2013-01-31

後付

学問と評論は後付論理であり、
実社会では、納得感があっても
生産的なものではない。

後付で言われたことにより、
やらなくても結果がわかる
無駄なことはバカである
という風潮が、

・人間としての経験蓄積
・該当関連産業の経済循環不振

を呼んで、社会生活、実体経済を悪くするだけである。

後付での見解で得られる安全、
でもそれゆえ、失っているものがかなりあるということ、
そろそろ、安全神話を捨てるべき時代になったといえるし、
後付に価値を見出すことを規制すべき時期になったいえる。

2013-01-30

理事

理事とは何か?
学校においては、校長という立場より上、理事がいたり、
営利財団法人も理事、理事長という人たちが存在して
法律で定める取締役よりも偉い存在だったりする。

組織運営が必ずしも法律を遵守することでうまくいくとは限らない。
法律は先行する価値創出活動であるビジネスを追いかけてくるだけ
それより先にアクションできるとは言えない社会構造になっているので
どうしても、法規範が成立していない中でビジネスをしなくてはならないし、
定められる法律が必ずしも望ましい結果になるとは言えないことは
先の薬事法改正でのネット販売禁止事件でもわかる。

理事という存在も会社法というレベルでは存在しない地位である。
だからといって、違法的な立場ということはないし、
その組織をうまく運営させることができる、できているのであれば
その地位の存在に問題はないといえる。
会社によって肩書きが自由に付けられることとあまり変わりないことと同じである。

理事の存在が多く悪い人のように感じるイメージは
理事が事務、、つまり金を握っていて、
立場的に渋い行動を取らざるおえないこと、
そして、その地位に反感を持つものが創作、作話を
民意に発表することが多いという事実であって、
ある意味、多くのメディア作品から民意は洗脳されているということかもしれない。

理事という存在は、悪でもなければ、必要悪ではなく、
ただ組織運営をこなす高権限者ゆえに孤独、中傷を受けやすい
ちょっとつらい立場なのかもしれないという視点でみるべきなのかなあ?!

2013-01-29

髣髴

書き取りはできないが、よく使う ほうふつ、、
そして、髣髴 の正しい意味は、、辞書的にも曖昧にかいている。

ある辞書は
・ばんやり似ていること
ある辞書は
・ありありと想像できること
なんか、どっちなんだ?って思ってしまう。

こういうものは、漢字そのものを読み取れば、、、たどり着ける。
髣髴、、ともに髪という漢字の部分をもっている。
髪という字は、人の黒い部分、影、輪郭線も含む意味となる。
髪の方向、、つまり輪郭
髪が沸く、、、流れ、、つまり所作、
ということで、そのものの存在が、他のものと
同じ動き
同じ輪郭
に感じるという意味である。

それが、髣髴 という意味である。

言葉の意味を理解するときに、このようにいろいろなことを考察することは
まずしないと、人はいう。
、、、、だから、最近の人は思考力が薄く、そして短慮と思っている。
もっと考察等をすることで、自分の考えを鍛えるべきと思ってならない。

だから、、最近の現代人、、
過去の人に髣髴といわれても、
当人が若手に髣髴されることはまずないだろうとなるだろうな。

2013-01-28

熱血

この間まで
「サラリーマン教師は使えない」
といっていた民意は
「教師の体罰はいけない」
と簡単に変わる。

同じ軸ではないという、自分よがりの民意には飽き飽きだ。

何かに集中すれば、それは周りが見えなくなることもあるだろう。
自分と相手の間では、深い感情がおきるだろう。
それが熱血しているとされていた昭和の高度成長時代。
それを否定して、冷静やら論理的という言葉で
経済も人間関係も冷えきって久しい。

熱血でいろいろと無茶していてもいいと僕は常に思う。
それが、時代なんだから。
考えてほしい、
歴史上の英雄は、自分の感情で部下を殺してきた。
その殺されてきた部下に現代人は同情せず、
その歴史上の英雄を称賛しているのだから。

他人は過去はいいが、自分のときはダメという
おごった論理は、、破綻していると思ってならない。

2013-01-25

実体


本当の姿、とされる。
実体経済とか、物事の実体などで使われるが、
現代社会において、実体とはなんだろうか?

