2011-05-31

笑顔

多くの人は笑顔が好きっていうが、
実際問題、多くの経営者は笑顔を必ずしもいいものと思っていないことが
タブーになっている。

実際には
社員が笑顔であるときは仕事で楽をしている、真剣に取り組んでいない証拠ともなる。
また、顧客が笑顔であるときは、困っていない → ビジネスチャンスが発生しづらい状況
であるともいえる。

この表現について、多くの人は言訳をすることは明白だが
人間の心理において否定はできない真実といえよう。

極端な発言を緩和させるとしたら、

 他人を笑顔に持っていくことが、人間の使命であるが、
 人間が笑顔であり続けることは、人間の欲求としてありえない。

笑顔に隠された事実に多くの人は本当を見出さない社会と感じてならない。

2011-05-30

優秀

市場社会において、
<優秀である>と<できる>とは異なる。

それは、
思っている側
思われている側
互いにそこのギャップでつらい目にあったりする。

優秀であるといわれる根拠の多くは過去である。
資格、実績、評価は現時点から見て過去の結果である。
過去であるということは今ではない。

できるというポイントは、今の心情が大きい。
現状において、有益である存在には、できるという認識をもってくる。

現在と過去は時系列としてつながっていても
人の思いはつながるとは限らないということかもしれない。

優秀≠できる ではないという事実を多くの人が悟っているのだが
逆に、できる人と証明する方法、探すという方法が
過去のからの優秀の評価提出しかないのも、現代社会のジレンマと思う。

2011-05-27

庶民

僕の記述において、’庶民’と見下している表現が多いことの指摘を受けたが
あえてそうしているのである。

僕はわざわざ言葉で表しているだけの違いで
多くの人間の本質は上記と同じあると言い切れる。

「上昇志向」
「今より高い次元にすすみたい」
「もっと上流の仕事」

と表現すると、前向きに受取っている人が多いが、
この表現は背理は

「今のままでは満足できない」
「この環境にいたら、自分はダメになる」
「現在の下流に耐えられない」

となり、現状の仕事、生活、価値を持っている人への見下しを内在しているのである。

日本人は表現が間接的かつ曖昧だが本音はえげつないと思っている。

上昇志向というオブラートに隠す表現ににげているだけで、
僕と同じように、他人、、つまり一般の庶民より抜きんでたいことを隠しているだけである。

僕はあえて、自分の上昇志向を隠さず、表現している。
他人より違ったところへの渇望を文章にしているだけである。

庶民的な発想を擁護する人の多くは
自分の目指すところと現状が違うという思いを論証する能力なくして
高みを目指すことはあまりにも虫がよく、根拠のない発想と逆に思うのだがね。

2011-05-26

休日

計画停電、電力削減義務のおかげで
休日の分散化が進んでいる。

僕としては
これはある意味あるべき市場開放と思っている。
24時間営業が解禁された時点で休日と言う概念はなくすべきだと思っているし、
そう経営している。

そもそも市場原理から考えれば
需要と供給の一致が成り立てば取引成立であり、
そのタイミングを休日というルールで抑止すべきではない。

欲しいときに適切な価格で手に入れられることが市場である。
休日料金という発想自身、自由取引になっていない。

家計の購買は大概、非稼働時間である。
非稼働時間の塊が休日と考えれば
購買する機会が分散化される傾向であり、
その購買機会に供給がマッチすればより市場活性化されるといえる。

みんなが休むという概念から
自分が購買する機会の到来という考え方に立つように
休日の概念を変えることがあるべきだろう。
みんなが働いているのに自分が休んでいいのかではなく、
その働きに報いようと思うように。

2011-05-25

鈍感

現代人の多くは僕からすれば、鈍感の極みである。
鈍感力という言葉があると言うことから、逆に
sensitive になっているともいわれるが、
感覚がマヒっているので、そのレベルではない。

鈍感たるゆえんは、そもそも、
敏感であれば条件反射のごとくアクションに移すものだが
シュミレーションや疑似経験の知識から
そのことの顛末が自分なりに解決できると思ってロクに行動していないことがいえる。

しかし、現実社会は実際に動いているものが
新興勢力のように市場や社会的地位を奪取しているのであり、
その動かなかったことを、権利の名のもとに騒ぎたてるだけでと言わざる負えない。

物事を知っているかのごとくにより鈍感になるより
無知のごとく、すべてのことに敏感に感じ動くことが極めて重要である。

これは、巨大化しすぎていろいろな意味で鈍感になった
恐竜の末路が物語っているともいえる歴史的事実といえる。

2011-05-24

卑怯

他人に対して、謗るときに用いる言葉だが
結論からいえば、負け犬の遠吠えだと思う。

正攻法ではないアクションで結論を得たものに
正攻法を重んじた人間が口にする言葉だが
正攻法が善なんだろうか?

