仏教の逸話で餓鬼界の話にある
ご馳走がたくさんお皿に盛られています。
そして、それを食べるためのとても長いお箸があります。
そこに 二つのグループの人たちがいます。
一つのグループの人たちは、
箸を使って一生懸命食べようとしますが、
あまりに箸が長いため、自分の口に食べ物を運ぶことができず、
目の前にご馳走があっても空いたお腹を満たすことがでず、
ひもじい思いをしています。
一方、もう一つのグループの人たちはどうかというと、
長い箸をうまく使ってご馳走を食べています。
どのようにしてこの人たちは食べているかというと、
自分が長い箸で摘んだ料理を人に食べさせてあげているのです。
そして、自分も人に食べさせてもらっています。
お互いがお互いに他に食べさせてあげているのです。
これなら長い箸でも食べることができます。
ありがたい逸話とされるが、
これは実際にはあり得りえるとしたら
誰かが生贄になっていると思う。
確かに逸話の内容に論理性はある。
そのようなルール、仕組みであればまんべんなくうまくいくだろう。
しかし、この逸話が言われ続けて、もう1000年も経っているに
この事実どおりになっていないは?という疑問はあるのではないだろうか?
・そもそもなぜ長い箸を使わなくはならない、そのルール自体が問題だ
・自分は食べさせてもらうべき存在で、食べさせることなんてしたくない
・自分の順番を待ってられない、そいつが邪魔
という感情がおきるのが、人間である。
そしてこの感情は、決して悪いことではなく、
それが改革の礎でしかない。
・ルール自体に疑問視することは、制度改革
・自分の自由を主張、権利の獲得
・相手よりいい条件、競争社会による止揚効果
人を成長させる要素であり、それが現代の経済、人権、そのものの考え方である。
長い箸を使うというルールに従うという発想をありがたいと思う精神、
それは隷属を容認する思想、日本特有に近い考え方であって、
グローバルを求めていく発想として、欠落した発想と言わざる終えない。
0 件のコメント:
コメントを投稿