2013-06-28

接続

21世紀は接続の時代だといえる。
確かに20世紀も接続の概念は強かった。
接続という接点を持つということが多く
接続の続、、続くという概念は
社会的
技術的
習慣的
に厳しい状況だったといえる。

21世紀になり、常時つながっていることが当たり前になっている。
電気信号的
人的
組織的
契約的
につながっていること、、ネットワークこそ価値になっている。

個々人の能力を評価する社会構造のようでいて、
実際は集合知を求める。
本来評価すべきはその集合知の源泉のはずが
それを使っている末端への評価しかできない。
そりゃー、社会構造的にいろいろと破綻しているといえるわな。

2013-06-27

良物

「自分たちの良い物を残しておこう!」
実に耳障りな発言といえる。

良い物であるかどうか、
時の権力者が決めるもので
過去、負け組の人間の発想ではない。
逆に、それをいいものというから、負け組になるわけであり、
良い物ではないということだ。

今の日本の古美術、
あたかも日本は昔から良い物を作っていた、、と勘違いしている。
日本の古美術はどんどん安く売り
外国産のものを買い漁った。
先進国産=良い物としていた。

その中、先進国側のフェノロサにより、
日本の古美術が評価されてきているわけであり、
自分たちの判断ではないところがある。

買収された側の企業の社員が
「自分たちのいいところを新しい会社に」
なんていうが、そういう発想だから買収されたということを忘れている。

どうも日本人は部分最適、自己判断を従うが
良い物なんてものは、それを持つもの依存である自覚を高めるべきだ。

2013-06-26

改心

切り口を変えれば、裏切りそのものである。
今まで、自分の信じていたことを覆すことは
覆す側にいた側の意見としては改心だが
覆された側のの意見としては、今までの関係への裏切りに他ならない。

世界で多く逸話とされる
改心する人の話。
改心する側からの視点すぎるが
実際のところ、人間の裏切りの歴史を物語っている。

信用信頼を重視することが社会のように言われるが
自分勝手に信用信頼を覆すことが
改心ではないかと思うのは、ある意味、悟りの境地か?!

2013-06-25

官報

国が出す機関紙である。
法政令のことなどが、記載されているが
官報を国民が読むことは少ない。
出しても読まれないのが事実である。
その内容を
・事前
・簡略
・図示
した民間報道のほうが多く伝播される。

対して、白書の存在意義は大きい。
その白書の内容で
経済、株価が動くことが多い。

しかし、官報と白書とでは
重みが違うと出す側は思っている。

その認識が国民と乖離していることこそ、
国政がうまく回らない理由の一つではないだろうか?

2013-06-24

財布

僕のように自己管理している輩からすると
どうなっているんだろうと思うことの一つに
財布、そのお小遣いがある。
家計のやりくりでお小遣いという制度を使っている人がいると思うが
現代社会において、現金支払だけが決済手段ではなくなり、
僕の場合、現金を使わないで一週間過ごすことが多くなった。
・電子マネー
・クレジットカード
・ポイント使用
など、小口現金決算ではなくても買い物できるようになってきている。

それどころか、
欲しいものをリアル店舗、、、こういう表現が当たり前になりつつあるように
ネットで購入すると、受け取り払いもあるが、決済代行での取引になり
財布から支払うこということは少なくなってきている。

家計のお小遣い制度、、ある意味、、浪費対策などいと言われるが
現実問題、、浪費しないから、今の不況がある
という考え方が僕は正論と思うだけに
お財布のお金、どこまでがお小遣いのレベルなのかなあ、、
また時代とともに変わってきているのかな?

2013-06-21

野菜

「食のバランスを考えて、野菜を摂るように」
と当たり前のように言われる。

それって疑うべき話ではないか?と感じる。
食の種類が増えて、いろいろな食材を口にできる。
そして、サプリメントや代替食品でそれを補いえる。

食材として、おいしい、味わいがあるのであれば
その野菜も食材として、価値があるだろう。
しかし、この飽食かつ栄養ブームの昨今、
無理してまで嫌いになっていまった人が
野菜を食べるべきだろうか?