知恵を使い、新たな価値を見出したものを卑下することこそ
愚者の発想ではないだろうか?

卑怯といわれるシュチュエーションからして
相手に勝ちたいという争いの場である以上何が何でも勝ちたがるものだろう。

歴史的にみて
そもそも、拳の殴り合いに誰かが木の棒を見出し、それで武器を持ち立ちだして卑怯と言われ
でもみんながその武器を使いだすと、石を遠くから投げて卑怯と言われ
今度は飛び道具が普通になると、火薬が、、、、
と卑怯と言わるものが普通になるのが人間の歴史言わざる負えない。

卑怯っていう人間より、卑怯って言われるが後の勝者と思えてならない。
今の謗り、後の栄華、を長期的に見えるかどうかがその人の人生観かもしれないが、、

2011-05-23

秘訣

メディアで配信されて、興味を引く言葉のひとつ。
他人が知らないとされるものを知りたいという知的好奇心をもつ人間の性だといえる。
他の動物なら、他の同種が行っていない行動をとりたがらないのが
本能的に備わっているからだ。

しかし、近年の秘訣という言葉。
大したことがない。。。。いや思うに当たり前のことをが多い。
そして、永続的な結果であることが多い。

秘訣という言葉に騙されているが
実際は、同じことを長く繰り返した結果が今になって実を結ぶわけであり
毎回、新しいことに飛びついている近代人に秘訣の真意はわからないと思う。

僕とて、このブログを毎営業日に欠かさず更新していることに
「毎日更新する、ネタと休まず継続する秘訣は?」
と問われたことがあったが、、、結論からすれば、

僕の才能と意地

としか答えられず、それを他人がまねできるものとは感じない。
その人なりのやり方、
もしくはその人の限界があるだろうから。

2011-05-20

勉強

実に面白い言葉だ。
勉強とは何をすることをいうのか?

勉強と学習の違いは?
熟語だけに、漢字を分解すれば
勉とは、イメージとしては、集中して、一心不乱
強とは、強く、たくましく
であり、、、
必ずしも、学問である必要は感じないのだが、
漢字発祥の中国では、科挙を受ける人に向けて使ったことから由来して
学問に当てていると言える。

しかし、、、近代国家においては
学問の専門化
実学という概念の登場
学問=仕事の成功 とは言えなくなってきている。

勉強するという概念を現代として定義調整をすべきであり、
座学ではなく
インターンやOJTのように
生き抜くために人間社会での生存力を高める活動に使うことに
当てるべきではないかと思う。

2011-05-19

我儘

我儘(わがまま)とは悪いことだろうか?
いや、わがままこそ、社会の方向性だと言い切れる。

他人への譲り合いをしていても
相手側が譲ってもらったと思わない社会であり、
その譲り合いが結果的に責任転嫁の論理をも導いているといえる。

俺が俺がということを日本は嫌がってきたが
国際的にそうは言ってられない、国民の多くが日本の美徳感を失っている以上
我儘であるこそが、個性かつ自己生存に繋がると結論づけられよう。

基本、我儘であってもなくても、他人から人は批判されるものであり、
どうせされるならという思いを持つべきである。

戦後の日本がお手本にしているUSAなんて
俺が、俺が、の国家であり、
その論理に現代社会は迎合している以上、
我儘を批判することこそ、価値がないと思えてならない。

2011-05-18

御前

ごぜん
おんまえ
おまえ

といろいろな読み方、その読み方で用途が変わる表現といえる。

‘ごぜん‘と読めば、高貴な女性に
‘おんまえ‘と読めば、偉い人への尊敬に
’おまえ’と読めば、侮蔑の意味を感じずにはいられない呼称に

日本語の難しさと感じてならないことだが、
日本語、、日本の由来のルーツを考えれば

 高貴な人が使う最先端な表現を、下々が真似る。
 しかし、下々の間でも、そう高貴でもないものが使うぎこちない表現を
 批判して侮蔑の意味を内包させてしまう。

が導けるので、御前もその流れの言葉と言える。

綺麗な日本語を求める声があるが
基本、日本語は汚れていく、汚れた言葉である自覚をもって丁寧に使う方べきだと思う。

そもそも論で考えれば、
敬語表現、その語法があると言うことは
根本的に公用語が汚れているという考え方に立つ視点を持つべきと思う。
日頃から使っている言葉が汚い自覚の現れ以外、何物でもないということを。

