この言葉には大きく2つの意味がある。
道徳的な良心からくる思い
法律的な事実の認識がないこと
がそれにあたる。
全く無関係に見える2つの意義なのだが、
実は性善説からきていて、
本質的に人間はいい人という前提に立っているため、
道徳的には善き振る舞いをすること
法律的には知っていたらそんなことをするわけがないこと
につながっている。
でも、この善意そのものが崩壊しているって感じる。
一昔前ならば、その良心というものは全体意思だったのだ
現在は、個人主義の対等になっている。
極端に言えば
昔は、みんなが嫌がるから悪いこと
今は、自分が一番正しい
となっている。
組織を束ねるものとして
今の個人主義の善意を極力否定する。
その全体意思を再定義して、全体調和、最適化により
新古典的な善意を導きたいと思っている。
0 件のコメント:
コメントを投稿