2015-05-29

失礼

他人に接する際の心得をわきまえていないこと。
現代社会、これがとても厄介。
僕のように多くの組織を流浪する立場だと
礼節を重んじているはずが、
全くどころか、逆に失礼な扱いと呼ばれてしまう。

例えば
~お疲れ様です、
という表現は疲れていない人へ失礼だ

~よろしくお願いします
わざわざこんなことをいう必要はない

~ですます調
ここでは、ですます調は慇懃無礼だ

と些細なところ、、いや些細なところほど
失礼の軸が場所ごとに違っていてかなり応える。

日本社会では礼で始まり、礼に終わる。
しかし、グローバル、個人主義で
礼を礼と思うどころか、礼を失礼とみなすようになっていて、
その価値観がなかなか通じない。

2015-05-28

前提

ある事が成り立つためのもとになる。

言葉の定義かもしれないが
多くの人とかみ合わない。

ある人は、開始条件で使わものであり、それ以外は使うべきではない
ある人は、今回の限定根拠として意味合いで
ある人は、これは自分のリスク回避の意味でつかうもので

とあり、それぞれの人間の思い入れがあり、
それかみ合わないと
「日本語間違えているよ」
と言い出す。

本当に僕のようにちゃんとこうやって文章として根幹を意識して使っているとしても
人間の思い込みという 前提 があるので、話にならない。
本当に、それぞれの人間どもの話し方の前提条件がバカのように存在して
付き合いづらい社会でたまらんよ。

2015-05-27

更生

以前、アンケートで
納得できない他人の評価で一位だったのは

「昔ワルだったが、今は更生されてまっとうになっている」

というものだった。

僕ももう感じる。
だって、ワルだったものがただ普通に戻ったことを評価するなら、
みんなワルになったほうがいいではないか!
まして、そのワルだったときに被害こうむった人への配慮なく評することはいかがないものか!
こんなこと、ちょっと考えればわかるのだが、
マスコミ、テレビ番組のドラマなどでこの手の企画が常套手段として扱われていることから
メディアの常識外れがよくよくわかる。
本当に、メディア側こそ更生されるべきでは?ってつくづく感じる。

2015-05-26

親身

肉親であるかのように、こまやかな心づかいをすること。また、そのさま。
思うが、ビジネスにおいて
親身になることって重要と思っているのは日本人くらいという自覚はあるのかなあ?

標準的な業務プロセスに
コスト削減
仕入先選定
などは普通にある。

それは、お金を払う側に対して、ビジネスとして当然の行為となっている。
その前提を受けて、今後は逆の立場に立つと
親身になってということで接するが、その姿勢は
コスト削減、仕入先選定のヒット条件になるだろうか?
与信につながる可能性があるにしても、それって担当者お癒着とみなされることが
多々あるだろう。なんせ、感情論でコスト削減を抑止させるのだから
ある意味、背任、利益供与に受取れかねない。

どうも、日本人は親身になることが美徳に感じているが
実際はリスクでしかないことを感じるべきだ。
親身になるから、贔屓になるという思い。
それは情報を多く得て、次のソリューションという付加価値を生み出している結果が
贔屓になるわけであり、ただ仲良くなっているだけではないことを感じるべきだ。

いやはや、お客と一緒に、飲んだ、ゴルフした
とかいうが、それで情報を得たり、もしくは契約を成立させる何かを得ずして
ただ楽しむのであれば、それはビジネスではなく、ただ飲み友達と一緒に行動しただけで
全く付加価値はなく、ビジネス的には無駄という自覚を持つべきだ。

2015-05-25

取纏

取り纏めるという行為。
多くの事象を整理するして1つにすること。
頭のいい人たちは
~ルール
~類似性
~相対評価
などで、取りまとめを行う。

それで、まとめることはあたかもよくできている。
しかし、それは自分の好きな形に事実を捻じ曲げている。
捻じ曲げているから、ねつ造はしていないといえるが、
とりまとめに意思、意図、悪意がないなんてことがありえると思い込むのはバカらしい。
とりまとめにどんな意識を入れているかを感じることが
受けての義務、能力を試されているわけであり
そこを被害者意識でいること自体、バカの立証である自覚を持つべきである。

2015-05-22

枠組

国際ルールとかの枠組み。
従うことが秩序だろうか?
日本は従順だから従うが、
それをさせている欧米諸国など、
ある基準ができると、その基準とは別に
自分たちの都合のいい基準を作って
今ある基準が間違っていると言い出す。
それを受けて、今の枠組みを捨てて、その基準に従ってきた日本、