ある男性が存在する。
彼を示すものは

名前
会社の肩書き
住所
親族

が挙げられるが、
あげられるものは、彼の意思ではなく他人、社会から付けられた
象徴である。

その象徴を介することで他人との関係を位置づけられるのが
現代社会なのであり、、
実体がなくても、、、いや実体というものは
虚像の集まりで始めて成り立つものと思ってしまう。

以前存在した、ピアノマン。
結局、彼個人を特定することができないから
ピアノに依存するということになった。

人間は実体を求めるが、決して実体を理解できないということが
なんか哲学的にわかってきたいような気がする。

2013-01-24

塩鮭

日本人の朝食の定番かもしれないが、僕にはトラウマだった。

小学校入学時
長子である自分のために
学校のPTAの事前説明会に出た母が
朝食の重要性を聞いたらしく、
自営業かつ父の気ままな仕事スタイルで朝食の概念がない我が家において
自分だけ朝食を食べることになった。

その朝食が3ヶ月、、夏休みになるまで
塩鮭
塩卵焼き
で、全く塩抜きしない塩の塊がジャリジャリする朝食を食べさせられた

家業がうまく入ってない時期
オイルショック後の不景気、美食ブーム前の食材事情
朝食を作りたくない母親

だから、自分食べない朝食なのに
さぞ出してやるの感覚で
出され続けたし、それに文句を言ったら反抗期と言われて
やるせない気持ちで、、、結果、塩鮭嫌いになってしまった。

今でも、鮭と聞くとどうしても
その時の記憶が呼び覚まされる。

聖人君子気取りの人は
そういう思いを他人にしないようにと言い出すが
僕の場合、いつかこの思いをはらさせてやるという執念が
今の自分の才能につながっていると思っている。

ある意味、塩鮭のおかげで
反骨精神のような一念さと、、、高血圧を得てしまったといえる。

2013-01-23

本業

会社のあるべき事業といわれ、
日本企業は本業回帰という言葉が正しいとされている。
が、それは国際的にはレアなことといえる。
社会は流転する。
エジソンが作ったGEは
エジソンに立ち返れば、電球、、そしてテレビふだが、
今のGEの主軸の業務は保険、、金融業務だったりする。

ミシュランガイドというものがあるが、
ミシュランはF1でも使われたタイヤメーカー、
もっと車に乗って欲しくて、フランスの各地のレストランを紹介して
始まった事業、ミシュランガイド、今ではそれ専門の別会社として
それが本業になっている会社だ。

ギネスブックも、ギネスビールの社長が
気になることの一番を決める趣味の活動が、、今では大きな団体として
活動になっている。

本業という概念がもしかしたら
日本人は他の民族より意固地なのかもしれない。
なんでもあり、ただ生き残ればいいという考えのほうがいいとされる価値観が
今の世界的な標準なのかもしれない。

2013-01-22

民需

軍需の反対語とされるが、
現代的には、民意として求められているものの提供と解すべきといえる。

これが実のところ難しい。
なぜなら、多様化、無責任性の拡大で
民意なんてものが失われているに等しいからだ。
それをあえて、民意の統合として、民需を求めるとしたら、

なんでもタダにしろ

となり、企業活動、市場経済の根本否定になり
民需という概念が成り立たなくなるといえるからだ。

現在の不況の多くは
いいものを安くという考え方が極値、、微分的な限界点、に至り
もうこれ以上安くしたら、というところばかりになっているから
新しいところに踏み出せないということも見受けられる。

