎではないか?
孤立していることのほうが、社会的に有用な存在を排出しやすい事実があるのに、
ニュートン
石川啄木
越路吹雪
彼らは、社会生活不適合者で、
孤立していたからこそ、結果をだせたような気がする。

みんなと一緒に生活しましょう
の幻想は結果的に何も生産性がない生き方といえないだろうか?

2012-04-18

極化


頭の悪い経済評論家が口々にいう。

「市場は二極化していく、、、、」

当たり前なことだ。
勝ち組と負け組ができることが競争、、、市場なのだから。
それをさぞ、分析したようにいうことに
学識者の認識と庶民認識の極化の表れだと思う。

なんだかんだ言っても、
世の中はyes / no のように
選択、判断の連続だ。

どっちつかずの考え方は基本的にあり得ない。
もし、自分はどっちつかずの生き方をしていると自負する人は
決めることができる人とできない人との極の表れであり、
ある意味一端のひとつを担っている。

極化するという事実が人間社会であり、
偏ることこそ、人の文化、トレンド、そして反省を導くものであり、
極化することから考えるべきで、それになることをさぞ正しく言うことに
恥はないのかなあ。。

2012-04-17

場所


5W1H (弊社は5W3Hだが)は人がMECEに情報を伝えられる要素と言われる。
しかし、人間それぞれの特性で、
その要素の変調がある。

日本人は諱(忌み名)思想から
相手の名を呼ぶことを忌み嫌い、それゆえ敬語表現を多用してきている。
外国人からすれば、who が足りない言語文化だ。

そして、ビジネスモデルによっては
when  納期主義
why     コンサルティング
How    ソリューションビジネス
に変調して、いることが多い。

上記の変調のビジネスモデルは僕の次元からすると
そろそろかなあと思っている。
弊社としては、
where
に重きをおいたビジネスにしたい思っている。

where
場所の概念だが、場所というものは
一概に認識できなくなっている。

物理的にも、平面地図ではわかりづらい高さの概念が出てきたり
論理的、電子的、というコンピュータ領域の問題(ドメイン、アドレス)
そして、場所というものは、抗争、争いの起源になりやすい。

where の特定、特性、特異を見抜けば
それだけで、ある意味ビジネスができると思っている。

場所を把握することなど、昔から当たり前

と思っている人、

相談にこたえることを、コンサルティング
代行して行うことを、ソリューションビジネス
として、巨額の金が動く。

今まで当たり前って思っていることほど、
大きなビジネスチャンスが潜在するという感覚がないのだから、
財布も気持ちも貧乏なんだよ。

2012-04-16

錯覚


弱者救済は、最終的には不幸な社会構造になる。
これは歴史的な事実かつ人間の本能的な方向性だといえる。

能力者と弱者がいた。
能力者と同じことができない弱者は
自然淘汰の下、消えていくべきなのが、自然社会なのである。
しかし、人間の持っている良心と言われる、救済概念が
能力者は弱者を救うことを行う。

それに対して、弱者はその恩義を感じ、
別の面で、弱者が能力者を救うという逸話、迷信を信じてのことで
人は行う。

しかし、それは逸話、迷信でしかない。

実際のところ現代人はどうか、、
弱者は能力者に助けられたと思うどころか、
自分は能力者に手伝わせることができるえらい存在と錯覚してしまうことが多い、
錯覚という概念のはずが実際にはそれが当たり前になってしまう。

対価を支払うわけではなく
能力者の優しさでされていることに
弱者は自分の存在意義を勘違いしてしまい、、、そのことを変に世襲し始めたりする。
現代社会は運の悪いことに、この錯覚を体罰的にわからせることができない社会になっている。
また、能力者の優しさで行われてる善意の行為をやめる時に
逆になぜ辞めるかを説明しなくてはならないことまで起きている。

今までの生態系ではありえないことが当たり前になっている
人間の錯覚感は不況やここの能力主義を肯定した現代、
大きな転換点、、、原点回帰を迎えているといえよう。

だって、能力主義とは強いものが弱いものから搾取していい、
自然界のルールに戻っているだけであり、
今までの相互扶助というものが、自然界からの錯覚だったのだから。

2012-04-13

摂取


栄養摂取こそ、トレンドの表れだと思う。
日本においては

和食より洋食のほうが健康的
炭酸水は骨を溶かす
ヨーグルトきのこは健康食品
ココアは健康にいい  健康によくない

本当に言いたい放題である。

僕からすれば、
「イワシの頭も信心から」
何を食べても、結局はその人のありようではないか?