無理を嫌い
野菜を食べていない人のほうが健康的な生活をしている事例も多い。
逆に野菜中心の生活で短命な人も多い。

食物繊維やビタミンなどの言葉で
野菜の重要性が当たり前に言われるが、
それ同じくらい、魚肉に効用はあるような気がするが
そこに言及しない世論。

なんか、国策、業界的に
プロパガンダ的に踊らされているのではと思う。

だって、とても栄養価高く、
肉よりうまい野菜を市場に出せれば
わざわざ効能とか言わなくても市場価値はあるのに、
そうできない農業研究、農政の問題に全然言及しないのは
裸の王様レベルでしか見えないだけに、、

2013-06-20

不服

納得がいかず、不満に思うとき、
不服申し立てを起こすという話を聞く。
それって、無駄な努力であると結論づけていている。

制度として、不服申立ては存在する。
しかし、不服申立てというものは機能できるだろうか?
制度通りに従って、その処理がされるが
その処理の過程で、他の人の不服申立てを誘引させることも多いし
その人の個人の不服で、多くの人が不利益を被るのは
民主主義、公共の福祉の観点で許されない。

不服申立ての多くは
当人がより不服に思うが
違う誰かを不服にさせるだけであり、
負の連鎖になるだけだと言いたい。

では、不服に思う場合どうすればいいか?
根本的にその発想がも違っていると考えるべきではないか?
不服に思うのであれば、
その組織にいる事自体が間違っているので
その組織から離れる努力をすべきであり、
チーム、会社、団体、そして、国民というレベルで離れるべきである。
それができないのであれば、
不服ではなく、服従するしかないという割り切りをしないとならない。
不服な思いは組織的なワガママで許されないという判断である。
個々の思いを実現させたいなら、
それ相当の捨てる覚悟が必要であり
不服なんてものは甘えにすぎない自覚があまりにも現代人は足りないと言える。

2013-06-19

株主

携帯電話会社の株主総会で
株主が「スマートフォンの性能が、、」
って株主質問をした。

経済記者は
「目標達成できなかったこと」
「来期の目標や責任のとり方」
などを気にするが、、、

株主のその株主質問からすれば、
記者の気にする質問ってどうでもいい、
あげ足取りのバカ問答に感じてならない。

株主って、
企業の所有者であり、ある意味ファンである。
そのファンが企業に期待する質問こそ
本当の株主質問であるべきで、
今回の株主質問は実に正しい心からの質問だと思った。

経済、株価、引責、で数字に振舞わされる昨今。
考えてみれば、株主=支援者=顧客であり
その人への貢献こそ、
企業の存在意義だということ。
を、たったひとつの質問で、経営者として我に返った感じがした。

2013-06-18

図解

文字は詳細を伝えられるが、読みこなすまで全体が捉えられない。
絵は一瞬で概略を伝えられるが、詳細はそこに表せない。

説明をするときに、絵と文字のバランスが重要と教えられて、
そして教えてきた。

言葉では伝わらないこと、
絵だけでは足りないこと、
その事実は実際に説明や講演してみて
反省しないとわからないという事実もある。

なぜなら、わかったかどうかは
自分ではなく相手の理解、反応によるものであり、
自分の感覚ではない世界なのだから。

しかし、現代人の説明は
「わからないほうが悪い」
「聞いていなくても構わない、自分はやったという事実あればいい」
という傾向が高い。
個々の能力を尊重する能力主義の成れの果ては
ここまで来ているという思いにも繋がる。

図解をして、相手に理解して一緒に行動するということは
ある意味、手柄を相手に分配し無くてはならないということ。
その事実を認めることができない、、いや意味がわからなくなってきている
能力評価において、図解はある意味、、もういらない過去の遺物になるかもしれない。

ただ僕は思う。
紙芝居、アニメーション、漫画を楽しむ気持ちがあるなら
まだ人は図解を楽しみにながら表す喜びを残るはず、
その気持ちを自らの活動に示してほしいなと。

義務教育の授業で書いたパラパラ漫画や落書き、
実はその描くすきるこそ、図解の入り口であり、
社会では義務教育よりも重要ということを世の中に伝播させたいと思ってならない。

2013-06-17

万全

すべての条件を満たした状態であること。
それを是とすること自体、否であると言い切れる。

万全な状態を求めることが
何も始まることもできない状態に等しい。
また、万全な状態であること、それ自体があると言い切れること
それは、ある意味すでに不完全な状態であるといえる。

