2013-09-30

真筆

当人の手によって書かれたというもの。

ある有名画家の作品、真筆であることがわかると
その作品の値段が上がる。
ということは、その作品そのものには価値がなく
その有名画家の手によるということだけが価値であるということになる。

でも、その有名画家が有名になるためには
その作品が認められたからであって、
有名画家前提で始まってはいないはずなのだが、、

価値に矛盾を感じる。

真筆という概念より
作成者ではなく、
その作品そのものを自分の価値でいいものと言えるようにならないとならない。
っていうか、自分の価値をマーケットに反映させている存在が入るわけで
その存在に迎合している以上、真筆どころか、
自分の価値感する確立できないのが現代であることを強く意識すべきだ。

2013-09-27

執念

執念と信念はどう違う。
現代人の今の受け取り方だと
執念はマイナス要素
信念はプラス要素
で捉えているようである。

僕としては
自分の気持ちの揺るぎなさであり、
執念は自分の考え
信念は他人から押し込まれた価値観
で成り立っていると理解している。

どっちもどっちで
第三者からすると、
<思い込みでひとりよがり>
と映るかもしれない状態である。
それで、他人が引くということもあるだろう。

しかしだ、
執念を燃やすという表現があるように
自分の考えに基づいた思い込みがあるからこそ、
いろいろな革新が生まれている。
現に
「他人の言葉を気にするな、自分を信じろ」
ってプラス的よく使われる上記表現こそ
執念を燃やせって言っているに過ぎない。

どうも、ひと目を気にする日本人の感覚と
実際の結果はひと目ではない事実認識が
言葉の意味理解を複雑にしているようだ。

2013-09-26

機種

昔からある言葉のようだが、
機械の種類
の略語であり、飛行機に使われだしたという
航空機登場の時期という最近の言葉である。

今では、身の回りに機械が増え、
機械自身の性能差、バリエーションが個人の思惑で選べるようになったので
機種という概念が一般に知れ渡っているといえる。

機種という概念があるということは
その機械の機能ができて当然で
それ以上の付加価値を選ぶことができる
技術進化の現れと解釈できるということだといえる。

2013-09-25

異才

異才をはなつ、、という言葉がある。
異才とはなんだろう?
考えてみれば、
才能があるということは、一般人と異なることと言われていることである。
つまりは才能があるということが異なるということであり、
異才とは才能があるとは違う意味なのだろうか?
辞書的にも曖昧に記述されているので、明確に異才を定義できていない。
もっとも、才能があるという言葉自体も
あるなしの判断基準が曖昧なだけに才能自体の定義もできていない。

ある意味、
異才とは、定義できていない才能よりも定義できない才能があるという状態であり、
理解できないという意味ではないだろうか?

2013-09-24

強靭

強くて粘りがあること。
強くてしなやかなこと。
ってどういうこと?
具体的に言える。
はっきり言えば、マッチョの肉体は強靭という定義に入らないはずが
強靭と言われたりしている。

もっとも適しているのは
弓そのもの形状、性質であるだろう。
しかし、言葉は進化するという理由で
それっぽいから、いろいろなものに強靭という言葉当てはめている。

言葉は進化するのではなく、
バカが発想力、理解力ないままに使い出して
それが流行病みたいに感染したのではないかと思ってならない。

強靭の本来の意味を理解することなく、
強靭な精神とかいう発想は、、
現代人のちょっとでも優れていることに、超~ を付けたがる発想と何ら変わりない。

日本語は進化しているというより
表現力の退化が甚だしいと言わざる負えないな。

モノの有り様を的確に理解すること、それを表現する力を
現代日本人は一からやり直すべきな所まで来ているんだろうな。


2013-09-20

分配

分けて配ること。
実はこれが売買の本質。

日本人は物々交換から売買が始まったがそれは
農耕民族の果実が個でとれる発想になっている。
しかし、現在世界を実質支配している欧米思想は
狩猟民族であり、とった獲物から肉を切り削いで渡していた。
まさに、分けて配っていた。

それゆえ、
日本の物々交換は
自ら持ち寄った
個と個とで、売買が行われるので
物流という概念がない。

対して、
欧米では
狩りを行った役務に応じた取り分を
族長などが管理する獲物の保管所に
自ら切り削きに向かわないとならない。

ゆえに、
・労務益  → サービス
・ほしいものを得るために自らが行動負担  → 物流
という概念がはじめからあったといえる。

一つの物を切り削いでわけるという概念は
後に在庫の山をも、一つと捉えることになるから
lot stock という概念がうまれたのであり、
日本人が物流、、ロジスティクスの概念理解が遅れた要因でもある。
日本の物流市場が過去停滞していたのはこの理由だった。

しかし、今ではその分配の概念がなかったらこらこそ
個で物をとらえる、個人配達、宅配ビジネスが一番進化したといえる。

確かに分配の概念でビジネスを起こしたのは
欧米かも知れないが、
その先に行くため、今までにないブレイクスルー、
概念が弱かったからこそ、宅配というビジネスを進化させられたといえる。