2011-05-17

図示

毎日、こんなつたなき文章を書いているからこそ
説明資料において、図示を描画することにありがたみを感じている。
はっきり言えば、文章量に比例して、図示のありがたみが感じると言い切れるだろう。
文章を書くということは、自分でない他人に何かしらを伝えたいと思うあらわれであり、
その際に、言語を使うことが一番便利である反面、
一文字一文字で説明することはくどくなってしまうものである。

それに対して、図示することは、
全体像を一見で伝えてしまう強さを持つ。
その分、詳細なところは伝えられないけど、、

映像化、描写技術の進化で、自分のイメージ通りの図示が簡単に作れることで
表現することは楽になったといえる。
しかし、その分、対して文章を論理的に構成していない輩の表現誤解、誤認が多くなり
反面的、相手へ伝達がおかしくなっているともいえる時代である。

ちゃんと文章を書き、ちゃんと文章を読む。
そのうえで、図示を交えて表現することでより鮮明化させる。
そう思い実践をすすめることで、他人と接するべきと思う。

2011-05-16

石鹸

石鹸、、シャボンは、脂で作られる。
そして、石鹸を使うときは、
体の油脂を落とすことに使われる。

以前、消毒について記述内容に酷使している。
人間は身をきれいにするときに
それと同じ成分、由来のものをぶつけて相殺することが多い気がする。

これは、日本のことわざにもある
「毒をもって毒を制す」
はあながち、諺というより科学的立証に基づいた行為ではないかと思ってならない。

2011-05-13

判決

司法という概念が揺らいでると言える。
司法判断がされるということが
ある意味、物事の最終決着であることが
近代法治国家の有るべき姿であり、その判断に国家構成員は従うことが前提である。

とはいえ、
価値、概念の創設が加速度的な現代において
法律がその統制に間に合っていなく、
判決をすべき裁判官たちも、自らの専門性にのみ特化して
社会事情に疎いことが往々にしてある。
この状況下で、納得のいく判決は難しいと言わざる負えない。
そして、メディアの自由化により、
その判決を容易に批判や社会的圧力で
裁判行為自身を否定する活動も無視できなくなってきている。

近代以前は村長、長老等のコミュニティー内の一切を経験してきた者がその判決を司り
そして、そのコミュニティーの経験からの判決だから、それに従うことも納得のレベルであっただけに、
現代社会の人口爆発、仮想空間、伝播速度の超加速化は
もはや判決を言い渡すだけの統制力を持てないと思うべきである。

判決を使用するな!というより
判決を求めること自体、
価値の時間的変異、
拘束による停滞時間が
結果的に不利益をもたらすことが想定されるだけに、
判決の万能性に期待しない、そうではない選択肢を持つことを意識したい。

そもそも、判決とて裁判官の一価値観にすぎないのだから
他人の意見に従うこと、現代人には納得のいくものではなくなってきているといえる。

2011-05-12

崇拝

信教の自由であることは、近代国家における基本的人権とされている。
しかし、どうだろうか?
新興宗教やちょっとした儀式をもつ宗派は
カルト教団というレッテルはられて、自由どころか迫害を受けることになる。
結局、最大多数の宗教、、自由ではなく数の論理で崇拝は成り立っていると感じる。

信じる力はすごいと言うのは、信じるというより陶酔、無心により
それぞれ個人に架せられている枷(常識、通念、痛み)からの解放が
潜在能力を引き出すということだろう。

あるものを信じて、崇め、拝む行為により
自分の行動にかけられた枷を外すことへのためらいをなくす
それがすごい力と言えて、実際にはもともと人は力をもっているのだろうって感じる。

その枷をとるために、それぞれの思いえがく崇拝対象であってもいいのだが、
それがあまりに少数意見だったりすると、
大きな宗派や社会からの弾圧、迫害が当人への枷になるという現代社会。

なんか、自由を保障することが形骸化しているなら、
いっそ、信仰の自由って明文化する意味があるのだろうか?

2011-05-11

学力

巷で言われる
「日本の子供の学力が国際的に低下している」
という言葉で危機感を煽り、教育費の支出を促しているが、、
本当に学力が下がっているのだろうか?

