2009-02-27

気力

’気’という文字は多義語すぎて、つかみどころがない。
いや、そのつかみどころがないということが
この意味そのものだ。
人間の周りに存在しているかつかめないもの
天気、空気、気温
人間の中にあってつかめないもの
気持ち、気迫、気合、元気
存在を認識していても、五感で感じられないものが
’気’にあたる。

東洋はそれでいいが、西洋の科学論理の世界では
存在否定につながる概念だったりする。

比較的、西洋思考が強い僕はどう捉えているか?
意識して、使わないように心がけている。
なるべく、気を用いた定性表現より具体的事象をつかった定量表現にかえて。

でも、気そのものを否定はしない。
見えないものがあるからこそ、それに挑む精神がある。
そう、こう毎日論述しているこのブログ更新活動も
いつまで続けられるかは’気力’の問題でもあるから。

2009-02-26

利用

物をうまく利用したという表現はよいのに、
人をうまく利用したという表現は悪いイメージなる日本。
外資企業で基本思考を身につけただけに、この概念が解せない。

考えてほしい。
何のために人材は存在するのか?
そして、自分はどんな役割で今いるのか?
それが人のモチベーションではないだろうか!

「理由はないが、君がいい」
というより、
「〇〇の能力をここで発揮してほしいから、君を呼んだ」
って言われること、どっちがいい。
後者は、あからさまに当人を利用する気まんまんだが、
言われた本人は自分のことを買ってくれていると
恨むどころか、自己満足の感情を抱いてしまうだろう。

人を利用し利用されることで
それぞれの自己の役割が見出せるのではないか?
人は意図して動いてこそ意味があり、
ただ利用なく集まっていることに意味はない。

2009-02-25

味覚

育ちが分かるもの。
人間なんて、
食べてきた’もの’より
食べてきた’こと’で
味覚が決まる。
だって、おいしいと感じる基準は人それぞれだが
その味がどんなものかを考察できることが
食べてきた経験に基づくといえる。

比較する味がない人や
他の味を食べずに否定する人は
得てして、人生や仕事も薄い。

そして、
いろんな味を味わうことができるようになった人は
結構視野が広く行動を起こせる。

昔からある日本の表現もそれを裏付けしていて、
’味わう’という言葉は食事だけでなく、
もの本質をつかむ時に使用することが多いことで
立証できると思う。

だから、部下にはいろいろな食や行動を
味わせているつもりだ。

2009-02-24

気配

母と話していて、
この概念がもはや、日本国民には通じないと思う結論になった。

母は田舎農家の生まれゆえ、
気配りがないと
器量のない娘という恥ずかしいレッテルを張られてしまう環境を
育ってきたために、そのまま僕の教育をしてきた。
だから、頭が悪いことより、気づかない行為をよく叱った。
ただ、その概念が今の日本にはもう通じない。

気配りをすることは、
それを受けたことに気づく配慮がある前提な社会でなくてはならないが、
最近の愚民はどうだ、
気配りを受けてさぞ当然、
逆に自分はしないのに、されないことを怒る始末。
これでは、気配りをするほうが損な社会に化している。

でも、だからといって僕は気配りは否定しない。
それどころか、いまだからこそこの能力を最大限に活用したい。
気配りということは、全体視、采配力そのもの。
+で考えれば、みんなのためという善意になるが、
-で捉えれば、どこが弱点になり、攻めればいいか
手に取るようにわかる。

どう使うがこっちの判断。
気配りは云わば、最古の情報戦そのものといえよう。

2009-02-23

得意

案外、自他の認識が異なることが多い。
自分では、それが得意と思っていても、
他者の認識ではそれではないと扱われることが多い。

これをタイムラグと捉えるのか
つまり、自分の得意が相手に認識されるまでの差異なのか
または相手の理解不能と捉えるか
を自分の側で判断することが、大きな選択になる。

いつかは自分の得意なことをわかってくれると思っていても
相手が期待することは、得意ではないことである事実はある。
その事実のままでいることをうまく変えていかないと
ずっとそのままの認識になってしまう。
そこを見極める必要、場合によっては切る選択もある。

