2009-06-09

体力

継続的に物事を行うことができる、からだ全体の能力。
特に、病気に対する抵抗力や疲労に対する回復力。

って言われるものだ。
日本語において、この言葉の真意は体の力というより
生命力そのものに近い。

確かに体を鍛えれば、
その生命力が高まるといえるが、
生命力の源は、、、使命感ではないだろうか?
・自分しか出来ない仕事、活動
・自分を必要としている人が待っている
・まだ自分には行いたいことがある
そんな思いが人の生命力を高めている。

体を鍛えていなくても、
仕事が忙しいときは、風邪を引く暇がないってこともあるし、
その逆で、仕事が終わるといきなり寝込むことがある。
また、やたら体を鍛えている人がよく風邪で休むのも見てきた。
体を鍛えても、その鍛えることが目的になって
社会活動たる仕事に集中できないのならば、、
経営者たる僕は、無駄な時間だなあって思うしかない。

2009-06-08

民話

子供の童話に代表される口伝の話。
内容が伝言ゲームにより空想上の存在が登場するが、、
実は民話はその地域の価値観、正義感を表し、
その地域の不文律だったりする。

今の民話、童話は
イソップ、国木田独歩のような研究者により厳選、編集されたうえ
政府や出版業者によって、国家の求める理想的な善人育成のツールと化している。

みなは知っているだろうか?
白雪姫の継母女王は白雪姫の指示で、油風呂に投げ込まれることを
ありとキリギリスの最後は、凍死しそうなキリギリスを蔑むありを
かちかち山の狸は捕まったときに、やさしさで逃がしてあげようとした婆を
殺し鍋で食ったが、のちに泥の船で沈むときにウサギと爺に石を投げつけられて
沈んでいったという話であったことを。

子供には残酷だから、話をマイルドに再編集しているというが、
今の子供たちのほうがもっと残忍なことをしている。
それは残忍というものを見聞きするとことで
自分では出来ないものと認識させる、古来の不文律の民話のほうが
犯罪抑止効果が高かったのではないか。

ただならない国策、施策が人を愚かに誘っているといわざる終えない。

2009-06-05

書面

紙に書いた文。文書のこと。
PCの普及、IT化の潮流で、ペーパーレスになりつつあるので
書面というより、画面になりつつあるとされる。
では、紙のもつ役割はすべて画面になっていくのか?

そうはならないというのが、世間の意見だと思う。
契約書等の今まで紙面での管理してきたものは変わらないとか、
メモ等の気軽に書けるものは紙でなくてはとか、
紙を尊重する意見は数多ある。

僕の見解としては、いつかは紙はなくなるだろうって言い切れる。
そして、PC等の画面という概念もいつかは駆逐されるだろう。

人の歴史を思い出して欲しい。
書面は紙で始まったわけではない。
壁画や地上絵のように、周囲の構造物に記載して
それをわざわざ見に出向いていたことにより、
意思の継承、伝達を行っていた。

その後、木簡、パピルスの普及で
現在の紙に至っている。

紙の有用性は今までの伝達手段に対して
・軽くて、折りたためるので運びやすい
・紙に適した筆記具の普及で記入しやすい
・とても廉価で入手できる
というポイントが大きく上げられる。

対して、
ペーパーレスにおける画面の有用性は紙に対して
・紙やインク等がおこしやすい物理劣化を抑止
・電子送信による、即時伝達
・情報のデータによる、物理保存容積の軽減
となっている。

伝達手段は、人の技術進化、生活方法の変化により変わりつつある。
いつかは、紙の書面はなくなると思う。

その兆しは身近にある。
現在、”メール”っていう”日本語表現”は
便箋や葉書ではなく、携帯、PCのeMail であることは
若者だけではなく、ご年配者も暗黙の了解だろう。
このような認識の変化で、書面の意味は変わっていくといえる。

2009-06-04

珠玉

美しいもの、すぐれたもの、尊いもののたとえで使われる。
珠、玉、ともに球体を示しているが、球とは表さない。
古来中国において、丸いもの、真球こそ高貴、神聖なものとされてきた。

