弱者救済は、最終的には不幸な社会構造になる。
これは歴史的な事実かつ人間の本能的な方向性だといえる。
能力者と弱者がいた。
能力者と同じことができない弱者は
自然淘汰の下、消えていくべきなのが、自然社会なのである。
しかし、人間の持っている良心と言われる、救済概念が
能力者は弱者を救うことを行う。
それに対して、弱者はその恩義を感じ、
別の面で、弱者が能力者を救うという逸話、迷信を信じてのことで
人は行う。
しかし、それは逸話、迷信でしかない。
実際のところ現代人はどうか、、
弱者は能力者に助けられたと思うどころか、
自分は能力者に手伝わせることができるえらい存在と錯覚してしまうことが多い、
錯覚という概念のはずが実際にはそれが当たり前になってしまう。
対価を支払うわけではなく
能力者の優しさでされていることに
弱者は自分の存在意義を勘違いしてしまい、、、そのことを変に世襲し始めたりする。
現代社会は運の悪いことに、この錯覚を体罰的にわからせることができない社会になっている。
また、能力者の優しさで行われてる善意の行為をやめる時に
逆になぜ辞めるかを説明しなくてはならないことまで起きている。
今までの生態系ではありえないことが当たり前になっている
人間の錯覚感は不況やここの能力主義を肯定した現代、
大きな転換点、、、原点回帰を迎えているといえよう。
だって、能力主義とは強いものが弱いものから搾取していい、
自然界のルールに戻っているだけであり、
今までの相互扶助というものが、自然界からの錯覚だったのだから。
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