分配の概念を知っていた。
それが良くもあり、悪くもあったと思ってならない。

2013-09-19

通訳

異なる音声言語を話す人たちの間に入り、
双方の言語を相手方の言語へと変換し伝えること。

最近思うのだが
異なる音声言語とはいえない、
むしろ、日本語同士でも通訳を介さない通じないことが
やたら多くなっている。

若者と年寄り
専門家と利用者
当事者と陪審員

など、立場が異なるだけ、生きてきた環境だけ、
というところで、全く言葉が通じなくなっている。
それだけ、自己中心的、個人的になっている証拠であり
同じ日本語を使っているつもりで
他人には通じていないことは、日常的に多々見られる。

それをどうにか伝わるようにする活動、技術は
ある意味、通訳と同義だと思ってならない。

2013-09-18

歩留

原料(素材)の投入量から期待される生産量に対して、
実際に得られた製品生産数(量)比率のことである。

加工上ロスなく作ることなのだが、
この歩留まりという表現はおかしくないか?

歩みが留まるということがこの意味とは?

いろいろと語源を調べることが多いが
この意味は明確なものが見当たらない。

日本語が使えないという発想もあるが
そもそも言語というもので他人と意思疎通をしている以上、
個々人が真意を理解するできなくても
意思が伝わればいいというレベルなのかって感じてしまう。

2013-09-17

極端

日本人は意見がはっきりしていることをバカのように
極端だという。

はっきり言えば、グローバルというより、選択というものは
○☓でしかない。
曖昧ということは判断していないということで、
選択権という権利放棄に等しい。

止揚、アウフヘーベンを日本的に都合のいい解釈をして
今にいたるが、それは未定義でも許された、
何もないから問題を先送りにできた時の話であり
今ではすべてがかつかつ、限界が見えているからこそ
極端、、極めて端的な判断しか許されなくなっている。

はっきり言うことが、日本の美徳と反するという時代は
もはや、いやそもそも愚かな美学だったという考え方でいないと、
外国はおろか、日本国内においても
ただグズグズ足を引っ張る存在とみなされることは明白なってきている。

2013-09-13

独言

携帯でしゃべっている女が
近くで一人ごとを言っている老人に
「うるせー、迷惑だ」
って言い放った。

それを見ている僕の視点からすれば
どっちも同じレベルうるさい存在でしないかが、
携帯でしゃべっている女は自分は当然間違っていないと言い出すだろう。

人間って他人から見れば同じに見えることを
ぜんぜん違うと騒ぐ傾向、、いや本能がある。
それにより、自己を意識している、自覚がある証拠でもあるのだが、

でもそれって、今では無駄な能力のような気がする。
自己が強すぎるから社会適性が著しく低下しているのだから、、

そう考えると、
なんか人間の会話と思っている話していることって
結構、他人は聞いていない、、独り言ばっかりなんだろうなと悟ってしまう。

2013-09-12

見聞

見たり、聞いたりすること。

実体験することとも言われる。
現在、高度情報通信社会。

ディスプレイの前で特定操作をするれば
見たり
聞いたりすることは容易にできる。

人によっては
「それは見聞ではない」
と否定する。
実体験こそという発想であるが、
実体験するコスト、危険性、、そしてその行動が起こす環境への影響と
総合的に勘案すれば、
実体験することこそ、無駄な独りよがりと変わらない判断することもできる。

これもまたエゴのレベルでしかない。
しかし、ただのエゴほど、
人間はさぞ当然かのごとく主張するから困ったものだ。

2013-09-11

交配

どうも気になる。
遺伝子組み換えは☓だが
交配したものは○という論理。
僕としては全く理解できない。

交配とて、人間の意思で
他の生物が自然界ではまず成り立たない生殖をさせられて
誕生させている。

その工程を科学的、研究に基づいて
遺伝子の組み換えで実現させている。

交配によって産まれた、、産まれさせられた失敗の命を起こさないためにも
遺伝子での対応していると考えるべきだ。

遺伝子組み換え食物を口にして何が起こるかわからないというが
交配で産まれた生物を口にして、その結果が出るまで
どのくらい犠牲が出たか、、、そういう視点で物を見れば
遺伝子組み換えと交配の差異どころか、
人間のひとりよがりのエゴ同士の馬鹿げた言い争いにしか感じない。

2013-09-10

銀杏

ギンナンとも読むし
イチョウとも読める。

日本語は難しい。
その文字ではなく、
「茶碗蒸しの銀杏」
「神社のご神木であるあの銀杏」
と文脈で読みを変える必要がある。

でも冷静に論理の視点で捉えると、、
どうでもいいレベル。
概念、対象物がわかっているものを
わざわざ読み方の違いで間違いにすること自体
物事を理解するということで、間違いであるといえる。

これもまた日本人、日本語が物事の捉え方、そして説明力のなさを
示しているいい例といえる。

2013-09-09

慣行

そんなに朝早くもないのに
「おはようございます」
疲れてもいるわけでもないのに
「お疲れ様」
という挨拶。
これを慣行として扱うことを容認してきたのが人間である。
しかし、この慣行ももはや破綻してきている。

ある地域で
年寄りが朝、子供に挨拶したら
「話しかけるなババア」
と答え、その子供を叱責したら
その親が出てきて、
「気安く関係を持つな」
と言い出し、それが当たり前になってきているとのこと。

今までの慣行的なことが通じなくなってきている。
そもそも、効率、真実の探求することは
慣習、伝承の否定になりやすい。

今まで正しいと思うから行ってきた慣行を真っ向から否定しても
咎にならない現代社会において、
何を持って正しさの立証になるだろうか?