AIIBの件を見て思うが
枠組に従うのではなく
従わせることをそろそろすべきで、そのために
そのために、、、
そのための、経済力、武力という発想にならない限り
グローバル戦略とは到底思えない。

平和ボケもここも出来ると、ある種平和老害でしかないと思ってしまう。

2015-05-21

磊落

気が大きく朗らかで、小さいことにこだわらないこと。
気性がさっぱりしていること。

えてして、だまされるいいカモそのものといえる。
現代社会多くの事件はだまされることばかりである。
基本ビジネスというものは
説得というだましあいを合法的にしているものであり、
磊落な方がえてしてそうしている場合かどうかの判断して
その人に当たるのはある意味ビジネスマナーではないかと思う。

人間としていい人だから
ビジネスとして成り立つかは別問題と感じさせるのが現代社会だと感じてならない。

2015-05-20

根治

病気などを根本から完全になおすこと。また、なおること。
完治との違いが問われる。
人によっては同じ、人によっては全く違うとなる。

それは医学的理解度の違いだと思うがね。

根治は病のほうに使われ、再発する可能性が極めて薄くなった場合に使う。
全く再発することがないという難しいだけに、あえてこういうのだろう。
対して、完治は病より怪我に使われ、怪我なくなり日常生活に支障がなくなること。

根治、完治のように
似ているが違う言葉が多くなってきた。
それは社会の価値観が、、というより、
人間の多くが自分の優位性を示したいという欲望の表れのように感じてしまう。

知識、概念がコミュニケーションを破綻させているといえるのだが
なぜか現代人はその事実を理解せず、マジックワードのように
コミュニケーション力と言い出すなあ。

2015-05-19

有閑

ひまのあること。
有閑マダムなんて、言葉があった。
それはセレブの証のような時代も。

しかし、有閑であることは憧れるものではなくなった。
暇ではなく充実していることが現代社会では求められるし、
何かアクションをイメージできることのほうがセレブになっている。

考えてみれば
右肩上がりの成長期において
有閑であることこそ、贅沢であったが、
この低成長、いや落ちている現代において
有閑であることはある意味、ただむなしいだけといえる。

2015-05-18

巣作

動物が自分の住まう施設設備?を作ること。
ちょっと考えてみたが、
巣をつくる動物は、親から習うことなく、
本能で自分に見合う巣を構築する。
教えられていないから、個々で全く異なるものを作るのかと思うと
ほぼ同じようなものを作るので、
たぶん、遺伝子にその設計図が刻まれているのだろうと思う。

そして、
巣をつくる動物は、個人、つがい、多くても家族のみで巣をつくる。
でも家族といっても親が子に巣作りを丁寧に教えているわけではない。

こう考えると、、
教えられないと何もできない人間は
本当に進化しているのだろうか?
教育コストそのものを遺伝子に埋め込んでいる種のほうが
進化しているいえなくはないか?

2015-05-15

煮干

小魚を煮て干したもの。
僕自身、結構煮干しが好きなのだが、
それは隔世遺伝のようだ。

母の母、祖母も好きらしい。
だから、その作る味噌汁はイリコだしで好きだった。

しかし、間にいる母が、、
やはり母子で反目するように
母、煮干しも味噌汁も大嫌いである。
母は料理が嫌いでも不得意でもないが、
味噌汁、、とりわけ出汁取りが本当に嫌いで、、

おふくろの味にこだわるつもりはないので
味噌汁にこだわることはしない。

それと関係ないが、
スーパーで煮干しを買ってきて
かじっているいい年のおっさんって僕くらいなのかなあって思ってしまった。

2015-05-14

短信

短い文章、ニュースのこと
僕からすれば
ITでの個人発信情報はすべて短信と見なせる。

しかしそれらは短信と呼ばずに
ツイートやらRSS、ショートメッセージと呼ばれる。

正しい日本語というが
そもそも、日本語であるべきもの、
翻訳すべきことがなくなるのであれば
日本語そのものの語彙というものの定義も変わってくるのかなあ。

2015-05-13

繰上

序列・順位付け等の下位に置かれていたものが、
なんらかの事由によって、上位に転じること。

繰上という表現が使われるときの多くはプラスなことが多く
例外的なのは、駅伝の繰り上げスタートくらいだろうか?