だって長寿記録を打ち出した、
泉重千代さんは40年間タバコを吸っていたとあるように
体にいいものを摂取しているから、
健康的、、というのはどうだろうか?

なんか、、企業宣言に騙されているだけなのでは?

2012-04-12

野生


本能的な行動を野蛮という人間社会だが、
本能に逆らうから、
健康障害、
精神障害、
を導いているのではないかと思うこともある。

悲しいかな、
社会性とはあるシステムの上で生活をしていることであり、、、、
これはある意味、養殖されているといえる。
養殖と天然を比較して
天然のほうがおいしいと言われるが、、
それは人間においても当てはまるのでは?
決まりきった生活している人間は
おいしくもなく、最低品質を維持して、社会に’出荷’されているだけ?

規格外の野生味のあるほうが、
ある意味おいしい存在だったりするのでは、、
でも、飼育(管理)する身分からすれば、面倒な存在かも?

そう考えて、
社会を俯瞰的にみると
顧客(要求)志向と言いながら、
社会は野性味あるうまさより、
社会の都合のいい自分本位主義なんだなあと思う。

結局、楽なほうに楽なほうに流れるが
相手には、無理難題を押し付ける、、、
これこそ、本能、、野生の発想なんでは?とつくづく思う

2012-04-11

斯文


この学問。この道。
特に、儒教の学問や道徳をいう。

日本的にはいいこととされる概念。

勉強する行為が善とされて久しい日本だが、
考えてみれば、勉強する行為は手段であって、
勉強した結果が役に立つものでなくてはならなず、
手段を良しとするのはどうだろうか?

神童のように勤勉な子供の末が
既得権益を重視する政治家
殺人兵器をどんどん作る科学者
になることがあり、勉強することがよかったのに
なぜ、悪い人になるかは当人たちには理解、納得できないことだろう。

反対に、
・不良
・悪ガキ
だった勉強をしていない人ほど
歴史でいい評価、、伝記になったりする。

儒教的な価値観、学問を徳とみなす考え方は
実は意味をなさないのと言い切れる。

2012-04-10

布陣


現代社会では戦という概念で布陣を使うことはゲームの世界でしかなく
人員配置などの構えをさすことが多い。

僕が感じているのは
どんな緻密な計画を立てても
布陣の良しあしでいくらでも変わってしまうものということだ。
むしろ、布陣のありようで、
計画なんてものは意味をなさないということになる。

こんなことを言うと元も子もないと言い出す人もいるだろうが
その布陣こそ、社会を理解しているかどうかであり、
成功の要因そのものといえる。

優秀な人を集めた布陣は必ずしもうまくいくとは限らない。
むしろ、それゆえアクションができなくなるということもある。
互いが互いを尊重、見下す可能性を有することになるからだ。

逆に、無能な人たちを集めたら、、、それは確実で成功しないだろう。
無能という前提条件で集めたら、できるわけがない。

僕が思う布陣は
互いが互いの長短を補える関係であること、
それ以上に
相手を支えるのが自分の使命
支えられているからこそ、自分は報いなくてはならないという責任感
がある布陣をもてば、
それはたとえ、当初弱くても、必ず結果を出すと僕は確信している。

使命と責任が芽生える布陣を良しとする社会、
それは現代自由民主主義概念では難しいといえ
新しい価値観として、創設すべき、新古典的な概念なのかもしれない。

2012-04-06

芸事


芸は身を助ける

という言葉がある。

日本語で芸事というと、遊興のたしなみとされ、
生業とかかわらないことをさすことが多い。
しかし、サービスという概念、無形成果に対価を支払うことが認められると
芸事といえども、それは生業である。

だから、芸事、、、英語ではtalent。
才能ということが当たっている。

芸能人をタレントという理由もそれにあたる。

コンテンツという概念が強くなった日本において、
芸事はもはや生業というレベルに昇華していると思ってならない。

好きこそものの上手なれ。

好きなことをビジネスにできる時代になってきているので
昔来の考え方を捨てて、ビジネスに取り組みたいと思うなあ。

2012-04-05

錦糸


錦糸、、、とりわけ、錦(にしき)とはどういう意味かわかるだろうか?