職場や地域社会においても
挨拶という慣行が減っているどころ
その挨拶をすることに嫌悪を示していることが正当になっていることから、、

慣行という行為そのものが意味を成さない。
前例否定社会になってきているといえる。

僕はこれを嘆くことはしない。
それについて、嘆いたところで
変わりゆく社会では意味が無い。
その分、
挨拶をしないで僕を敬わない輩に制裁することも
もはや非暴力の慣行のシガラミから外れていると僕は判断行動する前提だから。

2013-09-06

静寂

簡単にいえば、無音状態のことである。
問題はこの熟語の読みである。
「せいじゃく」 と読むこともできるが
「しじま」 と読むこともできる。

多くの人は 「せいじゃく」 と読んで意味は通じるのだが、
これを 「しじま」 と読んだ人に対して、現代人は
・間違っている
・そんな読み方は通じない
って平気で言う。

そう現代人は本来正しいことであっても
自分たちが理解できない難しいことは
間違っていると認識するようになっている。
これって、かなり危なくない?
絶滅危惧種で古来伝統なものであっても
認識していないものは間違いとして消滅させてしまうことがあるということ。
大した知識のない者どもに
積み上げてきた歴史が潰されるのは
そういう風潮を容認した社会の問題と割り切るか?
それともその者どもを草の根的に改善、粛清すべきか?
それによって、過去に誇れる遺産が残せるかどうかという深刻な問題になっているのでは?
って感じている。

2013-09-05

猊下

閣下、陛下、なんて言葉は未だに通じるかも知れないが
猊下
というこの言葉は誰に対する敬語かはあまり知らないだろう。

辞書的には
宗教上のトップに対して使う敬称とされる。
だから、教祖、法王、座主、と呼ばれる方に使うことが正しい。
また、碩学な存在にも使える。
学長、名誉教授、とかにも使える。

本来の意味について、まとめていない辞書が多すぎるので
意味の本質は
組織、体制という実社会ではなく
知的、観念的、と呼ばれる精神の世界において
確固たる地位にいるお方への敬称である。

まー、見えない世界への否定、現実主義になった現代社会において、
猊下と呼ばれる存在への敬意は
現代社会の台頭ともに失われてしまったといえるけどね。

2013-09-04

放伐

人は暴力反対って口にする。
しかし、暴力が地球上から消えたことはない。
また、暴力で勝ち取った革命なのに
各国がそれを承認、容認することが多い。

その事実を嘆くことよりも
その前提で考えるべきでと思った。

放伐、
ある意味、革命権である。
武力で現政府を倒すという論理は
東洋の知の源流である、中国の思想では易姓革命
西洋では、ジョン・ロックから、マグナカルタ
に明文化されている。

つまり、
古今東西
人は暴力でもって、悪政を討伐することができる。
その悪政の定義はできないといえる現在
自分勝手な判断で悪政とみなせるのだから、、
対象を、国家、地方、集団、企業、組織、、そして他人と解釈できるだけに
ある意味、人は自分にとって都合の悪い存在と戦うことは根本的に許されているとも言える、

今は未だ治安のいい方の日本だけど
社会情勢を見ていると
この間まで安全だった国が一瞬で暴徒の国に変わるのだから
他国どころか日本とてと僕は感じてならない。

2013-09-03

中興

一度衰えていたり途絶えた物を復興させることである。
事業継承をした上での偉人を中興の祖といったりする。

創業することと
中興させることと
では、どちらが難しいだろうか?
何も無いところところからスタートという創業に対して
何かあるからと言う理由で中興のほうがましと思うかもしれない。
しかし、何かあるものが必ずしもプラスとは限らない。
プラスとすれば、
資産、ネームバリュー、ステークホルダーが挙げられるが
マイナスとしては
負債、慣習、腐れ縁、が上記の対義として存在する。

何もないということは絶対0だが、
何かあるからこその中興もプラスマイナス・ゼロということで
一概に、比較できないと感じてならない。

2013-09-02

諸刃

諸刃の刃、
西洋の剣のことで、
腹も背もなく、両方に刃があるもの。
色々な状況で相手を斬ることができるが
自分も怪我してしまう。

は??
外国の映画で
sword
blade
saver
がでてきて、諸刃の刃になっているが
自分の刃で怪我することなんか見たこと無いぞ。
っていうか、そもそも諸刃であっても、剣は板状だから
面のことが存在するからその面を自分に向ければいいのでは?

諺と言いながら
実際にありえないことを
都合に合わせて言い切っている。
、、、これはいつの時代の人間も同じか、、って思う。