2012-02-22

神隠

以前、このブログの’事件’で神隠しについて言及したが、
それとは違う方法の神隠しを聞き、
為政では解決できない、集団での決定を強く感じた。

ある村でおきた神隠し事件。
その事件を国家、治安の観点で政府管轄の警察が調べる。
村民はみんなして、神隠しにあったのだからということ以外わからず
事件の原因、犯人の特定に至れないことがある。
実は明治期においてはこれが多かったらしい。
戸籍を作りたいから治安の名目で、神隠しを探す。
でも、当人、および犯人がわからない。

今わかったのは、
犯人は、、、村民みんなであったとのこと。
村八分という言葉などでわかるように
村の掟を破ることは死罪に近い。
そして、村の意思でその人が要らないという判断は神の意思となる。
神の意思で存在を消される=神隠しとなる。
犯人ではなく、村の意思で処罰されるのだから
犯人が誰かという概念はない。
そして、その実行犯を特定な人物としてしまえば、
その人も神隠しになってしまう。
政府の戸籍や法律なんかよりも統制力のあった行為であったといえる。

現代社会は個人主義が強いので、
ここで挙げる神隠しというものに出くわすことはないだろう。
それゆえ、統制のとれていないゆえ事実で犯罪、いざこざが耐えない。
昔の村社会の発想は神隠しという恐ろしいこともあるだろうが、
それぞれの人が人として組織に関わることの意味と意義を意識していた時代であったといえる。

神隠しという行為自身を、野蛮かつ非道と感じる人がいるだろうが、
人が人と正しく接するという観点では、
この神隠しという結論もあるべき形であり、それゆえ互いが互いを意識できると思ってならない。

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