2009-04-30

防御

外的要因から核心たるものが現状維持できるように緩衝行為をとること。
身を守るために、
何かと何かぶつけていることが防御ということになる。

守り耐え抜くということは、
ある意味、美談のようにされるのは、
日本が専守防衛をよしとする国として風潮があるからだと思うが、
守るということは、はっきり言えば、
すでに危ないとということは忘れているのではないか?
守らなくてはならないということ、
その緩衝行為が必ずしも現状維持を担保するものだろうか?


僕のことを知っている人は気付いていると思うが
僕は守るということを主是としない。
なぜなら、それ以上に真に守る本質の行為をするからだ、、、

2009-04-28

距離

距離と道のりは違う。

距離は、物体の空間的隔たりの大きさを示し、
道のりは、実際に移動物体の行動制限内での移動方法での長さを示す。

口語でいう、「最短距離」とは意味合い的には間違いで
移動手段を考慮した一番短い道のり
が正しいと言える。

これは、物理的な長さだけにとどまらないないだろう。
手法
心理
にも応用が利く。

距離=道のりと思って、
近いものほど、楽と思って行動すると結果失敗する。

距離が短くとも
道のり的には難しいということのほうが多いといえる。
というのも、
「近いのに」
、って言葉を使っていること自体、
うまくいっていないということの表れであるだろう。
本当に近いのならば、そんなことを意識しないだろうに、、

2009-04-27

世論

世間の大多数の人の意見とされるが、
これは現代社会において、これほど疑わしいものはない。
・母集団定義からのあいまいさ
・恣意的介入されていない立証がまずできない
・そして発表者の報告方法
によって、全くもって相違と違う結論になるからだ。

例えば、
軍事産業で成り立っている都市で
戦争反対というアンケートをとることが世論だろうか?

仮に、ある投票結果が

賛成:45%
反対:35%
無効:20%

となった場合に
「ほぼ、過半数の人が賛成しています」
「1/3以上の方が反対を表明しています」
「5人に1人はこの件に無効を示していること自体問題ではないでしょうか?」
って報告、報道されたら、
どれも正しく、そしてどれも正当性を持って世論とされてしまうだろう。

世論なんて、所詮子供の
「みんな持っているんだから!、おもちゃ買ってよ!」
と全く同じ、自分の意見を正当化させる手段に過ぎない。

みんなの意見とする世論は
個人のためにしか使われないというが事実である。

2009-04-24

同盟

共通の目的を達成するため、同じ行動をとることを約束すること。
という意味だが、組織間での同盟という行為は微妙だ。
なぜなら、
同盟を強くするなら、それぞれの組織同士が合併すべきだし、
それぞれの組織を優先するのなら、そもそも同盟を築く理由はない。

合衆連合が取りざたされる今日において、
同盟、提携という言葉取りざたされるが、
本来であれば、組織は互いを食い潰しあうもの。

自分と意見が同じだから集まって組織ができる。
集まる理由は、数の論理で自分たちの意見を
違う意見と対峙させるがために。
そうするがために、組織が出来ていると認識できないか?

同盟を総否定するわけではないが、
同盟をするにあたり、
目的があるのなら、達成後の解散も念頭に
同じ行動というのなら、どこまで同盟での活動でそれ以外は所属組織の活動かを
明確にしておかないと、同盟そのものの意味が失われ、
傷のなめあいの集会になりかねないので、
線引きたる綱領が重要だ。

2009-04-23

財宝

宝探しとか、
トレジャーハンティングとか、
聞くと夢とロマンを感じる人がいると思う。
でも、それは窃盗行為ではないか!

探しだす立場から楽しんでいるとしても、
それはセキュリティーをかいくぐって来る脅威でしかない。

財宝を隠すには、それ相当の理由がある。
逆に言えば、そういう窃盗犯からできるだけ守るためにであり、
本末転倒的なことになる。

宝探しの魔の手から、厳重に隠す。
その厳重なセキュリティーを破って宝を得る。
そんな宝探しをするほうに贔屓目で見ているかもしれないが、
この行為は、ハッキングと全く同じである。

見た目、立場を変えれば違ってみることができるが、
本質論に立ち返れば、
自分のものでないものを相手の嫌がっているやり方で手にしていることに
変わりない。
違法性、悪事の認識が人間に弱いことが伺える。
そう、人間は性悪なのだと。

2009-04-22

評論

自分の経営哲学において、
認めない行為の代表的なものといえる。

評論をすることで、
生産性が高まるのか?
新しい付加価値の創設につながるのか?
答えは、どれだけ言い訳を作っても、、否である。

仮に評論のおかげでということをいうが者がいるが、
それは、その評論を受けた後の行為自身に価値があるわけであり
その評論に価値はない。

そもそも、評論という行為自身が主体行為であることがありえない。
自分の思い描いている検討案と相手の検討案が
似ている
異なっている
ことをぶつけているときに、
相手の意見が自分からすれば、評論に見えるだけであり、
それぞれは自分の案の実践にまい進しているに過ぎない。

無下に、部下、社員という相手を評論だけして自分のア意見を論証できなくなったら、
この椅子は論証しているものに譲るのが、最善の経営判断と僕は決している。

2009-04-21

洗濯

物事を洗い、濯ぐ(すすぐ)ということ。
物質では、衣類に使われるが、食器に使われない。(使うとしての洗浄という)
精神では、心の洗濯というが、心の洗浄とは言わない。

洗濯と洗浄の違いは、、というより、衣類も心もなぜ洗濯なのか?

洗うとは、
表層に付いてるものを
中和要素(水にあたるもの)で
取り除く行為

濯ぐとは
内部にしみこんでいるものを
洗うと同じように中和要素を用いて
抜き出すこと

浄めるとは
すべてを無垢にすること


IT好きなみなにわかりやすくすれば
洗濯は、過去復旧 バックアップリカバリ
洗浄は、初期化  フォーマット
と思ってくれて構わない。

衣類は買った当初から
すそ上げ等のカスタマイズや色あせが逆に味になることで
ある意味、買った当初に戻すことは求められない。
今ある、汚れを取り除きたいがために行われる。
対して、食器はカスタマイズはしないから、
漂白剤等で洗浄して、買った当初の姿の維持に務める。

対して、心の洗濯も、初期化という赤子レベルというより
ある程度、自分が落ち着いていた時期と同じようにしたいために
水ではなく、いろいろな嗜好要素という中和要素で自分を取り戻すとしている。

洗濯行為は
行動の最後に
現状において、いらないとされる汚れを取っておく終了行為でもあるし、
次のステップに進むために、開始準備行為でもある。

洗濯は終わりか、始まりか どちらと捉えるかは
その当人のこれからの生き方そのものかもしれないなあ