万全をめざし、万全ではないからこそ、
アクション、付加価値を挟み込めるといえる。
万全なものを目指すその行為が社会活動といえる。

「万全ではければ、活動するわけにはいかない」
「万全な状態でない中での活動はやり直すべきだ」

という発言を当然のように口にすることがあるが、
その万全が確実になることがあるだろうか?
もっと言えば、万全と思っていたことが万全ではなかった場合は?
そういうことが起きうることのほうが日常茶飯事である。

万全ではないからこそ、
人はいろいろと思考や技能を磨く、
それが進化であり、成長、、人が求めるものそのものな気がする。

2013-06-14

制度

人間行動の定型化されたパターン。
社会関係を円滑に営むためのもの。
社会を構成する集団の構成者や
その社会の統治者によって定められた決まりごととして定められたもの。

と言われるが、その認識ももう古いといえる。
制度が未整備であれば、
制度を作ることで円滑になる。
しかし、制度作った時点、それは古い認識になり、
後の足かせになることが多い。

つまり、制度があるために円滑になっていないことが起きうる。
というより、制度そのものが阻害要因になっている。
規制緩和や新しい制度の改訂ということの繰り返しが求められるが
その繰り返しが円滑をもたらすのか
そもそも、制度という発想自体が問題なのか
制度を企画する側としていつも悩む。

2013-06-13

抄訳

原文のところどころを抜き出して翻訳すること。
これがコミュニケーション力のあるなしにつながる。

人は聞いたものをすべて他人に伝えることはできない。
伝えるときの状況は、毎回異なる。
そのときに、どう抄訳して伝えるかこそ、
人とのコミュニケーションの力となる。

話し手の一番言いたいことや理解する
聞き手のほしい情報を即座に伝える

その抄訳力がその人の価値そのものと言ってもいいのではないかと感じている。

何が重要で
何を伝えなくていいのか

を、判断できることある意味
一人前の社会人になっているといえる。

不思議なもので
よく理解するということは
どれだけ抄訳の上で、切り捨てることができるかということである。
すべてを求める人はこの考え方にたてないから
ある意味、仕事ができないといわれるのだろう。

2013-06-12

条件

条件というものを説明できるだろうか?
結構難しい言葉である、

なになにならば、、、、英語でいうと、if という使い方もあるが
法律だと附款、、権利の不確定未来にむけての意思表示というものある。

現代人は色々なことに条件をつけている。
前提条件、開始条件、条件付き、、とかで、
しかし、その条件という概念をうまく説明できている人は少ない。
条件を使っているようで、条件に合っていないこともある。

高度化されている現代、論理性、納得性の意味で
条件とか使うけど、ある意味一人よがりの
自分が一番という<条件>を互いに強要させている、、
理ではなくただの力関係でしか無いような気がする。

2013-06-11

叩上

現代社会、
新入社員で就職した会社のトップ、、いや今では管理職に着くことは
かなり稀になってきている。
それは、日本だけではなく、
グローバル的にその傾向はある。

表向きは、
実作業と経営管理は異なるから
その専門家に任せるとされる。
しかしだ、
欧米と異なり、
ホワイトカラー、ブルカラーで分けて壁が大きいわけでもなく
労働組合が企業ごとになっている
日本において、
実作業を知らないで経営管理の専門って成り立つのだろうか??
そんな思いがしてしまう。
自分は現場を知る企業の創業者に位置するからだろう。

この先に企業のトップって2極化するのでは
創業家と天下りに、、
、、、いや?待て、、
これって、幕末、明治維新以来その流れだった。
ある意味、原点回帰なのか?

叩上、その人達の目指すところは
企業トップ、、
技術の高み、
高価な報酬、
価値の多様化でどれでもありえるが、
現場を効率よく回すことができるのは、、やはり叩き上げであり、
彼らの真の価値、そして思いはそこにあるのではと思うんだけどね。


2013-06-10

若者

現代日本人の矛盾を感じる。

老いていくと、若さを求めるが
若者をどんどん軽視、馬鹿にする。
若者でありたいくせに、若者と一緒にされたくない。

若さをどう捉えるか、
元気で健康であることばかりにフォーカスするが
それは必ず、未熟で無知でもあると側面をもつ。
現代人はなんでもいいところばかりに目を向け
悪いことを認めないが、必ず長短は存在するのが、自然の摂理である。

何かを得れば、何かを失うということを認めない思想は
幼稚で稚拙な発想なのだが、、
その思いこそ、現代人が今までの蓄積を持ちながら若者でいたいという
<若さ>だと思う。