しかし、繰り上げを行う場合の事由の多くは結構不幸と連動していることが多い。
誰の不祥事のために、繰上当選、採用など。

当人にとってプラスであっても
他者のマイナスゆえのプラスであるといえる。

好景気、右肩上がりでは
ゼロサム発想は忌み嫌われていたが
今、これからの低成長、マイナス成長の現代社会において
繰上を狙うために、ゼロサム的に相手を捉えることが
真意として必要になると確信しているがね。
こういう発想は現代社会ではタブーであろうけど、真実はそういうものだということだ。



2015-05-12

怒涛

激しい勢いで押し寄せる様の例え。
程度表現の一つ。

ある無知かつ愚かな庶民が
「超ド級のドは怒涛のドって知らないの!バカじゃない」
と胸を張っていた。

超ド級はイギリス軍艦、ドレッドノートクラスを超えるものという大きさが転じた
程度表現であり、怒涛ではない。

まー、こういう思い込みの輩は面倒で、
自分が否定されるとそれこそ
怒涛のように、
~自分は間違っていない
~それ以上はパワハラだ
というので、本当に現代社会は面倒だなあって思ってならない。

2015-05-11

無答

質問に対して回答がないこと。
一聴すると、何か無視をしているようで
答えない側のほうが感じが悪いように伝わる。

しかし、現代社会。
無答であるほうがいいことが多い。
現代の表現の自由は自由というより、無責任さが目立つ。
それゆえ、いくら回答してもその言葉の揚足取りを繰り返すことが多い。
回答することが、解決ではなく、問題提起になってしまっている。
これは質問する側、揚げ足を取る側の興味が尽きるまで繰り返される
無間地獄であり、当人と取っては生産性のない時間の無駄ということが多い。

知る自由、報道の自由が愚かな現代社会。
すべて答えろっていう民意は本当に他人だからいいが
自分がやられた騒ぎたてるのは、、本当にひどいものだ。

2015-05-08

大恩

大きな恩。深い恩。厚恩。
現代社会、恩を感じることがあるだろうか?
庶民は気づいていないのだが、
近代化、現代化というものは恩を感じさせないように改変されていたのである。
恩というものは行動で示されたもの、つまりは奉仕、サービスに対して貨幣、契約を良しとしない個々人の思いで加減されてしまう。

それゆえ、
自分が受けたサービスの価値を評価できない。
そうなると、する側、される側で価値のギャップが生まれてしまう。
~こんなにしたのに、感謝する気持ちがない
~たったあれだけのことを恩きせがましく
となり、恩という概念が社会的に負の感情を発生させる温床になってしまう。

だから、恩という奉仕行動をサービスという価値、価格で定量評価してきたのが
現代社会である。

それゆえ、恩を感じるというより、それに見合う対価を支払うことで
契約、等価交換が成り立つことになっている。

それゆえ、
現代社会は恩を感じない表現のさびしい社会に成り果てたっていう老人がいるが、
恩を感じることは必ずしも感謝ではないことを忘れて、都合のいい解釈をしている思い込み、おごりが垣間見れる。

恩を感じることのリスクを見失ってはならないのである。

2015-05-07

言論

口で言ったり文章にしたりして思想や見解を発表し、論じることであり、
言論の自由という言葉が蔓延している。

僕からすれば蔓延であり、
庶民が言葉を発せるなって言い切りたい。

庶民は自分の統合に合わせ、権利を濫用する。

暴言を吐いてだけなのに、言論の自由といい、
それに反論されると、名誉棄損、ハラスメントと騒ぎ立てる。

発言に責任を持たないものを言論とみなすのはいかがなものか?
憲法記念日になると、改憲などで盛り上がるが
そもそも、人権そのものが平等という理由で庶民に与えれれることに疑念を感じる議論をすべきと
僕は感じてならない。

言論、公民権を見直さないとならない
それだけ社会は変わっている僕は気づいているのだがね。

2015-05-01

生存

生物が生命を持ち続けること。
生存権というと、人間だけの生きる権利になる。

とある争議を例に挙げよう。

子供が猫に悪戯を続けエスカレートした。
その時、猫が生命の危険から
子供をひっかいた。

ひっかかれた子供の親が猫の飼い主に怒鳴りつけた。
その飼い主は逆に自分の猫を虐待したその子供の親に抗議した。
結果、両方で訴えたが、この争議の論点が
子供の生存権 VS ペットの所有権侵害
となっていた。

うーーん、
結局、悪いことをした子供が人間さまだからこういうことになるのか、
一寸の虫にも五分の魂、、法には適用されず。
それだけ、社会はおかしくなっている。

まー、僕からすれば
子供もペットも、英語ではITでうける存在。
そういう存在を野放しにしている他人を責めること自体
社会性がこの時代にはなくなっているということだね。
他人と共存を考えるべきではなく、
ただ、社会契約を基本として退陣契約に割り切った生き方に徹するべきだということを。