民需というものを従順に従っていること
日本古来の、
「お客様は神様です」
では、もう無理だろう。

アメリカの企業は
「いるのか、いらないのか、
 いるなら、金と態度で
 いらないなら、その覚悟を」
と求めるらしい。

それもある意味、これから民需統制の仕方となるだろうと感じてきた。

2013-01-21

佇思


佇思停機という四文字熟語がある。
四文字熟語の意味は別の機会で触れることにしよう。
佇思とは
立ち止まって悩むことをさす。

佇むという表現は案外知っているようでわかっていない表現。
まずは読みは、、たたずむ といい、
意味は、人が止まっている状態というべきだろう。

あの人の佇まい というのは
その人がいることで醸し出されるものというべきだろう。

こんな時代だから、
止まっていることはあまり評価されることはない。
何かをしていることこそ、付加価値、有償価値になる。
しかし、だからこそ、そのような付加価値を思わせる
佇思という止まって、考えている姿が
相手に価値を思わせることができるようになることこそ、
ブランド、権威がにじみでているということで
人として、その域まで上り詰めたいと思う。

2013-01-18

進捗

進捗報告について、社会全体なんか認識が良くないと思っている。
もともと軍事用語からの言葉だけに
この進捗という概念はその人の成果なんてものにどうでもいい。
その進捗の進み具合で
後続処理
並列処理
をどう進めるかを判断するものである。

だから、進捗率という概念は
近年の使い方を異化し、
言い訳を作り出す温床になっているだけであり、
本来は、どうしてできない、その代替をどうするかのものなのである。

だから、定例報告での進捗報告会が
言い訳、傷の舐め合いをなっている時点で
ビジネスではなく、学芸会の域である自覚が必要である。

儲かる結果をだしてこそ、
経済社会で価値がみとめられるというドライな思いが必要だ。

2013-01-17

畢生

ひっせい と 読み
意味として、生涯 と同義である。
生涯をかけた大作 という意味を
畢生の一作
という表現を用いることが使い方だろう。

現代においてこの熟語を知らなくても問題はないだろう。
逆にこの表現を用いて、相手が理解できないときに
相手が怒っても仕方ないとされる時代になっている。

せっかくある表現だが
使うことで不快感を与えてしまう可能性があるということは悲しい

教養 < コミュニケーション

とされるが、そんなレベルのコミュニケーションだから
刺激のない発展的でない今があるのだろうと思ってならない。

そんな 畢生 は嫌だなあ。

2013-01-16

蒲鉾

かまぼこ
お正月のおせちにはいっていたかも?

当初の工程では
魚のすり身を長い棒の先につけて
つけたすり身を火にかざして作っていた。
その棒につけた様が
蒲のよう
鉾のよう
であったので、蒲鉾となった。

しかし、
今の多くの人が口にする蒲鉾はその工程でつくっていない。
という認識かもしれないが、別の見解もあるといえる。

今蒲鉾と思っているその食材は
そもそも蒲鉾ではなかった。
別の名前で呼ばれていた。
が、原材料が似ているということから
当時の各地で人気のあった食べ物
蒲鉾にあやかって、
かまぼこという名称を与えて、
それが商品として普及して今に至るという話である。
なんか、偽物が本物化してしまったような、
納得がいかない話ではある。

名はタイを表すとされるが、
必ずしも、その名称が多くの人が納得する理由で付けられているわけではなく
その時の雰囲気、こじつけで成り立っているということが多いという事実に
目をそむけずにいないと、真実を知ることができないといえる。


2013-01-15

古刹

由緒ある古い寺、、
??
となると、刹とは寺の意味?
となると、刹、寺、神社の区別ってどうなっているの?
寺は仏教
神社は神道
というが、実はそうではないこともある。
地方によっては
インドラ
帝釈天
武甕槌命
を雷の神様として奉っている神社がある。

インドラ は ヒンドゥー教
帝釈天 は インドラが仏教にと入れられた神の姿
武甕槌命 は 古事記の雷の神様

となり、宗派が異なる神の有り様である。

日本は多神教ゆえに
無神教ともいえる。

だから、八百万神の発想はみんな神であり、
ある意味何ひとつというポリシーはない。

古刹の表現しかり、
どの寺まで、から古刹扱いするのか
それすら、神の格付けもできていない始末。

なんでも信じるということは、
何も信じない。

ありがたさを感じるために、いろいろと異なる表現をいれていく。

それが日本の有り様ということなのかな?