自己の得意へのスキルアップを実現するためには
あるときには、取捨の捨を英断しないと
本当の得意を見出せない。

2009-02-20

理解

理(ことわり)を解するといういうことは
ことわりが何かを知ることから始まる。

理とは、本質であるが見えないものだといえる。
心理、物理、道理
という言葉でわかるように、
核心にあたるのだが、
その言葉を使うときはえてして
その核心について見えてない、、つまりは理解していない状態だ。

逆に核心をつかんでしまうと
言葉する必要もなく、その前後派生も掴んでいるだろう。

理解とは
ただ表層をとらえたことではなく、
その裏側にある意味、
憶測できる行動予測
をもなしえて初めて、理解したといえる。

理解することの難しさ、
そして理解したときの充実感の高揚
なかなか味わえないし、それが人生活動の醍醐味かもしれない。

2009-02-19

常識

偏見のことといえる。
「そんなこと常識だろう!」
って言う言葉の真意は
「俺の思っていることは正しいんだ」
ということ。

常識というものはすでに存在しない。
画一された国家戦略から
資本、資本自由主義、個人尊重の現代社会において
共通認識を
・地位
・地域
・世代
・業種業態
の異なる他人と共通認識を持っていることは無理に等しい。

常識という概念ではなく
対人関係における約束事を主とすべきでだと思う。

・・・簡単なことだ。
「そんなの社会人として常識だよね」
から
「その行動はあまりかっこ悪いと思うのでいいと思う行動に直さないか」
「昨日、直すと話したことできていないぞ」
という表現が今の対人関係では必要だろう。

画一的な教育を捨てた以上
互いの認識をあわせることしか出来ない今の社会では、、

2009-02-18

自発

自分が変わる瞬間。

自分を変えたい
新しい自分を見つけたい

まーよく雑誌や愚者が口にする内容だ。

自分を変えるということは、簡単さ。
今まで当たり前と思っていた習慣をずらせばいい。

たとえば
朝目覚める時間を15分ずらしてみれば、
たった15分なのに、違う行動に変わってくる。
いつもより、15分早く、おはようを言える。
15分早く家を出るために、乗る電車がダイヤの都合で3本速くなる。
乗り換えがスムーズになる。
会社に早く着く、
じっくり考える時間ができる、、
etc、、、早く眠くなる。
そして、次の日も15分早く目覚める。

そうやっていると、いつの間にか
生活が変わり、仕事の仕方も、考え方も変わるだろう。

自分を変えるなんて、できるわけがない。
だって自分は自分だから、
しかし、これからの自分の生活、思考は
些細なずれやイベントでいくらでも変わる。

上記は15分という時間概念だが、
今まで親にしてもらっていたことを自分で行うという行動概念
いつもと違うルートという地理概念
そう自発をすることで、いくらでも新しいものは広がってくる。

2009-02-17

被害

つまりは、加害のことである。
??
反意語が同義とは解せないことだろう。

実際問題、
社会である以上、これが事実だ。

自動車に轢かれた。
轢かれた人が被害者と思うが、
車道の真ん中を歩いていていたら、
それを回避するために、
ハンドルを切ってもなお轢いてしまうどころか、
自動車が全損してしまう。

車道の真ん中に歩いてるのために損失を被った
運転手は被害者であり、
その事件を引き犯したのは轢かれた歩行者ではないか?

世間では、不確かなまま訴訟を起こして
その訴訟に名誉棄損として、逆訴訟を起こしている。
原告、被告がもうわからない状況だ。

こんな世の中なのに

「被害者にならないように!」

なんて指導する愚者がいるが、それは無理だ。
被害者と思っていても、加害者扱いされるのだから、

だから僕はこう言う。

「自分の行動を説明できるように意識しろ」

被害、加害を超えて、
他人から強要を阻止しろと!

2009-02-16

争事

あらがいごとは、発展、成長を導く。
争いごとはよくないって言うが、
生物の向上進化には必要なことであり、
必要悪ではなく、必要不可欠だ。

角を持つオスは、
その角をぶつけ合い、
争いに勝ったものが子孫を残す。

威嚇威勢をはるオスは
体を大きくしたもののみ、
食を得、生き延びられる。

これは、動物という下等生物の特性かというと
人間も同じである。

人間の技術革新が一番進んだ時期は戦争時代である。
他者、他国より生き延びたいからである。
その技術が転用されてきて、現在の技術が存在する。
戦争という争いでなくても、
社会主義という、非競争社会より
資本主義という、自由競争社会が人々に受け入れられることは
肌身で感じているだろう。

