2013-12-19

時流

日進月歩の日常、
最近、時流に乗るから待つように考えるようにした。

日進月歩の流れに常に乗るということは
ある意味、流されているだけと変わらない。
流されているだけならいいが、飲まれている状態だったら、
それは乗っているということではない。

対して、いろいろとあるし、
その波に乗らないなんて言われても
あえて、その波に乗らないでいることがその先につながることも
強く意識してきた。

乗らないからこそ、
今でできること
時期、様子により自体がこちらが有利に動き出すこと、
そして、、失わないことが実に多いともいえる。

時流は本当に、流れ、、液体的流動、、つまりは水物といえる。
そんなつかみようもないものを必死につかもうとすることが
かなり無駄なことっていえるようになったのは
年をとった証拠かもしれないが。

2013-12-18

心酔

ある人を心から慕い、尊敬することであるが、
この表現に大きな盲点があるということ。

心酔するのであって、
される側が必ずしもされている側に好意的とは限らない、、いや
結構、嫌っていることが多い。

それが大きな問題と僕は思う。
心酔している人がその心酔の気持ちで他の人に接すると
結構、いい迷惑であり、そして、ではその心酔されている人がこの事実に対して
責任を取るわけではないことがある。

勝手に心酔して、それを他人に強要する姿勢。
その強要に心酔されている側は結構無関心で責任なんか感じない。

本当に他人からするといい迷惑だ。
盲目的な感情、それが大きな停滞を導くのだから。

2013-12-17

示唆

「できるのになぜやっていない」
「やったなら、お前の責任だ」

僕は現代社会のこの
犯行示唆への無責任、無罪に対して、
社会破綻を感じている。

できる奴がやらないことへの責め
それでやったことによる責め

をなぜ、無責任にいえるのだろうか?

責めを発言しただけで
その時点で示唆、共謀の責めを負うべきではないだろうか?

この事実を放任している以上、
この社会に前向きなことが自発的に発生することは無理だといえる。

言いたいことを自由に言っていい’だけ’で責任をとらない社会に
建設的な発展があるだろうか?

2013-12-16

現金

現にその場にある通貨のこと。
僕らの思う現金の認識はつい最近なものである。
会話の中で使われる
「現金な奴」
目先の利益で態度が変わる輩をそう表現するが、
その現金の意味のほうが、今日使われている通貨への現金より古いのである。

現代人にとってみれば
現金という概念は当たり前であるが
必ずしもの通貨である現金が当たり前とは言えない。
過去をみれば、通貨そのもの、商取引というものすらなかった時代が
そう大昔とは言えない。

そして、現在、通貨紙幣でなくても
電子マネー、バンキング、クレジット、ポイントと
現金をみずに取引が成り立っている。

この先、数年で現金の認識が変わっても不思議ではないかもしれない。

2013-12-13

偉人

高い志をもって社会のためという言葉を
口にして、行動する人が偉人扱いされるが、
その志を持っていた人は社会のためにならず、
利己的な人が結果的にそう賞賛されることのほうが多い。

志を持っている人は
案外、自分の思い込みであり
他人のためと思っていても
他人はそのことに対して、どうでもよく、、強いては逆に困ることだったりする。
それを押しつけがましく行うことは社会のためと言えるだろうか?

対して、今あがめられている偉人の多くは
人間として本能むき出しに生きている人ばかりで
同時期に生きていた人は結構迷惑をうけた人だということは
賢い人間なら読み取れる。
しかし、だからこそ、後世の人からすれば
その人の時代に従わない行動が今の社会の礎になっているといえるから
偉人扱いになっているわけである。

子供のころから
偉人の本を読ませることが
偉人を生み出さないことになる事実になぜ社会は未だ気づかないのは
どういうことだろうね。

2013-12-12

閉鎖

出入りを閉ざすこと。
閉鎖的というと、マイナスなイメージを感じるが
現代社会は閉鎖を求めている。

閉鎖とは外と内を分けるという意味がある。

例えば、
組織
サークル
会員
というものは、そのメンバーか否かで閉鎖的になっていることが多い。
・「うちの組織に馴染まない」
・「そういうサークルなんだから、」
・「会員さま限定」
という発言は、閉鎖的である現れである。

市場経済においても
顧客の囲い込みという表現は
閉鎖そのものである。

自分たちが思うマイナスイメージ。
考えてみるとそれこそ、今の社会を動かしている。
現実って悪徳こそ実益と感じてしまう。

2013-12-11

戦禍

戦争による被害。
しかし、戦禍は本当に被害だろうか?

戦争でダメージを受けたものを戦禍というが
その戦争に結果的に参加したのが当人であれば
それは自業自得ではないだろうか?

自分の責任を
権力者のせいにする発想が
戦禍という言葉に代表されている。

必ずしも被害者ではない者を
被害者とみなす考え方は人道というより、
愚行だと僕は悟る。

戦争を起こした、、小さな所で言えばイザコザを起こすのは
当人たちの問題であり、そこでそのイザコザをせしきれない者も罪あると僕は思う。
要は、自らを自らの武力で守れない発想こそが
現代人の生存競争という戦争結果の戦禍だといえよう。