2013-01-11

清濁

澄んでいることと濁っていること
いいことも悪いこと。

最近、ひとりよがりの善意ばかりで
必要悪について認めない愚かな民意で満たされている。
だから、物事が進まないことに気づかないといえる。

正論や理想は個々人によって違う。
それをぶつけて、結局ストレスになっているだけだ。

僕はどんどん悪いことをする勇気を称えるべきだと思う。
もっともその悪いことという認識の現代人にはわからない、
精神的な辛さゆえの悪いことでもあるが、、

本当に正しいということは
実は一番の悪であることという事実にどれだけの人が
気づいているのか、本当に嘆かわしい社会に感じてならない。

2013-01-10

射幸


努力をせずに偶然の利益や成功をねらうこと。
事件にもなったコンプガチャ問題がこの
射幸心を煽るという表現で訴追されていたが、
僕は今の日本の民意がビジネス出来ない土壌であることをつくづく思い知らされた。
射幸心を煽る
努力をしても報われないこの時代にこの活動を求めることは
人間が人としての性だと思う。
運任せ、、ある意味ギャンブルである。
そのギャンブルへの対価を自己の規制なく支払ったほうが悪いのに
それをやっているほうが悪いというのは、
ビジネスの種、経済活動を抑止することになるだけである。
運任せ、それがギャンブルであっても、ビジネス経済活動であり、
それで経済が回る原動力になるといえる。
日本の独りよがりのこの民意
ラスベガス、モナコなど
ギャンブルを認めている地域からすれば
納得いかない論理である。
そんな認識で、よくも国際社会を論じられると思ってならない。

2013-01-09

序章

本題に入る前に前置きとして置かれた文章。

であれば
序章の内容は本題であってはならないとなるのだが、
現代人はその認識が甘く
序章も本題だと言い張る。
「それは序章ではなく、一章にあたるのではないか?」
と正論をいうと、
「論理をすり替えるな!」
って平気でいいだすインテリも多い。

いいたいことが伝わらないのは
このように、本題意識の甘さ、、
本当に些細な理解の違いが今のコミュニケーション不足になると
現代社会の問題を思う。

2013-01-08

辛苦

辛く苦しい思い。
近年では、効率化の意味でこういうことをする、させることは
悪いこととされる。

しかし、経験しないと
本当に、辛く苦しいということがどういうものかわらないのも一面である。
経験がないから、他人へのその苦しさが理解できずに
大きな事件、事故になっているとともいえる。

辛苦を知らないことは幸せなこと?それとも社会的に不幸なことか?
どっちとも言えないといえる。

2013-01-07

新年

暦上で、
西暦がひとつ加算されて、
月が1月に戻る。
これが新年である。
IT的に言えば、カウンターリセットのようなものである。

新年だから
新たな気持ちという節目といわれるが、
現代社会においては、この節目はちょっと違和感がある。

12月と1月で、役割、権能、など行動の選択肢が劇的に変わることはそう多くない。
現代日本ならば、4月、
欧米ならば、9月、
がそのその節目になるし、、、
近い将来、その4月、9月の節目とされるところも変わっていくのだろう。

そんな社会ゆえに、新年にわざわざ、、、という思いにもなるだろうが、
カウンターリセット、、いわゆる初期化されるという考え方から
新しいというより、初心の気持ちを省みるということには良いタイミングだと僕は思う
実際、弊社は7月決算ゆえに、2月から下期になるため
毎年、今までの事業を新年の念頭で省みる行為はとても役にたっている。

新しいこと、前向きなのはいいとされるが
それより、過去を振り返りそれをどうして行くか、
同じ轍を踏まないためには、、という思いで
新年を迎えることのほうが、てても重要と悟っている。

新年の抱負より
去年の反省をもつことを持って重視する社会にすべきとつくづく思う。