2011-08-09

顛末

事の最初から最後までの事情

森羅万象
論理性

の理解は、物事の顛末を順序立てて理解することだと思っている。
どうして始まり
どんな経緯をたどり
最終的にどうなったか
はじめから既に終わりが見えているものはまずはない。
その途中や終わりに至るまで
何かしらの影響を受けて、結果が導かれたのである。

それゆえ
物事を学ぶ、解き明かすときには、その顛末をたどることがかなり重要なことになる。
しかし、勘違いしてしまうのは
評価は結果でだけでいい。
なぜなら、どんな理由があれ、現時点において要件を満たせているかは
顛末であると結果だけで構わないのだから。

2011-08-08

格付

自由と平等の国、アメリカ に
国家、法人を差をつける格付け会社がある。

確かに、投資家に対して、信用の安全性を提供するという名目
相対的、客観的な評価の定量表現
という目的、正当性から格付け会社の意味は重要かもしれない。

しかし、一企業が下した国債の格付けに対して
各国政府がその評価に対して声明や抗議を出すということ自体
国家の存在意義は民間企業と同等にまで落ちている。

自由と平等と謳っているアメリカにある企業に
評価されている国家、企業に、自由平等で行動できるのだろうか?

市場という言葉の保護に格付けが許され認められている
そして、その市場で強い力を持っている国の民間企業にて行われる実態から
格付けを使った恣意的な国家扇動も容易な状況だと思う。

たとえその格付けがどれだけ公正であるといっても、
だって、担任の先生の子供の評価が絶対公正であると言い切れる人間がいないと同様に
人間が行う以上無理なこと。

2011-08-05

読解

学生時代

「読解力がない」

と教師に怒られたが、、
実際問題、社会人になると、
学校で学んだ読解力のかけらもない輩ばかりであることに気づく。
そして、まーー、開き直りの輩が多いことに気づく。

学生時代から真摯に受け止めて
5W1Hを意識して
説明を組み立てることを習慣づけるようにしてきて
現在に至るが、、、多くの社会人は思い込みで
「聞いてない」
「解るように説明しろ」
と自分中心に話しを進めることばかりだ。

もし、社会のほうが正しいなら
学校教育も
読解力や説明力より自分が正しいと言い切れる実学教育をすべきなのだが、
社会不適合な教師どもの集団である学校では
実学は学べないのは自明だろう。

まー、真実を見抜くことに切磋琢磨している僕からすれば
人から学ぶことはもはやなく
人が自然の摂理でどうなるかを観察する観点、、、
それこそ、真の読解と悟っているのだが、、、

2011-08-04

酷評

匿名で、自由に表現が許されるネット社会において
酷評を受けることはある意味健全ではないかと思う。

賛否両論というように
酷評もあれば、高評価、酷評に対する反論が
成り立つのはある意味で健全な市場世界だと思う。

みんな揃って、最高っていうことは
どんな裏取引、政治的圧力がかかっているんだろうと勘繰ってしまう。

できれば、
酷評の中に、今の改善のチャンスとなる表現があれば
それこそ、今後のためになるものだが、
いかんせん、酷評する人のほどが知れるのか
自分の感情論ばかりでなかなか前向きではないことばかりだ。

口は出す以上、
それ以上のことを示すべきだと思うが
口を出すこともできない文句と
せっかくの改善ヒントも理解できない無関心さや感情の高ぶり
ばかりで、酷評が酷評としての価値を有していないさびしい市場になっている感はあるが。

2011-08-03

功績

太原雪斎
保科正之
上杉鷹山

という人を知っていようか?
知っていれば、かなりの歴史通であろう。
彼らは近年、功績が評価されているが、
それまでの間、評価どころか存在を忘れ去られていた感があるのである。

そもそも、彼らの共通の行いとして
人命尊重を優先した知略の功績
自らの功績である自分の記録を没する際に放棄させたり、
直系が厚遇されない、させないことが
現在社会に伝承されていない事実である。

って考えると、、、教科書の歴史なんてものは
恣意的、下手をすると権力者の創造物ではないかって思う。
結局、勝ったもの、生き残ったものにより、
いいように書き残され、
本来、あったこと、功績があったことは
なかったのごとく闇に葬られてきた。

考えてみれば、
教科書に出てくる為政者の多くは
genocider(大量殺戮者)の筆頭だが、
それを成功者のように教えて
道徳の時間で
「人を傷つけてはいけません」
って教育する矛盾はどうだろうか?

功績は教科書では学べない。
つまり、教育では人は救う術を得られないのだが、
それは、日本では理解できないだろう。
覚えることがいいことである限り。
覚えると言うことはサルマネにすぎないという自覚がないのだから。

2011-08-02

能力

能力主義と言う言葉を多くの人は履き違えている。

「出来る人間が高い評価を受ける」

ではなく、

「出来ない人間が搾取される」

が正解である。

優秀だからといって、取り分が容易に増えるほど
この社会はインフレ気味ではない。
ある程度、決まった分量であり、それを適分配することが求められる。
決まっているのだから、多くするということは増減が出る。
多くなるプラス志向に人間は目移りがちだが
実際問題、減らされることも多々ある。

それを不平等だの正当に評価されていないだの騒ぐのであれば
能力主義ではなく、社会主義、、、いや労奴になるべきである。

僕の観点から言えば、
能力主義という概念は日本では無理。
悪いが、相手を蹴落とす、社会的差別、区別が当然の社会でないと、成り立たない。
弱肉強食
自然淘汰
を笑って容認できる社会構造でなけんれば、
能力での評価を求めることは無理。

だって、今の日本において
能力主義といっても、
低い評価をつけた上司はその上司の顔色をうかがってつけざる負えない社会であり、
結局は評価は、管理者の恣意的にならざる負えない。
数字で示すとしても、原価配賦をいじればいくらでも、
当人の手柄から切りかなすことは容易なのだから。

2011-08-01

物作

モノづくり日本の復権とかいうが、、、

現代社会において、~作りは両立できない。これは真理と確信している。
価値の多様化を認めた以上、
多くの人々は、自分の思う方向に進みたくなる。

そうなると、、人間の力量では多くのものを行えない。
一つが限界であるといえる。

だから、社会現象に表れているように

・仕事と家庭の両立が難しい
・自分の作業ばかりして、管理仕事ができない
・子供ばかり作って、仕事ができない

すべて共通しているといえる。

・モノづくりと家庭づくり
・モノづくりと組織つくり
・モノづくりと子づくり

どれかを成り立たせると、他がおろそかになるのは
現代人の必定だといえる。

メディアに出てくる人間とて
おおくの~づくりを両立、鼎立させているようで
それは実際にできていないのに、
メディア側の映像作りでごまかされているだけであったりする。
映像作りはモラル作りを冒してでも行うものであるから。

多くの人はもう、多くの~づくりはできず、
日本人の仕事の代名詞である
モノづくり自体も選ばれる選択肢の一つにすぎなくなっているのである。

多くの人の幻想である
モノづくり日本の復権のためには
昔の価値観、
非能力主義、年功序列の復活や個人主義撤廃、団体行動強制などの今までの国家づくりの崩壊
賃金を見直して、安い単価でのブランド市場づくりの破棄
などを選択をしないと成り立たないといいたい。
ゆえに、、、無理である。

だから、モノづくりという概念から新しい概念での作りを目指さないとならなく、
今はその黎明期、既存概念にとらわれない思想づくりが
今の僕の役割と思い行動しているところもある。