僕は学力という概念では低くなっているとは思わない。
それが受験戦争時代に比べてのゆとり教育であっても。
教育における科学的技術進化や教育方法の改訂が学力向上には役立てていることは事実だ。
たぶん、今の子供と同年代だった親の知識レベルは圧倒的に
現代の子供のほうが多いといえるだろう。

しかし、僕からすれば、学力なんてものはどうでもいい。
勉強が出来だけの秀才や世間知らずの学者は僕にとって社会悪とみなしているからであり、
僕にとって、重要なことは学力に裏にある向上心、好奇心が重要である。

できるようになりたいという向上心が当人の革新をもたらし
知りたいと思う好奇心が当人の集中力、爆発力を導く。
それを引き出す手段が、学力向上活動であるべきである。
学力は目的ではなく手段であり、
学ぶという気持ち姿勢がその当人の可能性を引き出すと思っている。

嫌々ながら詰め込み教育で大学まですすんだ
学習意欲のない人間の結果を学力があるということは
結果としての数値的指標として正しいだろう。
その情報をもとに、次のアクションをどうするかできない人に開示していることに気づかない
愚かしさを除けばだが、、

2011-05-10

根本

現代社会、とりわけ日本社会において
根本的な問題ではなく、その取り巻きにばかり攻撃、責任を求める傾向が強い。

・問題を起こした生徒ではなく、それを起こさせた学校教師陣に
・殺人犯を事前に捕まえられなかった警察機構
・サイバーテロで攻撃を受けて、情報を流出しさせてしまった企業
・行政指導に基づいていたのに防災していたのに、災害を出した半官半民企業

僕としては問題のは

・問題児の生徒
・殺人犯
・サイバーテロリスト
・天変地異(誰にも非はないとしか言いようがない)

であり、ある意味攻撃、責任を求められている側はある意味被害者だと思う。

仮に事前に活動すれば

・生徒の自由を奪う教育
個人の人権を無視した越権逮捕
・技術革新を阻害する訴訟企業活動
・ありもしない災害へ無駄な税金を使う防災対策

と批判されていただろう。

はっきり言うと、現代社会の発想卑怯である。
根本的な問題にメスを入れることを嫌がり、
無責任な社会的生贄を作り出す思想だから。

言ってもわからない存在にいうより、
その周りに、「言ってもわからない奴を野放しするな!」
って騒いでいるだけだから。

基本の現代人とみなされないように
自己啓発、社員教育、社会人活動の啓蒙をすることが
本当の社会的な根本対策だと確信している。

2011-05-09

現場

よく日本人は
「現場、現場」
って口にする。

でも、それは大きく間違っていると思ってならない。
確かに現場は事実だろう。
しかし、事実であって、そこに未来はない。
「今をよくしたい」という要求は、
新たな見解、価値の創設の足かせになりかねない。

時代は変わってきている。
改善という言葉、既存価値の延長である以上、
それは変わらないので、現場という概念を捨てることを視野に入れたい。

自分の細胞もそうである。
「お肌をきれいにしたい」
ということは、今ある細胞を代謝で入れ替えることでしかきれいにならない。
そこは現場の肌細胞の改善ではなく、入れ替えでしか見いだせないのだから。

2011-05-06

電池

昨今の節電傾向から、蓄電池需要が高まっている。
知人が
「仕事も蓄電池できたらなあ、、」
っとぼやいたが、それは蓄電池の意味を理解していないし、
君には無理だよって返してあげた。

蓄電池はピーク時の負荷を下げるために有益な手段とされるが、
そのためには、ピークではない時に、貯める行為が事前にされなくてはならない。
今忙しいことを事前に行っておく、準備と予測とその時間見積りが重要である。
悪いが、僕はその概念で動いているので、それなりの負荷分散はできているし
だからこそ、他者の無自覚な介入に大きくいらだちを出すのはその自己管理ゆえである。

蓄電池できたらなあって発想すること自体
貯めるという行為を理解していない証拠と思ってならない。

考えてみれば、節電、節電いわずも
いつも電気代を意識してれば、日々節電になっているし
蓄電池なくて大丈夫な生活リズムになっているはずだと思ってならない。
電気代の明細には、先月、昨年比をわざわざ明記しているのは
今に始まったことではないではないかと。

2011-05-02

空缶

缶コーヒーをものすごく飲む僕としてはちょっと気になってしまう。
缶コーヒーの缶の原価っていくらなんだろうって。

缶コーヒーを買う時に、
間接的には、その容器である缶も買っているわけである。
つまり、缶はコーヒー代以下である。
そして、飲みたいコーヒー飲料自体より価値は低いわけであるが
原価としては、、もしかしたら、缶のほうが高いのでは?って思ってしまう。
もし缶に代わる製品が出てきたら、缶コーヒーは安くなるのか?

そして、みみっちい僕はもう一つ思う。
液体物は容器に入れないと運搬できない。
でも容器に入れれば、入れるだけその容器に少なからず付着してしまう。
入れた時に、出す時では減っているので。
この減り分を限りなく0にできるそんな容器になれば
飲んでるコーヒーをすべて飲むことができたと感じるのだが、、、

たった一服にここまで思ってしまう、自分が嫌になる。