球体の特徴は丸いことであるというだけでは十分ではない。
球の特徴は中心から等距離にある点の集合体であることだ。
点で面とは言いがたい表層を作り出している。
その点が無限大にされる存在。
だから、無限大を人民に例えて、
すべての人民から等距離で触ることができない存在だからこそ
珠、玉は高貴かつ権力の象徴とされてきた。

理論的はとても考えられたものだと思うが
たぶん、この手のものは後付け理論だといえる。

理論があるから、権力者が珠玉を手にしたのではなく、
権力者が珠玉を持っていたから、理論が作り出された。

逆に言えば、珠玉という価値観も当時の権力者の好みが
そうでなければ、生まれなかった価値観といえる。

高貴なものが権力者に装飾されているのではなく
権力者に装飾されたからこそ、高貴な扱いをうけるのだ。

言葉も価値も、権力を握ったものにより
定まることを再認識しなくては。

2009-06-03

訪問

訪問の’問’であり、’門’ではない。
つまり、相手の拠点となる場所の入り口’門’をたたくのではなく、
相手に会い、問いを行うことをいう。
重きをおくべきポイントは、問いを行うということだ。

相手に会うときに、どんな問いを用意していくかを
事前に考えないでいくことは、僕のとしては訪問とみなさない。
確かに、ただ会いにくるだけなら、相手も会えばいいので
気持ちは楽だと思う。

でも、それでは会う目的やその後のアクションになんら影響を示さない。
どんな行動も月のアクションへの予備動作と思うべきであり、
せっかく、相手とのインターフェイスが行われるだから、
それに会った準備はあるべきである。

問いかけとは、考えかたを返せば、自分自身を見つめるポイントでもある。
自分の理解、説明力でしか問いは成立しないから、
どんな問いを行いたいかにより、自分自身の力量も測れる。
相手に訪問するということは、相手に会い行動を引き起こす問いを行うという一面と
自分確認を確かめるという裏の一面も意識しなくてはならない。

2009-06-02

立地

建物が建っている位置における行動優位性とでも言おうか。
いわゆる、地の利ということ表現にも該当する。
駅前、
都心、
徒歩nn分、
高台にあるので眺望がいい、
とかが、具体的な意義になるだろう。

ITの発達、
交通網の発達、
物流機構の高度技術革新、
により、生活立地における格差は10年前に比べれば
大きく緩和してきているといえる。
しかし、だからといって立地における優位性という意味が
失われたわけではない。

とりわけ、ビジネスにおいては都心回帰を強まってきている。
立地の根本は人の所在であり、
その人がどこでどうしようとしているかが
仕事における大きな判断基準だといわれる。

例をあげれば、
ヘッジファンドなどの大口口座の金融取引業は
このITによる受発注が主たる業務なので
都市の中心になくてもかまわない。
しかし、大口口座を成約させるためには
都市の中心にオフィスを構えているという安心感が
投資家の信任を得られやすいから、都心を求まる。
また、新興産業で世間的に知名度が低い業種業態の
旗手となる企業の目指す立地は都心にオフィスを構えることだ
っていう経営者の話も聞く。

行動を楽にさせるための立地は現在
精神や社会的地位という形而上の楽を求める立地になってきている。

2009-06-01

将来

これからやってくる時
未来より現在に近い時をいうという意味らしい。

将の意味には、率いる意味の 将る(いる)という意味があり、
来の意味には、未来でわかるように、くるべきものの意味がある。

くるべきものを率いる

と言う意味が将来といえる。

???これって、自発性を求めるではないか!
つまり、将来と言うものは自分で持ってくるものと意味である。
「なんとなく、将来は」という意味ではどうも使うべきではない。

将来とは、自分で定めて、導いてくるものと言える。

人生の目標、、それ自体が実は、将来について考えていることであり、
自分を動機付けて動かす初動って捉えるべきである。