ボロは着てても心は錦
錦鯉

錦とは、
種々の色糸を用いて華麗な模様を織り出した織物の総称。
英語でいえば、gorgeous が的確な逐語訳といえよう。

日本人の心は、貧乏根性から始まることが美徳であり、
目指すところが、そのgorgeousたる錦であるといえる。

錦を編む糸であるから、錦糸である。
要はgorgeousを生み出す原料であればいいわけである。
錦の定義があいまいである以上、こうなることは自明である。

錦糸卵が正解なのだが、
ある料理人が、
金糸卵と力説していた。
それが間違いというのは今までの価値観であり、
gorgeous = gold であれば、
それは間違いではないともいえる。
だって、卵と玉子どっちも正解だから、
もしかしたら、そういう意味で
gorgeous性を有し、価値を得たら

錦糸卵は、金糸玉子 になるかもしれない。

2012-04-04

練物


日本食でいえば、おでんの具材を代表する食材。
欧風にいえば、ムースもある意味練り物にあたるだろう。

考えてみれば、練り物と口にするという概念は
他の動物には見受けられない。
もともとの食材の形状をとどめないで
別のカタチにしたものを口に入れるという発想は
霊長類のチンパンジーが水をすするときに
葉っぱをスポンジ状にするという話を聞くが
それをそのまま飲み込むという概念にはいたらないといえる。

練り物というものはある意味、
料理の大きな進化といえよう。
あるべき食材の食感、味、形状、何から何までも変えてしまうのだから。

逆に言えば、それにより素体がどんなものであっても
口にできるという考え方でもあり、
人の加工するという発想はほかの動物を超えている実例だといえる。

2012-04-03

祖国


先祖代々の土地、国家という意味合いだが、
日本人にはなじみが薄いといわれる。
それは、移民に先住民として追い出された経緯がないからと言われたりする。

しかし、もっと小さいレベルでその気持ちがあるようだ。
帰郷や故郷という概念は、国、、、郷のレベルで思いがある。

農耕を主体としてきて、その支配関係を成り立たせてきた
ムラ社会である日本において、祖国という大きなレベルではなく
もっと小さい集落レベルの理解が祖国の意味だと思う。

そんな小さなものと祖国論を一緒にするなという論理は
国の大きさが強さか?
人の思いがより地域的であることが罪か?
という反論もできよう。

ドライに言い切ってしまえば、
祖国という言葉は、、言い換えれば、
土地への執着、
今は住んでいない土地への支配欲の誇大
という欲の表れともいえるだろう。

2012-04-02

素案


大まかな案、アイデア、、、場合によっては些細な気づき。
僕はこの素案を出すことがビジネス、新しい事業の種だと思っている。

誰だって、それなりの思いを持っている。
でもそれを素案にする能力がないに等しい。
そして、その能力のない人間において、素案を見ては

「そんなこと誰だって、」
「そんなこと、自分はずっと思っていたことだ」

と口にする。

しかし、思いを素案に落とし込むこと自体が難しいのである。
言われたこと、依頼を受けたことをこなすということは多くの人間ができる。
前提として支配されたうえでの行動でしかない。

素案を出すということは
何もない自分の思いを実現させる意思をもって出す行動である。
ある意味、素案とは自らの主導権、支配権をえられるものでもある。
年功序列の衰退、
能力主義の台頭、
それを助長しているというものだと思う。

もし、自分の素案が通らない、主導権がとれない環境にいるなら、
それはその環境から脱することの素案をたてるべきではないかな?