戦争と他の争いとは違い、
殺戮というものを導くというが、
戦争ではない争い
・オリンピック
・経済活動
に負けて、汚名を晴らさず生き残ることも
社会的冷たい目線はまた、生き地獄と感じられる。
いっそ、命を絶とうと思う人がいるのは
戦争よりたちが悪いと思う。

だからこそ、
争いをなくそうとしている社会作りというが、
それもまた社会的な矛盾だから、
僕としては
争いを前提において、
汚名返上、
違うフィールドの用意が
為政者の務めと感じる。

2009-02-13

単位

「仕事とは、単位を変えることだ」
とは、考えてみれば、その通りではないか。

たとえば野菜、
農家は種という’粒’単位を野菜ひとつ’房’’本’に変えて、物流に
物流は野菜を’箱’単位に変えて、小売
小売は箱を開いて、’パック’にして販売している。

単位とは他人と共通概念そのものであり、
単位を発信する側、それを受信する側に理解しやすいことこそ、
仕事であり、その変動させる仕事の連続が
Business Value chain と言える。

だから、
自分の役割を考えるとき
誰からどういう単位で受取り
誰にどういう単位で送れば、その仕事の連続は潤滑するのか
を意識することが基礎であり、
どんな状態でも受けられること
誰にでも処理しやすい形に単位を変えられることが
仕事ができるということと明言できると思ってる。

2009-02-12

仕事

何気ない熟語だが、
人生の7割近くはこの熟語の範囲内とされているのではないか?
でも同じ仕事なのに、人間はバラバラのことをしている。
しかし、多くの社会人は一言、
’仕事をしている’っていう表現になってしまう。

辞書的というか、力学のレベルで定義するならば

物体が力の作用のもとに移動するとき、
移動方向の力の成分と移動距離の積で表される量

となるが、この理解で’仕事’という言葉を用いる機会は極めて稀だろう。

では、’仕事’という表現を的確に使う、、、もっといえば
職場で行う活動を’仕事している’という表現ではなく
納得性のある表現にすることはできないだろうか?

僕はある表現を用いている。

仕事とは、単位を変えることだ
その単位の変え方の難しさが質の高い仕事だ。

では、単位とは、、明日につづく。

2009-02-10

善意

この言葉には大きく2つの意味がある。
道徳的な良心からくる思い
法律的な事実の認識がないこと
がそれにあたる。

全く無関係に見える2つの意義なのだが、
実は性善説からきていて、
本質的に人間はいい人という前提に立っているため、
道徳的には善き振る舞いをすること
法律的には知っていたらそんなことをするわけがないこと
につながっている。

でも、この善意そのものが崩壊しているって感じる。
一昔前ならば、その良心というものは全体意思だったのだ
現在は、個人主義の対等になっている。
極端に言えば
昔は、みんなが嫌がるから悪いこと
今は、自分が一番正しい
となっている。

組織を束ねるものとして
今の個人主義の善意を極力否定する。
その全体意思を再定義して、全体調和、最適化により
新古典的な善意を導きたいと思っている。

2009-02-09

価値

それぞれにおけるそのときの評価だといえる。
そのときの評価であって、
時間が変わればその評価は変わるものだといえる。

その自分の価値というものをうまく表現して
市場つまり他人からその評価をもらえるかどうかである。

つまり、自分は価値があるのに、、、っていう人間がいる。
愚かだ、
それを表現して評価をもらって初めて意味がある。
もし、その評価をもらえない相手、市場ならば
そのフィールドを変えることをしないで
文句ばかりいう意味がわからない。

価値と市場を理解しないで、自由資本主義といえるのか?!

2009-02-06

進化

前向きな表現の代名詞となっているが、
退化も進化のひとつということになっている。

例を出せば、尻尾というものがある。
森のサルやリスはその尻尾でもって生命維持を行っていると
言っていいだろう。だから、立派な多目的な機能を有している。
しかし、人間にはその尻尾はない。
必要がないからだ!って一言でいうが、
自らの意思を自然界に表す作用点のひとつがないということは
退化のようなマイナスのイメージに捉えられないだろうか?

