2013-12-10

進言

目上の者に対して意見を申し述べること。

現代社会では尊ぶ行為とされる。
それをどんどんすることが組織が活気づくといわれる。

が、僕はどんどんするということは、愚行であり
する側
される側
それを推奨している組織
はおちぶれると断言までできる。

考えてほしい。
進言をどんどんしているとしたら
そのする側、つまり部下からすれば、
上司の存在はなんだろう。
それを採用してならば、手柄を横取りするだけの存在
それを拒否するならば、自分にとって理解のない邪魔な存在
と上司としての存在意義がなくなる。

上司としてもその認識なら
部下がついてくるわけがないという自覚もできていないだろう。

部下はそんな組織に在籍し続けるくらいなら
ステップアップのために離れたくなるだろう。

離れるということは
組織性を失うということであり、
進言をする意味がなくなるというになる。


進言をどんどんすることが組織が活気づくと口走ったバカ
それを推奨するバカ
が現代社会を悪くしているといえる。

昔は命がけで進言したからこそ
重い責任とその決断が尊ばれたわけであり、
今の進言の言う発言、、実に愚かで軽く感じてならない。

2013-12-09

予感

何か事が起こりそうだと前もって感じることであり、
現代社会では
・非論理的
・非化学的
とされている。。。が、

実際問題、
特定の権力者の予感発言で決まることが実に多い。
というより、先が見えない現代において、
いくら論理的、科学的であっても
正しい結果を導くとは限らない。
もっと言えば、予感、直感で決めたものほど、
結果がでたりすることが多い。

企画なんてものはそういうことが多い。
ビジネススキルで
論理的科学的なことを求めているが
ビジネスの根幹である儲かることは
予感、直感による決断で
今のビジネススキルと対極にある事実に
この世の愚かさを感じてしまう。

2013-12-06

質問

どこでも見られる。

「わからないときは聞いてください」

と言っているのに実際に質問すると

「そんなことも知らないのですか!」

って現代社会の’お約束’に感じてならない。

質問される側の許容範囲内に
質問する側のレベル、発想がいないと質問の回答が出てこない。
これが現代社会の知的格差と僕は定義している。

質問をするために自分を高める輩もいれば
質問することを辞めて、抵抗勢力として対峙する輩も多い。

貧富の差の大きさに格差という概念は一義的になっているが、
実際問題、知るもの、知らざるもの、という知的格差が
些細な質問から読み取れ、
それで精神的なストレスや派閥、大きな対立につながっている事実を
直視できないのかなあ、この社会は。


2013-12-05

判定

判断基準にしたがい、
ある事象がどのようなフェイズにあるか、
どのような作業を行わなければならないか、どのような定義づけをおこなうかなどを、
フローチャートや試験を含むあらかじめ定めた基準に基づいて行うこと

と言われるが
そこまできちっと定義して判定しているだろうか?
判定基準を明確化
厳格な社会地位のある人
で判定するとしても、
基準には例外が
地位のある人ほど人間性、性格上、問題視される人間である
ので、判定が万人に向けて納得性があるか甚だ怪しいといえる。

公正が求められるスポーツの判定も
審判、判定員の裁量に委ねられているので
電子機器による科学的立証がなされても
その判定が覆ることはないことが実に多い。
つまり、判定とは権力者の権力を示す格好の場であるような気がしている。

だから言える。
判定要素の強いスポーツって
そのスポーツ自身結構、発言力と社会的権力を握っているのが事実ではないかと。

2013-12-04

感情

相手のちょっとした行いで自分が先に進めるときに
あなたはどう表現するか?
僕からすれば、そこがうまく出来る奴が部下や他人から協力を得られると感じる。

僕の場合、
それが相手にとっては些細な事でも
僕にとって、気付きであれば
相手に対して、
「君のおかげで、先が見えてきたよ、本当に感謝している」
と平気いえる。

対して、最近良く見るのは自分本位な発言だ。
「たまたま、君の発言、自分は気づくことができた。」
「今の自分の気付きの気持ちは、君に理解できないだろうな」
うーーーん、それってなんだ?

嬉しいことをちゃんと伝えられないでどうして相手に気持ちが伝わるものか?
最近では怒りの感情を抑える、アンガーマネージメントとか
言い出しているが、喜怒哀楽をちゃんと表現できずに相手と対峙できようか!

本当に、自分の感情を正しく表せずに
コントロール、マネージメントとか

2013-12-03

原点

物事のはじまりや基(もと)、基準、根拠となるところ。

よく不況や失敗をすると
原点に立ち戻る。
原点回帰
と口にする。

それって本当に原点回帰だろうか?

社会は大きく変動している。
自分たちが原点と思っているポイントはすでに戻れないものではないだろうか?
対して、人間は過去の栄光、記憶は感覚的に覚えている。
それは自分だけではなく、周りもそう思う。
自他共に認めていること。

原点回帰ということは
基準、根拠ではなく、
期待されている自分になるという新しい自己発見ということではないかと
僕は感じた。

2013-12-02

護身

ストーカー被害
警察に相談していたのに、、、
という事件、事例が多い。
これを警察の不手際というべきだろうか?

僕は根本的に思う。
もう警察機構に護ってもらわず、自分で自分を護身する方向にすべきだと思う。
社会も安全保障の警備会社の乱立、
護身グッズの多様化でそれが伺える。

非暴力、治安維持である公安機構。
しかし、それは限界にきている。
当人は対象から護ってもらいたいと思っている。
しかし、対象そのものも自分は護られるべき存在と思っているのだから、
どっちも護ることを求められる公安、警察機構で動けない。
それが今の日本である。

ストーカーに殺されたという事件にフォーカスされるが
たまたま近所に住んでいて、通勤で同じ電車に乗る人を
ストーカーとして訴えることが実に多いとも聞いている。

自分を守るために
他人の自由の犠牲を正当化させる護身。
もはや他人を敵視している無法化に等しいといえる。