年取っても、夢見る若者でありたい、、、
外国人からすればキモいそのものなのにね。

2013-06-07

不文

「わざわざ言わなくても、、」

今までの日本人の思想であり、
それでは、グローバルではないとされる不文の思考。
人間には不文律でわかることがある。
、、、それは特定の人の思い込み。

契約書に書かれているかどうかそれが基準になる考え
儒教の意識が皆無な世界

わざわざ言わなくても、、の前提に
それは今までの人生でわかりきっていることのはずという認識がある。

それはもう通じない。
人生の認識が地球規模で個人の思っているレベルではない。
むしろ逆に
書き残っているものこそ、根拠でありそれ以外はどうでもいいという考えも
ある意味、国際社会のあるべき、、、
それこそ、、不文律といえるだろう。

言わなくても、
当たり前
という発言はタダの負け犬になるので控えることを心がけよう。

2013-06-06

過去

昔という発想ではなく
今ではないというべきだろう。

入試問題で、よく「~だった。」という表現の選択肢は怪しいというように
現在からみた過去認識は現在の事象と異なることが多い。

というよりも
現在もそうではないからこそ、
過去形ということになる。そうでなければ
現在形
現在進行形
現在完了形
と、現在という今に関わるからだ。

だから、過去とは今では決別していることであり、
今と過去はつながっていないと認識すべきであり、
「過去からずっと」
という表現や認識は間違っていると僕は強く言いたい。

2013-06-05

正解

問題に正しくこたえること。
当たり前のようだが、
実は逆なのが、現代社会。

100人がいる。
99人がみんな同じ答えで間違えて、1人だけ正解だった。
99人は言うだろう。
「99人がいいっているんだから、それが正解だろうが」
「そもそもそんな問題が悪い、合っている奴もなんか怪しい」
それが現代社会。

正解の根拠は正しさではない。
民意になることが実に多い。
法律がそう定義していても
自然の法則どおりであって、
多くの人が賛同すれば、それが正解であり、
正しいとされているものに賛同されなければそれは間違いとみなされる。

悲しいもので
入試問題では少数派の回答が正解で合格して
その成績のまま卒業、就職した新人
その思いで挫折する。
今まで正解だった回答が受け入れられない。

人間の多くのストレスの原因はまさにここにある。
自分は合っていると確信していても
それが賛同されず、間違いとみなされる。

正しさが民意、権力に握られていることが民主主義と定義もできよう。
そして、民主主義である以上、
定型的な正解を導くことは純粋ではない制約があるともいえる。

2013-06-04

論理

論理学の本を読んで納得した一節がある。


論理の反対は、非論理的、、ではない、事実であることである。
事実が出てくると、論理である必要がなくなる


そりゃそーだ。
そして、そう考えると、論理的ってあまりにもアタマのデッカチなことだなあって思う。
予測、計画、予定調和を求めて、現代社会は成り立っている。
それは、今までの過去の予測の積み重ねで
現在の予測がいかにも論理的だからだとされる。

、、、視点を変えると
嘘にもっともらしいことでもっと嘘にして塗り固めたものが
論理ではないかという見方もできる。

論理的であること、、それいかにも胡散臭い、詐欺めいているといえる。

まーー、今起きている多くの詐欺事件、
根本的には被害者としされる人が
論理的理解した結果なのかもしれない。

いろいろと考えれば
どこまでが論理的立証か、そして詐欺発言か
わかっていると思っている人ほど
騙されているのではと思う。

2013-06-03

前夜

いろいろなイベントにおいて、
その直前に催されるプレイベントが前夜に前夜祭として行われる。
ある意味、そこが気持ちのmaximumではないかと思うのと、、
その前夜祭に迷惑を感じる人も多いというのも人間の性と思う。

イベント開催期間は事前告知があり、
その情報に基づき、いろいろと地域準備されるが
その前夜祭には、ある意味非公認ゆえに無法化される。

イベントを楽しむ者からすれば地域住民に対して
「なぜ盛り上がらないか、わからない」
とクレームを挙げるが、当事者によっては
「何が楽しいのか、、ある意味、気色悪い」
とまでなるという。
~早く始まらないかなという思い
~早く終わってくれないかなあ

前夜祭
いろいろな角度で
人の感情をmaximum にしてしまうものなだろうな。