進化というものは
その固体生物が生きていくために
機能の選択と集中をすることといえる。
尻尾を捨てて二足歩行、前足の手への変更が進化である。

これはすべての事象でもいえることで
確かにあれば便利だろうけど、使わないのならば捨てて
新たな機能を最大限に活用することを
常に意識することが求められる。

古き価値への固執は進化も退化もなく、
それは生きる化石になれなければ、、自然淘汰対象だ!

2009-02-05

提案

案を提供するという意味だが、
真意は自己意思の表明といえる。

言われたことを実行するのではなく、
自らの意思で、行動したいと他人に呼びかけることである。
その行動に賛同する人たちから
財務面、権能面の支援を得ることができる、、いや
その支援を得るために、提案をしているとえる。

最近の多くの民衆は提案を受けるものと勘違いしている。
上記の論説から考えれば
提案を受けるには、財務、権能を有していないといけないのだが、
持っているのだろうか?

日本においては先達たちが残した経済力や技術力を残してきたが、
現在は浪費してきていて、もう底に来ている。

今自分たちに求められているのは
提案を受けるのではなく、
自らの価値創造のために
自己意思による提案活動をすることを求めてやまない。

別に、大きな提案ではなくていい、
ケネディー大統領の示すことが提案活動の精神そのものだろう。

~国家が君に何をしてくれるかではなく、君が国家に何ができるか~

2009-02-04

自由

混沌のことともいえる。
なんでもできるということは
何もないという意味でもあるから。

自由な組織っていう表現を聞いた。
これはどう考えても論理矛盾ではないか!
組織ということは、拘束、規律を持つし、
その上下関係役割をもつものであり、
そこに自由は存在しない。

そもそも、近代社会契約において
自由という混沌の無政府状態から脱却するために
それぞれがそれぞれに制限をかけて初めて成立するものである。
自由それ自体が社会から消されてきた歴史がある。

なのに、その事実を忘れ
自由な社風の会社です。という愚かな表現をする企業がある。
だったら、社員はみんな自由に全員社長と給料も同じはずではないか。

弊社には自由はありえない。
自由より至上な役割による達成感を尊ぶ。

2009-02-03

不正

かっこよさというものへの勘違いを呼び出すこと。
学生時代の制服への改造
一昔のチョイワルというところにも
ワルかっこよさを求める愚民の思想が伺える。

しかし、正しいことを真に理解していない愚民に
ワルが自覚できようか?
また、そのワルをすることで自己責任をとるものがどれだけ存在しようか?

不正を定義する前提をして、
ワルななぜかっこよかったを考察しよう。

既成化された没個性だった日本社会において、
そのノリを超えて個性を出すこと、それにより社会の波に耐えられる
機知と度量を持っていたからこそ、かっこよかったとされていた。
だから、自分が行っているかっこよさにはそれなりの覚悟があったのだが、
そのかっこよさだけを見た愚民が覚悟もないのに、模倣しているのが
今の不正の事実。

現在における不正は
正しくないことではなく、
自分がどう間違っているかわからないこと
といえるだろう。

2009-02-02

教育

はっきり言えば、洗脳のことである。
愚かな組織や愚者はすぐに教育論を掲げる。
それは自分の価値観を他人に押し付ける現れに他ならない。
日本語では'教育'というが
英語にすれば
study
learn
teach
coach
と多岐にわたる。
どれのことを教育といっているかは、
愚者の心持に他ならない。

そんな愚者から受ける教えを学ぶことは
いわゆる愚者から愚者を導く洗脳でしかない。

本当に必要なことを学ぶ方法は
自分自身で問題を自覚して、
そのやり方を考え、経験的、効率的なことを
他人と比較検討することが重要であって、
教育をする、受けるということに価値なないと思う。

2009-02-01

責任

(CEOとしての初の投稿なので、その意味を込めて)

この熟語は現代人がもっとも異化している言葉だろう。
本来の意味は、、能力である。
しかし、今の意味は、「その場しのぎ」の代名詞に化している。

責任をとるという言葉は
行為、目的を達成する
・自信
・やり方
・覚悟
があるときにしか使えない。

しかし、多くの愚民は
責任という意味のうわべだけで
「誰が責任をとるんだ」
「最後は俺が何かしらの責任をとる」
なんて平気で使う。

現代において責任という言葉を本当に理解して使える人は
本当に一握りだろう。

だからこそ、
責任という意味を真に理解した人格、組織作りが
経営なんだと!